1900(明治33)年
2月13日
川俣事件
足尾鉱毒被害者2,500人(12,000人)第4回「押し出し」。群馬県館林町に結集して上京。途中の利根川河畔川俣で警官隊180・憲兵10が農民に襲いかかる。永島与八ら逮捕者約70人。
〈背景〉
第4回東京押出しの最大の要求は渡良瀬川全面改修であった。当時、渡良瀬川は第一次鉱毒調査会の議決もあり、内務省によって測量が行われ、1200万円からなる計画案が策定されていた。その実行を求め、32年9月からでも6ヶ月の準備をもって33年2月13日、東京押出しを決行した。
当時、内務省は、地方局を経由しなかったら請願は受理しないとの方針を打ち出していた。この状況下、首都・東京へ大挙して押し寄せ請願しようという被害民の直接行動を内務省は認めなかった。国への直接行動を認めないという内務省の姿勢が、川俣事件を生じさせた最も大きな理由であった。
この当時、帝国議会では第14回通常議会が開催され、ここで33年度予算に関連して新たな河川改修着手が議論されていた。政府内では、前年の早い時期から検討が進められていて、その情報を被害民は把握していた。
32年11月22日に帝国議会が開催されて以降、議会の場では治水問題が取り上げられ、利根川は着工する運びとなった。渡良瀬川改修に向け、被害民は大きな期待を持って「東京押出し」を決行した。
しかし帝国議会では、渡良瀬川改修は議論の俎上にあがっていなかった。帝国議会で承認されたのは利根川第一期、庄川、九頭竜川の3川で、合わせて1070万円の総事業費であった。1200万円からなる渡良瀬川改修は、当時の国家規模からみて余りにも巨額であった。
結局、その実行には、さらに年月を要した。その着工には、既に着手した利根川改修事業に影響を与えないことが強い前提となり、明治43年4月から谷中村を中心にした遊水地設置を伴う改修計画に基づき工事は進められた。
なお栃木県・群馬県においてもこの時期、国に対し渡良瀬川治水を要求していた。また、群馬県会は、鉱業主・古河に対し河川法に基づき渡良瀬川河川改修の負担を要求していた。
〈顛末〉
農民らはひそかに会合を開き押出しの段取りを決めていた。前回説得する側に回った田中も、今度は説得することはなく、押出し決行日に合わせて国会で質問することにした。警察に知られるのを防ぐため、決行日は極秘とされが、警察は集会などに探りをいれており、決行日以外の詳細は警察側も知っていた。
2月12日午後11時頃、雲龍寺の鐘が連打され、これを合図に、周辺町村の寺も鐘を連打し、その音を聞いて、さらに遠方の寺も鐘を打ち始めた。この合図は、20里(約80km)は伝わったという。この合図の仕方は第3回押出しとほぼ同じである。
13日午前1時、700~800人の農民が雲龍寺に集結した。警官は土足で本堂に上がりこむなどして解散を命じたが、農民らは応じない。
この日、朝から雲龍寺に農民が集結(数は不明であるが、鉱毒事務所発表では1万2000。警察発表では2500人)。
午前9時、一行は雲龍寺そばの渡良瀬川を渡り、館林町に向かう。群馬県警察部約50名の監視は突破される。
直後、渡良瀬川右岸の農民らと合流(集結人数1万200は、途中で合流した農民を含む数か)。
館林町入口には10名ほどの警官がいたが一行はこれを突破。
途中、11時頃、館林警察署前で数名が拘引されそうになり、負傷者が出る。
小競り合いのあと、正午過ぎ、農民らは川俣にある浮き船橋(川俣橋)に向かう。当時、利根川にはほとんど橋がかかっておらず、川を渡れる場所は実質的に川俣しかなかった。邑楽用水から利根川までの間には警官隊が5重の防衛ラインを張って待っていたため、農民らは船を運んでいる者たちを先導にして先を進んだ。橋が外されたときに備えて農民らはあらかじめ船を用意していた。
警官隊は解散命令を発した直後に農民らに殴りかかり、先導の船を運んでいた農民らを相次いで逮捕、拘束した。農民らは川俣にある真如寺に連行され、ここで手当てを受けた。川俣の農民は大多数が農民に同情的であり、ほかにも手当て、看護をした者は多くいたという。この日逮捕された農民は約50名。
警察が首謀者、リーダーと目していた人物らは、14、15日に相次いで逮捕され、逮捕者の数は67名となった。
この時点で農民は総崩れとなり、散り散りになった。東京までたどり着いたものも数十名から数百名はいたとみられるが、その後の請願は行われなかった。
起訴~裁判
予審取調べは直後から行われ、7月9日、51名を有罪(起訴相当)、16名が不起訴となった。農民5名が「暴動首魁ノ所為」、雲龍寺住職1名が「暴動教唆ノ所為」、農民17名が「扇動の所為」で、それぞれ重罪、残りの28名は軽罪で起訴された。
1審の前橋地裁では、10月10日に第1回公判が開かれ、12月22日、判決がおりた。2名が治安警察法で有罪(禁固2ヶ月)、官吏抗拒罪で罰金と禁固(4ヶ月~2年)が27名、無罪21名であった。(被告のうち1名は公判途中で死去)
この判決に対し、検察側は控訴。被告側も、無罪となった者も含め50名全員が控訴した。
収監されていた22名は1901年1月20日すぎに東京に移されたが、3月28日までには全員がいったん釈放された。
東京控訴院での2審は、9月20日に第1回公判が開かれた。裁判の場所が東京に移ったことで、事件は東京のマスコミに注目されることとなった。被告側は、判事らを鉱毒被害地に臨検させることに成功。この臨検にはマスコミも同行し、鉱毒被害は東京のマスコミに広く知られるようになった。特に、萬朝報、毎日新聞(現在の毎日新聞とは無関係)、読売新聞などは、鉱毒や、田中正造の直訴事件を連日のように伝え、学生らが団体で連日、鉱毒被害地や足尾銅山の見学をするなど、世論は沸騰した。
1902年3月15日の2審判決は、1名を重禁固15日、2名を罰金とするもので、ほとんど農民側全面勝訴に近いものだった。これに対し、検察側は上告。農民らも、あくまで全員無罪をかちとるために、無罪となった47名を含む全被告が上告した。
大審院では書類のみの審査が行われ、5月11日、大部分の被告を無罪とするのは不当として2審判決を破棄、差し戻しとなった。無罪となった者のうち11名の上告は認められず、この場で無罪が確定した。差し戻し審は仙台控訴院で行われることになった。
11月27日、仙台控訴院での第1回公判が開かれたが、仙台の弁護人が、突然、申立書が検事直筆でないため、控訴は無効と主張した。実は、検察側が前橋地方裁判所に提出した最初の起訴状そのものも代筆で、そもそも裁判は最初から無効であった。公判後、裁判所が署名を点検してこの事実に気付き、12月25日の第2回公判で、1審の起訴状に担当検事の署名がなく、起訴無効という判決がおりた。
この時点では川俣事件の時効は完成しておらず、検察側は再び1審から起訴をやり直すこともできたが、行わなかった。再度世論が沸騰するのを防ぐためだと考えられている。
つづく
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