1901(明治34)年
11月20日
木下尚江ら、足尾鉱毒地救助演説会開催。
11月20日
米、革命内戦中のコロンビア領パナマに武力介入。
11月21日
明治美術会、解散。
翌明治35(1902)年、「太平洋画会」結成(吉田博、満谷国四郎)。
11月21日
岡倉天心、インド旅行へ出発(帰国は1902年10月30日)。
11月22日
スーダンとエリトリア国境に関する英伊宣言。
11月24日
小村外相、駐ロシア代理公使杉村虎一に対して、伊藤はロシアと交渉する任務を持たないと打電。
翌25日、駐英林董公使に、伊藤は私人の資格でのロシア訪問であると露政府に伝えるよう訓令。
11月25日
グスタフ・マーラー(41)、第4交響曲ミュンヘンで初演。
11月26日
川崎長太郎、小田原町万年三丁目470番地に誕生。父は鮮魚商。
11月27日
丸山千里、誕生。丸山ワクチン。
11月27日
外務総務長官に珍田捨己任命。
11月27日
伊藤博文、ペテルブルク到着。
28日、皇帝ニコライ2世に謁見。最高位勲章授与。井上馨に、ロシアに協商の意向あり桂総理と協議し、結果を連絡されたし、と電報。
11月27日
アメリカ、陸軍大学開校。
11月28日
閣議、11月6日に英が提出した日英同盟草案に対する修正案を決定。
11月29日
桂首相上奏。天皇、日英同盟裁可保留。更に元老会議での検討と伊藤の意見聞くよう指示。
11月29日
足尾鉱毒・基督教婦人矯風会講演会。潮田千勢子、矢島楫子(司会)、山脇房子、安部磯雄、島田三郎。神田キリスト教青年会館。鉱毒地救済婦人会(会長・潮田千勢子)結成。
翌3月迄70回の講演会。翌日、鉱山経営者古河市兵衛夫人タメ入水自殺。
鉱毒地救済婦人会は、講演会で義捐金品を募りこれを被害地に送ったり、キリスト教婦人矯風会経営の慈愛会(西大久保)に被害地困窮者子女を収容。
本願寺派中心の青年仏教会、鉱毒被害地救済仏教者同盟を結成。義捐金品を送る。また、現地に施療院3ヶ所を開き被害者救済(3465人)を行う。
11月29日
幸徳秋水(無償名)「咄々怪事(警察の労働者迫害)」(「万朝報」)。
3日の東北地方陸軍大演習時、先行の統監列車が事故で停止。後続の天皇御召し列車が急停止。会社の管理不良による事故を「日鉄矯正会」の列車転覆陰謀にすりかえ、日鉄矯正会に期限付き解散命令が下る。
11月29日
この日、雲照律師が、加持祈頑を営むとの理由で、強引に中江兆民の病室に入り病床で加持を試みる。これは、兆民の無神無霊魂説を遺憾とした河野広中夫人が、兆民に安心を得させるため、かねて尊敬していた雲照律師の授戒を勧めたことのよるもの。兆民夫人はこれを固辞したが、雲照律師は強引であった。この事件で、雲照律師の方は、兆民を済度し、兆民が無神無霊魂を改めたと称したが、板垣退助の記すところによれば、兆民は、雲照律師の強引な加持に対し、
「ムクと頭を擡げて尚(ま)だ止めぬかと云ふ風に律師の顔を睨めつけた、軈(やが)て又伏したが又十分もすると愈々辛抱出来がたくなったと見へて、両手で枕を犇と掴んで投げ出さうとした(略)」(「中江氏の臨終に就て」)
とある。この一事は、兆民を極度に不快にした。
11月29日
ペテルブルク、杉村虎一臨時代理公使、元老伊藤招宴。広瀬武夫・田中義一少佐・酒井忠利中佐出席。
11月30日
荻須高徳、誕生。
11月30日
ペテルブルクの伊藤へ井上馨より電報。日英同盟協約の日本側修正案に対する伊藤の意見を確かめるよう桂首相に勅命あり。
つづく
古川市兵衛の妻「タメ」については、下記に詳しい。
栗林佐知「かたすみの女性史」第1話 死の声――古河為子のこと (その1)
(その5)まで続く
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