2024年1月6日土曜日

大杉栄とその時代年表(1) 1885(明治18)年 1月 大学予備門に在学している紅葉、漱石、子規、熊楠(18歳) 武相困民党解散 大杉栄が丸亀市に生れる  附【年表INDEX(更新中)】

大杉栄とその時代年表

大杉栄が生きた時代(1885(明治18)年1月17日~1923(大正12)年9月16日)を年表で辿る。

この年表では、ところどころで、同行・伴走する以下の人物が登場します。それらの人物の、大杉栄が生まれた1885(明治18)年時点での年齢は以下の通り。

永井荷風(6歳)、樋口一葉(12歳)、幸徳秋水(15歳)、「七人の旋毛曲り」(18歳)夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、斎藤緑雨

尚、この1885年の前年(明治17年)11月9日には、秩父困民党軍が馬流の戦いで海ノ口に敗走し、野辺山原において解体する、そんな時代でした。

(参考)

★秩父蜂起インデックス 秩父蜂起に関する記事一覧


1885(明治18)年

1月

漱石(18)は我儘だけれど傑物だとの評判


「一月(推定) (月日不詳)、塩原昌之助に予め通知して昌之助・かつ、女中・婆やたちに外出してもらい、すき焼の材料をとり揃えて、用意だけして貰う。午後三時から、友人二、三人を連れて、すき焼を食べに行く。夜、昌之助とかつが婦ると、食べ散らかしたままになっていたのであきれる。金之助は、我儘だけれども傑物だという評判が立ち、昌之助・かつは喜ぶ。直克のほうでは、金之助を養子にやらなかったほうがよがったと残念に思い始める。(関荘一郎)」(荒正人『漱石研究年表』)


〈この時、漱石、大学予備門に在籍中〉

前年(明治17年)9月11日 漱石、子規、大学予備門(明治19年4月に第一高等中学校と改称)予科に入学。校長杉浦重剛、授業料1学期2円。同級に中村是公、橋本左五郎、芳賀矢一、山田美妙、菊地謙二郎、南方熊楠。


「首尾よく予備門に合格した。その入試のとき、彼は数学の問題だけは隣の人の答案を見て書いたと語っている(「一貫したる不勉強」)。隣の人とは成立学舎で一緒で、のちに札幌農学校(北海道大学の前身)教授となる橋本左五郎である。橋本は皮肉にもこの試験に落ち、再試験で合格はしたが、結局札幌農学校に行った。橋本とはのちに満州で出会い、旧交をあたためることとなる(『満韓ところどころ』)。金之助の「カンニング」を、橋本は自分が紙を机一杯に拡げでいたので、偶然見えたのだろうと回想している。」(岩波新書『夏目漱石』)


「橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りて一所に自炊をしてゐた事がある。其時は間代を払つて、隔日に牛肉を食つて、一等米を焚いて、夫で月々二円で済んだ。尤も牛肉は大きな鍋へ汁を一杯拵(こしら)へて、其中に浮かして食つた。十銭の牛を七人で食ふのだから、斯うしなければ食ひ様がなかったのである。飯は釜から杓つて食った。高い二階へ大きな釜を揚げるのは難義であった。余は此処で橋本と一所に予備門へ這入る準備をした。橋本は余よりも英語や数学に於て先輩であった。入学試験のとき代数が六づかしくつて途方に暮れたから、そつと隣席の橋本から教へて貰って、其御蔭でやつと入学した。所が教へた方の橋本は見事に落第した。」(『満韓ところどころ』)


「予備門では柴野(のち養子になり中村)是公や、芳賀矢一(一緒の船でヨーロッパへ留学)らと親しくなった。特に是公は、太田達人とともに生涯の親友で、後に南満洲鉄道(満鉄)総裁として名士となった。太田は成立学舎以来の友人で、東大物理学科を卒業後、地方の中学校長を歴任したので、是公のように華やかな経歴は持たないが、温厚篤実で、金之助とは気が合ったらしい。」(岩波新書『夏目漱石』)


「七人男たちの内で、大学予備門に進学したのは、紅葉、漱石、子規、熊楠の四人である。

紅葉だけが一足早く明治十六年九月。他の三人は、翌十七年の九月のことである。

このあたりになると、徐々に、七人男たちの、人生の、歩み方や生き方の違いが見えはじめてくる。大学予備門への進学が、その一つの大きな別れ道となる。ただし大学予備門に進学した四人も、ふつうのエリートとしての道を歩もうとはしなかった。四人の中で、大学予備門(在学中に第一高等中学校と名称変更)、そして帝国大学という学習コースをまっとうできたのは夏目漱石一人だけだった。」(『七人の旋毛曲り』)


〈予備門時代の漱石、子規、熊楠、紅葉、美妙〉


「山田美妙斎とは同級だったが、格別心易うもしなかった。正岡とは其時分から友人になった。一緒に俳句もやった。正岡は僕よりももつと変人で、いつも気に入らぬ奴とは一語も話さない。孤峭な面白い男だった。どうした拍子か僕が正岡の気に入つたと見えて、打ち解けて交るやうになった。上級では川上眉山、石橋思案、尾崎紅葉などがゐた。紅葉はあまり学校の方は出来のよくない男で、交際も自分とはしなかつた。それから暫くすると紅葉の小説が名高くなり出した。僕は其頃は小説を書かうなんどとは夢にも思つてゐなかつたが、なあに己だつてあれ位のものはすぐ書けるよといふ調子だった。」(漱石「僕の昔」)


笠井清『南方熊楠』には、美妙に対する熊楠の追慕の一文が引用されていて、その中で熊楠は美妙のことを「美妙斎と称せし名にそむかず白皙紅顔の人なりき」と回想している。


「ある時何かの試験の時に余の隣に居た人は答案を英文で書いて居たのを見た。勿論英文なんかで書かなくても善いのをその人は自分の勝手ですらすらと書いて居るのだから余は驚いた。この様子では余の英語の力は他の同級生とどれだけ違ふか分らぬのでいよいよ心細くなった。この人はその後間もなく美妙斎として世に名のつて出た。」(子規『墨汁一滴』)


12月(第一学期)の成績表(『漱石全集』月報、第十号、岩波書店、一九三六年八月)によれば漱石は塩原金之助の名で第四級(奨学生徒)に出ている。その成績表の表題は「明治一七年一二月(第一学期)東京大学予備門前本学第一、二、三級、及び第四級生徒試業優劣表」となっている。それによると平均点七三点で一一七人中二二番から順に漱石、芳賀矢一(国文学者)、小城齊(ひとし)と続いている。数学においては、小城は級のほぼ最上位を占めているが、彼の六女川瀬増子の記憶では、学生時代、夏目君から英語を習い、自分は数学を教えた、という話を父からよく聞かされたのを覚えているという。


1月6日

「秘聞録」の続編「傑士烈女魯国虚無党列伝」(「自由新聞」)

1月8日

この日付け子規(18)の竹村鍛宛ての手紙に子規の最も古い俳句がある。


「雪ふりや棟の白猫声ばかり」


1月9日

立木兼善仲裁により横浜の名望家海老塚四郎兵衛に伴われ武相困民党須長漣造・若林高之助(26)・佐藤昇之輔(18)・金子邦重、県庁に出頭。翌10日、県令邸に招かれ、解党申付けられる(県令邸には原田東馬も同席)。

須長漣造:

嘉永5(1852)年生。明治5年谷野一村戸長(20)。12年谷野など4ヶ村戸長。17年6月新聨合村制度により、隣村留所村の青木鎮郷に戸長職が移り、戸長辞任(32)。12年田畑・山林・宅地20町歩の豪農(自営農型)。19年には八王子不在地主の小作人に転落。23年前自由党幹部・東海貯蓄銀行頭取成内頴一郎と前自由党員・武蔵野銀行副頭取鈴木芳良の小作人(困民党と自由党のアイロニーが象徴される)。12年頃から武蔵野銀行など十数の債主と金融取引。15年は5度に分けて594円の借入れ(営業・納税資金、村民の滞納税立替など)。17年村の6割が税滞納か高利貸・銀行の追及を受ける状況。

1月14日には、相模原大沼新田に農民終結後県庁へデモ。原町田村漆谷付近で警官と衝突。首謀者、凶徒嘯衆罪逮捕。武相困民党解散

総監督中島小太郎、若林高之助、佐藤昇之輔、金子邦重、渋谷雅治郎、石井浅次郎らが拘引。須長漣造は2月に逮捕、18年7月横浜軽罪裁判所で無罪判決、出獄。須長は出獄後も村に残り、「年賦党ノ跡片付」のため債主との交渉継続。若林・佐藤は横浜で開業(佐藤は金貸・銀行を営む)。須長はやがて行商人となり九州~四国~北陸と歩き続ける。

権力側は若林らの動きを十分察知し(細野らの内報により)徐々に追詰め、一方で下部大衆を煽動し(その時点で、幹部は大衆から浮き上がる)、暴発一歩前で幹部逮捕、組織壊滅を図る?

2月17日、武相困民党、9・5事件判決。塩野倉之助・小池吉教、軽懲役6年など215名全員有罪。自由党広徳館の代言人小林幸二郎は公判で小池の弁護を担当。1審後は塩野のために「上告趣意書」を起草。自由党員細野喜代四郎ら仲裁人は負債党鎮撫に協力したとして神奈川県令沖守固より感謝状・記念品貰う。


1月9日

漢城条約調印(明治十七年京城暴徒事変ニ関スル日韓善後約定)。特派全権大使井上馨、金弘集全権と甲申事変善後処理。朝鮮政府は国書により日本に謝罪。死傷者に賠償金11万円支払・犯人処罰・日本公使館再建を約束。同日付けで竹添公使召喚。

井上は、近藤真鋤駐朝臨時代理公使宛て機密文書で、竹添公使の不当な行動、壬午軍乱後の政府の開化派支援策が事件の一因となったことを認め、交渉で事実究明を行ったならば「我行為の不是を表証するに均」しく、「我公使の体面を損し、主客其地位を顚倒」するおそれがあるので、朝鮮政府に対する「要求を寛減」するとともに「我公使(竹添)の凶党に関係を有せざる事実を表明」することにつとめた、と述べる。

1月10日

「東京横浜毎日新聞」、脱亜的条約改正論を批判。「清韓ニ対シテ得ルノ栄誉ハ亜細亜ノ一方ニ局スル者ニシテ世界ニ共認セラルゝノ栄誉ニ非ルナリ」と。しかし、大勢は脱亜的条約改正の方向に向っている。

1月17日

静岡県農民騒擾。1883年冬から騒動があいつぎ、この年2月駿東・君沢両部60ヶ村の借金党の農民1500人が伊豆銀行などに押しかける。3月4郡85ヶ村で借金党が成立するが、4月以後衰微。

1月17日

大杉栄、香川県丸亀市に生れる。大杉東(あずま)、豊(とよ)の長男。(戸籍は5月17日)

父は愛知県東海郡大字宇治の出身、旧家の三男で、志願兵となって兵卒から将校に進んだ篤実努力の人。栄の誕生の時は丸亀連隊の少尉。


つづく


【年表INDEX】

大杉栄とその時代年表(2) 1885(明治18)年 1月~3月 北原白秋が柳川に生れる 尾崎紅葉(18)が山田美妙・石橋思案らと硯友社結成 漱石と太田達人との交流 福沢諭吉「脱亜論」発表(「時事新報」)

大杉栄とその時代年表(3) 1885(明治18)年 4月~5月 中里介山・宮崎郁雨・正力松太郎・野上弥生子・武者小路実篤、誕生 尾崎紅葉『我楽多文庫』創刊 「全国的な飢饉ー酸鼻の極、草根木皮をかじり死馬を食う」(朝野新聞) 漱石、江の島へ徒歩遠足

大杉栄とその時代年表(4) 1885(明治18)年 6月~7月 大杉栄一家、東京府麹町区番町に移る 明治大洪水 子規(18)落第 漱石(18)遠泳参加 幸田露伴(18)北海道余市に赴任 都市下層民の「餓鬼道地獄」現出(「朝野新聞」) 『女学雑誌』創刊

大杉栄とその時代年表(5) 1885(明治18)年 8月~9月 子規、帰省中に秋山真之と親しくなる 木下杢太郎・若山牧水・鈴木文治生れる 逍遙(26)「小説神髄」 漱石、虫様突起炎を患い、実家に戻る 子規と熊楠

大杉栄とその時代年表(6) 1885(明治18)年10月~12月 東海散士(柴四朗)「佳人之奇遇」 山下奉文生まれる 植木枝盛「廃娼論」 大阪事件発覚 幸徳秋水(15)、仮釈放の林有造を訪問 大政官制廃止、内閣官制導入  熊楠、大学予備門の期末試験に落第

大杉栄とその時代年表(7) 1886(明治19)年1月~2月 子規、野球に熱中する 川上音二郎出獄 斎藤緑雨「善悪押絵羽子板」 二葉亭四迷、東京商業学校を退学し坪内逍遥を訪問 平塚らいてう・石川啄木生まれる 幸徳伝次郎(16、秋水)、板垣退助歓迎の宴に出席

大杉栄とその時代年表(8) 1886(明治19)年3月~4月 松井須磨子生まれる 物集高見『言文一致』 坪内逍遙「内地雑居未来の夢」 二葉亭四迷「小説総論」 宮武外骨『屁茶無苦新聞』(発禁) 一葉(14)の復学断念

大杉栄とその時代年表(9) 1886(明治19)年5月~6月 末広鉄腸「夢ニナレナレ」(のち「二十三年未来記」と改題) 全米労働者、8時間労働・8時間休息・8時間教育求めデモ(メーデーの発端) 高村智恵子・石坂泰三・岡本一平生まれる 雨宮製糸場女工ストライキ

大杉栄とその時代年表(10) 1886(明治19)年7月~8月 坪内逍遥(27)、加藤センと結婚 漱石、腹膜炎に罹る(留年) コレラ流行 谷崎潤一郎生まれる 徳富蘇峰(23)と植木枝盛(29)が高知で会う 一葉、萩の舎に入門

大杉栄とその時代年表(11) 1886(明治19)年9月 「郵便報知」の大改革 漱石、江東義塾の教師となり、寄宿舎に転居 吉井勇生まれる 一葉、田邊花圃と出会う 

大杉栄とその時代年表(12) 1886(明治19)年10月~12月 関西法律学校開校 ノルマントン号事件 藤田嗣治・大川周明生まれる 米山保三郎が正岡子規を訪問 子規は2歳年下の米山の博識に「四驚」を喫する 『我楽多文庫』活版第1号 基督教婦人矯風会発会 南方熊楠(19)渡米

大杉栄とその時代年表(13) 1887(明治20)年1月~2月 一葉(15)日記「身のふる衣 まきのいち」(稽古歌会を記録) 葛西善蔵生まれる 一葉(15)、新年発会で第一等の点を取る  徳富蘇峰「国民之友」第1号

大杉栄とその時代年表(14) 1887(明治20)年3月~4月 中山晋平生まれる 啄木一家、渋民村に転住 宮武外骨(21)『頓智協会雑誌』発行 伊藤首相官邸で大仮装舞踏会開催 伊藤博文(47)と戸田伯爵夫人極子(31)のスキャンダル報道

大杉栄とその時代年表(15) 1887(明治20)年5月~6月 板垣退助・後藤象二郎・大隈重信・勝海舟に伯爵辞令 伊藤博文・伊東巳代治・金子堅太郎ら憲法草案検討に着手 長崎造船所、三菱に払い下げ 二葉亭四迷(25)「浮雲」

大杉栄とその時代年表(16) 1887(明治20)年7月~8月21日 子規(21)俳諧を学び始める 井上外相の対英軟弱外交(条約改正案)非難 江口渙・山本有三・片山哲・重光葵・荒畑寒村生れる 明治憲法「夏島草案」完成 養子に出した漱石の夏目家への復籍交渉 幸徳伝次郎(17)故郷中村出奔

大杉栄とその時代年表(17) 1887(明治20)年8月25日~9月 幸田露伴、勤め先の北海道余市から東京へ逃げる(途中徒歩200km) 漱石、予科一級に進む 子規、第一高等中学校予科進級 漱石、急性トラホームを患う

大杉栄とその時代年表(18) 1887(明治20)年10月~11月16日 後藤象二郎、丁亥倶楽部結成、大同団結運動に乗り出す 植木枝盛、三大事件建白書起草 旧自由党派「三大事件建白派」、独自の動き開始

大杉栄とその時代年表(19) 1887(明治20)年11月18日~12月 山田美妙『花の茨、茨の花』 坪内逍遥(29)、宮武外骨(21歳)の仲介によって依田学海(55)に初めて会う 子規、野球に興じる(『筆まかせ』「愉快」) 保安条例施行(自由党関係者、東京から追放) 一葉(15)の長兄泉太郎没

大杉栄とその時代年表(20) 1888(明治21)年1月~2月 漱石(21)夏目家に復籍 時事通信社創立 中江兆民「警世放言」(「東雲新聞」) 星亨ら秘密出版で投獄 大隈重信外相就任 一葉、家督を相続し戸主となる

大杉栄とその時代年表(21) 1888(明治21)年3月~4月 各地に女学校創設の気運 三宅雪嶺ら雑誌『日本人』創刊 「市制」「町村制」公布 第2代内閣黒田清隆内閣成立

大杉栄とその時代年表(22) 1888(明治21)年5月~6月 「朝日新聞」(村山龍平)、「めざまし新聞」(星亨)を買収 小泉信三・安井曾太郎・神近市子生まれる 一葉(16)一家、兄虎之助の借家に同居 大同団結運動機関誌「政論」創刊  田邊花圃『薮の鶯』発表 一葉に強い影響を与える 一葉の父・則義、事業失敗 松岡好一「高島炭坑の惨状」

大杉栄とその時代年表(23) 1888(明治21)年7月~8月 漱石・子規(21)、第一高等中学校予科卒業 子規ら、長命寺境内の桜餅屋月香楼で夏休みを過す 子規『七艸集』完成 「東京朝日新聞」発行 里見弴生まれる 磐梯山大爆発 子規(21)、江の島で喀血 二葉亭四迷(24)訳「あひゞき」 三池炭鉱を三井組へ払下げる

大杉栄とその時代年表(24) 1888(明治21)年9月~10月 森鴎外(26)、ドイツ留学から帰国 漱石・子規(21)、第一高等中学校本科第一部(文科)進学 二葉亭四迷(24)訳「めぐりあひ」 皇居落成 ゴーギャンとゴッホの共同生活 スエズ運河条約締結

大杉栄とその時代年表(25) 1888(明治21)年11月~12月 幸徳伝次郎(18)中村を出奔、中江兆民の書生部屋に住み込む 「経世評論」創刊(東海散士、池辺三山) 恒藤恭・菊池寛生まれる  ゴッホ、自分の左耳下部を切り取る

大杉栄とその時代年表(26) 1889(明治22)年1月 漱石(22)の新たな決意 漱石と子規の出会い 石原莞爾生まれる 「大阪公論」社説、「民間の人士」が望んできたほどの希望をこの憲法に託すならば、失望は免れまいと述べる

大杉栄とその時代年表(27) 1889(明治22)年2月 幸田露伴『露団々』 石橋正二郎生まれる 大日本帝国憲法発布 「吾人は直に憲法の改正を請はざる可らず」(幸徳秋水「兆民先生」) 森有礼暗殺 大赦令公布 衆議院議員選挙法公布 陸羯南、新聞「日本」創刊 大隈外相、アメリカと条約改正調印 宮武外骨、「骸骨が研法を下賜する図」により重禁錮3年罰金100円

大杉栄とその時代年表(28) 1889(明治22)年3月~4月 岡本かの子・和辻哲郎・チャップリン・ヒトラー生まれる 光緒帝(19)親政 森鴎外(27)結婚 後藤象二郎入閣 エッフェル塔完成 北村透谷「楚囚之詩」 尾崎紅葉『二人比丘尼色懺悔』

大杉栄とその時代年表(29) 1889(明治22)年5月1日~22日 第一高等中学校に国粋主義を標榜する結社(漱石・子規、加入するも積極的行動はとらず) 子規『七艸集』脱稿 大同団結運動分裂 子規喀血 「卯の花をめがけてきたか時鳥」 「卯の花の散るまで鳴くか子規」などの句を作り、以後「子規」と号す 漱石、子規を見舞い、のち子規を励ます手紙を書く

大杉栄とその時代年表(30) 1889(明治22)年5月25日~31日 漱石、子規『七艸集』評で初めて「漱石」と署名 山本宣治・内田百閒生まれる 大杉栄(4)一家、東京麹町から新潟県北蒲原郡新発田本村へ移る

大杉栄とその時代年表(31) 1889(明治22)年6月 稲から米が出来るのを知らなかった漱石 漱石、学年試験・宿題などの子規の問い合わせに答える 「東京朝日」、大隈条約改正反対を表明 三木露風生まれる

大杉栄とその時代年表(32) 1889(明治22)年7月 一葉(17)の父、病没 与謝野鉄幹、徳山女学校教師となる 東海道線全線開通 子規帰省 子規、 河東碧梧桐にキャッチボールを指導 陸羯南の新聞「日本」、「条約改正論熱度表」掲載

大杉栄とその時代年表(33) 1889(明治22)年8月 室生犀星・石井光次郎生まれる 漱石(22)、房総を旅行 二葉亭四迷(25)内閣官報局雇員となる

大杉栄とその時代年表(34) 1889(明治22)年9月 志賀直哉(6)、学習院予備科6級(のち初等科1年)入学 子規「啼血始末」執筆 幸田露伴『風流仏』 漱石(22)、房総旅行の漢詩文紀行『木屑録』脱稿し、松山の子規に送る  子規は跋文を書きこれを絶賛  漱石・子規、第一高等中学校本科一部二年(三之組)に進級 子規上京

大杉栄とその時代年表(35) 1889(明治22)年10月 鴎外『しがらみ草子』創刊 緑雨「小説八宗」 中江兆民・幸徳伝次郎、東京で活動再開 子規「水戸紀行」 大隈襲撃・重症(玄洋社社員来島恒喜がダイナマイト投擲) 黒田清隆首相辞任 条約改正延期

大杉栄とその時代年表(36) 1889(明治22)年11月 漱石「山路観楓」 久保田万太郎生まれる 子規「言志会」をおこす 黒岩周六「都新聞」主筆 中江兆民「自由党諸子の大会に就て」 帝国大学文科大学ベース・ボール大会(子規ら参加)

大杉栄とその時代年表(37) 1889(明治22)年12月 坪内逍遥・尾崎紅葉・幸田露伴、読売新聞社入社 子規「ボール会」設立 饗庭篁村、東京朝日新聞社入社 漱石と子規の論争(「オリジナルの思想」と「文章」をめぐり) 愛国公党設立決定(板垣・植木) 中江兆民上京 第1次山県内閣(後藤・陸奥閣内)

大杉栄とその時代年表(38) 1890(明治23)年1月 森鴎外『舞姫』 子規『銀世界』 日本最初の文士劇 富山で米騒動(4月からは他地域にも波及) 現存する一番古い子規の漱石宛書簡 再興自由党結成

大杉栄とその時代年表(39) 1890(明治23)年2月~3月 徳富蘇峰「国民新聞」創刊 「東京朝日」急速に部数を伸ばす 北村透谷「時勢に感あり」 渋谷三郎・野尻理作が共に一葉一家から離れてゆく 丸の内一帯の三菱への払下げ決定  駿河台にニコライ堂が開堂(ジョサイア・コンドル設計) 南方熊楠、博物学を本格的に志す 子規、常盤会寄宿舎のベースボール大会(第4回)を決行

大杉栄とその時代年表(40) 1890(明治23)年4月 「新作十二番」(春陽堂) 第三回内国勧業博覧会 『博覧会他所見の記』(読売新聞 逍遥・紅葉・露伴) 皇紀2550年を記念して橿原神宮が創建 民事訴訟法・商法公布

大杉栄とその時代年表(41) 1890(明治23)年5月~6月 郡制・府県制公布 欧米各地で世界初のメーデー 愛国公党組織大会 雑誌『江戸むらさき』創刊 鴎外(28)陸軍二等軍医正 佐渡相川暴動

大杉栄とその時代年表(42) 1890(明治23)年7月 チェーホフのサハリン島調査 第1回衆議院議員選挙(民党が過半数なるも大合同ならず) 紅葉『伽羅枕』 漱石・子規、第一高等中学校本科及落 露伴「造化と文学」 東京でコレラ(~11月) 集会及政社法公布 ゴッホ(37)没

大杉栄とその時代年表(43) 1890(明治23)年8月 鴎外『うたかたの記』 子規と虚子の出会い 子規、大津に旅行 再興自由党・愛国公党・九州同志会・大同倶楽部解散 厭世的な気分に陥る漱石 子規の励ます手紙に傷つく漱石(のち子規はこれを謝罪) 箱根に滞在する漱石 渡良瀬川沿岸大洪水

大杉栄とその時代年表(44) 1890(明治23)年9月 坪内逍遥(31)、東京専門学校の文学科新設に尽力 尾崎紅葉、東京帝国大学退学 漱石、東京帝国大学文科大学英文科に入学 子規は哲学科に入学 立憲自由党結党大会

大杉栄とその時代年表(45) 1890(明治23)年10月~11月23日 鴎外(28)離婚 星亨帰国、立憲自由党入党 初代貴族院議長伊藤博文 帝国ホテル開業

大杉栄とその時代年表(46) 1890(明治23)年11月25日~12月 第1回帝国議会召集 山県首相は対外進出・軍拡の必要性を強調 「国会」創刊 犬養毅・尾崎行雄ら「朝野新聞」退社 ウンデッド・ニーの虐殺

大杉栄とその時代年表(47) 1891(明治24)年1月~2月 鴎外『文づかひ』 博文館「少年文学」叢書 内村鑑三不敬事件 帝国議会議事堂全焼 子規、帝国大学文科大学哲学科から国文科に転科 土佐派の裏切り(立憲自由党脱党) 中江兆民議員辞職(「無血虫の陳列場」)

大杉栄とその時代年表(48) 1891(明治24)年3月 子規と虚子の文通始まる  河東碧梧桐上京 尾崎紅葉の結婚 川上音二郎(27)、横浜伊勢崎町の蔦座で「オッペケペ」上演 ニコライ堂開堂 立憲自由党、自由党と改称 子規の房総旅行

大杉栄とその時代年表(49) 1891(明治24)年4月1日~15日 大杉栄(6)、新発田の尋常小学校入学 南方熊楠、フロリダに向かう(その後、キューバ~ハイチ~ベネズエラ) 一葉日記(「若葉かげ」)始まる 一葉、半井桃水を訪問、以後頻繁に訪問

大杉栄とその時代年表(50) 1891(明治24)年4月18日~30日 漱石、子規の房総旅行の紀行文に感激する 子規、哲学の試験準備が全く手につかない 一葉、桃水より新聞小説(通俗小説)の手ほどきを受ける

大杉栄とその時代年表(51) 1891(明治24)年5月 カーネギーホール開場 松方正義内閣成立 大津事件(警護巡査津田三蔵(滋賀県守山署)がロシア皇太子を斬付ける) 田山花袋、尾崎紅葉を訪問 ミルン一座、「ハムレット」上演(浜ゲーテ座)

大杉栄とその時代年表(52) 1891(明治24)年6月 子規、軽井沢・長野・松本・木曽に旅し、その足で松山に帰省 ゴーギャン、タヒチ到着 一葉、新聞掲載不都合を知らされ失望 岸田劉生生まれる

大杉栄とその時代年表(53) 1891(明治24)年7月 漱石、特待生に選ばれる(月2円50銭の授業料免除) 漱石、 子規の落第阻止のため教授の間を奔走 長谷川利行生まれる 漱石が井上眼科で出会う「可愛らしい女の子」 「東京朝日新聞解停祝」「本日無ちん東京朝日新聞」 漱石の兄嫁登世(24)没 漱石の二回目の富士登山

大杉栄とその時代年表(54) 1891(明治24)年8月 「職工義友会」(アメリカ、高野房太郎ら) 漱石の子規宛て8月3日付け手紙(嫂登勢「悼亡」の句13句 日本文学研究の決意を吐露) 鴎外(29)医学博士

大杉栄とその時代年表(55) 1891(明治24)年9月 田中正造の日記に「鉱毒」が出始める 上野・青森間鉄道全通 硫黄島を日本領とする 子規、ようやく追試に及第 一葉日記「蓮生日記」と改題 津田三蔵(38)獄死

大杉栄とその時代年表(56) 1891(明治24)年10月 中嶋歌子に見て貰うための小説創作に苦労する一葉 一葉と妹くにが開橋したばかりのお茶の水橋を見に行く 近衛文麿生まれる 泉鏡花(18)、紅葉に弟子入り 逍遥(32)『早稲田文学』(第一次)創刊 濃尾地震(死者7,273) 桃水の勧めで筆名「一葉」を使い始める

大杉栄とその時代年表(57) 1891(明治24)年11月 雑誌「足利之鉱毒」創刊・たちまち発禁 露伴『五重塔』 漱石・子規「気節」論論争 「人なき小室の内に、長火桶一ッ間に置てものがたりすることよ .....、あやしかるべき身にも有哉。ましてかたみに語り合ふことなどいとまばゆしかし」(一葉「よもぎふ日記」)

大杉栄とその時代年表(58) 1891(明治24)年11月 瀬戸内寂聴さんの『炎凍る 樋口一葉の恋』の中の「日記の謎」について(なぜ、一葉は明治24年11月24日の日記を途中で処分したのか?)

大杉栄とその時代年表(59) 1891(明治24)年12月 漱石、『方丈記』英訳・解説 逍遥・鴎外の没理想論争 子規、小説「月の都」の執筆着手 子規、「俳句分類丙号」着手 広津和郎生まれる 田中正造、第2議会に「足尾銅山鉱毒の儀につき質問」

大杉栄とその時代年表(60) 1892(明治25)年1月~2月 南方熊楠、西インド諸島巡回からフロリダ州ジャクソンビルに戻る 伊藤博文、新党結成に動く 堀口大学・西条八十生まれる 子規、小説「月の都」脱稿 一葉(20)結核発現の最初の兆候 植木枝盛(35)没 足尾の鉱毒被害者示談工作進む 幸田露伴と根岸派の人々

大杉栄とその時代年表(61) 1892(明治25)年2月1日~2月4日 子母沢寛生まれる 出口ナオ(57)大本教開教 一葉、桃水より同人誌『武蔵野』発刊の計画を聞かされる 「種々の感情むねにせまりて、雪の日といふ小説一篇あまばやの腹稿なる」

大杉栄とその時代年表(62) 1892(明治25)年2月5日~29日 一葉「闇桜」完成 第2回衆議院総選挙(大干渉にも拘らず民党勝利) 日本初日刊紙「東京日日新聞」(現毎日新聞)創刊 伊藤博文、新党結成断念表明・枢密院議長辞職撤回 子規の小説「月の都」、露伴からも四迷からも評価されず

大杉栄とその時代年表(63) 1892(明治25)年3月 芥川龍之介・野坂参三生まれる 一葉「闇桜」(『武蔵野』第1編) 一葉「別れ霜」(『改進新聞』) 試験が近づいても勉強に身が入らない子規

大杉栄とその時代年表(64) 1892(明治25)年4月 漱石(25)、分家届提出、北海道に移籍 佐藤春夫生まれる 一葉(20)「たま襷」(『武蔵野』第2編) 一葉、療養中の桃水を見舞う

大杉栄とその時代年表(65) 1892(明治25)年5月 田中正造、再び鉱毒事件質問状提出(第3議会) 漱石、東京専門学校(現・早稲田大学)講師 一葉「五月雨」完成 池辺三山(28)パリに向かう 子規「かけはしの記」(『日本』)

大杉栄とその時代年表(66) 1892(明治25)年6月 一葉(20)、桃水との仲を噂され歌子の助言もあり桃水との師弟関係を絶つ 花圃の仲介により「都の花」への作品掲載の話が纏まる(文学的転機) 子規「獺祭書屋俳話」(『日本』38回)

大杉栄とその時代年表(67) 1892(明治25)年6月 瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』が描く一葉と桃水の別れとそれが意味するもの(Ⅰ) 一葉と桃水の恋愛関係は人々の噂になりつつあった 借金申し込みに見える一葉日記の小説的創作要素 一葉に対する桃水の経済的支援

大杉栄とその時代年表(68) 1892(明治25)年6月 瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』が描く一葉と桃水の別れとそれが意味するもの(Ⅱ) 一葉の桃水に対する疑惑、耳打ちされる「醜聞」 伊東夏子、師匠の中嶋歌子から桃水と手を切るように忠告される一葉

大杉栄とその時代年表(69) 1892(明治25)年6月 瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』が描く一葉と桃水の別れとそれが意味するもの(Ⅲ) 一葉、桃水に師弟関係解消を申し出る 後悔する一葉 文学者としては必然のめぐり逢いであり別離であった

大杉栄とその時代年表(70) 1892(明治25)年7月1日~16日 漱石、文科大学貸費生(年額70円) 漱石・子規の京都旅行(後半、漱石は岡山へ、子規は松山へ)、帰途に再度京都へ 一葉、花圃の仲介で『都の花』への小説掲載決まる 「松山競吟集」第1回

大杉栄とその時代年表(71) 1892(明治25)年7月17日~8月8日 子規、松山で落第通知を受け取る 漱石、子規の退学決意を引き留める手紙 「松山競吟集」第2~5回 漱石、岡山洪水に遭遇 一葉「五月雨」(『武蔵野』第3編) 松方内閣総辞職 第2次伊藤内閣(元勲内閣、挙国一致) 鉄幹(19)本郷駒込吉祥寺に寄宿

大杉栄とその時代年表(72) 1892(明治25)年8月10日~24日 漱石、岡山から松山に子規を訪ね、虚子・碧梧桐らに会う 一葉の桃水宛て手紙 一葉一家を裏切った渋谷三郎が一葉宅を訪問 一葉との結婚話は母がそれを断る

大杉栄とその時代年表(73) 1892(明治25)年8月26日~9月30日 漱石・子規、松山から東京に戻る 熊楠、ニューヨークからロンドンに移る 松原岩五郎、国民新聞社入社 一葉、「うもれ木」完成 規と漱石、逍遥を訪ねる 子規『早稲田文学』俳句欄担当

大杉栄とその時代年表(74) 1892(明治25)年10月1日~25日 子規、大磯で転地保養 漱石『文壇に於ける平等主義の代表者「ウォルト、ホイツトマン」 Walt Whitman の詩について』 子規「大磯の月見」「旅の旅の旅」 一葉「経つくゑ」

大杉栄とその時代年表(75) 1892(明治25)年10月26日~11月6日 子規、東京帝大退学 子規「日光の紅葉」「我邦に短篇韻文の起りし所以を論ず」「第六回文科大学遠足会の記」 黒岩周六(30)「萬朝報」発行 大井憲太郎、東洋自由党結成

大杉栄とその時代年表(76) 1892(明治25)年11月9日~17日 子規、京都で虚子と紅葉狩り 子規、神戸で母八重・妹律を迎え京都見物をして共に東京に帰る 一葉、桃水と再会 宮武外骨、石川島刑務所を出獄 

大杉栄とその時代年表(77) 1892(明治25)年11月18日~30日 子規、新聞『日本』正式入社 東学党の参礼集会 一葉「うもれ木」(『都の花』) 一葉、中央文壇に登場 千島艦事件

大杉栄とその時代年表(78) 1892(明治25)年12月1日~28日 漱石「中学改良策」 子規『海の藻屑』『笑話十句』(『日本』俳句時事評) 漱石、東京専門学校講師退職を決意(その後撤回) 一葉、花圃を介して『文学界』への寄稿を依頼される 一葉一家、「朧月夜」原稿料で久々の安らかな年末

大杉栄とその時代年表(79) 1893(明治26)年1月1日~31日 子規と漱石、坪内逍遥を訪問 一葉(21)「雪の日」完成 漱石「英国詩人の天地山川に対する観念」講述(「哲学雑誌」掲載) 「文学界」創刊 日比谷公園開園

大杉栄とその時代年表(80) 1893(明治26)年2月1日~28日 北村透谷・山路愛山「人生相渉る」論争 子規、『日本』に俳句欄を設ける 時局救済に関する詔勅 「恋はあさましきもの成けれ。」(一葉日記) 一葉(21)「暁月夜」(『都の花』第101号)

大杉栄とその時代年表(81) 1893(明治26)年3月1日~31日 宮武外骨『文明雑誌』創刊 一葉(21)のもとに平田禿木(2歳)が来訪(初めて会う『文学界』同人) 子規「文界八つあたり」(新聞『日本』連載) 一葉、「糊口的文学」から訣別しようと決意

大杉栄とその時代年表(82) 1893(明治26)年4月1日~24日 あさ香社結成 徳富蘇峰の国家主義への傾斜 一葉(21)初めて伊勢屋に質入 政府機密費で通信社への助成開始 一葉、桃水を訪問

大杉栄とその時代年表(83) 1893(明治26)年4月25日~5月21日 東学党報恩集会 一葉(21)、頭痛に苦しむ 「蔵のうちにはるかくれ行ころもがえ」(一葉) 市川房枝生まれる 防穀令賠償問題妥結 戦時大本営条例公布  子規『獺祭書屋俳話』(処女出版)

大杉栄とその時代年表(84) 1893(明治26)年5月23日~6月21日 徳富蘇峰の条約励行論 子規の瘧(おこり)発病 来るあてもない桃水からの手紙を待つ一葉 「著作まだならずして此月も一銭入金のめあてなし」(一葉)

大杉栄とその時代年表(85) 1893(明治26)年6月22日~7月 一葉(21)、糊口的文学に見切りをつけ、就業を決意 「是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤(そろばん)の玉の汗に商(あきな)ひといふ事はじめばや。」(「につ記」)

大杉栄とその時代年表(86) 1893(明治26)年7月1日~12日 「国民之友」(徳富蘇峰)、朝鮮併呑を主張 一葉、萩の舎の会に参加するための着物を売却して手元資金に充てる 漱石、帝国大学文科大学英文科を卒業、帝国大学大学院に進学 狩野亨吉との交際が始まる

大杉栄とその時代年表(87) 1893(明治26)年7月12日~20日 漱石、日光旅行 一葉、下谷龍泉寺町に転居 「我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし」(一葉日記)

大杉栄とその時代年表(88) 1893(明治26)年7月19日 漱石の友人小屋保治が大塚楠緒子と見合い 子規の東北旅行(1) 各地の有力な俳諧宗匠を訪ねて俳話を楽しむという目的は期待外れ 

大杉栄とその時代年表(89) 1893(明治26)年7月19日 子規の東北旅行(2) 「松島の心に近き袷(あわせ)かな」 「秋風や旅の浮世のはてしらず」 「われは唯旅すゞしかれと祈るなり」

大杉栄とその時代年表(90) 1893(明治26)年7月19日~30日 子規の東北旅行(3) 鮎貝槐園との交歓 旅費の工面 商材仕入れのための5円の金が手元にないと歎く一葉 黒田清輝、フランス留学から帰国

大杉栄とその時代年表(91) 1893(明治26)年8月1日~11日 漱石、就職の目途がつかず落ち着かない日々を過ごす 龍泉寺での一葉の荒物店開店(すぐに駄菓子もおくようになる) 一葉が買い出し、妹邦子が店番 一葉、幼年時代を顧る

大杉栄とその時代年表(92) 1893(明治26)年8月12日~9月28日 8月下旬~9月上旬、一葉、頭痛で寝込む日がしばしばある 漱石、東京専門学校講師 一葉、商売は軌道に乗り、売り上げは順調だが、利益は厳しい

大杉栄とその時代年表(93) 1893(明治26)年10月1日~31日 漱石(26)東京高等師範学校(英語嘱託) 一葉、店は邦子にまかせ連日図書館に通う 一葉日記「塵中日記 今是集」 平田禿木が一葉を再び来訪、『文学界』との関係が復活  「二六新報」発刊(社主秋山定輔)

大杉栄とその時代年表(94) 1893(明治26)年11月1日~25日 明治座開場 チャイコフスキー(53)没 子規「芭蕉雑談」 森鴎外(31)陸軍一等軍医正、軍医学校長兼衛生会議議員 一葉、買い出しと図書館通いの毎日 「琴の音」成稿

大杉栄とその時代年表(95) 1893(明治26)年11月26日~12月31日 第5議会、星亨除名決議可決 「かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ」(一葉日記) 一葉、ぎりぎりの金策の末、どうにか年越しができる

大杉栄とその時代年表(96) 1894(明治27)年1月1日~31日 三菱1号館竣工 一葉の店の向い側に同業が開店 星野天知(32)が始めて一葉を訪問 「男はすべて重りかに口かず多からざるぞよき」(一葉日記)

大杉栄とその時代年表(97) 1894(明治27)年2月1日~11日 子規、終の住処「子規庵」へ転居 一葉(22)の年始廻り 絵入り新聞『小日本』創刊(編集主任子規) 子規の月給は30円に上がる 不評だった小説「月の都」掲載

大杉栄とその時代年表(98) 1894(明治27)年2月14日~25日 朝鮮で古阜民乱 商売は行き詰まった一葉の捨て身の行動(久佐賀義孝から援助を引き出す工作) 「「女学雑誌」に「田辺龍子、鳥尾ひろ子の、ならべて家門を開かるゝ」よし有けるとか。万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。」

大杉栄とその時代年表(99) 1894(明治27)年2月26日~30日 一葉、田中みの子の家で中島歌子・田辺花圃を批判 一葉「花ごもり」其1~其4(『文学界』第14号)

大杉栄とその時代年表(100) 1894(明治27)年3月 「笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこゝろざしは国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期す。われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。いでさらば、分厘のあらそひに此一身をつながるゝべからず。去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。」(一葉日記)

大杉栄とその時代年表(101) 1894(明治27)年3月1日~10日 子規、中村不折を知る 漱石、神経衰弱で憔悴 第3回衆議院選(民党躍進、対外硬130) 一葉、頭痛で寝込む 明治天皇結婚25年の祝典

大杉栄とその時代年表(102) 1894(明治27)年3月12日~27日 馬場孤蝶(25)が初めて一葉(22)を訪問、一葉は好意的評価 一葉、久佐賀に物質的援助を請う 子規『一日物語』  一葉、転居費用調達と桃水訪問

大杉栄とその時代年表(103) 1894(明治27)年3月28日~4月 日本に亡命していた朝鮮の独立派政治家金玉均(44)が上海で暗殺される 全羅道で東学党蜂起 一葉、3月29日~5月1日(丸山福山町への転宅前日)日記を書かず

大杉栄とその時代年表(104) 1894(明治27)年4月1日~5月1日 対清強硬(戦争)論高まる 愛知県庁の工場労働者、「女工哀史」に描かれる状況よりも悲惨な状態 一葉、丸山福山町に転居 「水の上」時代  「奇蹟の十四箇月」(和田芳恵)の到来

大杉栄とその時代年表(105) 1894(明治27)年5月2日~16日 第1次甲午農民戦争始まる 黄土峴の戦いで農民軍勝利 第6議会開会(対外硬派が主導権掌握) 北村透谷(25)の自死

大杉栄とその時代年表(106) 1894(明治27)年5月17日~31日 朝鮮駐在代理公使杉村濬の出兵上申 袁世凱、出兵準備を李鴻章に電請 参謀本部、出兵必要と決定 東学農民軍、全州占領。朝鮮政府は袁世凱に出兵救援を依頼 宗銀、内閣弾劾上奏案可決(総辞職か解散かを迫られる)

大杉栄とその時代年表(107) 1894(明治27)年6月1日~5日 臨時閣議、混成1個旅団(7千人前後)の朝鮮派兵決議 第6議会抜き打ち解散 李鴻章、朝鮮第1次援兵900派遣指令 北村透谷追悼会 北村透谷追悼会 戦時大本営条例により大本営を動員(参謀本部内)

大杉栄とその時代年表(108) 1894(明治27)年6月6日~11日 軍隊の進退、軍機軍略に関する記事を厳禁する陸海軍省令 論説「朝鮮は朝鮮の朝鮮にあらず」(自由新聞) 東西「朝日」は、対清国強硬意見 清国派遣隊、牙山湾上陸 日本軍第1次派兵、宇品出港  一葉に久佐賀から手紙(歌道成道まで面倒をみるので「妾になれ」と提案) 全州和議成立 大鳥公使は軍隊派遣見合わせを打電

大杉栄とその時代年表(109) 1894(明治27)年6月12日~20日 全州和議成り日清共同撤兵交渉開始(ほぼ妥結) 全羅道50郡余に「執綱所」(農民的自治機関)設置 大本営は追加派兵決定 閣議、大本営決定を追認(甲午農民戦争への干渉、朝鮮内政への干与強行を決定) 「如何なる口実を用うるもわが兵を京城に留め置くこと最も必要なり」と大鳥宛電報 子規『当世媛鏡』 明治東京大地震

大杉栄とその時代年表(110) 1894(明治27)年6月21日~30日 清国、日本の朝鮮共同改革提案を拒否 陸奥、次の手(御前会議~第1次絶交書)をうつ 日本軍混成旅団主力、仁川から京城へ移動 加藤増雄書記官が京城に到着し「曲ヲ我ニ負ワザル限リ、如何ナル手段ニテモ執り、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」との内訓を大鳥公使に伝える

大杉栄とその時代年表(111) 1894(明治27)年7月1日~8日 ラフカディオ・ハーン、五高を退職 イギリスの仲裁に清国が受け入れ難い項目を入れる(筋書き通り調停不調) 一葉、父方の従兄弟の死に衝撃を受ける 大鳥公使、朝鮮政府に改革綱領を提示 アメリカのプルマンスト鎮圧 尾崎紅葉・渡部乙羽校訂『西鶴全集』発売禁止

大杉栄とその時代年表(112) 1894(明治27)年7月9日~13日 陸奥外相、「日清の衝突をうながすは今日の急務なれば、これを断行するためには何等の手段をも執るべし、一切の責任は予みずからこれに当るを以て、同公使は毫も内に顧慮するにおよばず」との訓令



























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