2025年2月7日金曜日

大杉栄とその時代年表(399) 1902(明治35)年5月28日 幸徳秋水『兆民先生』拾い読み① 「描く所何物ぞ。伝記乎、伝記に非ず、評論乎、評論に非ず、弔辞乎、弔辞に非ず、惟だ予が曾て見たる所の先生のみ。予が今見つゝある所の先生のみ。予が無限の悲みのみ。予が無窮の恨みのみ。之を描きて豈に能く描き尽すと曰はんや。即ち児女の泣に代へて聊か追慕の情を遣るのみ。・・・・・」

 

幸徳秋水

大杉栄とその時代年表(398) 1902(明治35)年5月19日~25日 「この小提灯といふ事は常に余の心頭に留まつてどうしても忘れる事の出来ない事実であるが、さすがにこの道には経験多き古洲すらもなほ記憶してをるところを以て見ると、多少他に変つた趣が存してゐるのであらう。今は色気も艶気もなき病人が寐床の上の懺悔(ざんげ物語)として昔ののろけもまた一興であらう。」(子規『病牀六尺』) 「子規には珍しい恋の記憶である。」(井上泰至『評伝選 正岡子規』) より続く

1902(明治35)年

5月28日

内田康哉駐清公使、露清吉林省採鉱協定について抗議申し入れ。

5月28日

電柱広告が許可

5月28日

幸徳秋水『兆民先生』(博文館)。


〈堺利彦の書評;「兆民先生」を読む(堺利彦6月6日)〉


巻を掩うて瞑想すれば覚えず涙下る。是れ読書人が読書の際に於ける無上の満足である。予は秋水君の「兆民先生」を読んで確に此満足を感じた。秋水君に謝すべきか、兆民先生に謝すべきか。思ふに、予の感涙は、兆民先生と秋水君との交情に対して流れたのである。


此一小著(予は敢て一小著と云ふ)、固より広く兆民先生の人物才識の全幅を示すには足らぬ。只、兆民先生の胸の底なる深き井と秋水君の胸の底なる深き井と、幾条の水脈相通じて、交感融合して居る事を示す者である。「書柬」上下二章の如きは、殊に其水脈の滴々として見られるのである。予の涙も亦其滴々に融合せんと欲して流れたのであらう。


更に其水脈に趣きを添ふる者は、書中に写し出されたる小山久之助君である。兆民先生の心の井を中心として、幾多親戚友人の心の井が、其周囲に円を作つてあるべきが中に、秋水君と小山君とが一片の弧を作つて、先生と共に三角形を成して、互ひに交感流通して居る有様は、実に何とも云はれぬ床しさである。


人は秋水君を能文の士と云ふ。君も亦自ら「先生我れに誨ふるに文章を以す」と云ふ。謂ゆる能文の文の字と文章の文の字と、其意味が同じであらうか。予は此書を読んで秋水君の筆の才を認める暇が無かつた。予は秋水君が文筆の才人として称せらるるよりも、師友に対する忠厚惻怛の人として認められんことを希望する者である。


〈幸徳秋水『兆民先生』拾い読み〉


第一章 緒言


「描く所何物ぞ。伝記乎、伝記に非ず、評論乎、評論に非ず、弔辞乎、弔辞に非ず、惟だ予が曾て見たる所の先生のみ。予が今見つゝある所の先生のみ。予が無限の悲みのみ。予が無窮の恨みのみ。之を描きて豈に能く描き尽すと曰はんや。即ち児女の泣に代へて聊か追慕の情を遣るのみ。・・・・・」


第二章 少壮時代


先生年十三にして、(父の)卓介君卒す。家甚だ貧、而も母堂貞烈にして気胆あり、紡織自ら給し、其二児を訓誨する極めて厳、人皆な其賢を称せりと云ふ。予亦後年先生の家に在りて、親しく母堂の薫陶を受くるを得て、其真に先生の母たるに恥ぢざるの人なることを知れりき。」


先生十七八歳始めて洋学に志し、萩原三圭先生、細川潤次郎先生に就て和蘭の書を学び、慶応元年十九歳にして、高知藩留学生となり、長崎に游び、平井義十郎先生に就て、始めて仏蘭西手を脩めたり。


当時長崎の地は、独り西欧文明の中心として、書生の留学する者多きのみならず、故坂本龍馬君等の組織する所の海援隊、亦運動の根拠を此地に置き、土佐藩士の来往極めて頻繁なりき。先生曾て坂本君の状を述べて曰く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの方言もて、「中江のニイさん煙艸を買ふて来てオーセ、」などと命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々なりき。彼の眼は細くして其額は梅毒の為め抜上がり居たりきと。」

「居ること二歳、先生学大に進む、即ち去りて江戸に游ぶの意あり。当時長崎より江戸に来往する外国飛御船の船賃実に二十五両を要す。即ち同藩の先輩岩崎弥太郎君に向つて志を言ふ。岩崎君依違して許さず、曰く少らく待てと。其迫ること屡々なるに及んで、断然之を排して曰く、二十五両は巨額也、一書生の為に投ず可けんやと。先生亦怫然として曰く、如此くんば決して再び請はず、然れども僕の一身果して二十五両を値ひせざるや否や、之を他日に見よと。袂を払ふて去れり。蓋し当時土佐藩留学生は岩崎君監督の下に在りし也


時恰も故後藤象二郎君の、藩命を以て来り、汽船を購入するに会す。先生即ち往て謁し、一絶を賦して献ず。其前二句は今之を忘る、転結は即ち云ふ、「此身合称諸生否、終歳不登花月楼」。後藤君笑つて二十五両を出して与ふ、先生大に喜び、直ちに外国船に搭じて江戸に出づ。」


村上英俊先生は、日本に於ける仏蘭西学の泰斗と称せらる。当時塾を深川真田邸内に開く。先生即ち往て贄を執れり。然れども先生学術既に儕輩に抜き、眼中人なく、気を負ふて放縦覊す可らず。屡々深川の娼楼、所謂仮宅に留連し、遂に村上先生の破門する所となれり。村上先生の晩年病で落魄するや、先生旧時の師恩を思ひ、慰問怠らざりしと云ふ。


先生村上塾を去て、横浜天主堂の僧に従て学び、神戸大坂開港の時、仏国領事に従ふて大坂に游ぶ。幾くもなく伏水の役あり、王政維新となるや、箕作麟祥先生江戸に出で、裏神保町に私塾を開くに会す。先生即ち又江戸に来り、箕作先生の門弟となる。其箕作塾に在るや、一時大学南校の助教たりしこと有り。後ち明治二年(?)福地源一郎先生湯島に日新社を設くるや、先生其塾頭となれり。」

「先生久しく外遊の志を抱き、故大久保利通公に謁して請ふ所あらんとす。・・・・・公莞爾として曰く、足下土佐人也、何ぞ之を土佐出身の諸先輩に乞はざる。先生曰く、同郷の夤縁情実を利するは、予の潔しとせざる所也、是れ将に来つて閣下に求むる所以也と。公曰く、善し、近日後藤、板垣諸君に諮りて決す可しと。後藤、板垣二君亦為めに斡旋する所あり、幾くもなく司法省出仕に任じ、仏蘭西留学を命ぜらる。時に明治四年、先生歳二十五。


「先生が仏国に於ける交遊は、西国寺公望侯、・・・・・の諸君なりしと云ふ。・・・・・。


先生、明治七年二十八歳にして帰朝し、元老院書記官となる。大井憲太郎、嶋田三郎、司馬盈之の諸君と倶なりき。而して元老院幹事故陸奥宗光君と善からずして罷め、次で外国語学校長となり、又幾くならずして罷む。先是先生自ら仏学塾を番町に起し、政治、法律、歴史、哲学の書を講じ、四方の子弟来り学ぶ者、前後二千余人に及ぶ。


然れども先生は、竟に尋句摘草の儒生に甘んずる能はざりき。先生が少時より漢学の為めに養はれたる治国平天下の志業は、其勃々たる野心を駆れり。其洋学の為めに養はれたる自由平等の理想は其炎々たる熱血を煽れり。薩長藩閥が専制抑圧の暴威を逞しくするの時代に在て、先生は実に一個革命の鼓吹者たらざる能はざりき。

第三章 革命の鼓吹者


「如此にして、先生は革命思想の鼓吹者となれり、「政理叢談」は発行せられたり、ルーソーの「民約」は翻訳せられたり、仏学塾は民権論の源泉となれり、一種政治的倶楽部となれり、而して偵吏物色の焼点となれり。次で西国寺侯の東洋自由新聞起り、自由党起り、板垣君の自由新聞起るや、先生皆な之に与かり、熾んに自由平等の説を唱へて専擅制度を掊撃したりき。


而して先生は、独り革命思想の鼓吹者たるのみならず、更に革命の策士、断行者たらんとし、或は九州の地に漫遊して、交を志士に結び或は東洋学館を起して支那に為すあらんとし、運動怠らざりしものの如し。而して屡々困頓し、蹉跎し、満腔の不平遣るに所なく、竟に酒を被り世を罵つて、放縦度なきに至れり。」


つづく

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