ゴヤ『戦争の惨禍』39番 「立派なお手柄!死人を相手に!」
*民衆蜂起・五月の二日以後
スペインに関して、ナポレオンの犯した最大の過ちは、一八〇八年三月一九日から、ジョセフ・ボナパルトがホセ一世としてマドリード入りをする七月二五日まで、曖昧なままに、スペインの王座を空位にしておいたことである。・・・しかも、内閣、大貴族、教会、学界、財界の多数の代表者までがバイヨンヌに集合させられ、そこに長くとどめられ、あたかもスペインの首都はマドリードではなく、バイヨンヌであるかのような観までを呈してしまった。そこに、モントーレス村の村長さんが敢然立ち上ってナポレオンに対して宣戦布告をする所以もあったのである。
この三ヵ月にわたるバイヨンヌ小田原評定の間に、スペインの各地方は、「神と祖国と王(フェルナンド)」の名において蜂起した。ジョセフがホセ一世としてマドリードに入ったときは、星星之火は燃えさかって、すでにスペインは燎原となってしまっていたのである。
言うまでもなく、この火は、愛国心、王への忠誠、反キリストであるフランス革命に対しての神の名における戦いであり、また宗教的、政治的伝統の擁護という、ありとあらゆる美しく高貴なものによって燃やされていたのであるが、火は、しかし、要するに火である。
絶対王権主義者、狂信的信仰者などとともに、革命的共和主義者などまでが戦列に参加していた。彼らのそれぞれが美しく高貴な理想を抱いていたことは誰にも否定は出来ないが、それだけでは火は燃えない。火が燃えるためには、もう一つのもの、その裏にあるものが、悲しいかな、必要である。すなわち、憎悪である。最低の本能が、高貴なるもの、キリストの名において鎖を解かれる必要がある。
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バレンシアの場合がもっとも典型的であろう。
五月二三日、フェルナンドが王位を辞したことが知れると、民衆はバレンシア地方長官を捕え、裏切者として投獄した。血祭りにアルバラート男爵が刺殺される。ある聖職者が地方政府代表となると、そこへマドリードから「食肉獣」と仇名された狂信の修道士があらわれ、彼の指導の下に、三八〇人の在住フランス人が逮捕され、闘牛場へ引き出されて喉を切られる。掠奪・放火がつづく。
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「食肉獣」は後に絞首刑に処せられた。血に酔って荒れまわった人々のなかから、後に二〇〇人が処刑された。犠牲は六〇〇人を越えた。五月の二日、三日のマドリードの犠牲の倍である。
五月二四日、アストゥーリアス蜂起。
この蜂起臨時政府は、二名の代表をロンドンに送り、金と武器弾薬、食糧を乞う。ロンドンは直ちに要求に応ずる。この蜂起の間に、ゴヤの友人であり、かつ肖像画を描いてもらったこともある詩人メレンデス・パルデースが処刑一歩手前で救われる。
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五月二六日、サンタンデル蜂起。
在住全フランス人逮捕。地方長官処刑。代りにロンドンは、チャールス・スチュワート卿を司政官として送り、ブレーク陸軍大佐が地方長官代理に就任。
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スペイン民衆は英国のために戦っているのか、結果的には。
答えは、然り、である。
古都バリャドリードでは聖職者にひきいられた暴民が地方長官を逮捕し、絞首台を建てる。長官は一も二もない、フェルナンド王万歳を称える。
同じようなことがバンプローナ、シュウダード・ロドリーゴなどの各地で起った。
港町であるカディスの場合はもう少し複雑であった。港内には八隻のフランス艦隊がいて、これを港外にあって監視している英国艦隊が封鎖していた。地方長官は、かつてゴヤがその夫人をもっともスペイン的な女性に描き上げたソラーナ侯爵である。彼は民衆蜂起を極度に抑えようと努力をした。何と言っても侯爵はフランス艦隊とともに何度も英国と戦った。トラファルガール沖で大敗戦を喫したときにも。
しかしながら、ここへふたたびテバ伯爵があらわれる。・・・彼がふたたび蜂起を組織した。五月二八日である。不運なことにこの日ソラーナ侯爵はあるアイルランド人の家にいた。乱入して来た群衆に対して、侯爵は短銃を突きつけて射ち、広場へ引き出されて撲殺された。・・・
彼のあとをついでカディスの長官になったのは、モルラ将軍である。この将軍は、ゴヤの『気まぐれ』七六番で、上に対してはおべっかを使い、下に対しては残酷という二重性格を強烈に批判されていた。カルロス四世がフランス国民公会に宣戦を布告したときには、フランス領カタルーニァで数千人を虐殺していた。それがいまは英国の代理人である。
カディス港を封鎖している英国艦隊の司令長官は、モルラに対してあらゆる援助を与えると通告し、彼はこれをありがたく受ける。それもその筈である、英国はジブラルタルの要塞へ、五〇〇〇の兵を輸送中であった(後日彼はホセ一世の国防大臣になるであろう! ・・・)。
さてそのジブラルタルを陸上で封鎖していることになっていたスペイン大部隊の長は、マドリードのミュラ将軍に手紙を送り、五月二日の血の弾圧をほめちぎり、同時に金を要求した。ところがミュラは金をもっていなかった。もたせてもらえなかったのである。ミュラがマドリードのフランス銀行支店に要求をすると、銀行はスペイン王室の宝石を担保にもって来い、と言う。そこまでの権限はミュラにはない。これに反して英国は、金も人も武器もふんだんにわたす。そうして驚くべきことに、スペインのみならず、大陸における英国の対ナポレオン戦争の戦費は、ロンドンから英仏両国にまたがるロスチャイルド家等を通じて、パリへ送られ、そこから全欧州へばらまかれていた。皇帝ナポレオンもが手をつけることの出来ない、超国家的な、多国籍金融資本の時代もまた来ているのである。
要するにミュラは、地方で何が起っているのかを知らなかった。・・・
スペイン第三の都市セピーリアで何が起っているかも知らない。地方長官は、市の門の露台にしばりつけられて銃殺された。蜂起後に組織された市議会は、”スペインとインド(アメリカ)最高評議会”という大きな名をもつことになった。
・・・
グラナダでは、大司教が三五〇万レアール(約八九万ドル)の軍資金を提供し、もとのマラガ地方長官でゴドイの妹を夫人としていた人が惨殺された。
当のマラガではフランス領事が殺された。
六月三〇日、ゴドイの故郷バダホスでも地方長官が撲殺され、死体は四つの部分に分けて、市の四ヵ所に吊るされた。
同じようなことが全国で起った。カルタへーナでは、チェーザレ・ポルジアの子孫フランシスコ・デ・ポルハ公が殺された。マジョルカ島でも・・・。聖職者が刺客を雇い、囚人が解放される。・・・
・・・ミュラ将軍はほとんど情報をもたぬままに、彼は途方もないことを考えた。カタルーニァ地方が形の上でフランス領ということになった、そこで彼は、かつてこの地方がフェリーペ五世によってスペインへ奪いかえされる以前に人民が持っていた古典的特権を許してやろうとした。その特権とは、カタルーニァ人民の武器携行の自由、である。
・・・ナポレオンは肩をすくめ、十字を切ってこのミュラの要請を許可したと言われる。おそらくこの明視明察の人は、心底ですでに、ミュラを諦めていたものであろう。
途方もない時期に途轍もないことをミュラがやらかしてくれたために、大迷惑を蒙ったのは、カタルーニァ地方にいた皇帝のナポリ大部隊であった。七月七日、プルチというパルセローナ西北四〇キロほどの町で、小商人の子にひきいられ、大きな十字架をかついだ聖職者につきそわれた町民がこの部隊に襲いかかり、大きな損害を出させられた。部隊は町を逃げ出して近郊の村々を焼き掠奪し、大荒れに荒れた。パルセローナそのものは平静であったが、カタルーニャ地方一帯に駐屯するフランス軍の使う井戸や酒樽には毒が投げ込まれた。
ところで、全国的に、状況かくの如きであってみれば、蜂起側の首領をきめなければならない。・・・そこで、サラゴーサの蜂起市民軍司令の役割は、三三歳のホセ・パラフォックスなる軍人に押しつけられた。・・・この軍人は、軍略のことや作戦のことなどまるでわかっていないままに、フランス軍のサラゴーサ包囲という大変な戦争に従事させられ、いつの間にか一大英雄に祭りあげられる。やがてゴヤは彼の肖像を描くであろう。
・・・しかし、これらの全国的蜂起は、そのいずれもが”望まれたる”王、フェルナンド七世の名において行われていたのである。・・・
それなのに、フェルナンドだけではなく、アントニオ・バスクァール殿下までがナポレオンとジョセフ(ホセ一世)に対して平身低頭、お世辞たらたらでもっぱら恭順の意を表することに日を過していた。・・・五月の一二日に、ボルドーでフェルナンドは、スペイン国民の抵抗は、
無益である。何故なら、ただ血の川を流すだけで、最小限のところ、スペインの大きな部分を失わせ、海外領土の全部を失わせるだろうからである。
と宣言をしている。
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この初期の蜂起は、しかし、長続きはしなかった。・・・その後に来る独立戦争は英仏代理戦争としての、より一層悲惨な性格をもって来る・・・
・・・この戦争は、後に、スペインでは”独立戦争”と呼ばれ、英国では”半島戦争”と呼ばれ、フランスでは”スペイン戦争”ということになる。・・・英国にとっては、イベリア半島と地中海からフランスの影響力を追い出すという、ただそれだけの意味をしかもっていない。・・・
歴史家に登場をして頂こう。
「ほとんどのスペイン史家は、ナポレオンに対する蜂起の根本的動機を国民的独立をもとめる感情にあると明言する。このことは、もしこの国民的独立が、スペイン各地方の復帰再興(revival)を意味するなら真実である。地方の、地域的感情が国民感情より強くはないにしても、同じ強さをつねにもっていたのである。地域的愛郷心が、ハブスブルク、ブルボン両王家の中央集権化政策にもかかわらずつねに非常に強くかつ執拗な、一九世紀初頭のスペインのような国に、二〇世紀ヨーロッパの国民感情を読みとることは間違いである。」
「大半のスペイン人がナポレオンに対する反抗を主張した真の理由は、彼が外国侵略者だからではなく、フランス革命を代表していたからである。大衆は独立のために戦ったのではなく、たまたまスペイン人がかつてもった王中の最悪のものの復位をねがって戦ったのである。半島戦争、独立戦争は、その様々な在り様のなかでも根本的には反自由主義運動であったというのが真実である。」
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この歴史家は英国人なのであるが、・・・
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この歴史家の言う「スペイン各地方の復権再興」は、中央へは送らない徴税や各地方だけでのパスポートの発行にまで及び、セピーリアの政府(評議会)はグラナダの救援要請を拒否するほどの地域エゴぶりをも発揮したものである。
各地方がかくまでの「復権再興」を獲得して、彼らはではフランスの侵略者とどのように戦ったか。
はじめはまことに有能であった。・・・
とりわけてナポレオンが派遣した軍隊の大部分が未訓練の新規徴集兵で、その主要な任務はジョセフ(ホセ一世)の戴冠祝祭用のものであったからである。皇帝は、スペイン人民衆の眼にふれないところで、日に二回は訓練せよ、と命じていた。従って中、下級指揮官は兵を個人的に知らず、掌握は十分と言えなかった。平均年齢は一九歳から二二歳で、言うまでもなく、戦場経験がなく、装備も十分ではなかった。また各兵団間の連絡や情報収集力も弱かった。しかも皇帝にょって、軍は如何なる遭遇も避けよ、と命じられていた。
こういう、いわば最悪の条件下にある軍隊が、突如として戦闘ルールも何もない、変幻自在なゲリラ戦を強いられることになったのである。・・・カディスの地方長官は前の戦争のときの、フランス人殺しで悪名商いモルラ将軍である。・・・
軍は五月二五日、トレドを出発し、アンダルシーア街道を南下し、セピーリァでスペイン正規軍と合流してカディスへ向う筈であった。・・・
しかし、セピーリァは蜂起し、スペイン正規軍はすでに蜂起者の側にうつっていた。・・・
六月四日の夜から五日の朝にかけて、フランス軍の後衛が襲われた。新カスティーリアとアンダルシーア地方とを分けるシエラ・モレナ山脈中の、訳して”逆落し峠”(Despenaperros)と称される巨大な岩の盛り上った陸路を中心とする、三ヵ所の村落で就眠中をやられた。兵は主として弾薬、糧食等の輸送部隊と、病兵、それにスペインのごろた右で足を傷つけた者などである。
四〇〇人中の二〇〇人が喉を掻き切られた。残りの二〇〇人は、残虐きわまりない方法でなぶり殺しに殺された。・・・
はじめはスペイン人同士の殺し合いであり、ついでとうとうここに対フランス憎悪が兵に向って爆発する。
ゴヤの版画集『戦争の惨禍』は、しばしば、暴君ナポレオンに抗してのスペイン民衆の愛国的蜂起を称えたものとして解される。・・・しかしそれだけではないことも言うまでもない。たとえば三九番の、裸の首、手、足を分断され、男根を切りとられて樹木に逆吊にされた死体がスペイン人犠牲者のそれではなくて、スペイン人愛国者たちにやられたフランス兵のそれである可能性もある。・・・
われわれはいま、世にもっとも怖ろしい、・・・人間によって人間の歴史に繰り返されつづけて来た地獄に入って行かなければならない。
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