北の丸公園 2015-05-13
*長治3/嘉承元年(1106)
この年
・藤原通憲(みちのり、信西、保元の乱後の黒衣の宰相)、誕生。父実兼の末子。
母は、信濃守源有房の娘とも、下野守源有家の娘とも、また藤原通宗の娘とも伝えられる。
父の実兼は、「くだんの人頗る才智有り。一見一聞の事も忘却せず。よって才芸は年歯を超ゆ」(『中右記』天永3(1112)4月3日条)とされる。
通憲の才能は父譲り。7歳の時に父(28歳)が没し、祖父季綱のいとこ高階経敏の養子となり、一時高階姓を名乗る。
『尊卑分脉(そんぴぶんみやく)』は、通憲を「諸道に達せる才人なり。九流・八家に通ぜり。他家(=高階氏)に入るに依って儒業を遂げず、儒官を経ず」と書く。
祖父季綱の家系は、季綱の父の実範が、南家藤原氏の中でも代々紀伝道の官人で、大内記・大学頭・式部大輔などに任ぜられ、文章博士となった典型的な儒者の流れである。また、受領で太政官の中下級官人でもある小野氏・大江氏などと姻戚関係を結び、院政時代からは、明経道の博士の家の中心である中原師平・清原頼業などと姻戚関係が積極的に結んでいく。
更に、信西の頃には、鳥羽院の寵臣で「天下の事一向家成に帰す」と云われた六条顕季流(あきすえりゆう)の家成との二重の姻戚関係(子降李、弟家房)、同じく葉室顕隆流の顕長との姻戚関係など、院の有力近臣との姻戚関係が張りめぐらされていく。
子の成範を通じた平清盛との姻戚関係設定も企図された。"
信西の子らは、「諸道に達せる才人」「九流八家に通ず」と評された信西の才能を受け継ぎ、配流地からの復帰後、学問・技芸の世界でしたたかに生き抜く。
覚憲・勝賢(憲)は、建久年間(1190~99)、同時に興福寺別当・東大寺別当に在任。
静賢(憲)は、法勝寺の執行(しぎよう)、澄憲は能弁な宗教的アジテーターで安居院(あくいん)流の唱導のスター。
成範(憲)は風雅の人、桜町中納言。
天治元年(1124)頃、中宮(待賢門院璋子しようし)の(権)少進から判官代となるがのちに無官となる。
1130年代末、受領(日向守)に任じ、鳥羽院庁判官代となるが、1140年代初めに再び無官に戻る。
康治2年(1143)、王朝社会の家格の壁に絶望し、出家を公言。
翌年1月、少納言に任じ、藤原氏に復姓るが、7月22日、本意のごとく出家を遂げる。出家は、自在な政治的活動を担保する方便だったと思われる。
妻朝子が雅仁親王(後白河)の乳母だったことからその皇位擁立に暗躍。
保元の乱後の政局で黒衣の宰相として活躍。
平治の乱で54歳で惨死。
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・藤原忠実の荘園集積。
この年、前年に没した祐子(ゆうし)内親王の「高倉一宮(たかくらいちのみや)領」を家領に編入。
祐子は、頼通の養女嫄子(げんし)と後朱雀天皇の間に生まれた皇女。
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・ザクセン大公マグヌス・ビッルング(61)、没。
ハインリヒ5世、父ハインリヒ4世に対抗した際に援軍を送った返礼にロタール・フォン・ズップリンブルク(31)をザクセン大公に任命。
ザクセン大公マグヌス・ビッルング:1045~1106、ザクセン大公1072~1106、ビッルング家(ビルンガー家)最後のザクセン大公。
ロタール・フォン・ズップリンブルク:1075~1137、ザクセン大公1106~1127、後、ハインリヒ5世の敵となる。新興ホーエンシュタウフェン家に対抗したザクセン大公(1125年ハインリヒ5世没後、選挙でフリードリヒに勝利、ドイツ王に即位)。
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・ケルン、市民が大司教の了解を得ずに市壁拡大。
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・ブレーメン司教フラーンメン、ヴェーザー河畔に入植。
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・アル・ムラービト朝、セビリアを占領、サラゴーサを従属させる。
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・ムラービト朝アミールのユースフ・イブン・ターシュフィーン、没(位1061~1106)。アリー・イブン・ユースフ、即位(位1106~1143)。スペインは、アリーの兄弟タミームがグラナーダを拠点に統治。
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1月4日
・酉刻、彗星子、坤方に現れる。震方を指し、天倉星と天苑星の間を觸す。長さ10丈、色白く15日まで見える。
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1月5日
・ハインリヒ5世(25)、国王を宣言。サリ朝(ザリエル朝)最後の皇帝(1081~1125、ドイツ王1106~1125、皇帝1111~1125)。
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1月12日
・地震あり。
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1月17日
・彗星変により大外記主計権助中原師建、勘文を奏す。
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2月
・平盛正(たいらのもりまさ、東寺と延暦寺の間でその帰属が度々争われた多度神宮寺の所領である尾張国大成荘の荘司)、伊勢国多度神宮寺の俗別当を務めた兄、師衡の死去に伴い「他勢力の威を借りて荘内の田畑を荒廃させる住人」の追却を約束した上で自身の多度神宮寺俗別当職補任を求める解文を東寺に送る(「東寺文書」)。
しかし同年(嘉承元年)7月、延暦寺の僧仁誉と共謀した美濃源氏・源国房が軍兵を率いて大成荘内に濫入し、盛正は追却され国房の郎等・平行仲が荘司に据えられる。
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2月25日
・清水寺衆徒、強訴。
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3月5日
・朝廷、勅使正二位権中納言源国信(坊城)を石清水八幡宮寺に派遣し奉幣宣命。
宣命の趣旨は、竃門社での乱行を処断したことを報告、併せて堀河天皇の健康優れず、平癒祈願すること。
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3月11日
・中原師遠に越前権介を兼任させる。
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4月9日
・奇星が出現。
そのため、「嘉承」に改元。
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6月10日
・常陸合戦。源義国(義家3男)、叔父新羅三郎義光(義家弟)等と争う。
源義光(1045~1127):
母は上野介平直方の娘。
園城寺新羅明神の社前で元服したので新羅三郎と称す。弓馬に優れ、音律にも達者で、笙を豊原時元に学び、時元没の際、秘曲「大食調入詞」を授けられる。
左兵衛尉となり京師に宿衛、後三年の役で兄義家が苦戦と開き、朝廷の許可を得ずに官を辞して陸奥に赴く。これに対し義家は、「亡き父が生き返って来たようだ」と喜ぶ。
乱後、義家に従って帰洛、刑部丞に任ぜられ、常陸介・甲斐守を経て従五位上に叙任、刑部少輔に至る。
刑部少輔時代に白河院の近臣藤原顕季と陸奥蘭多荘を争うが、「義光の恐ろしい恨みを買うよりは、たくさんの荘の中から一荘を譲ったほうが顕季のためになる」という院の説得に従った顕季に対して、義光は恩を感じ、各簿を捧げ、顕季の外出には必ず警護の武士を数人従わせる。
康和年間(1099~1104)から常陸大掾氏と組んで常陸に地盤を作るが、その過程で、秀郷流足利家と手を組む義家の子の義国と衝突(「永昌記」嘉承元(1106)年6月10日条)。
義家没後、その後継者義忠殺害事件が起きて源義綱追討に発展するが、この事件の背景に義光あり噂される。
常陸久慈郡佐竹郷を本拠として興る佐竹家、及び信濃の武田・安田・小笠原等の諸家の祖となるが、嘉承元年には近江甲賀郡柏木郷を園城寺に寄進(「園城寺伝記」)、東国各地に地盤を作る。大治2年10月20日没。
源義家、子義国を召し進ずるよう命じられる。
義国と争う源義光・平重幹等にも、東国の国司に捕縛命令。
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6月29日
・京都大火。
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7月4日
・源義家、病によって出家。
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7月7日
・延暦寺の悪僧仁誉と美濃源氏・源国房、大成荘内に濫入、荘司・盛正は追却される。
前年(長治2年)11月の三度目の押妨が未遂に終ったのち、叡山悪僧の一人、阿閣梨仁誉は飛鳥部為利なる人物と通謀して多度近辺に出没しはじめる。
後に「年来大衆の張発者」たるによって山上から追却された仁誉は(『中右記』天永2年7月22日条)、度重なる敗訴、なかんずく長治2年11月2日付宣旨の「旧のごとく真言の別院たり、重訴致すべからず」の裁定にひるんだ延暦寺当局をしりめに、個人の才覚で押妨を継続せんとする。
彼は、以前より伊勢への進出態勢を示していた美濃源氏、源国房を語らい、自己の下文をもって延暦寺の下文と称するなど、多度押坊の準備を着々と進めた。
機会をうかがっていた国房は、盛正の解提出5ヶ月後の7月7日、数多の軍兵を率いて大成荘に発向しこれを制圧。国房の軍兵は、荘田10余町を刈り取ったうえ、住人の私財物等を押し取る乱行に及んだ。
国房が東寺の荘司を追却し、郎等平行仲に荘務を執行させたのにたいし、東寺は朝廷に官使の派遣を要請、国房の押妨の停止と押し取られた稲ならびに私財物の返却を実現しようとした(『平安遺文』1663号)。
そこで朝廷は、仁誉・国房らに子細を尋ね問うが、彼らは言を左右にして請文を進めず、いよいよ乱行に及び、荘住人の多くが殺害されたという。
平盛正は「寺家の氏人」として、これらを解状に記して東寺に注進、東寺は彼の解状を副進文書として朝廷に進めた(『平安遺文』1681号)。
一地方事件ながら、延暦寺の悪僧と美濃源氏、東寺と伊勢平氏の一員など、多彩な顔ぶれを揃えた事件であるが、以後の経過は不詳。
ここでは、院政期中央政界に地歩を争う二つの軍事貴族が、東寺と延暦寺の末寺争奪戦の過程で、伊勢・美濃・尾張国境付近で鋭い緊張関係をつくりだしていた事実が確認できる。
■伊勢平氏、多度神宮寺、多度神社
伊勢平氏が多度神宮寺の檀越(施主)であったということは、多度神宮寺が伊勢平氏の氏寺であったことを意味する。神宮寺と多度神社は一体不可分であったので、多度神社もまた氏社化していた確率が高い。
氏姓・氏寺の祭式の中核は通例「先祖の常祀」であるので、社頭の後山の多度山は、伊勢平氏の氏の祖霊の鎮まる霊山であり、多度社および神宮寺はその神聖な祭壇とみなすことができる。この地は一門同族結集の場であり、伊勢平氏の精神の故郷であった。
尾・勢・美三国人民のあつい信仰を受ける多度大神のごとき存在を、平氏が氏神として独占するのは容易な業ではない。
多度社は伊勢国の事実上の一宮であった可能件もあり、多度には在地有勢諸豪族の共通の守護神的性格もありえるが、伊勢平氏の同族一門が多度杜氏人中最大級の存在であったことは確実である。彼らが他の氏人達を率いて神事勤行の先頭に立ち、恒例・臨時の神事全体を統轄し、祭主としてこれを執行したと考えられる。
多度が平氏の氏社・氏寺的存在であったなら、先祖の追善と並んで現世の利益、子孫の繁栄なども懇祈されただろう。多度大神(多度大菩薩)は、各地に点在する伊勢平氏所領に豊かな恩寵があるようにと冀れただろう。同時に、軍事貴族として家門発展のために武運にめぐまれたいも願ったであろう。
多度大神は、そうした伊勢平氏の現実の政治性格に根ざした願望を保障する神として存在したであろう。
『梁塵秘抄』の248番に、
関より東の軍神、鹿島香取諏訪の宮、又比良の明神、安房の洲瀧(すたい)の口や小野(の宮)、熱田に八剣伊勢には多度の宮
とある。
これは、軍神としての多度が平氏の氏社・氏寺であることを示唆している。
*鹿島、香取の両神宮、諏訪神は第一級の武神。比良の明神は滋賀県高島郡の白髭神社、安房の洲宮は館山市の神社、また小鷹明神は安房郡白浜町(旧長尾村滝の口)の小鷹神社。 関とは逢坂関。
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7月15日
・源義家(68、河内源氏の嫡流、八幡太郎義家)、没。法名信了。義国の同母弟、源義忠が家督を継ぐ。
同日、源義国の舅で源(新田)義重の祖父の正四位下上野前司藤原敦基(61)、没。
16日、中御門宗忠、源義家を「武威天下に満つ、誠に是れ大将軍に足る者なり」と評する。
義家、下野守の頃、下野(栃木県)足利の地に別業(私領)として居宅を構える。
義家の男子:
①義宗:長男、早世。
②義親:次男、対馬守、反乱を起こして嫡廃、為義の父。
③義国:3男、加賀介、帯刀長、北面の武士となる。足利・新田氏の祖。
④義忠:義家の家督を継ぐ、天仁2(1109)年2月殺害。
⑤為義:実際は義親6男だが、義家の養子となって嫡流を継ぐ。保元の乱で没。源頼朝の祖父。
⑥義時:陸奥五郎、石川冠者と号する、石川氏の祖。
⑦義隆:陸奥六郎。森冠者と号する、平治の乱で没。
■後三年の役後の冷遇:
『奥州後三年記』によると、元来、清原氏は「国宣(こくせん)を重くし朝威をかたじけなく」しと云い、朝廷や国司に忠実で、それに反旗を翻すような気はなかった。義家は、清原氏の内紛に介入し、「国の政事(まつりごと)をとどめてひとへにつはものをととの」えとあり、国の徴税を怠り、兵を集めることに奔走した。
事件の10年後の承徳元年(1097)の『中右記』には、「前陸奥守義家、合戦の間、金を貢がず」と記されている(10年前の陸奥守時代の金の貢納がまだ滞っていた)。
後三年の役ののち、義家は長く「前陸奥守」として新たな官職につかず冷遇されていたのは、陸奥守時代の朝廷への貢納末進(滞納)が最大の理由であった。
また、寛治5年(1091)、義家は、河内の所領を巡る郎従間の争いを契機に同母弟の義綱(よしつな)と対立。双方共に京都に兵を集め、一触即発の事態となる。藤原師通の日記『後二条師通記』によると「兵の事は遺し返すべきなり。諸国国司随兵(ずいひよう)留めらるべきの官符、諸国に下知せよと云々」とあり、京都近国を本拠とする軍事貴族たちの入京が留められる。
この点からも、義家は、東国武士と広く主従関係を結んでいるような武士ではなく、おもに在京する軍事貴族連合の盟主という存在であったとみられる。
尚、義家と争った弟の義綱は、寛治8年、出羽での平師妙(もろたえ)の乱(国司の館を襲い、財物を盗んだ事件)に陸奥守として追討を命じられ、恩賞として従四位上美濃守に任じられている。
承徳2年(1098)4月、正四位下に叙任され、10月には院の昇殿を許され、復活のきざしが見えるてくる。
しかし、康和3年(1101)、嫡男の対馬守義親が、九州の各地で人民を殺害して公物を押し取り、さらに大宰府の命令に背いたとして解官された。告発したのは、大宰大弐(大宰府の実質上の長官)大江匡房である(後三条の代から仕えている、白河法皇側近の学者)。
朝廷は追討使派遣を決めるものの、実際には父義家に義親の召還を命じる。ところが、義家が派遣した腹心の郎等豊後権守藤原資通が、途中で義親に与して朝廷の追討使を殺害した。義親は、翌康和4年、隠岐に配流される。
そして、嘉承元年(1106)7月、義家は京都で没する。
義家が没した翌年、隠岐に流されていた義親が、出雲に渡り、国の目代(国司の代理)と郎従7人を殺害し、公事物を奪い取る事件がおきた。近隣諸国にも義親に同調する動きがあり、山陰諸国の国衙支配が動揺した。この時、因幡守平正盛(清盛の祖父)が追討使に選ばれる。
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7月23日
・白河法皇、石清水八幡宮寺に御幸、御幸の勘賞として別当法橋光清を法眼に叙す。
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8月7日
・ ハインリッヒ4世(55)、リェージュで没(カノッサの屈辱を与えられたドイツ国王)。
ハインリヒ4世逃亡。支援者(ライン諸都市、ニーダーロートリンゲン、多くのミニステリアーレン)、ハインリヒ4世の許に集結。ケルン市民とリュッテイヒ市民、ハインリヒ5世軍に勝利。逃亡先のリューチヒ(リュッティヒ、リエージュ)で再起計画中に没。破門のまま埋葬。
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8月28日
・権中納言藤原宗忠、関白藤原忠実に唐人が来着したとの越前国解を提出。
「越前国司、唐人の来航を言上す。人々申して云く、帰粮を給いて追却せらるべきか」(「中右記」同日条)。
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9月
・アンセルム、イングランドに帰国。
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9月28日
・タンシブレ(タンシュブレ)の戦い。
ヘンリ1世、兄ノルマンディ公ロベールに勝利、ノルマンディ公領を併合。ノルマンディ公ロベール、没迄カーディフ城に幽閉(1106~1134)。
ヘンリ1世、ノルマンディのタンシプレ市を攻撃。
ノルマンディー公はタンシプレ市に来援。
両軍は前衛・後衛2列に布陣して対陣し、両軍共に全軍が下馬。ヘンリ1世軍前衛は主にノルマンディのヘンリ1世支持者からなり、後衛はヘンリ1世指揮のイギリス諸候で、兵力は前衛・後衛共に700程度。ノルマンディ公軍前衛はノルマンディ公率いる十字軍帰りの精鋭部隊、後衛は元シュルーズベリ伯ロベールを中心とするノルマンディ公支持者達で構成。ヘンリ1世は、騎兵隊数十騎を敵側面に伏せておき、戦い開始と同時にノルマンディ公軍側面を襲う。ノルマンディ公軍は総崩れ、ノルマンディ公ロベール捕縛、元シュルーズベリ伯ロベールは逃亡。
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10月9日
・陣定。若狭の条のことなど議論(「中右記」)。
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10月22日
・グァスタラ公会議。俗人叙任を再度禁止。ハインリヒ5世と教皇パスカリス2世の最初の折衝。
ハインリヒ5世、トリーア大司教ブルーノを派遣、原則的立場(「聖職叙任権は古くからの神権的統治者に属する自明の権利」)を表明。
パスカリス2世、俗人叙任禁止令を更新、原則的立場維持。
但し、ハインリヒ5世が、教令の禁止する伝統的形式で叙任したドイツ司教達への破門・聖務停止処分を回避。
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11月9日
・前日の春日祭への諸国所課、若狭には新任によりあてず、越前には国絹12疋(「中右記」)。
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12月29日
・不堪佃田定。越前も対象となる(「永昌記」)。
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