わが町の桜 おかめ桜 2015-03-18
*1787年(天明7年)
5月18日
・モーツアルト、リート「老婆」(K517)。20日、リート「ひめごと」(K518)。23日、リート「別れの歌」(K519)。
さらに、6月24日にリート「夕べの想い」(K523)、リート「クローエに」(K524)。他に、「ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いた時」(K520)もあり、1787年は<歌曲の年>と呼ばれている。
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5月22日
・フランス、ルイ16世、名士会解散。
ブリエンヌの提案に名士会は反撥。7局中1局のみ賛成、他の6局はこの新提案を承認する権利がないと宣言(三部会召集しか道はないことになる)。
ラ・ファイエットは、米国議会にならう国民会議とこれの定期的開催を保証する大憲章を要求。
「公共の税金を決定する権利は、国民の代表にのみ属する」と言い、1614年以来開かれていない三部会召集を要求。
革命の前奏曲:
名士会解散が「貴族の反抗」(「貴族革命」)を解き放つ。
「貴族革命」はフランス革命の一部分である(国王に強制して三部会を召集させ、この君主制への公然たる挑戦が、第三身分(ブルジョアジーと農民と都市大衆)を行動に引き入れる。
「貴族が革命を開始し、平民がそれを完成した」(シャトーブリアン)。
革命は、支配階級内部の深刻な分裂と危機によってもたらされるいう命題は、重要な普遍的真理を含んでいる。
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5月24日
・幕府、廉価米売り出す。金2万両・米6万俵供出。
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5月24日
・田沼与党の御用取次の解任(田沼政治の終焉)。
この日、御側申次本郷大和守泰行(やすあき)、28日、御側申次田沼能登守意致(意次の甥、おきむね)、29日、筆頭御側申次横田筑後守準松(のりとし)、解任。将軍家斉に江戸打毀しの事実を正確に伝えなかった為。
横田は5月1日に3千石の加増を受けて計9千石となり、「日増其勢ひ強き事、飛鳥も落る気色」(大田南畝『一話一言補遺』)と、田沼のもとで権勢をふるい、大名になる直前であった。『一話一言補遺』によれば、将軍家斉が江戸市中が騒がしいようであるが何か変事があったかと横田に尋ねたのに対して、彼は江戸の町は静謐で、何も変わったこともありませんと報告したことが家斉の怒りを買い解任されたと記している。
杉田玄白は『後見草』において、「もし此度の騒動なくば、御政事は改るまじきなど申す人も侍りき」と、定信政権の誕生を江戸の打ちこわしと関連づける説を紹介している。
一橋治済も尾張・水戸両家に宛てて出した6月10日付の書簡で「余程道開ケ侯」と、状況が好転したことを記している。
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5月25日
・米、フィラデルフィアで憲法制定会議開会。議長はワシントン。
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5月26日
・モーツアルト、リート「ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いた時」(K520)。ジャカン家の一室で大急ぎで作曲。女流詩人ガブリエーレ・フォン・バウムベルクの詩。
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5月28日
・モーツアルト父レオポルト(67)、没。
モーツアルトは父の死の床にかけつけず、埋葬にも立ち会わず。父の死を姉が知らせてくれなかったことについて、 姉に宛てた別の手紙でやんわりと非難。2人の関係は既に冷たくなっていた(?)。
6月2日付けモーツアルトの姉ナンネルル宛ての手紙
「ぼくたちの最愛のお父さんが突然亡くなった悲しい知らせがぼくにどんなに苦しいものであったかは、この死別がぼくにとって同じ意味をもっているだけにすぐお分かりになるでしょう。 - このところ、ヴィーンを離れることができず、また亡きお父さんの遺産については骨折りがいはないでしょうから、競売についてはまったくあなたのご意見どおりだと申し上げておきます。」
遺品の競売については、モーツァルトは、知人で彼に計報を伝えてくれた宮廷軍参事官ディッボルトに代理人として権限をゆだねた。
モーツァルトがザルツブルクに父親を見舞わなかったのは、4月下旬に病気に躍り、そのためもあって住居を<フィガロハウス>からラント通りに移したからであった。
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5月29日
・モーツアルト、「四手のためのピアノ・ソナタ ハ長調」(K521)作曲。フランチェスカ・フォン・ジャカンのため(ジャカン妹)。
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6月
・フランス、パリ高等法院は、土地単一税と税負担の平等の創設に関する王令の登録を拒否し、州議会と(それを持たない州における)市町村議会の創設に関する王令のみを登録。
州議会では、第三身分代表は貴族・聖職者代表と同数で、投票は「頭数による」もので、旧い州三部会での「身分ごと」ではない。特権層はこうした改革に不満。
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6月1日
・打ち毀しのほぼ鎮まったこの日、無能ぶりを暴露した北町奉行曲淵甲斐守を罷免し、後任に京都町奉行を勤めて当時寄合の閑職にあった石河土佐守正民を起用。
正民は拝命して帰宅し、奥方に「公命はありがたいが、年寄って迷惑な仰せをこうむったものだ。しかし御奉公のことであるから、できるだけは勤めねばならぬ」といって、白木の箱をつくらせ、それに切腹用の水色の上下に九寸五分の短刀を収めて、居間の床の正面におき、朝晩うやうやしくおし戴いたという。死を決して難局に当たろうとする硬骨な幕吏の姿がほうふつとしており、幕府あげての緊張ぶりがうかがわれる。
ついで6月8日、関東郡代伊奈半左衛門忠尊(ただたか、24歳)を小姓組番頭格に准じ、20万両の資金を交付して欠乏した米の調達に当たらせた。
幕府は、伊奈家が先祖備前守忠次の薔創業期に果たした農政上の功績をうけて、以後代々関東郡代として培ってきた関東村方への顔のひろさと、在地と関係の深い譜代の家臣が多いことによって、米の買集めがうまくゆくだろうと期待した。忠尊は天明4年・6年と江戸の窮民の救済にあたり、市民の人望をえていた。
忠尊は市中の在庫米を摘発する一方、家臣の代官・手代を自己の支配地の関東近国に派遺して、江戸の高相場で買い入れると触れ流し、1両につき2斗で買い集めた。農民や在方商人もほかならぬ伊奈様の指図であるからといって、安心して江戸に米を送ったのでたちまち江戸の在米が豊富になった。
忠尊は6月16日から市中の人口を調べ、赤児まで加えて玄米1合、皮麦5合ずつを三度にわたって配給した。代金は両に4斗という安値で、しかもすぐに納めなくてもよいことにした。
このときの人口調査では、町方だけで128万5,300人、ほかに座頭3,844人、遊里吉原の人数1万4,500余人、出家5万3,430人、山伏7,630人、神主3,580余人、合計136万8千余人という魔大な数となり、武家人口を加えても百万ちょっとといわれた江戸の人口にくらべると、あまりにも不自然な数字で信用できないが、難民の流入でふだんよりかなり人口がふえていたことは確かであろう。
忠尊の要をえた応急処置で、打ち毀しのあと、なお各所で不穏な動きがみられたのもしだいに収まり、人心はかなり鎮静した。しかし忠尊の積極的な活動はおのずから町奉行の職掌を犯すことになり、町奉行所と伊奈半左衛門役所とのあいだにごたごたがおこって、新任の石河土佐守は忠尊の活動をいろいろ妨害している。
国学者本居宣長も、この年12月、『秘本玉くしげ』を書いて紀伊藩主徳川治貞の施政の参考に供したが、そのなかで、
「抑(そもそも)此事(百姓一揆・打ちこわし)の起るを考るに、後にいつれも、下(しも)の非はなくして、皆上(かみ)の非なるより起れり。今の世、百姓町人の心もあしくなりたりといヘども、よくよく堪がたきにいたらざれば、此事はおこるものにあらず」
とのべて、民衆の反抗の根因を「上の非」すなわち悪政にありと断じ、
「上たる人、深く遠慮をめぐらさるべき也」
と警告している。
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6月4日
・モーツアルトの飼っていた椋鳥シュタールが死ぬ。
モーツァルトは「知らなければならない、死の味を。彼を思い出すたびに、私の心は血を流す」と書き記す。
モーツアルトの支出簿に、「一七八四年五月二十七日。椋鳥三十四クロイツァー。とても綺麓だ!」とあり、『クラヴィーア協奏曲 ト長調』(K453)のフィナーレの冒頭主題の楽譜がつけられている。この愛鳥がモーツァルトの旋律をそのさえずりによって模倣したのかも知れない。
モーツァルトはこの鳥を埋葬し、死を悼む一篇の詩を添える。
ここに憩うは可愛いいおばかちゃん
一羽の椋鳥。
鳥盛りの年で
味わわねばならぬのは
死のきびしい苦しみ。
ぼくは断腸の思いに捉われる、
その死を思う時。
おお、読者よ! たむけたまえ、
君もまたひとしずくの涙を彼に。
いやな鳥じゃなかった。
ちょっぴりはしゃぎ星で、
時にはまた
しようのない悪い奴で、
だから馬鹿な奴じゃなかった。
誓って申すが、あいつはもう天国で、
ぼくのことほめてくれてるのさ、
こんなに親切な行ないを、
なんの得にもならない行ないを。
だって、思いもかけずに
血を流して死んだ時、
あいつは考えもしなかったからさ、
こんなにうまく詩が書ける男などと。
一七八七年六月四日。
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6月14日
・モーツアルト「音楽の冗談」ヘ長調 (K522)作曲。後、作曲家ヒュッテンブレンナーが「村の音楽家の六重奏曲」の呼称を与える。
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6月19日
・フランス、ルイ16世とマリー・アントワネットの第2王女ソフィー・エレーヌ・ベアトリス、没。
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