東京 北の丸公園 2012-11-29
*1763年(宝暦13)
10月
・幕府、6月に諸役所から入用高を提出させたが、それ以降、経費がかさんでいるため、節約を命じる。
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10月2日
・モーツアルト一家、リエージュ(ベルギー)到着(「ツム・シュヴァルツェン・アードラー(黒鷲館)」に宿泊)→ティルモン→ルーヴァン。
4日、オランダのアントワープ着。
レオボルトは、ベルギーに入るや、「まるで都会のように舗石が敷かれ、庭園の並木道のように両側に樹木が植えられている」国道はリエージュから一路パリまで続いているのに驚く。しかし、こうした道は逆に馬車の車輪を痛めやすいものでもある。
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10月5日
・ポーランド王ザクセン公アウグスト3世(67)、ドレスデンで没。
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10月5日
・モーツアルト一家、ティルルモンからルーヴァンを経て、オーストリア領ネーデルランドの首府・ブリュッセル到着。「オテル・ダングルテール(英国館)」に宿泊。
絵画鑑賞が趣味のレオボルトにとって、ルーブァンからのフランドル画派の絵の饗宴は興味をそそられるものだった。「フランドル語やフランス語」しか通じない異国に足を踏み入れた実感がレオボルトを捉えた。「すこぶる綺麗な都会」ブリュッセルでも、レオボルトはフランドル画派の名画やその他の美術品によって大いに目を楽しませた。
一家は11月15日まで40日間ブリュッセルに滞在。
総督ロートリンゲン公カール・アレクサンダー・エマヌエル(皇帝フランツ1世の弟)がナンネルルとヴォルフガングの演奏を聴こうと言うのだが、「狩をされたり、大食をなさったり、酒をお飲みになったりしかなさることがなく、最後には一文無しという始末」のため「当地を発つこともならず、かといって音楽界をすることもできない」状況になる。
ようやく音楽界が開催されるのは11月7日。
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10月7日
・1763年宣言。
イギリス政府は、北米のイギリス人植民者が新規獲得地に入植することを禁止。
イギリス人植民者は大いに失望する。
目的:
イギリスの広大な北アメリカ領土を組織化し、西部辺境における毛皮取引、入植および土地の購入の規則を定めて、北アメリカ・インディアンとの関係を安定させること。
基本的に、アメリカの植民地人に対してはアパラチア山脈の西側で入植や土地の購入を禁じた。
さらに、この宣言はイギリス王室にアメリカ先住民族から購入した土地を独占的に取引する権利を宣言していた。
これに対して、既に当該地域に土地を所有していた多くの植民地人は憤りを募らせる。
この年2月のパリ条約(7年戦争終結)により、フランスはイギリスに北アメリカの広大な領土(カナダ、ルイジアナ東部)を譲る。
対フランス戦争を進めたイギリス人植民者(約100万人)は新たに獲得した土地への入植を期待していたが、政府は、これらをカナダ人やイギリスからの移民の為にとっておく積りであった。
更に、イギリス政府は、戦争前にあった植民地と本国との貿易規制(「排他」制度)を復活させようとした。
植民地は、そこでとれる原料品を本国に送らねばならず(現地での加工禁止)、他国植民地との交易も禁止された。イギリス人植民者はこれにも大いに不満であった。
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10月14日
・モーツアルト、ブリュッセルにて「クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ」(K6)第1楽章作曲。「パリ・ソナタ」第1曲第1楽章の原曲(翌年2月にフランスの王女ヴィクトワールに「作品1」として贈る2曲のソナタの第1曲。印刷された最初の作品)となるもの。
ブリュッセル滞在中に、旅行に携えてきた『ナンネルルの楽譜帳』に、新しい作曲の試みが再び記入され始めた。
その記念すべき小曲には
「ヴォルフガング・モーツァルト作曲、一七六三年十月十四日、ブリュッセル」
と書きつけられている。
(モーツアルトのソナタ形式)
18世紀後半、ソナタ形式が器楽の領域で確立、モーツァルトは短期間のうちに習得。
その構成は提示部~展開部~再現部~コーダ(結尾)であるが、モーツァルトはその基本型を守りながら、 作曲技法・表現力の拡大・発展・深化のいずれにおいても才能を発揮、さらに形式の定型を天才的なアイデアと霊感により破ってもいる。
この遊びの精神は定型を厳密に守る職人的技量との間で絶妙なバランスを保っている。
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10月29日
・フランス、サド候爵、ジャンヌテスタル事件の為ヴァンセンヌ牢獄に投獄。
11月13日、釈放。
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11月
・風来山人(平賀源内)『根南志具佐(ねなしぐさ)』(前編、後編は1769(明和6))『風流志道軒伝』を刊行。談義本(教訓的な滑稽本)の作風を大きく変える。
前者は俳優の隅田川溺死事件を物語にしたもので、巻頭の山師が横行して開発事業が行われる地獄界の描写は商業資本と結託し積極政策をとった田沼時代の世相を風刺したもの。
後者は主人公が日本各地と架空の外国をまわり人情を調べ、浅草の寺内で講釈をするというストーリー。
談義本の流行は、明和期以降の酒落本、黄表紙の先駆けとなった。
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11月4日
・ブリュッセルの劇場で入場無料の仮面舞踏会。モーツァルト一家は外国人として、仮面なしで参加。
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11月7日
・モーツアルト、皇帝フランツ1世弟・オランダ総督カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン皇子臨席の下、演奏会を開催。
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11月15日
・モーツアルト一家、ブリュッセルを出発。
ブリュッセル、モンス、ヴァランシェンヌ、カンプレ、ボナヴィ、ぺロンヌ、グールネ・シュル・アロンド、サンリスを経由。1日約75km~80kmを進む。
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11月18日
・モーツアルト一家、午後3時半、今回旅行の最大の目的地パリ到着。
サン・タントワーヌ通り(フランソワ・ミロン通り68番地に現存)のバイエルン大使ヴァン・アイク伯爵が住む「オテル・ドゥ・ボーヴェ」に宿をとる。
滞在中、ヨハン・ショーベルトなどの多くの音楽家や、フリードリヒ・メルヒオル・フォン・グリムなどの知識人たちを訪問する。
一家の滞在は、ヴェルサイユ訪問をはさんで、翌年(1764)4月上旬まで続く。
この建物は17世紀の様式をもつもので、現在マレ地区と呼ばれるこのパリ中心部(セーヌ右岸)に往時を偲ばせるかたちで残っており、中庭にはモーツァルト一家の滞在を記念する碑銘が掲げられている。
レオボルトは、伯爵夫妻について、「お二人は私どもをとてもご親切に歓迎して下さり、一部屋を提供して下さいました。私たちはそこに落ち着き、住み心地がいいのです。伯爵夫人様がご不要とのことで、奥方のフリューゲルを私どもの部屋にお貸しいただきましたが、上等なもので、私たちのものと同様、二段鍵盤です」(63年12月8日付)と記す。
レオボルトのハーゲナウアー宛て初信は12月1日付。2週間近く手紙が書かれていないのは、到着したあとの忙しさを物語る。
7年戦争が収まったばかりで、敵対関係にあった英国との往き来がようやく活発となってきて、宿が不足しはじめた事情が、レオボルトの手紙から知られる。城門のないパリの町のたたずまいは、ドイツ人には奇異に感じられる。建物は住み心地がよく、またワインも安いが、反面物価が高く、水が悪いという欠点も指摘されている。
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11月21日
・初のケベック植民地総督にマレーが就任
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11月21日
・~翌年1月、モーツアルト、パリ、翌年4月にド・テッセ伯夫人に「作品2」として贈る2曲のソナタの第1曲(K.8)ソナタ(変ロ長調)を作曲。
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11月23日
・神田紺屋町に朝鮮人参座が創設される。
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11月25日
・作家アベ・プレヴォー(66)、没。・「マノン・レスコー」。
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11月27日
・智子(としこ)内親王、即位(第117代天皇、後桜町天皇。最後の女性天皇)
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11月30日
・~翌年2月1日、モーツアルト、パリ、王女ヴィクトワールのための作品1の第2曲となる「クラヴィーアまたはクラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ」ニ長調(K7)作曲。
このK7とその前のK6の2曲を1組にし「作品1」として1764年3月ごろに出版(最初に出版されたモーツァルトの作品)。
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