『朝日新聞』2015-05-10
終戦の日になぜ 疑問今も
小田原に余った爆弾投棄?
70年前の1945(昭和20)年8月15日。
終戦を告げる玉音放送がラジオで流れたその日の未明、小田原市は米軍機の爆撃にさらされた。
市内最大の繁華街だった現在の国際通りの一帯が、焼け野原になった。
「日本最後の空襲」・・・・
この空襲の死者数や被害はよく分かっていない。
そこで井上弘さん(59)ら数人の教員が79年に結成した「戦時下の小田原地方を記録する会」が調査。
「死者12人、焼失家屋約400棟」という結果をまとめた。
目撃証言などから、攻撃しなのは15日未明、1機のB29爆撃機だったことも判明。
「小田原空襲」という名も井上さんたちがそう呼び、定着したものだ。
米軍はB29で日本の都市を攻撃した際、「作戦任務報告書」という記録を残していた。
戦後に公開され、各地の空襲の実態が明らかになった。
45年8月14日夜から15日にかけて報告書に載っているのは、陸軍施設や軍需工場があった埼玉県熊谷市と群馬県伊勢崎市への攻撃だ。
計167撥のB29が出撃していた。
ところが、小田原の記載はそこにはない。
井上さんたちが調べたところ、B29は爆弾を積んだまま基地に戻ると着陸時に危険なので、余った爆弾を途中で授棄していたことが分かってきた。
「つまり、米軍の公式記録にない小田原空襲は、熊谷・伊勢崎空襲の帰りに、たまたま1機が小田原で爆弾を捨てていったのではないか」。
井上さんはそう考えている。
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