1902(明治35)年
4月18日
東京市街鉄道(株)創立。
4月18日
フィンランド、兵役法反対の大衆スト。
4月19日
この日の、社会主義協会の大演説会。堺利彦、「不経済なる教育制度」という演目で演説。
4月20日
日本初の女子野球大会が開催。
4月20日
「加藤拓川がベルギー公使として赴任することが正式に決まったのは二月であった。出発は五月三日だという。旧友秋山真之、漱石ばかりではない。浅井忠、中村不折とつづき、今度は叔父拓川が洋行する。病床から一寸たりとも動けぬ自分を置いて、みなヨーロッパへ旅立つ。詮ないと承知のうえで、子規は悲しんだ。
拓川の旅立ちに子規が菓子に添えて贈った句は、つぎのようであった。
春惜む宿や日本の豆腐汁
思い起こせばちょうど七年前の明治二十八年初夏、あたかも空砲のごとくであった日清戦争従軍行からの帰途、船上で発病して神戸の病院にかつぎこまれた。それから須磨、漱石がいた松山で療養し、その年の秋上京して痛む腰をカリエスと診断された。いずれのときも周囲は死にもやせんと狼狽したのに、自分は死を思うことなどなく冷静であった。いまは逆だ。周囲は、さまで心配していない様子なのに、自分はしきりに死を思って心細い。
そんな子規が漏らした感想を、碧梧桐が明治三十五年四月二十日発行の「ホトトギス」(第五巻七号)の「消息」に書いた。」(関川夏央、前掲書)
4月20日
フィリピン軍司令官ザモラ、米軍に降伏。
4月21日
岡田嘉子、広島に誕生。
4月22日
海軍少佐広瀬武夫、戦艦「朝日」水雷長兼分隊長に着任。
4月24日
ロシア駐在武官田中義一少佐、ペテルブルク出発。6月30日、東京帰着。
4月25日
改正刑法、公布。明治41年10月1日施行。
4月26日
章炳麟ら、東京で「支那亡国二百四十二周年記念会」を開催、日本警察に阻止される。
4月27日
国民同盟会、露・清両国間の満州還付条約締結により目的を達成したとして解散。
4月27日
桂太郎らに爵位授与。日英同盟の勲功。
4月29日
米全国、無期限の中国人移民排斥法適用。
5月
島村抱月「新美辞学」(早稲田大学出版部)
5月
田中正造官吏侮辱事件。控訴院、有罪(重禁固1ヶ月10日・罰金5円)。上告。
6月12日、大審院は上告棄却、有罪確定。
6月16日~7月26日、巣鴨監獄(4度目の入獄)。獄中で新約聖書を読む。
5月
大杉栄(17)、1月早々上京、初め牛込矢来町に下宿。下宿に住んでいた東京専門学校(のちの早稲田大学)生らによる谷中村鉱毒反対運動のデモを見る。これがきっかけで、当時とっていた『万朝報』の谷中村事件の記事を注意深く読むようになり、広く社会問題に興味を持つようになる。
「僕が十八の年の五月頃だった。・・・まだ田舎から出たてのしかも学校の入学試験準備に夢中になって、世間のことなどほまるで知りもせず、また考えても見ない時代だった。僕は牛込の矢来町に下宿していた。ある寒い日の夕方、その下宿にいた五六人のW大学の学生が、どやどやと出て行く。そとにも大勢待っているらしくがやがやする音がする。障子をあけて見ると、例の房のついた四角な帽子をかぶった二十人ばかりの学生が、てんでに大きなのぼりみたいな旗だの高張提灯だのを引っかついで、わいわい騒いでいる。- みんなは大きな声で掛声をかけて、元気よく飛んで行った。その時『Y村鉱毒問題大演説会』と筆太に書いたのぼりの間に、やはり何か書きつけた高張りの赤い火影がゆらめいて行く光景と、みんなの姿が見えなくなってからもまだ暫く聞えて来るお一二、お一二の掛声とは、今もまだはっきりと僕の記憶に浮んで来る。これがY村(注・谷中村)という名を始めて僕の頭に刻みつけた出来事であった。」(「死灰の中から」)。
この牛込矢来町の時期に彼は母の死によって一度郷里にかえり、上京した後、友人登坂といっしょに本郷の壱岐坂下に部屋を借り、順天中学の編入試験を受け、やがて外国語学校に入った。
5月
宮沢賢治(6)、赤痢を病み、隔離病棟に入る。
5月
南方熊楠、再び那智へ帰る途中、田辺に立ち寄り湾内の神島に渡る。
6月初めより鉛山村(白浜)湯崎の湯治宿に滞在、
10月田辺に戻る。田辺の多屋家次女たかを知る。
12月上旬、田辺から串本に上陸、大島・潮岬などで採集などして那智に帰着。那智滞在中、昆虫・植物採集、顕微鏡標品・彩色図譜作り、またディキンズとの共訳「方丈記」草稿の完成、ディキンズ大著「日本古文篇」の校正、「ネイチャ-」「ノーツ・アンド・クィアリーズ」への寄稿を再び始め多くの論文を発表。また、在英時代の終わりに構想し、英文論考の一つの到達点を示「燕石考」を補筆・完成。
5月
子規「病牀苦話」(『ホトトギス』明治35年5月号)
「勿論寝て居ての仕事であるから一寸以上の線を思うやうに引くことさへ出来ぬので、其拙なさ加減は言ふ迄もないが、ただ絵具をなすりつけていろいろな色を出して見ることが非常に愉快なので、何か枕元に置けるような、小さな色の美しい材料があればよいがと思ふて、それ許(ばかり)探して居った。所が去年以来は苦痛が劇しく其上に身体が自由に動かんので殆ど絵をかくことも出来ず、よき材料があった時などは非常に不愉快を感じて居た。近頃になっては身体の動きのとれない事は段々甚しくなるが、稍(やや)局部の疼痛(とうつう)を感ずることが少くなったので、復(た)例の写生をして見やうかと思ひついてふとそこにあった蔓草(つるくさ)の花(この花の本名は知らぬが予の郷里では子供などがタチタテコンポと呼ぶ花である)を書いて見た。それは例の如く板の上に紙を張りつけて置いてモデルの花は其の板と共に手に持って居るので、其苦しいことはいふ迄もないが、麻痺剤を飲んで痛みが減じて居る時に殆ど仰向になって辛うじて書いて見たのである。二、三年前でさえ線がゆがんだり形が曲ったりとても自由には書けなかったものが、今となつては一層甚しいので、絵具を十分に調和するひまさえなく、少しの間に息せき息せき書いて仕舞ふたのであるから、其拙(つた)なないことはいぶ迄もない。けれども出来上って見ると巧拙に関らず何だか嬉しいので、翌日もまた麻痺剤の力をかりてそれに二、三輪の山吹と二輪の椿とを並べて書き漆へ、一枚の紙をとうとう書き塞げて仕舞ふた。さうして
赤椿黄色山吹紫ニムレテ咲ケルハタテタテノ花
という一首の歌を書き、其横に年月を書き、それで出来上った」(子規「病牀苦話」(『ホトトギス』明治35年5月号)
5月
(露暦5月)露、モスクワ、第1回ゼムストヴォ大会、25県52人。
5月
ロマン・ロラン(36)、高等市民講座の音楽史の講義を担当 (~11))。
5月
5月頃 ロンドンの漱石
「五月頃(小津次郎推定)、渡辺伝右衛門に誘われ、 Lyceum Theatre (ライシーアム劇場)のマチネーで、 Sir Henry Irving (ヘンリー・アーヴィシグ)と Ellen Terry (エレン・テリー)の演じる ""Merchant of Venice"" (『ヴェニスの商人』)を観る。夕食を終えて、 His Majesty's Theatre (ヒズ・マジェスティ劇場)で、 Beerbohm Tree (ビアバウム・トリー)の演じる Stephen Phillips (スティーヴン・フィリップス)作、ギリシア詩劇 ""Ulysses"" (『ユリシーズ』)を三階席で観る。」
「渡辺伝右衛門(春渓)「漱石先生のロンドン生活」では、『ヴェニスの商人』は、ヒズ・マジェスティー座、『ユリシーズ』は、へイ・マーケット座となっている。これは記憶違いである。へイ・マーケット座は、ヒズ・マジェスティー座の向い側にあるので錯覚を生じたらしい。(小津次郎調査)」(荒正人、前掲書)
つづく
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