2014年8月5日火曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(74) 「三十八 田園に死す」 (その1) 千葉県市川市菅野 「門外松林深きあたり閑静頗愛すべき處あり、世を逃れて隠任むには適せし地なるが如し」

北の丸公園 2014-08-05
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昭和20年30月10日の東京大空襲で偏奇館を焼かれた荷風はそのあと、知人を頼って明石、岡山、熱海と転々し、昭和21年1月に千葉県市川にやってきた。
当初は一時的な戦後疎開の筈だったが、結局、ここに落着き、昭和34年4月に79歳で長逝するまで、14年間、市川の人となった。

市川市内では四度居を変えている。はじめは市内菅野の借家、次いで菅野の知人宅(京成電鉄京成八幡駅近く。フランス文学者小西茂也宅)、次に菅野の一戸建て、最後に市内八幡に新居を建てた。亡くなったのはこの家である(現在も残っていて、養子の永井永光氏が暮している)。

東京に生まれ育った荷風が、市川に移り住んだ当初、都落ち、流浪の侘しい気分にとらわれたことは想像に難くない。
70歳近い老人が、住み慣れた家を焼かれ、見知らぬ土地で暮さなければならない。
偏奇館という個独を守ってくれる防壁が壊され、一気に外気にさらされる。
他人に気兼ねして生活しなければならないし、戦後の混乱のなかで日々の食料を確保するだけでも老人にとっては難事である。
しかも戦後の新しい経済のなかで、従来のような安定した利子生活者(ランティエ)の生活も望めない。
定職はないからこれから「賣文」によって生きていかなければならない。
人生の秋になってこの環境の変化は、荷風の心に大きな負担になった。

戦争が終った翌年(ちなみに荷風は「敗戦」でも「終戦」でもなく「休戦」という言葉を使っている。戦争のない世などありえないというシニシズムのためだろう)、昭和21年1月1日の「日乗」には、一老人の将来への不安が率直に次のように書かれている。

「今日まで余の生計は、會社の配當金にて安全なりしが今年よりは賣文にて醐口の道を求めねばならぬやうになれるなり」
「七十近くなりし今日より以後余は果して文明を編輯せし頃の如く筆持つことを得るや否や、六十前後に死せざりしは此上もなき不幸なりき、老朽餓死の行末思へば身の毛もよだつばかりなり」

「文明」を編集していた若いころならまだ「賣文」も可能かもしれないが、70近い今日では「賣文」の道もはたして可能か心もとない。
しかもそれまでは利子配当による安定した生活があったから注文原稿を書く必要はほとんどなかった。好きなときに好きなものを書いていればよかった。
これからはそうはいかない。
戦争が終って軍部の心理的圧迫はなくなったかわりに、こんどは生活の心理的圧迫が始まった。荷風の戦後の皮肉である。

戦時下、荷風は不自由な日々のなかで、むしろいまは他人と付き合う必要もないし、貯えもきちんとあるから老後の心配はさしてすることはないと楽観的な見通しを書いたことがある。

昭和19年12月26日
「来訪者は二三の旧友のみにて文士書賣其の他の雑賓全く跡を断ちたれば、余が戦時の生活は却て平安無事となりたり。加ふるに日々の食事の甚しく粗悪なるも是亦老後の健康には美食よりも却てよきやうに思はるる程なれば、銀行の貯金と諸會社よりの配當金従来の如くならんには、余が老後の生涯はさして憂ふるには及ぼざるべし」
この楽観的な老後の見通しが、戦争が終り平和が到来したときに皮肉にも崩れ去ってしまったのである。

安住の家もなければ、将来に対する見通しもない。
荷風の戦後は、解放感と同時に、不安にみちたものとして始まった。

昭和20年9月22日、熱海の仮り住まいで荷風は心細そうにこう書く。
「粥腹のひもじさ堪がたければ晝夜臥床に在りて讀書に時間を消するのみ、あまり寒くならぬ中、何か一二篇筆とりて置かむものと思へど空腹の為その気力にも乏しくなれり、讀む書物とてもなければ、帝国文庫本高僧實伝をひらき見る、さして興なけれど讀ざるにはまされり、死なざるが故に己むことを得ず生きてゐるとはかくの如き生涯を言ふなるべし」

昭和22年3月9日
市川に移住して約1年たった日の次のような侘しい感慨も当時の荷風の素直な気持だろう。
「一昨年の今月今夜麻布の家を失ひてより遂に安住の處を得ず。悲しむべきなり」

隣家ではラジオが騒々しく、その騒音にさまたげられ、読書もままならない。筆を執って原稿を写しうとしてもすでに興を逸してしまっている。仕方なくひとり洋服のほころびをつくろって寝に就く。そんなときにふと呟かれる「悲しむべきなり」は孤高の文士の、というより孤独な一老人の心率な言葉だろう。

しかし、そんな不安な毎日のなかでも荷風は徐々に慰めを見つけていく。
市川の家の周辺に広がる田園の美しさに気がついていくのである。
当時の市川はまだ水田や畑の多い東郊の農村である。

戦後書かれた短篇の佳作「羊羹」(昭和22年)のなかに当時の市川八幡の風景を措いたこんな描写がある。
銀座裏の小料理屋で見習いをしていた新太郎は、戦後、小岩の運送屋に雇われ、折りからの闇景気で懐具合がよくなったので「千葉県八幡」に疎開した料理屋の主人を訪ねに行く。

「省線の驛から國道へ出る角の巡査派出所できくと、鳥居前を京成電車が通ってゐる八幡神社の松林を抜けて、溝川に沿うた道を四五町行ったあたりだと教へられた。然し行く道は平家の住宅、別荘らしい門構、茅茸の農家、畠と松林のあひだを勝手次第に曲るたびたび又も同じやうな岐路へ入るので忽ち方角もわからなくなる」

神社、松林、溝川、別荘、農家、畑と東京近郊の一農村(近所田舎)の風景が見えてくる。
新太郎はようやく近くで遊んでいた子どもに道を聞いて訪ねる家がわかるのだが、その子どもたちが「蜻蜓釣り」をしていたというのも田舎らしい。

荷風はそんな市川の田園風景に心惹かれて行く。

熱海から市川市菅野に引越したのが昭和21年1月16日。
その約一週間後にははやくも散歩好き、探索好きの荷風らしく、疥癬の治療のために京成電鉄菅野駅近くの病院を訪ねたあと、近隣を散歩する。
そして、思いがけず静かな田園を目にして心を慰められる。

1月22日
「京成線路踏切を越え松竹欝々たる小径を歩む、人家少く閑地多し、林間遙に一帯の丘陵を望む、通行の人なければ樹下の草に坐し鳥語をきゝつゝ獨り蜜柑を食ふ、風静にして日の光暖なれば覚えず瞑想に沈みて時の移るを忘る」
「此地に居を移してより早くも一週日を経たれど驛前に至る道より外未知るところなし、されど門外松林深きあたり閑静頗愛すべき處あり、世を逃れて隠任むには適せし地なるが如し」

人家を少し離れればすぐに広々とした田野が広がる。
1月とはいえ暖かで風もない。
人の姿もほとんど見えない。
木の下に腰をおろしてミカンを食べる。
決して特別の景勝の地ではない。どこにでもある穏やかな近郊農村である。
しかし、かつて誰も見向きもしなかった荒川放水路の茫々実々たる風景に心惹かれたように荷風は、この東京の近所田舎の平穏な風景のなかに安らぎを見つけていく。

「世を逃れて隠むには適せし地なるが如し」とは、かつて麻布の偏奇館に隠れ住もうとしたときと同じ感慨である。市川の農村が次第に荷風のなかで”第二の麻布”になろうとしている。
それは荒川放水路が”第二の隅田川”になっていった見立ての精神にも似ている。
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