2024年9月4日水曜日

大杉栄とその時代年表(243) 1898(明治31)年7月7日 ハワイ併合 〈ハワイ併合に至る経緯(1)〉 〈カメハメハ王朝〉 〈ハワイ王国の立憲君主制の確立〉 〈アメリカへの傾斜と抵抗(1)〉

 

第7代国王カラカウア

大杉栄とその時代年表(242) 1898(明治31)年7月1日~3日 京師大学堂創立 独立協会の安駉壽、日本に亡命 「弊風一斑蓄妾の実例」(黒岩涙香) 子規、東京版「ホトトギス」刊行を決意 キューバ、サンフアン高地の戦い(米西戦争) より続く

1898(明治31)年

7月7日

ハワイ併合条約。アメリカ、ウィリアム・マッキンリー大統領により署名・批准

〈ハワイ併合に至る経緯(1)〉

〈カメハメハ王朝〉

紀元前1000年頃からサモア諸島・トンガなどにポリネシア文化圏が生まれ、紀元後300年から750年ぐらいのあいだにハワイ諸島に伝えられた。ポリネシア文化圏は南西のニュージーランドから南東のイースター島まで広がり、ハワイ諸島はその北限にあたっている。

ハワイ諸島は統一された地域ではなく、各島を数人の王(首長)が分割して統治している状態であったが、言語や宗教、社会制度は共通のものを持ち、島々は交易しながら時として戦っていた。

1778年1月18日、イギリス人ジェームズ・クックがカウアイ島ワイメア湾に上陸。サンドイッチ伯爵にちなんで諸島を「サンドイッチ諸島」と名付けた。クックは上陸から1年後、ハワイ島のケアラケクア湾で殺害される。

1791年、ハワイ島の大族長カメハメハ1世が拿捕していたイギリス人から銃火器の使用法を学び武器をそろえて他島の平定に乗り出した。

1795年、ハワイ諸島を事実上統一してハワイ王国の建国を宣言し、1810年にはハワイ諸島を完全に支配下に収めた。

カメハメハ2世の治世(在位1819-24)のとき、ハワイ王国の社会文化が大きく変化した。

1820年から全15回にわたりキリスト教のアメリカ伝道評議会(アメリカン・ボード)の派遣団がハワイを訪れ、ハワイ社会の中で指導的地位を獲得した。

ハワイは船乗り、貿易商、捕鯨漁民の集まる港となり、捕鯨産業がマウイ島のラハイナ港で栄えた。(1841年に遭難した日本人漁民ジョン万次郎もアメリカの捕鯨船に助けられてハワイに来ている。また『白鯨』を書いたハーマン=メルヴィルも1843年にハワイを訪れている。)

カメハメハ3世の治世(在位1825-54)になると多くの白人が憲法制定や立法にアドバイザーとして参加するようになった。


〈ハワイ王国の立憲君主制の確立〉

1839年、ハワイ王国はイギリスのマグナ・カルタを基本とした「権利宣言」を公布。

また、この年、フランス海軍がホノルルに入港し、フランスとハワイ王国は仏布通商協定を結んだが不平等な内容だった。

1840年10月8日、ハワイ王国憲法が公布され、立憲君主制が成立した。

1842年、アメリカのジョン・タイラー大統領は、ハワイ王国を独立国として承認。

一方、イギリスとの交渉は決裂し、1843年2月、メキシコ沿岸の軍艦を統括していたイギリス海軍のジョージ・ポーレットが軍艦を率いてホノルルに入り、カメハメハ3世との会談を強行し、会談後にポーレットによる臨時政府が成立させた。

しかし、アメリカ政府による抗議やフランス政府の動きから臨時政府は短命に終わり、同年7月にハワイ王国に主権が戻る。

その後、英米仏からの干渉を解決し、イギリス(ヴィクトリア女王)・フランス(ルイ・フィリップ)もハワイ王国を独立国家として承認した。

但し、フランスは不平等条約を撤廃せず、イギリスも1844年に不平等な通商条約を結んだ。

1844年、王国は、ハワイへの帰化を条件とした欧米系白人の政府要職就任を認める。

1845年、基本法により行政府として国王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職を置き、世襲議員15名と代議員7名からなる立法議会が開かれる。

1849年12月、アメリカが英仏とは異なり治外法権や関税自主権のない米布修好通商条約を締結。イギリスも1851年に通商条約を対等なものに改めた。

1852年、ハワイ王国新憲法が制定される。新憲法には、リンカーンの奴隷解放宣言より前に奴隷禁止条項を盛りこむなど、進歩的な内容が含まれていた。

欧米化が進み、ハワイ社会でも土地私有の観念が広く受け入れられた。

1848年制定の土地法により、ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割されたが、1850年のクレアナ法では、外国人の土地私有が認められる。

対外債務を抱えていたハワイ政府は土地売却によって外債を補填するようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島全体の約4分の3に達する面積の土地が外国人所有となり、先住ハワイ人の生活基盤が損なわれるようになる。

一方、アメリカのジャーナリズムは、1849年頃には、ハワイ諸島をアメリカに併合し、ハワイ州として連邦に加えるべきだと主張し始め、1852年、この提案が議会に提出され検討に付された。なお、1850年、カリフォルニアが州への昇格を果たしている。

カメハメハ4世(カウイケアオウリの甥、アレクサンダー・リホリホ)が王位に就いた1855年頃のハワイ王国政府には、アメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの政治的グループが形成され、互いに対立していた。カメハメハ4世は、前王が付与した一般成年男子の参政権が王権の失墜を招くのではないかと怖れ、王権強化と貴族主義的君主制の確立を目指した。

カメハメハ4世は、増大するアメリカ人実業家の勢力を制限してアメリカでのハワイ併合への動きを牽制した。

また、1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名の聖公会をハワイに設立し、英国よりイングランド国教会の聖職者を招いた。これには、息子のアルバートを洗礼させ、ヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的意図があったといわれている。

しかし、1862年にアルバート王子が、翌1863年11月には王自身が死去して、この計画は頓挫した。王位は兄のロト・カメハメハが継承し、カメハメハ5世として即位した。


〈アメリカへの傾斜と抵抗〉

1864年8月、王権復古と「異教復活」を掲げたカメハメハ5世は、新しいハワイ王国憲法を公布。

この頃、歴代王の親英政策により、ハワイ王国がイギリスに傾斜することを怖れたアメリカは、秘密裏にハワイ王国の併合計画を進めた。

この間、かつての捕鯨業は衰退し、製糖業が発展してきた。1860年代には、南北戦争で大打撃を受けたアメリカに代わってハワイでサトウキビ栽培が拡大した。しかし、白人が持ち込んだ感染症のために先住ハワイ人(ポリネシア人)の人口が激減し、サトウキビ農場での労働力不足を補うため、中国系ないし日系の移民が多数ハワイに流入した。1871年(明治4年)8月には日本との間に日布修好通商条約が締結された。

1872年、王位継承者を指名することなくカメハメハ5世が急死し(カメハメハ家による統治の終焉)、王位決定は議会に委ねられ、選挙により親米派のルナリロが王位継承者となった(選挙君主制)。

1873年1月、即位したルナリロはアメリカ人を閣僚にすえ、アメリカからの政治的・経済的援助を求める政策を採用した。即位後まもなくルナリロは肺結核とアルコール依存症によって没し、王位は再び議会に委ねられた。

選挙の結果、カメハメハ1世(大王)の有力な助言者・大宮司の子孫にあたるデイヴィッド・カラカウアが当選、1874年2月13日に即位した。カラカウアは、後継者に弟のレレイオホクを指名した。


つづく

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