コブシとカワヅザクラ 2015-03-18 北の丸公園
*ああこれが聾の世界であるか、とつくづく感じたものが、三点;
ゴヤ『王立フィリピン会社総会』1815
「・・・ああこれが聾の世界であるか、とつくづく感じたものが、三点あった(ここでは晩年のいわゆる”黒い絵”は除く)。
三点のうち二つは、聾者になりたての頃の作品、一七九四年の『狂人収容所』(直訳すれば「狂人の囲い場」、病院などではない)と、一八〇〇年の『鰯の埋葬』であり、三つ目は一八一五年制作になる『王立フィリピン会社総会』と題された三メートル六七センチ×四メートル二五センチもある、ゴヤの作中でも最大のものである。
・・・フィリピン会社は一七八五年にカルロス三世によって創立された、フィリピン搾取のための、東インド会社類似のものであった。
この絵の主人公は、奥の四角く長方形の机を前にして座っているフェルナンド七世や重役たちでも、また左右に分れて退屈し切っている理事たちでもない。主人公は、そのど真中の広大な空間なのである。その空間に、音は一つもない。音の真空地帯である。
なるほど左右に分れて腰掛けている連中は、居眠りをしたり、互いに私語をかわし合ったり、天井を睨みつけたりで、もう一分もこんな会議をつづけたくないという意を、ほとんど全員が劇的なまでに表明している。けれども、この広大なスペースに音響音声はまったく無い、と痛切に感じさせるものがある。
というのは、連中が退屈し切って、ざわざわとざわめいているのが一目で感得されるが故に、なおさらのことに、ああこのざわめきはゴヤの耳にはまったく無関係なのだ、と痛切にこの絵は中央の巨大空間の存在にわれわれをひきつけるのである。
絵にざわめきがあるから、それ故に音がないという、いわば逆立ちをした弁証法のような営みがゴヤと作品を結びつけている。」
「素晴しいリアリズムである。この作品は、広い無人の空間を扱う、その技術的な面だけでもきわめて重要な作品である。」
「この作についてもう一つのことを言っておくとすれば、・・・この会議を支配している者は、雛壇にいる議長としてのフェルナンド七世などではなくて、もう一人の、ここには見えぬ男であることが感得されて来る。
すなわち、画家としてのゴヤである。
聾などというハンディキャップは、すでに完全に克服されてしまっていて、カンバスこそは低い位置におかれてはいるものの、王をはじめとする重役や理事たちは、ほとんどカリカチュアであると言い切ってよいほどに、卑小かつ矮小なものとして描かれている。ということは、ゴヤが画面外にあって、内面的により高く、大きい場所に立ちえていて、倣然として彼らを見下しているということを意味するであろう。この絵はおそらくフィリピン会社の要請で描かれたものであったろうが、大胆不敵なことをしたものである。
しかしそこまでの道程は痛苦に満ちたものであった。」
”全世界”を喪って、はじめて”現実”を得た
「病苦と死の深淵をのぞき見たその視線が、これまでのゴヤ自身が自分のまわりに立てまわしていた壁を突き破って行った・・・」
「病苦と聾であることによって孤独のなかに閉じ込められたとき、それまでの彼のまわりに立てまわされていた壁が、いや、より正確には彼自らが立てまわした壁が、音もなく、崩れ去って行った・・・。
それはおそらくゴヤにとって、全世界を喪失したかのような感を与えるものであったろう。まさに悪夢である。
・・・
彼はこの”全世界”を喪って、はじめて”現実”を得たのである。
あるいは、病苦と聾のために孤独に突き落されて、この”全世界”にプラスして、かてて加えて”現実”を得たと言ってもよいであろう。
いわば、それまでのゴヤは、ある一つの、人間が生きて行くについてもっとも痛切なものを欠いた、人工的世界の画家であった。自分自身で仕立て上げた、出世という人工世界に身をおいていた。そうしてそうあることが出世であり、幸福というものであるとしていた。・・・」
つくづく、不思議な人である;
アカデミイ会員になったとき、アカデミイ会員でなくなり、宮廷画家になった途端に宮廷画家ではなくなる
「つくづく、不思議な人である。御時勢順応主義でアカデミイに入り、アカデミイ会員になってから、当時は高貴な芸術とは認められていなかった、ということはアカデミイ会員などにはまったくふさわしからぬ肖像画や風俗画をばりばり描きはじめ、宮廷画家になってから、宮廷画家などにふさわしからぬ現実を描きはじめ、あまつさえ、〝漫画〞風な怪奇画集を刻印して売りにまで出す。
ということは、アカデミイ会員になったとき、アカデミイ会員でなくなり、宮廷画家になった途端に宮廷画家ではなくなる、という次第である。」
時としてわれわれは一人の男のなかにいる、二人の男とつきあっているのではないかという感をもたされるであろう
「病苦と聾であることとの、この二重苦に襲われての後のゴヤは、宮廷世界としての以前の”全世界”と、いまだに少しずつ眼球震顫のつづいている彼の眼に見える現実世界との、この二つを、全的にもつ、全世界の画家になって行くのである。従って、時としてわれわれは一人の男のなかにいる、二人の男とつきあっているのではないかという感をもたされるであろう。」
現実とは何か
「しかし、現実とは何か。
人は見えるものを選択することは、出来ないのである。」
「聾者であるゴヤに見える、またゴヤが意志的に見る現実世界には、しかし、音がない。それが音響を伴わぬ現実であることを、爾後われわれは - それは至難事であるけれども - 片時も忘れてはならないのである。
聾者となって、おそらくゴヤには現実の顔貌が一変したものに見えたであろう。
(狂人たちの囲い場に押しこめられた人間たちも、・・・民衆も、・・・苦行者たちも、・・・宗教裁判の・・・被告や、・・・魔女の行列、・・・淫売婦たちと、その蔭にいる歯抜けの女街、・・・白痴の少年、・・・矮人や馬鹿者ども、・・・司教や枢機卿、・・・貴族ども、・・・百姓たちに、・・・王と、・・・王妃、・・・皇太子・・・)
これら一切の人間どもが発する言語、音声や音響が一切聞えないとなれば、囲い場に押し込められた狂人どもと、いったいどれ程の逛庭があるか・・・。」
「たとえ狂人といえども、その狂った叫びや狂語が聞えないとなれば、彼らもまた五体満足の人間としか見えようがない。王も王妃も、ともかく五体満足の人間である。そこに何の差違があるものか。記憶が判断、判別を補ってくれるだけである。
マドリードの町へ、巷へ出さえすれば足りるのである。地獄を見るためには。」
彼は決して”病的”な画家などではない
「・・・彼は決して”病的”な画家などではない。彼が新たに発見する世界は、彼の”病的”な想像や新しい不安、乃至は病気そのものから発生して来たものなどではない。
眼をひらいて、音のない、人間どもの日常を見るだけで足りるのである。その悲劇的な様相は真直ぐに彼の眼に飛び込んで来るであろう。人間日常の営為や事件などを、仲立ちをして伝えてくれる言葉や音さえもがなくて、それらのものやことどもは、裸の、むき出しのままでゴヤの眼前に、ある。
彼は幻視の画家でも、幻覚の画家でもない。怪物どもにとりかこまれて、精神の蔭の部分にうずくまっているのでも決してないのである。・・・」
スペインと人間世界の、光と影の両世界が見えて
「これまでのゴヤは、事物の光のあたっている部分だけしか見なかった。他の、影の部分を見ることを拒否して来た。スペインと人間世界の、光と影の両世界が見えて来、その双方を見据えてたじろぐことが次第になくなって行くのである。」
”病的”なのはスペインそのものなのである
「人はしばしば版画集『気まぐれ』のなかに、いわゆる、”病的”なものを見出すと言うけれども、たとえばその五〇番の、耳に大きな鍵をかけた二人の莫迦者は、フランス革命に際してスペィン人の耳に鍵をかけた、フロリダプランカ伯爵と異端審問所の鎖国政策そのものではないか。それは”病的”ではない。これが現実なのだ。
”病的”なのはスペインそのものなのである。一七九三年、スペインは無謀にもフランス革命に対して宣戦を布告する。『気まぐれ』五九番は、まさにそういうスペインそのものではなかったか。痩せ襲えてあばら骨の出ている裸の男が、いままさに倒れかかろうとしている巨大な石板 - 墓の蓋とおぼしいものを両手、顔、肩と胸で押し戻そうとしている。あまつさえこの石の下には、惰眠をむさぼっている男が、影の部分は涼しいわ、とでも言わぬばかりに大口あけていびきをかいている。これも決して”病的”ではない。これが現実なのだ。
戦争は一七九五年、スペインの敗北によって一応終った。しかしこれで済んだわけではない。」
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