2016年4月17日日曜日

應永22(1415)年 伊勢国司北畠満雅挙兵 ヤン・フスの火刑(コンスタンツ公会議で自説撤回を拒否) フスの同志ヒエロニムスの審問 英仏百年戦争再開(英軍、仏に上陸、アザンクールの戦いで仏軍壊滅) 将軍義持、琉球の尚思紹に返書(日琉国交の始め)

プラハ旧市街広場のヤン・フス像
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應永22(1415)年
この年
・第8回総会、ウィリクフ説は邪説とされ、その遺骸は掘り出され、捨てられることが決定。
フスに「意見の取り消し」を求める。フスは拒絶。彼は「もし会議が真理を明らかにするか、聖書によりそのことが証明されるならば私は会議の意志に屈しよう。だが、そうでない場合は断じて飲むことはできない」と告げる。
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・ルーマニア、ワラキア公ミルチャ老公、オスマン・トルコと和約。
ワラキア(ヴァラキア)公国、オスマン・トルコに貢納義務を負う。
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・ホーエンツォレルン家ニュルンベルク城伯フリードリヒ6世、ブランデンブルク辺境伯に封じられる。皇帝ジギスムント、有能な協力者兼総司令官を獲得。ホーエンツォレルン家はベルリンに移住。
シュヴァーベン地方の貴族ツォレルン家が祖先(居城が丘の上にあったことから家名が生じる)。
13世紀シュヴァーベン系とフランケン系に分かれる。
フランケン系はニュルンベルク伯を継承していたが、この年フリードリヒ6世がブランデンブルク辺境伯に任ぜられる。
1618年東プロイセンを合併、大選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルム(在位1640~1688)が発展の基礎を築く。
フリードリヒ3世がスペイン継承戦争に加わった功により、1701年王号を許されプロイセン王フリードリヒ1世と称す。
フリードリヒ2世(大王、在位1740~1786)は父フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の残した軍事力と財力を活用し、プロイセンを列強の1つにする。1848年の3月革命の中で、フランクフルト国民議会はフリードリヒ=ヴィルヘルム4世をドイツ王に推すが、これを拒否。1871年ドイツ統一に成功し、ヴィルヘルム1世は王位を兼ねて初代ドイツ皇帝となる。
3代目皇帝ヴィルヘルム2世のとき第1次世界大戦に敗れ、1918年革命により退位、オランダに亡命。
一方のシュヴァーベン系領土は17世紀にヘッヒンゲンとジグマリンゲンに分かれるが、1849年両者共にプロイセン王国に合一。
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・神聖ローマ帝国皇帝ジギスムント、スイス諸州に特許状付与、スイス諸州に、諸侯と同等の権利を認める。
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1月24日
・ナポリのジョヴァンナ2世、ヴェネツィア人に特権保証
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2月
・ヘンリ5世、パリに最後通牒、フランス拒否。
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2月9日
・仏、武装した英(ヘンリ5世)使節団、パリ到着。フランス側両派に外交攻勢。3月に会談決裂。
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2月15日
・ヴェネツィア、パドヴァ大学に四人の改革委員設置
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2月22日
・仏、王太子ルイ、ブルゴーニュ公と和解。和平成立宣言。
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2月23日
・ジャン無畏公、アルマニャック派との和平調印。
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2月25日
・蓮如、存如の庶子として京都・東山大谷に誕生。
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2月26日
・ヴェネツィア共和国、アンコーナの屈服を断念
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3月
・北畠満雅の挙兵。
伊勢国司北畠満雅、北畠一族で足利方についた木造俊康を木造城(坂内城とも)に攻め落とす。
坂内(北畠)雅俊を木造城に、大河内(北畠)顕雅を大河内城に入れ、玉丸城・多気城・坂内城に一族を配し、北畠満雅は阿坂城で総指揮をとる。
伊勢国内では関氏・神戸氏・国府氏・峰氏・加太氏らが北畠氏の挙兵に応じる。
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3月14日
・ヘンリ5世使節、フランスに王位要求交渉に派遣するも失敗。
百年戦争第2幕へ。
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3月20日
・教皇ヨハネス23世、あらゆる犯罪で告発(異端、聖職売買、圧政、殺人、ボローニャの200人の婦人を誘惑、その他)。
教皇ヨハネス23世、コンスタンスよりシャフハウゼン(チューリッヒ北 40Km)に逃亡 。シャフハウゼンの隠れ家に合流した数多くの枢機卿の中にオド(オッドー)・コロンナ(次の教皇マルティヌス5世)がいた。
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3月24日
・ヤン・フスの身柄、ゴットリーベン城に移される。取り調べに当たる委員会はウィリクフの件を担当する委員会に権限を移動。ウィリクフ問題がフス問題となる。
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4月
・足利持氏、上杉氏憲(禅秀)を罷免。
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4月4日
・フスの同志ヒエロニムス、コンスタンツで拘束中のフスを見舞う。帰国途中に逮捕。5月22日に連れ戻される。
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4月5日
・若狭守護一色義範(16)、伊勢北畠満雅討伐軍の総大将に指名され、将軍義持から旗・鎧・太刀を授けられる(「満済准后日記」同日条)。
若狭太良荘百姓の夫役は、実際には下行分(必要経費として荘園領主が年貢から控除する分)の2倍の32貫文を要し、一部を借銭でまかなった為、利息が10貫文になる。
夫役は合戦時の軍役として始まるが、平時でも守護所や京都で召し使うようになる。
太良荘では荘園領主に負担していた夫役が守護夫に振り替えられ、守護夫の費用は百姓の自弁とされる。
また明徳元年、年間守護夫は12人と定められるが、応永6年頃には毎月2、3人立てている。
室町期、百姓らは守護夫の粮物代を「下行分」(必要経費として荘園領主が年貢から控除する分)とする運動を展開し、その結果、臨時守護夫の粮物代が年貢から支出される。
京都の一色氏に飯米を運ぶ「御飯米越賃」が応永10年から、「節供夫」「雇夫」「駄賃馬」が応永22年~24年頃以降毎年下行分とされるようになり、百姓の負担はある程度軽減される。
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4月6日
・コンスタンツ公会議教書「サンクロ・サンタ(いと聖なるもの)」。
公会議招集権者の「教皇」が逃亡したが、公会議はキリストに由来しローマ教会の最高権威である。
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4月7日
・将軍足利義持、土岐持益を大将に仁木満長・世良康政・長野・雲林院らと大和国人の兵5万余で出陣、更に一色義貫・京極氏・土岐一族を援軍として派遣。
北畠方・関氏の拜野城を落とし、木造城(坂内(北畠)雅俊と兵2千)を包囲。城兵長井次郎左衛門・松田小太郎が幕府軍に内通、幕府軍を侵入させて陥落。坂内(北畠)雅俊は坂内城に退却。
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4月20日
・幕府軍、雲出川を越え、南伊勢に進む。
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4月25日
・犬懸上杉の家人で常陸の越幡六郎某に科があり所領を没収。
関東管領上杉禅秀(氏憲)は不憫として越幡を扶持。鎌倉公方足利持氏はこれを嫌う。
5月2日、禅秀は管領職辞職を上表。
18日、持氏は故上杉憲定の子の憲基を管領を任命。
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4月30日
・ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリッヒ6世、神聖ローマ皇帝ジギスムントによりブランデンブルク選帝侯に封ぜられフリードリッヒ1世となる
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5月14日
・教皇ヨハネス23世の教皇職務を停止
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5月16日
・コンスタンツ教会会議。
ライトミシュールの司教の訴え提出。教会会議は「二種正餐」を「以前は存在したが、廃されるべき十分な根拠があって廃されたもの」としてこれを再度禁止。コンスタンツの獄中のフスは、最初はこの過激な改革にためらったものの、後には強く支持。
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5月16日
・幕府軍、阿坂城を包囲、陥落。「白米城の故事」が行われる。
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5月29日
・コンスタンツ宗教会議。
公会議の至上権を宣言。教皇ヨハンネス23世を廃位(ハイデルベルグ城地下牢で禁固刑。1418年ジョヴァンニ・デ・メディチの尽力で釈放)
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6月5日
・フスの第1回審問開始。
フスの演説は許されず。彼の著作物が示され、その内容について質問、フスが細かく応えようとしたのに対して審問側はただ一言で応えよと迫り混乱。
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6月7日
・フスの第2回審問。
皇帝ジギスムント出座。皇帝はフスに自説撤回を勧め、これ以上の保護はできないと言う。
フスは「私は何事かを主張するために来たのではない。私の誤りがなんであるか、それを教えてもらいに来たのだ」と言って拒否。(ジギスムントが問題にしていたのは聖書論争ではなくプラハの治安問題)
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6月8日
・フスの第3回審問。
枢機卿ダイイが会議の決定(ウィリクフ異端決議)に従うように強く要求。
フスは拒否。審問は大混乱に陥る。
後6月18、24日、7月5日にも同様の審問。フスは会議決定には従わず。

6月末、プラハ大学マギステル・学生に宛てたフスの書簡。
自分は何一つ撤回しなかった、彼らもまた「すべてに打ち勝ち、永遠の力を持つ」真理をしっかりと守って欲しいことを伝える。
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6月19日
・畠山満慶、大和宇陀郡に侵。第1次北畠満雅の乱の締めくくりの合戦を行って乱を平定。
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6月30日
・フランス代表団、イギリスとの会合のためウィンチェスター到着。会議延長を伝えられ、ヘンリ5世より最後通牒受ける。
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7月
・北アフリカ・イスラム勢力に内戦始まる。
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7月4日
・シエナの教皇グレゴリウス12世、退位。
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7月5日
・コンスタンツ公会議。ドイツ地域部会でポーランド使節、ドイツ騎士修道会を批判。
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7月6日
・ヤン・フスの火刑
コンスタンツ公会議第15回総会。フスの審問経過報告、ウィリクフの異端説の宣言読み上げ。フスの著作の一切の焼却、破門宣告、異端宣言。自説撤回を宣言すれば、まだ許されるが?と尋ねられ、フスはこれを一蹴、僧衣を剥奪される。会議続行中にもかかわらず、フスは連れ出されて処刑場ブリュールに連行、火刑に処される。

皇帝ジギスムントとボヘミアは異端紛争の円満解決を望むが、フランス聖職者はフス処刑論。皇帝、公会議を成功させる為に妥協。
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7月19日
・英ランカスター公娘・ポルトガル王ジュアン1世妃・フィリパ、病没。
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7月19日
・フスの同志ヒエロニムスの審問開始。
長い監禁と執拗な審問で弱った彼は、一時的に会議決定に従うことを了解。
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7月31日
・サウサンプトン陰謀事件。貴族達のヘンリ5世廃位陰謀発覚。
首謀者:ケンブリッジ伯リチャード(第2代ヨーク公エドワード弟)、元財務府長官スクロウプ卿ヘンリ(ヨーク大司教<1405年反乱>甥)、サー・トーマス・グレイ(妻・短気者ヘンリ・パーシィ娘<第1次パーシィ家反乱>)。
擁立される筈の第5代ウェールズ辺境伯エドマンド・モーティマ(24、妹アンがケンブリッジ伯リチャード妻)が、ヘンリ5世に通告し露見。8月5日、関係者処刑。
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8月
・足利義持、南都参詣、南軍と和議。また、説成親王、幕府を説き北畠満雅と和議させる。
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8月12日
・ヘンリ5世3万、セーヌ河口ル・アーヴル北方サント・アドレス岬に上陸。
第1回フランス遠征。百年戦争再開(休戦期間1389~1415、26年間)。
17日、アルフルールを包囲。
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8月18日
・幕府軍、京都に撤収。
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8月21日
・ポルトガル軍5万(ジョアン1世と王子3人)、モロッコ(ジブラルタル海峡)のセウタ(イスラム教支配)上陸。攻撃開始、占領。
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8月25日
・ポルトガルのジョアン1世、征服したイスラム教会堂メスキータを聖別しキリスト教会に代えて3王子を騎士の叙任。長男ドゥアルテ(エドワード)、次男ペドロ(ピーター)、3男エンリケ(ヘンリ、21)。
セウタ攻略は、西アフリカ・スーダンからサハラ砂漠を越えて流入する金の市場の確保が主目的であったが、占領後、金はセウタを避けて他の地中海都市に流れた。しかも、セウタ城外ではイスラム教徒が激しく抵抗。セウタ維持を巡って論争。国王ジョアン1世は維持策をとる。
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9月
・ポルトガル軍、守備隊を残して、セウタを引き揚げ。
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・ボヘミアの一部の貴族、フスの処刑に最初に公式に抗議。
プラハに集まって同盟を結び、「神の言葉を聞く自由」を要求し、教会の問題に関する最高の権威はプラハ大学にあると宣言。
450人の印章を付けた書簡をコンスタンツに送り、フスの処刑はボヘミア王国とモラヴィア辺境伯領および「われわれすべて」に対する永遠の侮辱であり誹謗であると抗議。

この頃、プラハの教会では「二種聖餐」が普及し始める。
1414年末にウィクリフ派マギステルのストシープロのヤコウベクが始めた、パンと葡萄酒の両方を用いた聖餐(両形色の聖餐)が広まりつつある。
公式教義では、俗人の聖体拝領はキリストの肉であるパンだけで十分で、葡萄酒は与えられないが、ヤコウベクは福音書にあるキリストの最後の晩餐の時の言葉をもとに、すべてのキリスト教徒に両形色の聖餐を施すべきであると主張し実行。これを獄中で聞いたフスは、余りに思い切った改革であり、最初は戸惑うが、後には強く支持したと言われる。教会当局の厳しい禁止にも拘わらず、この方式はフスの支持者たちの間で支持されていく。

これ以降プラハでは市民たちが聖杯派とカトリック派に分かれて、互いに非難・中傷を投げつけながら争い、しだいに他の都市へ、農村へと及ぶ。プラハ各市街の参事会は窮地に立たされ、聖杯派の勢力は抑えきれなくなっており、参事会は国王の意向を仰ぐしかないが、その国王の態度も一定せず。
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9月11日
・ヒエロニムス、チェコ王国宛てに自説の誤りと教会会議の決定に服する手紙を書くように言われ、筆をとる。実際は「コンスタンツでフスはなんの過ちもおかさなかった」という内容の手紙を送る。
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9月19日
・ペルニャン(ナルボンヌの南)で、皇帝ジギスムントと教皇ベネディクトゥス13世(ルナ教皇)が会見。教皇ベネディクトゥス13世、教皇退位を拒否、ペニスコラ(バルセロナ南)に避難。
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9月22日
・ヘンリ5世、アルフルール占領(セーヌ河口近くの町)。パリに向かわず、カレーに向け北上。
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10月25日
・アザンクールの戦い
ヘンリー5世(28)率いるイングランド軍1万2千、オルレアン公シャルル(アルマニャック派)率いるフランス軍約3万とカレー南東50Kmで戦う。仏軍はブルゴーニュ派の自由意志による寄せ集めの為、英軍が圧勝(英損害4~5百、仏7千)。オルレアン公シャルル(21、シャルル・ドルレアン)、アルトゥール・リッシュモンら捕虜。
フランス兵捕虜がイギリス軍全兵士を上回る。フランス貴族壊滅。
イギリスのフランス侵入の道を開く。
アルマニャック伯ベルナール7世の拙劣なやり方が、ジャン無畏公・ブルゴーニュ派貴族をイギリス側に追いやる。
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11月4日
・坪江上郷で荘民が損免要求(「私要鈔」同日条)。
熟田であるが年貢を低くしてあるため、これまで損免が行なわれなかったとされる荘園。開発地が干水損を受け易い地にまで広がった為。
室町期の荘民の要求の中心は負担年貢額減免と代官排斥。年貢減免要求の中心は損免要求で、恒常的な荒田・河成・不作などの地の年貢減免を求めるものと、年々の水損・干損・虫害・獣害などによる損毛分の年貢減免を求めるものがある。
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11月16日
・英、ヘンリ5世、フランスより帰国
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11月25日
・将軍義持、琉球の尚思紹に返書を送る(日琉国交の始め)。
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12月18日
・仏、王太子ルイ(18)、没。弟トゥーレーヌ公ジャン(17)、王太子となる。ルイ妻マルグリッド(22、ジャン無畏公長女)、ブルターニュ家系リッシュモン伯アルテュールと再婚。
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