2025年1月31日金曜日

大杉栄とその時代年表(392) 1902(明治35)年3月1日~10日 「明治三十五年三月十日は月曜日、晴れた暖い日であった。前夜、子規はいくらか気分がよかったのであろう、俳句をつくった。その高揚のせいか眠れずにむかえた朝、前年十月二十九日に日付のみしるして中断した私的な病床日記『仰臥漫録』の再開を思い立った。、、三月十一日、十二日も、食べもの、来訪者、麻痺剤服用についてややくわしくしるした。しかし『仰臥漫録』は事実上ここで終った。」(関川夏央)

 

島村 抱月

大杉栄とその時代年表(391) 1902(明治35)年2月1日~27日 「近頃は文学書抔は読まない。心理学の本やら進化論の本やらやたらに読む。何か著書をやらうと思ふ」(漱石の手紙) より続く

1902(明治35)年

3月

朝・ベルギー修好通商条約締結。

3月

横浜正金銀行、北京支店設置。

3月

長谷川天渓「新思潮とは何ぞや」(「太陽」)

3月

「明治美術会」(前年34年解散)を改称した 「太平洋画会」、洋画会の新人満谷国四郎、吉田博、中川八郎、石川寅治、石井柏亭、大下籐次郎、 丸山晩霞等により、 上野公園第5号館において第1回展を開催。

第5回展までに留学中の鹿子木孟郎、河合新蔵、中村不折、新海竹太郎らが参加、ジャン・ポール・ローランスのアカデミックな画風が「太平洋画会」の基調となり、毎年公募展を開き、白馬会と並立。

明治37年、谷中清水町に洋画研究所を開設、 翌年同研究所を真島町に移す。

昭和4年、「太平洋美術学校」と改め (初代校長・中村不折)、官立美術学校と対抗して、在野における唯一の存在として幾多の英才鬼才を国洋画壇に送る。

3月

九州鉄道門司~八代・門司~長崎間、夜行直通列車に蒸気暖房を設備。

3月

大阪港大桟橋公示起工。翌年7月1日竣工。

3月

第16議会に「救貧法案」が議員提案。政府委員(井上友一)が、惰民を助長し国費乱用を招くと反対、同案は潰される。

3月

(露暦3月)露、モスクワ、グジョン工場争議。当局庇護の「ズバートフ組合」と資本家の衝突。ズバートフはモスクワより。ペテルブルクに移る

3月

英・ペルシア、欧州とインドを結ぶ電信回線建設に合意。

3月

レーニン「何をなすべきか」刊行(シュトゥットガルト)。

3月

ペルシア借款(1900年)に追加して、ジュルファ・タブリーズ・テヘラン間の鉄道敷設権獲得。

3月

ロマン・ロラン(36)、「七月一四日」出版・上演。この上演料でローマに赴き、マルヴィーダとの最後の会見。

3月1日

総選挙、野党圧勝。375中政友会193憲政本党91。

3月1日

戦艦三笠竣工。

3月1日

東亜同文会京都支部、清語講習所開所。

3月3日

幸徳秋水「死刑廃止」(万朝報」)。この頃、「万朝報」編集長円城寺天山(佐賀出身)は、論説陣の顔ぶれについて社長黒岩周六に注意。

3月4日

広瀬武夫少佐、ウラジオストック到着。14日、出発。

19日、旅順口に到着。

2月12日、バイカル湖東方スレチェンスク出発。アムール川北岸沿いにハバロフスクに到る(28日着)2千kmの馬橇旅行を敢行。

3月4日

亀山騒動。福岡県浮羽郡の小作農民2,000人、前年末からの小作米永年1割減額の約束を地主会が覆した(2月3日)ことに抗議、地主宅などを襲撃、破壊。400人逮捕、243人が有罪。

3月4日

(露暦2/19)露、モスクワ、農奴解放記念日。クレムリン広場、モスクワ機械労働者会議組織の労働者6万、アレクサンドル2世記念碑に花輪献花。モスクワ保安部長ズバートフの政策による「ズバートフ組合」。

3月5日

清国外務部、各国公使に天津還付を正式要求。

3月5日

足尾銅山の被害者134名上京し、農相・内相に陳情。

3月5日

仏、炭坑労働者、8時間労働要求ゼネスト決行決議。

3月8日

島村抱月(31)、都筑郡都田村字池辺の島村一方に妻子を寄寓させて、横浜港から讃岐丸で出航、東京専門学校第1回海外留学生としてイギリスに向かう。オックスフォード大学とベルリン大学で学ぶ。3年間。

38年9月12日、横浜に帰着。

3月8日

シベリウス(37)「交響曲第3番ニ長調」、ヘルシンキで初演

3月8日

米議会、フィリピン農産物関税を25%引き下げ決定。

3月8日

ロンドンの漱石


「三月八日(土)または九日(日)、永屋昌雄(京都帝国大学寄宿舎)から年賀状を貰う。イギリス文学に関する書籍についての問い合せも書添えてある。」(荒正人、前掲書)


3月9日

第16議会閉会。(1901年12月10日開会)

3月9日

グスタフ・マーラー(42)、アルマ・マリア・シントラーと結婚。

3月10日

3月10,11,12日の子規


「明治三十五年三月十日は月曜日、晴れた暖い日であった。前夜、子規はいくらか気分がよかったのであろう、俳句をつくった。その高揚のせいか眠れずにむかえた朝、前年十月二十九日に日付のみしるして中断した私的な病床日記『仰臥漫録』の再開を思い立った。

三月十日分の記述は以下のごとくであった。


八時半大便、後腹少し痛む

同 四十分 麻痺剤を服す

十時 繃帯取換にかかる 横腹の大筋つりて痛し

此日始めて腹部の穴を見て驚く 穴といふは小き穴と思ひしにがらんどなり心持悪くなりて泣く

十一時過 牛乳一合たらず呑む 道後煎餅一枚食ふ

十二時 午餐 粥一碗 鯛のさしみ四切 食ひかけて忽ち心持悪くなりて止む

午後一時頃 牛乳

始終どことなく苦しく、泣く


三月十日の項はまだつづいて、午後四時すぎ左千夫と、やはり歌の弟子である蕨真がきた、左千夫は紅梅の盆栽を持参した、蕨真は鰯のなれ鮨をくれた、とある。元気が少しでも出れば食べものについて書く子規だから、その日の夕食は鰯のなれ鮨とうどん、さしみの残りに、長塚節が送ってくれた金山寺味噌と記録した。ひさびさ、おいしく食すことができた。

蕨真は五時頃帰ったが左千夫は九時までいて、歌の雑誌のことなどを話した。話しつつ子規は牛乳を飲み、煎餅、蜜柑、それに飴を食べた。


くれなゐの梅ちるなへに故郷(ふるさと)につくしつみにし春し思ほゆ


左千夫がくれた梅を眺めて詠んだ歌は、三月二十六日付「日本」に掲載された。故郷松山の、あの懐かしい春に帰るすべはもはやないのである。

三月十一日、十二日も、食べもの、来訪者、麻痺剤服用についてややくわしくしるした。しかし『仰臥漫録』は事実上ここで終った。六月二十日になってまた書きはじめたが、それはごくわずかな心覚えを加えた、一日あたり一行ほどの「麻痺剤服用日記」にすぎなかった。

以後、子規に残ったエネルギーのすべては、明治三十五年五月五日付の「日本」にはじまって途中二回休載したのみで、死の前々日、九月十七日まで書き継がれる『病牀六尺』に投じられる。漱石とおなじく、子規も「読者」がいなくては書く気がしないのである。」(関川夏央、前掲書)


3月10日

セオドア・ルーズベルト米大統領、北部証券会社解体の告訴を指令。

3月10日

ロンドンの漱石


「三月十日(月)、この頃、極めて暖かく、木の芽吹く。永屋富雄から三月八日(土)または九日(日)に受け取った年賀状と問い合せに返事を出す。図書館に通い手当り次第に読み、自分の気に入ったものが見つかったならば、通読するが良いと教える。鏡宛手紙に、「倫さんの日記も筆の日記も面白かつ〔た〕からひまがあつたら又御つかはし可被成候」、「留學期も漸々縮少十一月位に出發帰國のつもり何れ來年始頃には帰着の事と存候」と書く。」(荒正人、前掲書)


3月10日 この日付けの漱石の妻、鏡子宛ての手紙。「筆の日記」に喜んでいる様子が窺える。


「倫さんの日記も、筆の日記も面白かつたから、ひまがあったら叉御つかはし可破成(なさるべく)候。倫さんは近頃大改良大奮発のよし、至極結構に存候。家の中に出入りしてへ-ヘーピヨコピヨコして居る者抔を柏手にして居てはいけない。・・・・・大丈夫の人格を備へて、叉智識より得たる大活眼を有する底の男にならなければ、人に向つて威張れない。よくよく細心に、今から其方向へ進行あらん事を希望します。

「其許(そこもと)もよく気をつけて、二女を養育あるぺく候。留学期も漸々縮少(ママ)、十一月位に出発帰国のつもり、何れ来年始頃には帰着の事と存候」


「筆の日記」とは;

「毎日床につく前になると、その日その日の日課のつもりで、一日起きてから寝るまでの筆の行動を書きますのです。勿論はなはだ面白くもないたあいのない記録で、朝起きてオバサンが何処へ連れて行つてくれたとか、こんなおいたをして遊んでゐたとか、泣いたとか笑つたとか歯がどうしたとか、風邪を引いたとか、そんな他人が見たら一向つまらないことを根気よく欠かさず書きました。それが一月もたつと相当にたまるので、ロンドンへ送つてやることにいたしたのです」(『漱石の思ひ出』 - 一四「筆の日記」)


漱石は、4月13日付鏡子宛ての手紙でも、「筆の日記は面白く存候。度々御つかはし可被成候」と書いている。「日記」は彼がロンドンを出発するまで続けられ、帰国したときの彼のスーツケースの中には、ひとまとめにした「筆の日記」が入っていた。


つづく

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