1902(明治35)年
3月22日
社会主義協会、神田で労働問題政談大演説会。3月15日に、警視庁の命令で神田警察署長が4月3日開催予定の二六新報社主宰第二回日本労働者大懇親会を禁止したのに対する抗議。
3月22日
ロシアのオデッサに領事館開庁を告示。
3月24日
労働組合期成会、再び労働者大懇親会の開催を計画。
3月24日
(露暦3/11)露、クルプスカヤの刑期終る。後、ミュンヘンでレーニンに合流。
3月25日
商工会議所法が公布。7月1日施行。
3月26日
英の冒険家、ローデシア(現在のジンバブエ)の支配者、セシル・ローズ、南アフリカのケープ・タウン近郊の自宅で没。ローデシアという名も、彼の名にちなむもの。
3月27日
日本興業銀行(株)設立。資本金1,000万円、総裁は添田寿一。4月11日開業。
3月27日
愛国婦人会、『愛国夫人』創刊。
3月28日
警視庁、労働組合期成会の労働者大懇親会の開催の禁止を予告。
3月28日
三代目桂三木助、誕生。
3月28日
広島高等師範学校・神戸高等商業学校など、設立。
3月28日
臨時教員養成所官制公布。師範学校・中学校・高等女学校教員を養成。帝国大学・直轄諸学校内に設置。4月1日施行。
3月31日
ペルシア、露から1,000万ルーブルの借款を受ける。
4月
蔡元培・章炳麟・章太炎ら、革命宣伝機関の「中国教育会」結成(上海)。
4月
アリス・ベーコン、帰国。
4月
芥川龍之介、回覧雑誌「日の出界」始める。江東尋常小学校5年。
4月
子規(36)、自選句集『獺祭書屋俳句帖抄上巻』刊
4月
永井荷風(23)、木曜会員赤木巴由らが始めた美育社から「野心」を「新青年小説叢書」の一巻として出版。
4月
支那亡国二百四十二年記念会、横浜。日本に亡命中の章炳麟が留学生らに呼び掛ける。
4月1日
露清満州還付協約に関し、その速やかな締結を内田康哉駐清公使に訓令。
4月1日
露、ポルタヴァ、ハリコフ、長期の飢饉に苦しむ農民、大地主の倉庫襲う。
4月1日
ウガンダ東部、英の東アフリカ保護領(現ケニア)に編入。
4月1日
フランス、女性と子供の労働時間が11時間から10時間半に短縮。賃金もこれに応じて減額。
4月2日
3月28日に、警視庁が労働組合期成会の労働者大懇親会の開催の禁止を予告したため、労働者同盟会主催で抗議演説会を開催。
4月2日
W・B・イェイツ『キャスリーン・ニ・フーリハン』、ダブリン「アイルランド国民劇場」で初演。
4月2日
ロスアンゼルス、米初の映画館開館。
4月3日
片山潜「労働世界」(隔週)復刊。議会主義的社会主義主張。
4月5日
衆議院議員選挙法、改正。市部選出議員数が増加。定員369⇒381人。
4月5日
骨牌(カルタ)税法公布。カルタ、麻雀牌、トランプなどの賭博用カルタに課税する税法。7月1日施行。
4月6日
宮崎民蔵ら、土地復権同志会結成。また1906年、宮崎民蔵『土地均享人類の大権』刊行。
4月7日
米、石油企業テキサス会社(現在のテクサコ)創立。
4月8日
露清満州撤兵協約(満州還付条約・東三省撤兵条約)調印。12日、発表。ロシアは、18ヶ月以内の撤兵を約束。
10月8日に満州第1期撤兵。翌明治36年4月8日が第2期、10月8日が第3期。実際は第2期以降実行せず。
4月9日
英、地下鉄会社設立。
4月9日
ドイツからロンドンにやって来た姉崎正治(嘲風)が友人高山樗牛に宛てた手紙。
「嗚呼日本人には苦心の勇なきか、健闘の忍耐なきか、自ら造り出ださざる者は真実に身につかず、或る外国新聞が、日本人が日英同盟を狂喜せるを冷評して、彼等は貧乏書生が富有の寡婦の入り婿になりしか如き感を以て喜べるなりといひしを見たり。・・・・・」(再び樗牛に与ふる書』)
4月10日
英、癌の原因と治療に関する研究計画が王立内科研究所で開始。癌研究専門の研究設備の設立・維持費として、10万ポンドの基金公募。
4月11日
日本興業銀行(株)、開業。
4月11日
小林秀雄誕生。東京市神田区神田猿楽町三丁目三番地(現千代田区猿楽町二丁目八番五号)。父小林豊造は東京高等工業学校助教授、御木本真珠店貴金属工場長を経て、日本ダイヤモンド株式会社を設立、日本で初めてダイヤモンドの研磨技術を習得し、また蓄音機のルビー針を開発。
4月13日
日本、教科書国定化決定。
4月13日
仏、M・セルポレ、ニースで時速120キロの自動車のスピード新記録。
4月13日
ロンドンの漱石
「四月十三日(日)、鏡宛手紙に、十二月頃帰朝する予定だと伝える。木の芽もでてきたけれども、寒気甚しく、ストーヴをたくとも云う。
四月十三日(日)(不確かな推定)、中村是公(よしこと)と会う。「自分は中村と一所に方々遊んで歩いた。」(「變化」『永日小品』)中村是公、近頃は四千円位なくては嫁にはやれぬなどとも話す。中村是公から、留学生活の困難を同情され、心配りを受ける。」(荒正人、前掲書)
4月13日ごろ、出張でロンドンに来た是公は、英国留学でロンドンに滞在中の漱石と久し振りに偶然再会した。その時、昔通りの顔をした是公は、金をたくさん持っていて、二人で一緒に方々遊覧して歩いた。是公は西洋の美人の話をした。そして、近頃は四千円くらい財産がなくては娘を嫁にもやれない、と言った。筆子、恒子の二人の娘を持つ漱石は、四千円はおろか百円もおぼつかない。台湾総督府役人の潤沢な出張費に対して、文部省派遣留学生の逼迫した滞在学費の格差に暗然たる憂鬱を感じてしまう(4月17日付鏡子宛漱石書簡。『永日小品』「変化」)。
漱石は留学生活の貧窮を同情され、是公から某(なにがし)かの心配りを受けたらしい。
4月14日
ベルギー、普通選挙権を求める労働者ゼネスト(−20)。
4月15日
露、スピリャーギン内相暗殺、後任にプレーベ。反ユダヤ主義者。
4月15日
アイルランド独立闘争激化。英政府、非常事態宣言出す。
4月17日
ロンドンの漱石
「四月中旬(小宮豊隆)(日不詳)、渡辺伝右術門(春渓)(在ロンドン)に宛て、渡辺和太郎と一緒に立ち寄るように書き送る。「句あるべくも花なき國に客となり」と評き添える。
四月十七日(木)、鏡の手紙(三月十一日(火)付)届く。留守中の多忙と困難を訴えてくる。鏡宛手紙に、「今年になり此方の手紙一本もとゞかぬとは心得ぬ事に候今日迄に三四通出し候近頃日記をかゝぬ故いつ頃か記臆(ママ)せねど第一通は三月頃には到着すべき筈と存候是にはクリスマスの送物の禮と疎信の小言とをかきたり其次は倫君に関する事を多くかきたり其次ぎはほんの返事に一通かきたり其次が此手紙なり日本の留學生にて茨木〔清次郎〕、岡倉〔由三郎〕といふ二氏來る二十三日頃當地へ到着の筈なり」、「日本に帰りての第一の楽みは蕎麦を食ひ日本米を食ひ日本服をきて日のあたる椽側に寐ころんで庭でも見る是が願に候夫から野原へ出て蝶々やげんげんを見るのが楽に候」と書く。「近頃は遠くへ出掛ける癖がついた是から土井〔晩翠〕の處へでも行て見様と思ふ」と結ぶ。」(荒正人、前掲書)
4月17日 この日付け漱石の妻、鏡子宛ての手紙。
「・・・ただ面白からぬ中に時々面白き事のある世界と思ひをらるべし。面白き中に面白からぬ事のある浮世と思ふが故にくるしきなり。生涯に愉快なことは沙(すな)の中にまじる金の如く僅かしかなきなり。当地には桜といふものなく春になっても物足らぬ心地に候。かつ大抵は無風流なる事物と人間のみにて雅と申す趣も無之、文明がかくの如きものならば野蛮の方が却つて面白く候。鉄道の音、滊車の烟、馬車の響、脳病抔ある人は一日も倫敦には住みがたかるべきかと思はれ候。日本に帰りての第一の楽みは、蕎麦を食ひ、日本米を食ひ、日本服をきて日のあたる橡側に寐ころんで庭でも見る。是が願に候。夫から野原へ出て蝶々やげんげんを見るのが楽(たのしみ)に候」
「留守中色々多忙にて困難のよし、委細の様子相分り候。甚だ気の毒の事ながら今少し辛防可被成候。いづれ今年末には帰朝のつもり故、其後は何とか方法も立ち、少しは楽になるべくと存候。然しおれの事だから到底金持になって有福(いうふく)にはくらせないと覚悟はして居て貰はねばならぬ。とにかく熊本へは帰り度ないが、義理もある事故我儘な運動も出来ず、只成行にまかせるより仕方がないと思ひ居るなり。実は少し著書の目的をたて只今は日夜其方へむけ勉強致居候。日本へ帰へれば斯様にのんきに読書も思考も出来ん。それ丈は洋行の御蔭と思ふ。其他に別段洋行の利益もない。・・・・・」
つづく
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