2024年10月6日日曜日

大杉栄とその時代年表(275) 1900(明治33)年1月4日~27日 根岸庵歌会に伊藤左千夫が初参加 西太后、上諭「会か会でないか、教民か教民でないかは論ずるな」 普通選挙同盟会、日本初の普選請願書提出。

 

室田忠七

大杉栄とその時代年表(274) 1900(明治33)年1月1日~2日 鷗外「鷗外漁史とは誰ぞ」 子規、念願の「月給五十円」に到達 堺利彦、副収入を得るための原稿書きに励む 与謝野晶子、鉄南を知り文通を始める 伊藤左千夫が子規を訪問、短歌会の常連となる より続く

1900(明治33)年

1月4日

ロシア、カフカス地方で地震。死者1千人超。

1月5日

フランス、広州湾をインドネシア連邦に編入。

1月5日

台湾銀行廈門支店開業。

1月5日

アイルランド、土地解放と民族の独立を叫ぶ連合国民党レドモンド、民衆に蜂起を呼びかける。

1月7日

根岸庵歌会に伊藤左千夫が初参加。遅れて参会した虚子を含め13人の座。

1月8日

大阪合同紡績(株)設立。1902(明治35)年12月10日、明治紡績(株)合併。

1月9日

皇女エリーザベト・マリー(17)、宮中舞踏会デヴュー。第1槍騎兵連隊中尉オットー・ヴィンディッシュグレーツ(26)を見初める。(ハンガリー貴族出身。’96に爵位を与えられたばかり)

1月10日

クリスチャンの野口幽香ら、普通幼稚園に入園できない貧児救済のため麹町に二葉幼稚園を開園。

1月10日

英、南アフリカ総司令官にロバーツ、同参謀長にキッチナー任命。

1月11日

西太后、上諭。拳会か教会ではなく、犯罪を取締る。

「会にも亦違いがある。…分に安んずる良民が技芸を習って身家を自衛したり、いくつかの荘が連合して互いに保護しあうのは、孟子のいう「守望相助」である。…これらの要件を処理するには、匪であるか、殺害に及んだかを問題とし、会か会でないか、教民か教民でないかは論ずるな。」

1月11日

大西祝(37)、没。

1月11日

ブルガリア、農民同盟設立大会。~14日。

1月13日

山東巡撫袁世凱の上奏文。山東省の基本政策は、①「村民・教民の調和」、②「説得解散」であると報告。

1月13日

普通選挙同盟会(長野県松本町)、衆議院に日本初の普選請願書(1千署名)提出。

1月14日

オーストリア、エルンスト・フォン・ケルバー、首相に抜擢。内閣発足(~1904年12月27日)。

1月14日

ジャコモ・プッチーニのオペラ「トスカ」、ローマ・コンスタンツィ劇場でで初演。

1月15日

江蘇南通で民営紡績工場操業開始。

1月15日

東京市、ペスト予防のため1匹5銭でネズミの買い上げを実施。

1月16日

子規庵で浅井忠の送別会。

1月16日

久野役場に出頭し、「宅地免訴ノ件」について協議する。(室田忠七日記)

1月16日

長距離電信電話、開始。

1月17日

日本コンゴ独立国間修好及居住に関する宣言書調印。公布は4月25日。

1月18日

普通選挙期成同盟会(東京)、衆議院に普選請願書提出

1月20日

英、芸術評論家ラスキン(80)、没。

1月20日

ハワイ政府、ペストを防ぐため病原地の民家を焼却。強風のため日本中華街に燃え移って大火災。昨年12月31日からの邦人被害者は3,600余人。

1月21日

宗教法案に反対する全国仏教徒大会開催。

1月22日

農民同盟会、選挙法中の市部独立に反対を決議。

1月22日

請願書調印のため久野役場に出頭する。(室田忠七日記)

1月22日

英、発明家ヒューズ(68)、没。

1月24日

西太后、御前会議招集。

1月24日

台湾総督府、新聞紙条例公布。

1月25日

己亥の建儲。光緒帝の配意を企図し、溥儁(7、道光帝第5子惇親王の第2子端郡王)を大阿哥(皇太子)とする発表。上海より、上海電報局総弁経元善・章炳麟・蔡元培・唐才常・盛宣懐ら1,231人の退位反対電。海外華僑から数十万通の反対電。光緒帝廃位は実現せず。

2月14日、これら反対電報は、康有為・梁啓超の扇動と考え懸賞金をかける。

1月24日

フランス・イタリア両政府、紅海沿岸地域に夫々領有権を持つこと合意。

1月25日

日清間で、廈門日本専管居留地追加取決め書調印。

1月25日

石坂洋次郎、誕生。

1月25日

愛知県葉栗郡光明寺村小島織物工場、女工31人が焼死。寄宿舎に女工の逃亡防止の鉄格子がはめられていたことが原因。

1月26日

戦艦「敷島」、竣工。

1月26日

吾妻村役場で村長と、「上京青年組織ノ件」につき相談する。(室田忠七日記)

1月27日

英仏米独4ヶ国公使、「共同照合」提示。11日の上諭は滅洋を叫ぶ義和拳・大刀会を公認するもの、速やかな会党弾圧要求。


つづく

室田忠七(むろたちゅうしち)(1870~1938)

鉱毒運動リーダー

 室田忠七は、1870年(明治3年)久野村野田(今の久野地区野田町)に生れました。室田家は、広い田畑を持久野村の中でも生活が豊な農家でした。

 28歳の時、鉱毒被害民(金属からでる毒で被害にあった人々)として、東京への請願(国に文書ょでお願いすること)に参加してから、田中正造たちと一緒に行動し、久野村の鉱毒委員、東京の鉱毒事務所の請願委員をつとめ、足利地方の鉱毒運動のリーダーでした。特、忠七が1897年(明治30年)から1902年(明治35年)までの行動を記録した「鉱毒事件日誌」は、足尾鉱毒事件の研究をするための重要資料となっています。この日誌を見ると、1897年(明治30年)3月からの3年間だけで、287日もの多の日数を、役所へお願いしにいったり、鉱毒反対の集会(集まり)を開いたり、足尾銅山に実際に行って、様子を見て確かめたりすることなどに使っています。

 1900年(明治33年)2月23日、渡良瀬川沿岸(渡良瀬川の岸の近く)の鉱毒の被害をうけた農民1万2千人は、東京をめざして大行進を始めました。これまでの何回もの請願にもかかわらず、政府や銅山会社のうけこたえがあまりにも冷かったからです。行進は、途中で警察官との大きな争になり、鉱毒運動うんどうのリーダーたちの多が逮捕されました。忠七も逮捕され、裁判にかけられました。この事件は、事件の起きた地名をとって『川俣事件』と呼ばれています。

 この事件は、多くの人々の関心を鉱毒問題もんだいに向させることになり、大きな社会問題になりました。裁判は、最初の判決では忠七も含めて51人が有罪とされましたが、その後何回かの裁判の結果、最後には、全員が無罪判決を受けました。

 その後室田忠七は、久野村会議員、農会議員、足利郡会議員などになり、1938年(昭和13年)6月、69歳で亡なくなるまで、ずっと農民のために活動を続けました。

 足利市立教育研究所


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