2025年1月12日日曜日

大杉栄とその時代年表(373) 1901(明治34)年11月01日~19日 子規の漱石への最後の手紙 「僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテイルヨウナ次第ダ、(略) モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)。(略)僕ハ迚モ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。」  

 

潮田千勢子

大杉栄とその時代年表(372) 1901(明治34)年10月23日~29日 「明日ハ余ノ誕生日ニアタル(旧暦九月十七日)ヲ今日ニ繰リ上ゲ昼飯ニ岡野ノ料理二人前ヲ取り寄セ家内三人ニテ食フ。コレハ例ノ財布ノ中ヨリ出タル者ニテイサゝカ平生看護ノ労ニ酬イントスルナリ。蓋シ亦余ノ誕生日ノ祝ヒヲサメナルベシ。」 (子規『仰臥漫録』)

1901(明治34)年

11月

『音楽之友』創刊。

11月

国木田独歩「牛肉と馬鈴薯」(「小天地」)

11月

米における公債発行交渉不成立に終わる。

11月

岐阜県郡上郡八幡町の小学校で、生徒の経文習読の慣行を差し止めたため、僧侶との間で争議が発生。

11月3日

東清(東支)鉄道(満州里~ハルビン)とその南満支線、開通。

11月4日

伊藤博文、パリ到着。

11日、桂首相から、日英交渉が進捗しているため、暫くパリ滞在を要望。

14日、日英同盟交渉中の駐英林董公使より日英交渉が順調であることの説明するが、伊藤は韓国問題解決は日露交渉によるべきと強調。

11月5日

海音寺潮五郎、誕生。

11月6日

この日付け、子規の漱石宛て手紙。

子規は、漱石に「モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ」と書き送るた。これが子規の漱石宛の最後の手紙となる。


(11月6日(水) 下谷区上根岸町82番地 正岡常規より 在倫敦 夏目金之助へ)


 僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテイルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往ッタヨウナ気ニナツテ愉快デタマラヌ。モシ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテイル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)

 画ハガキモ慥(たしか)二受取夕。倫敦ノ焼芋ノ味ハドンナ力聞キタイ。

 不折ハ今巴理ニ居テコーランノ処へ通ウテ居ルソウジャ。君ニ逢ウタラ鰹節一本贈ルサドトイウテ居タガモーソンナ者ハ食ウテシマッチアルマィ。

 虚子ハ男子ヲ拳ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤッタ。

 錬卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマック。

 僕ハ迚モ君ニ再会スルコトハ出来ヌト思ウ。万一出来タシテモソノ時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来(こはくいわくきたれと)」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。

 書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。

しかし下宿に閉じ籠り、「神経衰弱と狂気」に陥る程に「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題」と格闘する漱石は、子規に宛てて、さらなる「倫敦消息」を書き送ることは出来なかった。子規の願いを聞き届けることができなかったという思いは、漱石に深い後悔をもたらした。漱石は、帰国後、倫敦での自転車稽古の顛末を記した「自転車日記」(『ホトトギス』第6巻第10号)を執筆する。それは果たすことのできなかった子規への「今一便」であったのかもしれない。


小宮豊隆は小説家・夏目漱石が誕生する機縁を作ったのは子規だとし、次のように述べている。


 漱石は子規にせがまれて、『ホトトギス』に『倫敦消息』を書いた。漱石がロンドンから帰って来た時には、子規は既に死んでいたが、当時子規の後継者として『ホトトギス』を経営していた高浜虚子は、漱石にせがんで、漱石に『自転車日記』を書かせ、『幻影の盾』を書かせ、『坊つちやん』を書かせた。さうして漱石は、竟に教壇を去って、純粋な作家になった。(中略)子規は作家漱石を作り上げる上に、なくてはならない重要な人物であつたと言つても、決して過言ではなかつたのである。―勿論子規がなくても、漱石の内なる宝庫は、何等かの機縁に触発されて、その全貌を示し得たには違ひなかつた。然し若し子規がなかつたら、漱石は或は、学者としてのみ、その一生を過ごしてゐたのかも知れなかつた。その意味では、漱石と子規との交際は、作家漱石にとつては、殆んど運命的 なものであつたと言つて可いのである。

(小宮豊隆「『木屑録』解説」)

11月6日

英外相ランスダウン、日英同盟草案を林董駐英公使に手交。

11月7日

李鴻章、没(1823年2月15日生まれ)。清露交渉停頓。袁世凱、直隷総督兼北洋大臣に就任。

11月7日

日清間の重慶日本専管居留地取極書(9月24日調印)告示。

11月8日

小村寿太郎外相、露に満州撤兵を勧告すべき旨、ロシア公使に訓令。駐ロシア公使に栗野慎一郎任命(スウェーデン・ノルウェー兼任)。

11月9日

ペルシア、ロシアとの新通商条約に調印。

11月11日

明治34年文部省令第十五号「直轄学校外国人特別入学規程」発布

1901年、清国は義和団事変で8ヵ国連合軍に敗北し富国強兵の必要を強く感じ、留学生制度を再開。派遣先として近代国家・日本が定められる。日本は同じアジアの国で欧米諸国ほど文化的差異がなく、漢字も共通している。おまけに軍人教育も受け入れるという。

11月14日

板垣退助が中江兆民を見舞う。板垣は無葬式の遺言を実行することを兆民に約束。

11月15日

韓国、米穀輸出禁止解除。

11月16日

日本基督教婦人矯風会の矢島楫子・朽木よし子・島田のぶ子・潮田千勢子ら4人と毎日新聞松本英子、足尾鉱毒現地調査出発。木下尚江の勧め。3日間。

松本英子ルポルタージュ「鉱毒地の惨状」。「何ぞ速に渡良瀬河畔無告の同胞を救はざる。・・・看よ三十万、瀕死の民・・・」

11月18日

官営八幡製鉄所、開業式。本格的な製鉄・鋼鉄の一貫製鉄所。「鉄は工業の母、護国の基礎」。

11月18日

米英間、第2次ヘイ・ポーンスフト条約調印。米はパナマ運河の単独開設・管理権獲得、英は運河の権利放棄。

11月18日

ゴーギャン(53)、マルケサス諸島ヒヴァ・オア島、愛人のマリー・ローズ・ヴァエオホと内縁関係を結ぶ。 

11月19日

大杉栄(16)、夕食後に上級生に欠礼のあった下級生(2年生)を殴打。石川県出身の3年生から抗議を受け、愛知県人と石川県人の間で激論。

翌20日の夕食後、再び愛知県人と石川県人の口論となり格闘。ナイフを所持していた3年生の菅谷竜平から後頭部など2ヶ所を刺される。


つづく

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