1902(明治35)年
5月1日
仏、ジョルジュ・メリエス製作の初のSF映画『月世界旅行』、公開。
5月2日
青森県黒石町で労働者大懇親会。労組設立が決議。
5月2日
二葉亭四迷、東京外国語学校教授辞職、この日、ハルビンに向って東京発。ウラジオストクに渡る。
6月.ハルピンに移る。
9月.北京に移る。ウラジオストクではエスペランティストと会い、ロシア・エスペランティスト協会員となる。
5月5日
子規、「病牀六尺」(127回、「日本」~9月17日)。9月19日没の直前まで続く。
「病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅に一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢(はか)なさ、其でも生きて居ればいいたい事はいいたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其さえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさわる事、たまには何となく嬉しくて為に病苦を忘るる様な事が無いでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして
○土佐の西の端に柏島といふ小さな島があつて二百戸の漁村に水産補習学校が一つある。教室が十二坪、事務所とも校長の寝室とも兼帯で三畳敷、実習所が五、六坪、経費が四百二十円、備品費が二十二円、消耗品費が十七円、生徒が六十五人、校長の月給が二十円、しかも四年間昇給なしの二十円ぢやさうな。そのほかには実習から得る利益があつて五銭の原料で二十銭の缶詰が出来る。生徒が網を結ぶと八十銭位の賃銀を得る。それらは皆郵便貯金にして置いて修学旅行でなけりや引出させないといふ事である。この小規模の学校がその道の人にはこの頃有名になつたさうぢやが、世の中の人は勿論知りはすまい。余はこの話を聞いて涙が出るほど嬉しかつた。我々に大きな国家の料理が出来んとならば、この水産学校へ這入(はい)つて松魚(かつお)を切つたり、烏賊(いか)を乾したり網を結んだりして斯様(かよう)な校長の下に教育せられたら楽しい事であらう。」(明治35年5月5日)
「五月五日付の「日本」紙上から子規が『病牀六尺』を載せるようになったのは、この心細さを打消すためであった。また拓川が外国に去り、自分ひとりが根岸の佗び住まいの病床に置き去られた淋しさを癒すためであった。子規に必要なのは、仕事であり読者であった。それが病床六尺を天地として、最後の生を生きる彼の唯一の拠りどころであった。
(略)
百二十七回までつづく『病牀六尺』の第一回の原稿が口述されたのは、拓川が旅立ったその日、五月三日であった。筆記者は虚子である。」(関川夏央、前掲書)
5月7日
この日の『病牀六尺』(三)
「○東京の牡丹(ぼたん)は多く上方かみがたから苗が来るので、寒牡丹(かんぼたん)だけは東京から上方の方へ輸出するのぢやさうな。このほかに義太夫(ぎだゆう)といふやつも上方から東京へ来るのが普通になつて居る。さうして東京の方を本もととして居るのは、常磐津(ときわず)、清元(きよもと)の類ひである。牡丹は花の中でも最も派手で最も美しいものであるのと同じやうに、義太夫はこれらの音曲おんぎょくのうちで最も派手で最も重々しいものである。して見ると美術上の重々しい派手な方の趣味は上方の方に発達して、淡泊な方の趣味は東京に発達して居るのであらうか、俳句でいふて見ても昔から京都の方が美しい重々しい方に傾いて、江戸の方は一ひねくりひねくつたやうなのが多い。蕪村(ぶそん)の句には牡丹の趣がある。闌更(らんこう)の句は力は足らんけれどもやはり牡丹のやうな処がある。梅室(ばいしつ)なども俗調ではあるが、松葉牡丹(まつばぼたん)位の趣味が存して居る。江戸の方は其角(きかく)嵐雪(らんせつ)の句でも白雄(しらお)一派の句でも仮令(たとい)いくらかの美しい処はあるにしても、多少の渋味を加へて居る処はどうしても寒牡丹にでも比較せねばなるまい。
(五月七日)」
5月7日
島村瀧太郎(抱月)、ロンドン着。漱石との交渉はない。
5月8日
台湾島民を日本国籍に編入。
5月8日
この日の『病牀六尺』(四)
「○西洋の古画の写真を見て居たらば、二百年前位に和蘭(オランダ)人の画いた風景画がある。これらは恐らくはこの時代にあつては珍しい材料であつたのであらう。日本では人物画こそ珍しけれ、風景画は極めて普通であるが、しかしそれも上古から風景画があつたわけではない。巨勢金岡(こせのかなおか)時代はいふまでもなく、それより後土佐画の起つた頃までも人間とか仏とかいふものを主として居つたのであるが、支那から禅僧などが来て仏教上に互に交通が始まつてから、支那の山水画なる者が輸入されて、それから日本にも山水画が流行したのである。
日本では山水画といふ名が示して居る如く、多くは山や水の大きな景色が画いてある。けれども西洋の方はそんなに馬鹿に広い景色を画かぬから、大木を主として画いた風景画が多い。それだから水を画いても川の一部分とか海の一部分とかを写す位な事で、山水画といふ名をあてはめることは出来ぬ。
西洋の風景画を見るのに、昔のは木を画けば大木の厳(いかめ)しいところが極めて綿密に写されて居る。それが近頃の風景画になると、木を画いても必ずしも大木の厳めしいところを画かないで、普通の木の若々しく柔かな趣味を軽快に写したのが多いやうに見える。堅い趣味から柔かい趣味に移り厳格な趣味から軽快な趣味に移つて行くのは今日の世界の大勢であつて、必ずしも画の上ばかりでなく、また必ずしも西洋ばかりに限つた事でもないやうである。
かつて文学の美を論じる時に、叙事、叙情、叙景の三種に別(わか)つて論じた事があつた。それを或人は攻撃して、西洋には叙事、叙情といふ事はあるが叙景といふ事はないといふたので、余は西洋の真似をしたのではないといふてその時に笑ふた事であつた。西洋には昔から風景画も風景詩も少いので、学者が審美的の議論をしても風景の上には一切説き及ぼさないのであるさうな。これは西洋人の見聞の狭いのに基いて居るのであるから先づ彼らの落度といはねばならぬ。
(五月八日)」
5月8日
カリブ海、仏領マルティニク島のサン・ピエール(モンプレー)、ペレー山の噴火によって壊滅。住民のほぼ全員が死亡(死者2万8千)。
5月9日
ロンドンの漱石
「五月九日(金)、鏡から手紙(四月四日(金)付)届く。」(荒正人、前掲書)
5月10日
この日の『病牀六尺』(五)
「○明治卅五年五月八日雨記事。
昨夜少しく睡眠を得て昨朝来の煩悶やや度を減ず、牛乳二杯を飲む。
九時麻痺剤を服す。
天岸医学士長州へ赴任のため暇乞(いとまごい)に来る。ついでに余の脈を見る。
碧梧桐(へきごとう)、茂枝子(しげえこ)早朝より看護のために来る。
鼠骨(そこつ)もまた来る。学士去る。
(略)
主客五人打ちよりて家計上のうちあけ話しあり、泣く、怒る、なだめる。この時窓外雨やみて風になりたるとおぼし。
十一時半また麻痺剤を服す。
碧梧桐夫婦帰る。時に十二時を過る事十五分。
余この頃精神激昂(げっこう)苦悶やまず。睡(ねむり)覚(さ)めたる時殊(こと)に甚だし。寐起を恐るるより従つて睡眠を恐れ従つて夜間の長きを恐る。碧梧桐らの帰る事遅きは余のために夜を短くしてくれるなり。
(五月十日)」
5月10日
独皇帝、限定付きでアルザス・ロレーヌの自治を認可。
5月10日
ポルトガル国庫破産。
つづく
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