2025年2月5日水曜日

大杉栄とその時代年表(397) 1902(明治35)年5月11日~18日 「○余ら関西に生れたるものの目を以て関東の田舎を見るに万事において関東の進歩遅きを見る。ただ関東の方著く勝れりと思ふもの二あり。曰く醤油。曰く味噌。 ○下総の名物は成田の不動、佐倉宗五郎、野田の亀甲萬(醤油)。」(子規『病牀六尺』)

 

『南岳文鳳手競画譜』より「十六番右」

大杉栄とその時代年表(396) 1902(明治35)年5月1日~10日 子規「病牀六尺」始る(127回、9月17日) 「病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。」(「病牀六尺」) より続く

1902(明治35)年

5月11日

仏、総選挙、急進派中心の共和派ブロック圧勝。

5月12日

大日本労働至誠会結成。夕張炭鉱、南助松・永岡鶴蔵ら。

5月12日

この日の『病牀六尺』(六)


「○今日は頭工合やや善し。虚子(きょし)と共に枕許(まくらもと)にある画帖をそれこれとなく引き出して見る。所感二つ三つ。

 余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりもむしろ花鳥を好み、複雑なる画よりもむしろ簡単なる画を好めり。今に至つてなほその傾向を変ぜず。それ故に画帖を見てもお姫様一人画きたるよりは椿(つばき)一輪画きたるかた興深く、張飛(ちょうひ)の蛇矛を携(たずさ)へたらんよりは柳に鶯(うぐいす)のとまりたらんかた快く感ぜらる。

 画に彩色あるは彩色なきより勝(まさ)れり。墨画(すみえ)ども多き画帖の中に彩色のはつきりしたる画を見出したらんは万緑叢中(ばんりょくそうちゅう)紅一点(こういってん)の趣あり。

 呉春(ごしゅん)はしやれたり、応挙(おうきょ)は真面目なり、余は応挙の真面目なるを愛す

『手競画譜(しゅきょうがふ)』を見る。南岳(なんがく)、文鳳(ぶんぽう)二人の画合せなり。南岳の画はいづれも人物のみを画き、文鳳は人物のほかに必ず多少の景色を帯ぶ。南岳の画は人物徒(いたずら)に多くして趣向なきものあり、文鳳の画は人物少くとも必ず多少の意匠あり、かつその形容の真に逼(せま)るを見る。もとより南岳と同日に論ずべきに非ず。

 或人の画に童子一人左手に傘の畳みたるを抱へ右の肩に一枝の梅を担(かつ)ぐ処を画けり。あるいはよそにて借りたる傘を返却するに際して梅の枝を添へて贈るにやあらん。もししからば画の簡単なる割合に趣向は非常に複雑せり。俳句的といはんか、謎(なぞ)的といはんか、しかもかくの如き画は稀(まれ)に見るところ。

 抱一(ほういつ)の画、濃艶(のうえん)愛すべしといへども、俳句に至つては拙劣(せつれつ)見るに堪へず。その濃艶なる画にその拙劣なる句の賛(さん)あるに至つては金殿に反古(ほご)張りの障子を見るが如く釣り合はぬ事甚だし。

『公長略画』なる書あり。纔(わずか)に一草一木を画きしかも出来得るだけ筆画を省略す。略画中の略画なり。而してこのうちいくばくの趣味あり、いくばくの趣向あり。蘆雪(ろせつ)らの筆縦横自在(じゅうおうじざい)なれどもかへつてこの趣致を存せざるが如し。あるいは余の性簡単を好み天然を好むに偏するに因(よ)るか。

(五月十二日)」


5月12日

米、ペンシルバニア州炭鉱労働者、賃上げ・労働組合承認求めストライキ突入(~10.13)。

10月16日、セオドア・ルーズベルト米大統領、調停委任命。21日終結。要求項目のうち、賃上げと9時間労働制は認められたが、組合は1916年まで認可されず。

5月12日

スウェーデンで普通選挙権を求めるゼネスト(~14日)。

5月13日

この日の『病牀六尺』(七)


「○左千夫(さちお)いふ柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は必ず肥えたる人にてありしならむ。その歌の大きくして逼(せま)らぬ処を見るに決して神経的痩(や)せギスの作とは思はれずと。節(たかし)いふ余は人麻呂は必ず痩せたる人にてありしならむと思ふ。その歌の悲壮なるを見て知るべしと。けだし左千夫は肥えたる人にして節は痩せたる人なり。他人のことも善き事は自分の身に引き比べて同じやうに思ひなすこと人の常なりと覚ゆ。かく言ひ争へる内左千夫はなほ自説を主張して必ずその肥えたる由を言へるに対して、節は人麻呂は痩せたる人に相違なけれどもその骨格に至りては強く逞(たくま)しき人ならむと思ふなりといふ。余はこれを聞きて思はず失笑せり。けだし節は肉落ち身痩(や)せたりといへども毎日サンダウの唖鈴(あれい)を振りて勉めて運動を為すがためにその骨格は発達して腕力は普通の人に勝りて強しとなむ。さればにや人麻呂をもまたかくの如き人ならむと己れに引き合せて想像したるなるべし。人間はどこまでも自己を標準として他に及ぼすものか。

○文晁(ぶんちょう)の絵は七福神(しちふくじん)如意宝珠(にょいほうしゅ)の如き趣向の俗なるものはいふまでもなく、山水または聖賢の像の如き絵を描けるにもなほ何処にか多少の俗気を含めり。崋山(かざん)に至りては女郎雲助の類をさへ描きてしかも筆端に一点の俗気を存せず。人品(じんぴん)の高かりしためにやあらむ。到底(とうてい)文晁輩の及ぶ所に非ず。

余ら関西に生れたるものの目を以て関東の田舎を見るに万事において関東の進歩遅きを見る。ただ関東の方著(いちじるし)く勝れりと思ふもの二あり。曰(いわ)く醤油。曰く味噌。

下総(しもうさ)の名物は成田の不動、佐倉宗五郎、野田の亀甲萬(きっこうまん)(醤油)

(五月十三日)」

5月14日

この日の『病牀六尺』(八)


「○名所を歌や句に詠むにはその名所の特色を発揮するを要す。故にいまだ見ざるの名所は歌や句に詠むべきにあらざれども、例せば富士山の如き極めて普通なる名所は、いまだこれを見ざるもあるいは人の語る所を聞き、あるいは人の書き記せる文章を読み、あるいは絵画写真に写せる所を見などして、その特色を知るに難(かた)からず。さはいへやはり実際を見たる後には今までの想像とは全く違ひたる点も少からざるべし。余いまだ芳野を見ず。かつ絵画文章の如きも詳しく写しこまかに叙したるものを知らず。今年或人の芳野紀行を読みていくばくの想像を逞(たくま)しうするを得て試みに俳句数首を作る。もし実地を踏みたる人の目より見ば、実際に遠き句にあらずんば、必ず平凡なる句や多からん。ただそれ無難なるは主観的の句のみならんか。

(略)

(五月十四日)」

5月14日

ロンドンの漱石


「五月十四日(水)、朝、鏡から下宿屋の女主人への贈物来る。ただちに女主人に手渡す。鏡宛手紙に、「五月に入りて若葉の時節なるにも関せず頗る冷気にてストーヴを焚く始末いやな所なり春になつても櫻はさかず物足らぬ心地なり」と書く。朝寝を注意する。恒子の写真まだ届かぬこと、第五高等学校のファーデルから時々手紙があると付け加える。」(荒正人、前掲書)


5月15日

子規編、碧梧桐・虚子共編『春夏秋冬』夏之部を俳書堂・文淵堂より刊行。漱石の俳句3句を収録。

5月15日

英・エチオピア協定締結。エチオピアはナイル川隣接地域の要求を断念。

5月17日

日本と韓国、馬山日本専管居留地取極書を調印。6月16日、外務省告示〔告〕

5月17日

スペイン、アルフォンソ13世(16歳)の親政開始。

5月18日

この日の『病牀六尺』(九)


「○余が病気保養のために須磨(すま)に居る時、「この上になほ憂(う)き事の積れかし限りある身の力ためさん」といふ誰やらの歌を手紙などに書いて独りあきらめて居つたのは善かつたが、今日から見るとそれは誠に病気の入口に過ぎないので、昨年来の苦しみは言語道断殆(ほとん)ど予想の外であつた。それが続いて今年もやうやう五月といふ月に這入(はい)つて来た時に、五月といふ月は君が病気のため厄月(やくづき)ではないかと或る友人に驚かされたけれど、否大丈夫である去年の五月は苦しめられて今年はひま年であるから、などとむしろ自分では気にかけないで居た。ところが五月に這入つてから頭の工合が相変らず善くないといふ位で毎日諸氏のかはるがはるの介抱(かいほう)に多少の苦しみは紛(まぎ)らしとつたが、五月七日といふ日に朝からの苦痛で頭が悪いのかどうだか知らぬが、とにかく今までに例のない事と思ふた。八日には少し善くて、その後また天気工合と共に少しは持ち合ふてゐたが十三日といふ日に未曾有(みぞう)の大苦痛を現じ、心臓の鼓動が始まつて呼吸の苦しさに泣いてもわめいても追つ附かず、どうやらかうやらその日は切抜けて十四日も先づ無事、ただしかも前日の反動で弱りに弱りて眠りに日を暮し、十五日の朝三十四度七分といふ体温は一向に上らず、それによりて起りし苦しさはとても前日の比にあらず、最早自分もあきらめて、その時あたかも牡丹の花生けの傍に置いてあつた石膏(せっこう)の肖像を取つてその裏に「自(みずから)題(だいす)。土一塊牡丹生けたるその下に。年月日」と自ら書きつけ、もしこのままに眠つたらこれが絶筆であるといはぬばかりの振舞、それも片腹痛く、午後は次第々々に苦しさを忘れ、今日はあたかも根岸の祭礼日なりと思ひ出したるを幸に、朝の景色に打つてかへて、豆腐の御馳走(ごちそう)に祝の盃(さかずき)を挙げたのは近頃不覚を取つたわけであるが、しかしそれも先づ先づ目出たいとして置いて、さて五月もまだこれから十五日あると思ふと、どう暮してよいやらさツぱりわからぬ。

○五月十五日は上根岸三島神社の祭礼であつてこの日は毎年の例によつて雨が降り出した。しかも豆腐汁木の芽あへの御馳走に一杯の葡萄酒を傾けたのはいつにない愉快であつたので、

(略)

(五月十八日)」


5月18日

「加藤拓川が出発して十六日目の五月十八日、加藤家で拓川の三男忠三郎が生まれた。後年、律の養子となって正岡家を継ぐ子である。拓川が男の子であったらと、あらかじめ決めておいた名前は忠三郎であった。拓川の幼名もまた忠三郎、名のりは恒忠であったが、新時代を生きる三男には名のりはなく、生涯を忠三郎としてすごすことになる。


雀の子忠三郎も二代かな


子規の祝句であった。」(関川夏央、前掲書)


つづく

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