2025年2月1日土曜日

大杉栄とその時代年表(393) 1902(明治35)年3月11日~20日 「カールマークスの所論の如きは、単に純粋の理窟としても欠点有之ぺくとは存候へども、今日の世界に此説の出づるは当然の事と存候。小生は固より政治経済の事に暗く候へども、一寸気焔が吐き度なり候間、斯様な事を申上候。「夏目が知りもせぬに」抔と御笑被下間敷候。」(漱石の手紙)

 

中根重一

大杉栄とその時代年表(392) 1902(明治35)年3月1日~10日 「明治三十五年三月十日は月曜日、晴れた暖い日であった。前夜、子規はいくらか気分がよかったのであろう、俳句をつくった。その高揚のせいか眠れずにむかえた朝、前年十月二十九日に日付のみしるして中断した私的な病床日記『仰臥漫録』の再開を思い立った。、、三月十一日、十二日も、食べもの、来訪者、麻痺剤服用についてややくわしくしるした。しかし『仰臥漫録』は事実上ここで終った。」(関川夏央) より続く

1902(明治35)年

3月11日

御手洗毅、誕生。キヤノンの創業者

3月11日

啄木(16)、「白蘋」の名で文芸時評「寸舌語」(『岩手日報』11~18日)。

3月12日

子規『仰臥漫録』、事実上終る。

6月20日(~7月29日)にまた書きはじめるが、僅かな心覚えを加えた1日1行ほどの「麻痺剤服用日記」にすぎなかった。

3月13日

ボストン、御者・運転手・港湾労働者2万人ゼネスト

3月13日

ポーランド、高等中学校生徒、ロシア化政策に抗議。「ツァーリの歌」(ロシア帝国国家)拒否のため各地で学校閉鎖。

3月14日

ロンドンの漱石


「三月十四日(金)、中根重一から、鏡・筆・恒子の模様を詳しく伝える手紙(二月十二日(水)付)届く。」(荒正人、前掲書)


3月15日

山本嘉次郎、誕生。

3月15日

元老会議、伊藤、松方、井上、山県、大山、西郷、対露戦回避方針議決。

3月15日

川俣事件、東京控訴院、永島与八ら3名以外無罪判決。検事・被告ともに上告

5月、大審院は控訴審破棄、東京控訴院に移送。

12月25日、控訴院、控訴破棄・公訴不受理とする。裁判は消滅、あっけない幕切れ(予審請求書・控訴状が検事の自署でないため刑事訴訟法第20条に違反するという手続き上の問題)。

3月15日

神田警察署長、警視庁の命令により4月3日開催予定の二六新報社主宰第2回日本労働者大懇親会を禁止。

3月15日

ロンドンの漱石


「三月十五日(土)、中根重一宛手紙に、計画している著書の具体案洩らす。「先づ小生の考にては『世界を如何に観るべきやと云ふ諭より始め夫より人生を如何に解釋すべきやの問題に移り夫より人生の意義目的及び其活力の變化を論じ次に開化の如何なる者なるやを論じ開化を構造する諸原素を解剖し其聯合して發展する方向よりして文藝の開化に及す影響及其何物なるかを諭ず』る積りに候」。日英同盟・西洋文明・キリスト教・フランス革命などにもふれ、「カールマークスの所論の如きは單に純粋の理窟としても缼點有之べくとは存候へども今日の世界に此説の出づるは當然の事と存候」。なお前年に続いて、「日夜讀書とノートをとると自己の考を少し宛かく」とも書く。」


「漱石は、 Marx の『資本論』を日露戦争以前に読んだ極めて少数の一人である。但し、全巻ではなく、第一巻だけであったと推定される。池田菊苗から数えられたものではないがと推定される。池田菊苗は、 Leipzig (ライブチッヒ)に留学していた頃、人類について根本的な勉強をしたいと思っていた。長男の池田醇一は、父親(菊苗)が社会主義者であったこと、三男の池田兼六は帝国大学の学生時代に、『資本論』第一巻を読んだが、論旨が自分の思想と余り違うので、最後まで読まなかったことを伝えている。また、長谷川如是閑は、明治三十三年から三十四年にかけて帝国図書館で、英訳『資本論』及びエンゲルス『空想的及び科学的社会主義』を発見し読んでみたが、極めて難解であったという。」(荒正人、前掲書)


3月15日

この日付け漱石の岳父中根重一宛て手紙。

前半部分で、在留邦人たちの浄財を集める計画のもと、無理やりに5円を寄付させられたことを怒っている。非国民ともいわれかねない意見。そして世界一の大国イギリスとアジアの小国日本の同盟に狂喜している日本人の軽率な姿を「貧人と富家の縁組」と嘆いている。

自身の計画する著書の具体案を「世界を如何に観るべきやといふ論より始め」ると記す。


「(前略)日英同盟以後、欧州諸新聞のこれに対する評論一時は引きもきらざる有様に候ひしが昨今は漸く下火と相成り候ところ、当地在留の日本人ども申合せ林公使斡旋の労を謝するため物品贈与の計画これあり、小生も五円程寄附いたし候。きりつめたる留学費中ままかくのごとき臨時費の支出を命ぜられ甚だ困却いたし候。新聞電報欄にて承知致候が、此同盟事件の後本国にては非常に騒ぎ居候よし、斯の如き事に騒ぎ候は、恰も貧人が富家と縁組を取結びたる喜しさの余り、鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものにも候はん。

固より今日国際上の事は、道義よりも利益を主に致し居候へば、前者の発達せる個人の例を以て日英間の事を喩へんは、妥当ならざるやの観も有之べくと存候へども、此位の事に満足致し候様にては、甚だ心元なく被存(ぞんじられ)候が如何の覚召にや。

「国運の進歩の財源にあるは申迄も無之候へは、御申越の如く財政整理と外国貿易とは目下の急務と存候。同時に国運の進歩は、此財源を如何に使用するかに帰着致候。只己のみを考ふる数多の人間に万金を与へ候とも、只財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞(おそれ)あるのみと存候。欧洲今日文明の失敗は、明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候。此不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ、凍死せしめ、若くは無教育に終らしめ、却つて平凡なる金持をして愚なる主張を実行せしめる傾なくやと有候。幸ひにして平凡なるものも今日の教育を受くれば一応の分別生じ、且耶蘇教の随(ママ)性と仏国革命の殷鑑遠からざるより、是等庸凡なる金持共も利己一遍に流れず、他の為め人の為に尽力致候形跡有之候は、今日失敗の社会の寿命を幾分か長くする事と存候。日本にて之と同様の境遇に向ひ候はゞ(現に向ひつゝあると存候)、かの土方人足の智識文字の発達する未来に於ては由々しき大事と存候。カールマークスの所論の如きは、単に純粋の理窟としても欠点有之ぺくとは存候へども、今日の世界に此説の出づるは当然の事と存候。小生は固より政治経済の事に暗く候へども、一寸気焔が吐き度なり候間、斯様な事を申上候。「夏目が知りもせぬに」抔と御笑被下間敷候。・・・・・」


「漱石はマルクスの『資本論』を日露戦争前に読んだ極めて少数の一人、但し、第一巻だけであった」(荒正人『漱石研究年表』、岩上順一『漱石入門』など)との推定もあるが読んだ確証はない。漱石の蔵書中の英訳『資本論』には、漱石のよくやる書込みやアンダーラインなどは認められていないので、漱石のマルクス所論言及は、「関係文献からの間接的知識によると考えた方が自然」(藤尾健剛「漱石とクロージャーとマルクス」)ともいわれている。

漱石蔵書の『資本論』には、漱石がよく古本を購入したロンドンのチャリング・クロス通りの書店ミラー・アンド・ギルのラベルが貼付されており、池田菊苗と議論していたころ買い求めたとも考えられる。

3月16日

清国及び韓国の独立に関する露仏共同宣言発表。

19日 露仏公使が小村寿太郎外相に通告。

3月16日

木下尚江(32)、横浜会館で行われた鉱毒救済演説会で演説。

3月16日

露仏宣言。日英同盟条約中の清・韓国独立に関する原則に同意。但し、両国が「第三国ノ侵略的行動」や清国の「騒擾」により権益をおかされた場合の「掩護手段」は留保する。

3月17日

清国、鉱務章程制定。

3月17日

桂内閣、第2次鉱毒調査委員会設置。鉱毒調査委員会官制公布。

翌明治36年3月「足尾銅山に関する調査報告書」、政府に提出。谷中村問題が浮上。

3月18日

ロンドンの漱石


「三月十八日(火)、鏡宛手紙に、「英國で衣服をつくらなくてはならないから百圓ばかり金をかりた帰國旅行費の中で返済する積りだそれから中根のおとつさんから借りた六十圓も其内から返す積り今から中々計畫がむづかしい」、「近頃は著述を仕様と思つて大に奮發して居る」とも書く。また、熊本には帰りたくないが、義理もあると苦境訴える。また、世間で自分の事を噂しているとのことだが、近頃、日本人の会合にも出席しないし、土井晩翠とも滅多にあわない。自分の事を知っている人はいないはずである。彼らがどこからそんな噂を聞いたか尋ねてごらんとも云う。(鏡から二月十四日(金)付手紙及び鏡・筆・恒子の写真届く。)」(荒正人、前掲書)


3月18日

英領ニューギニアの管轄権、オーストラリアに移譲。

3月19日

広瀬武夫、旅順口到着。


3月20日

「三月二十日、鳥籠のカナリアの鳴き声が神経に障ると子規がいったので、碧梧桐がもらいうけることになった。カナリアを愛していた律は、ひそかに悲しんだ。しかし兄の言は絶対である。あるいはそれは、健康な律への子規の嫉妬心のあらわれであったかも知れない。

三月末、その埋め合わせのつもりか、子規は碧梧桐夫妻に頼んで、律を郊外の赤羽へつくし摘みに連れ出してもらった。帰宅した律は、煮びたしにするためにつくしのハカマをむしりながら、つくし摘みのたのしさを語ってやまなかった。子規は律のそんな様子を喜ばしく思い、四月四日の「日本」の記事に、「つくしほど食うてうまきはなく、つくしとりほどして面白きはなし」と書いた。

翌週日曜日、今度は母八重を向島の墨堤に花見に行かせた。このときも碧梧桐夫妻に同行を頼んだ。母もまた帰宅して、その話をしきりにした。自分の面倒を見るために、母と妹はいっしょに外出できない。家族がささやかに慰安されたことを子規は喜んだ。」(関川夏央、前掲書)


3月20日

露、ポルタバ・ハリコフで農民反乱開始。内務大臣プレーベによりのちに鎮圧。


つづく


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