2014年1月24日金曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(90) 「第10章 鎖につながれた民主主義の誕生 -南アフリカの束縛された自由-」(その6) 「自由な社会になってから10年近くも経つ今日も、荒れ果てたゲットーで目覚める黒人がいるのはなぜなのか、説明できますか?」(デズモンド・ツツ大主教)

江戸城(皇居)東御苑 カンザクラ 2014-01-22
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ムベキはマンデラに、過去ときっぱり縁を切ることが必要だと説得した
 とは言うものの、ANCにはいまだにラディカルな過去の記憶がつきまとい、新政権がソフト路線を強調したにもかかわらず、市場は南アに手痛いショックを与え続けた。
1996年には僅か1ヶ月でランドは20%も下落し、不安にかられた富裕層が資産を海外に移動しため、資本の海外流出も相変わらず続いた。
ムベキはマンデラに、過去ときっぱり縁を切ることが必要だと説得した。
ANCにはまったく新しい経済計画が必要だ。大胆かつ衝撃的な計画、すなわち市場が理解できるような脈絡に沿って、ANCはワシントン・コンセンサスを受け入れる心づもりがあることを伝えるような計画が必要なのだ、と。

秘密裏に作成された新経済計画
 ショック療法に基づくプログラムが軍事作戦さながら秘密裏に作成されたボリビアの場合と同じく、南アにおいても新経済計画(1994年選挙でのANCの公約とはまったく異なるもの)の作成が進行中であることを知っていたのは、ごく少数のムベキの側近だけだった。
チームのメンバーは「全員、秘密を守ることを誓約し、左派がムベキの計画を嗅ぎつけることのないよう、策定の全プロセスは極秘のうちに進められた」とグミードは書いている。
新経済計画の策定に加わった経済学者のスティーヴン・ゲルブは、「これは猛烈なまでの「上からの改革」であり、政策立案者を民衆の圧力から隔離し、その独立性を守るという考えを極端に推し進めるものだった」と述懐している
(ANCがこのように秘密と隔離を重視したことは、アパルトヘイトの圧政下で同党がきわめてオープンな参加型のプロセスによって自由憲章を作り上げたことを考えると、大いなる皮肉である。今やANCは新しい民主主義秩序のもと、党員にさえ知らせずに経済計画を作成しようとしたのである)。

新自由主義的ショック療法プログラム
 1996年6月、ムベキはついに計画を明らかにする。
それは民営化の推進、財政支出の削減、労働市場の「柔軟性」拡大、貿易のさらなる自由化、そして資金循環に対する規制の撤廃などを盛り込んだ、南アにとっての新自由主義的ショック療法プログラムにほかならなかった。
ゲルブによれば、その最大の目的は「政府(とりわけANC)が現在の主流の正統理論に与していることを潜在的投資家に伝えることにあった」。
このメッセージがニューヨークやロンドンのトレーダーの耳にしっかり届くよう、ムベキはこの計画を公表した際にこう付け加えた。
「私をサッチャー主義者と呼んでください」

ショック療法とは常に大きな賭けであり、南アにおける賭けは失敗に終わった
 ショック療法とは原理的に、常に市場のパフォーマンスそのものだと言っていい。
株式市場は、大げさな宣伝を伴う、多分に人為的に操作された瞬間(このとき株価は急騰する)を大歓迎する。
こうした瞬間は通常、新規株式公開や大型合併、あるいは有名人のCEO就任などといった出来事をきっかけにもたらされる。
一国の政府に包括的なショック療法パッケージを発表するよう経済学者が助言する理由のひとつは、このような劇的な市場イベントに類似した状況を作り出し、それによって市場の熱狂を引き起こそうという目論見にある。
しかもその目的はひとつの企業の株を売るのではなく、ひとつの国を丸ごと売ること - 「アルゼンチンの株をすべて買え!」「ボリビアの債券をすべて買え!」という反応を起こすことなのだ。
他方、もっと穏やかで憤重なやり方を取った場合には、こうした市場の過剰反応バブルを引き起こして大儲けすることはできない。
ショック療法とは常に大きな賭けであり、南アにおける賭けは失敗に終わった。
ムベキの大げさなジェスチャーは、長期的な投資を呼び込むことはできなかった。
短期的な投機だけが集中した結果、南ア通貨はさらに下落することになった。

真実和解委員会の見過ごしたもの
 「新たに改宗した者というのは、そんなもんですよ。相手を喜ばせようと躍起になるのです」(体制移行期の回想録の著者であるダーバン在住の作家アシュウィン・デサイ)。

解放闘争のさなかに獄中生活を送ったデサイは、囚人の心理と政権に就いたANCの行動との間に共通点があるという。
獄中では、「看守に気に入られれば、その分待遇が良くなるでしょう。これと同じ論理が南アが取った行動の一部に明らかに見て取れる」と彼は言う。
「自分たちは他の囚人よりも行ないがいいということを示そうと一生懸命だったのです。他の国より自分たちのほうがずっと規律正しいのだ、と」

 しかし実際には、ANCの支持母体は明らかに規律に欠けていたため、厳しく自制しなければという空気が生まれた。
南アの真実和解委員会で陪審員を務めたヤスミン・スーカによれば、この「自らを律する」メンタリティが体制移行期のあらゆる側面に浸透しており、それは正義の追求という側面にまで及んだのだという。
同委員会は拷問や殺人、誘拐に関する証言を何年もかけて聴取したあと、こうした不正の数々を修復するために何が必要かという問題に取り組んだ。
真実を明らかにし、罪を赦すことも重要だが、犠牲者やその家族に対する賠償も重要なはずである。
しかし、新政権にこの賠償金の支払いを求めるのは理にかなわない。新政権にはなんの責任もないことだし、予算のなかからアパルトヘイト時代の人権侵害に対する賠償金を出せば、その分貧困層のための住宅や学校の建設にあてられる資金がなくなってしまう。

 委員のなかには、アパルトヘイト体制により利益を得た多国籍企業こそ、賠償金を支払うべきだという考えの者もいた。
結局、真実和解委員会は一回限りの法人税(委員会はこれを「連帯税」と名づけた)1%を企業に課し、これを犠牲者への賠償金にあてるという控え目な提言を行なった。

ムベキ政権は、市場に反企業的メッセージを送ってしまうことを恐れた
スーカはANCが当然この提言に同意すると考えていたが、ムベキ政権は企業に人権侵害の賠償を求めることをいっさい拒否した。それによって、市場に反企業的メッセージを送ってしまうことを恐れた。

「大統領は企業に責任を問うことはしないと心に決めていた。それ以外の選択はありえなかったのです」とスーカは話した。
こうして政府は、求められていた賠償額の一部にあたる額を自らの予算から出すという、委員会が恐れていた結果になってしまったのである。

 南アの真実和解委員会はしばしば「平和構築」の成功例として取り上げられ、スリランカからアフガニスタンに至る他の紛争地域でもモデルとして採用されている。
だが、このプロセスに直接関わった人々のなかには、複雑な思いを抱く者も少なくない。

「自由な社会になってから10年近くも経つ今日も、荒れ果てたゲットーで目覚める黒人がいるのはなぜなのか、説明できますか?」
2003年3月、最終報告書を発表するにあたって、同委員会の委員長デズモンド・ツツ大主教は記者団に、自由は実現しても未完の仕事が残っている事実を突きつけた。
「自由な社会になってから10年近くも経つ今日も、荒れ果てたゲットーで目覚める黒人がいるのはなぜなのか、説明できますか? そして彼が働きに行く街に住むのはほとんどが白人、しかも彼らは豪邸に住んでいる。1日が終わると、彼はまた薄汚れた家に帰ってくる。なぜ人々はこう言わないのでしょうか。「平和なんてクソ食らえ。ツツと真実委員会なんてクソ食らえ」と」

人権侵害によって利益を得た経済システムについては「完全に不問に付した」のだ
 現在は南アの人権基金の理事長の座にあるスーカは、こう指摘する。
真実和解委員会の聴問は「拷問や虐待、誘拐などアパルトヘイト体制の外面に現れたさまざまな事態」の解明には取り組んだものの、そうした人権侵害によって利益を得た経済システムについては「完全に不問に付した」のだ、と。

このことは、30年前にオルランド・レテリエルが指摘した「人権活動家」の盲点と重なる。
もしもう一度やり直すことができるのなら、「まったく違うやり方で対応すると思う」とスーカは言う。
「アパルトヘイトを支えたシステムに注目して、土地の問題、そして多国籍企業や鉱業の果たした役割について念入りに調査したい。なぜならそれこそが南アの病理の根源だからです。(中略)アパルトヘイト政策が及ぼした組織的影響こそを追及したい。拷問については一回の聴聞だけで十分。なぜなら拷問そのものだけに注目して、それが誰を利していたのかを見過ごせば、真実の歴史を歪めてしまうことになるからです」

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