大杉栄とその時代年表
大杉栄が生きた時代(1885(明治18)年1月17日~1923(大正12)年9月16日)を年表で辿る。
この年表では、ところどころで、同行・伴走する以下の人物が登場します。それらの人物の、大杉栄が生まれた1885(明治18)年時点での年齢は以下の通り。
永井荷風(6歳)、樋口一葉(12歳)、幸徳秋水(15歳)、「七人の旋毛曲り」(18歳)夏目漱石、宮武外骨、南方熊楠、幸田露伴、正岡子規、尾崎紅葉、斎藤緑雨
尚、この1885年の前年(明治17年)11月9日には、秩父困民党軍が馬流の戦いで海ノ口に敗走し、野辺山原において解体する、そんな時代でした。
(参考)
1885(明治18)年
1月
漱石(18)は我儘だけれど傑物だとの評判
「一月(推定) (月日不詳)、塩原昌之助に予め通知して昌之助・かつ、女中・婆やたちに外出してもらい、すき焼の材料をとり揃えて、用意だけして貰う。午後三時から、友人二、三人を連れて、すき焼を食べに行く。夜、昌之助とかつが婦ると、食べ散らかしたままになっていたのであきれる。金之助は、我儘だけれども傑物だという評判が立ち、昌之助・かつは喜ぶ。直克のほうでは、金之助を養子にやらなかったほうがよがったと残念に思い始める。(関荘一郎)」(荒正人『漱石研究年表』)
〈この時、漱石、大学予備門に在籍中〉
前年(明治17年)9月11日 漱石、子規、大学予備門(明治19年4月に第一高等中学校と改称)予科に入学。校長杉浦重剛、授業料1学期2円。同級に中村是公、橋本左五郎、芳賀矢一、山田美妙、菊地謙二郎、南方熊楠。
「首尾よく予備門に合格した。その入試のとき、彼は数学の問題だけは隣の人の答案を見て書いたと語っている(「一貫したる不勉強」)。隣の人とは成立学舎で一緒で、のちに札幌農学校(北海道大学の前身)教授となる橋本左五郎である。橋本は皮肉にもこの試験に落ち、再試験で合格はしたが、結局札幌農学校に行った。橋本とはのちに満州で出会い、旧交をあたためることとなる(『満韓ところどころ』)。金之助の「カンニング」を、橋本は自分が紙を机一杯に拡げでいたので、偶然見えたのだろうと回想している。」(岩波新書『夏目漱石』)
「橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りて一所に自炊をしてゐた事がある。其時は間代を払つて、隔日に牛肉を食つて、一等米を焚いて、夫で月々二円で済んだ。尤も牛肉は大きな鍋へ汁を一杯拵(こしら)へて、其中に浮かして食つた。十銭の牛を七人で食ふのだから、斯うしなければ食ひ様がなかったのである。飯は釜から杓つて食った。高い二階へ大きな釜を揚げるのは難義であった。余は此処で橋本と一所に予備門へ這入る準備をした。橋本は余よりも英語や数学に於て先輩であった。入学試験のとき代数が六づかしくつて途方に暮れたから、そつと隣席の橋本から教へて貰って、其御蔭でやつと入学した。所が教へた方の橋本は見事に落第した。」(『満韓ところどころ』)
「予備門では柴野(のち養子になり中村)是公や、芳賀矢一(一緒の船でヨーロッパへ留学)らと親しくなった。特に是公は、太田達人とともに生涯の親友で、後に南満洲鉄道(満鉄)総裁として名士となった。太田は成立学舎以来の友人で、東大物理学科を卒業後、地方の中学校長を歴任したので、是公のように華やかな経歴は持たないが、温厚篤実で、金之助とは気が合ったらしい。」(岩波新書『夏目漱石』)
「七人男たちの内で、大学予備門に進学したのは、紅葉、漱石、子規、熊楠の四人である。
紅葉だけが一足早く明治十六年九月。他の三人は、翌十七年の九月のことである。
このあたりになると、徐々に、七人男たちの、人生の、歩み方や生き方の違いが見えはじめてくる。大学予備門への進学が、その一つの大きな別れ道となる。ただし大学予備門に進学した四人も、ふつうのエリートとしての道を歩もうとはしなかった。四人の中で、大学予備門(在学中に第一高等中学校と名称変更)、そして帝国大学という学習コースをまっとうできたのは夏目漱石一人だけだった。」(『七人の旋毛曲り』)
〈予備門時代の漱石、子規、熊楠、紅葉、美妙〉
「山田美妙斎とは同級だったが、格別心易うもしなかった。正岡とは其時分から友人になった。一緒に俳句もやった。正岡は僕よりももつと変人で、いつも気に入らぬ奴とは一語も話さない。孤峭な面白い男だった。どうした拍子か僕が正岡の気に入つたと見えて、打ち解けて交るやうになった。上級では川上眉山、石橋思案、尾崎紅葉などがゐた。紅葉はあまり学校の方は出来のよくない男で、交際も自分とはしなかつた。それから暫くすると紅葉の小説が名高くなり出した。僕は其頃は小説を書かうなんどとは夢にも思つてゐなかつたが、なあに己だつてあれ位のものはすぐ書けるよといふ調子だった。」(漱石「僕の昔」)
笠井清『南方熊楠』には、美妙に対する熊楠の追慕の一文が引用されていて、その中で熊楠は美妙のことを「美妙斎と称せし名にそむかず白皙紅顔の人なりき」と回想している。
「ある時何かの試験の時に余の隣に居た人は答案を英文で書いて居たのを見た。勿論英文なんかで書かなくても善いのをその人は自分の勝手ですらすらと書いて居るのだから余は驚いた。この様子では余の英語の力は他の同級生とどれだけ違ふか分らぬのでいよいよ心細くなった。この人はその後間もなく美妙斎として世に名のつて出た。」(子規『墨汁一滴』)
12月(第一学期)の成績表(『漱石全集』月報、第十号、岩波書店、一九三六年八月)によれば漱石は塩原金之助の名で第四級(奨学生徒)に出ている。その成績表の表題は「明治一七年一二月(第一学期)東京大学予備門前本学第一、二、三級、及び第四級生徒試業優劣表」となっている。それによると平均点七三点で一一七人中二二番から順に漱石、芳賀矢一(国文学者)、小城齊(ひとし)と続いている。数学においては、小城は級のほぼ最上位を占めているが、彼の六女川瀬増子の記憶では、学生時代、夏目君から英語を習い、自分は数学を教えた、という話を父からよく聞かされたのを覚えているという。
1月6日
「秘聞録」の続編「傑士烈女魯国虚無党列伝」(「自由新聞」)
1月8日
この日付け子規(18)の竹村鍛宛ての手紙に子規の最も古い俳句がある。
「雪ふりや棟の白猫声ばかり」
1月9日
立木兼善仲裁により横浜の名望家海老塚四郎兵衛に伴われ武相困民党須長漣造・若林高之助(26)・佐藤昇之輔(18)・金子邦重、県庁に出頭。翌10日、県令邸に招かれ、解党申付けられる(県令邸には原田東馬も同席)。
須長漣造:
嘉永5(1852)年生。明治5年谷野一村戸長(20)。12年谷野など4ヶ村戸長。17年6月新聨合村制度により、隣村留所村の青木鎮郷に戸長職が移り、戸長辞任(32)。12年田畑・山林・宅地20町歩の豪農(自営農型)。19年には八王子不在地主の小作人に転落。23年前自由党幹部・東海貯蓄銀行頭取成内頴一郎と前自由党員・武蔵野銀行副頭取鈴木芳良の小作人(困民党と自由党のアイロニーが象徴される)。12年頃から武蔵野銀行など十数の債主と金融取引。15年は5度に分けて594円の借入れ(営業・納税資金、村民の滞納税立替など)。17年村の6割が税滞納か高利貸・銀行の追及を受ける状況。
1月14日には、相模原大沼新田に農民終結後県庁へデモ。原町田村漆谷付近で警官と衝突。首謀者、凶徒嘯衆罪逮捕。武相困民党解散。
総監督中島小太郎、若林高之助、佐藤昇之輔、金子邦重、渋谷雅治郎、石井浅次郎らが拘引。須長漣造は2月に逮捕、18年7月横浜軽罪裁判所で無罪判決、出獄。須長は出獄後も村に残り、「年賦党ノ跡片付」のため債主との交渉継続。若林・佐藤は横浜で開業(佐藤は金貸・銀行を営む)。須長はやがて行商人となり九州~四国~北陸と歩き続ける。
権力側は若林らの動きを十分察知し(細野らの内報により)徐々に追詰め、一方で下部大衆を煽動し(その時点で、幹部は大衆から浮き上がる)、暴発一歩前で幹部逮捕、組織壊滅を図る?
2月17日、武相困民党、9・5事件判決。塩野倉之助・小池吉教、軽懲役6年など215名全員有罪。自由党広徳館の代言人小林幸二郎は公判で小池の弁護を担当。1審後は塩野のために「上告趣意書」を起草。自由党員細野喜代四郎ら仲裁人は負債党鎮撫に協力したとして神奈川県令沖守固より感謝状・記念品貰う。
1月9日
漢城条約調印(明治十七年京城暴徒事変ニ関スル日韓善後約定)。特派全権大使井上馨、金弘集全権と甲申事変善後処理。朝鮮政府は国書により日本に謝罪。死傷者に賠償金11万円支払・犯人処罰・日本公使館再建を約束。同日付けで竹添公使召喚。
井上は、近藤真鋤駐朝臨時代理公使宛て機密文書で、竹添公使の不当な行動、壬午軍乱後の政府の開化派支援策が事件の一因となったことを認め、交渉で事実究明を行ったならば「我行為の不是を表証するに均」しく、「我公使の体面を損し、主客其地位を顚倒」するおそれがあるので、朝鮮政府に対する「要求を寛減」するとともに「我公使(竹添)の凶党に関係を有せざる事実を表明」することにつとめた、と述べる。
1月10日
「東京横浜毎日新聞」、脱亜的条約改正論を批判。「清韓ニ対シテ得ルノ栄誉ハ亜細亜ノ一方ニ局スル者ニシテ世界ニ共認セラルゝノ栄誉ニ非ルナリ」と。しかし、大勢は脱亜的条約改正の方向に向っている。
1月17日
静岡県農民騒擾。1883年冬から騒動があいつぎ、この年2月駿東・君沢両部60ヶ村の借金党の農民1500人が伊豆銀行などに押しかける。3月4郡85ヶ村で借金党が成立するが、4月以後衰微。
1月17日
大杉栄、香川県丸亀市に生れる。大杉東(あずま)、豊(とよ)の長男。(戸籍は5月17日)
父は愛知県東海郡大字宇治の出身、旧家の三男で、志願兵となって兵卒から将校に進んだ篤実努力の人。栄の誕生の時は丸亀連隊の少尉。
つづく
【年表INDEX】
大杉栄とその時代年表(11) 1886(明治19)年9月 「郵便報知」の大改革 漱石、江東義塾の教師となり、寄宿舎に転居 吉井勇生まれる 一葉、田邊花圃と出会う
大杉栄とその時代年表(14) 1887(明治20)年3月~4月 中山晋平生まれる 啄木一家、渋民村に転住 宮武外骨(21)『頓智協会雑誌』発行 伊藤首相官邸で大仮装舞踏会開催 伊藤博文(47)と戸田伯爵夫人極子(31)のスキャンダル報道
大杉栄とその時代年表(18) 1887(明治20)年10月~11月16日 後藤象二郎、丁亥倶楽部結成、大同団結運動に乗り出す 植木枝盛、三大事件建白書起草 旧自由党派「三大事件建白派」、独自の動き開始
大杉栄とその時代年表(21) 1888(明治21)年3月~4月 各地に女学校創設の気運 三宅雪嶺ら雑誌『日本人』創刊 「市制」「町村制」公布 第2代内閣黒田清隆内閣成立
大杉栄とその時代年表(33) 1889(明治22)年8月 室生犀星・石井光次郎生まれる 漱石(22)、房総を旅行 二葉亭四迷(25)内閣官報局雇員となる
大杉栄とその時代年表(38) 1890(明治23)年1月 森鴎外『舞姫』 子規『銀世界』 日本最初の文士劇 富山で米騒動(4月からは他地域にも波及) 現存する一番古い子規の漱石宛書簡 再興自由党結成
大杉栄とその時代年表(41) 1890(明治23)年5月~6月 郡制・府県制公布 欧米各地で世界初のメーデー 愛国公党組織大会 雑誌『江戸むらさき』創刊 鴎外(28)陸軍二等軍医正 佐渡相川暴動
大杉栄とその時代年表(45) 1890(明治23)年10月~11月23日 鴎外(28)離婚 星亨帰国、立憲自由党入党 初代貴族院議長伊藤博文 帝国ホテル開業
大杉栄とその時代年表(52) 1891(明治24)年6月 子規、軽井沢・長野・松本・木曽に旅し、その足で松山に帰省 ゴーギャン、タヒチ到着 一葉、新聞掲載不都合を知らされ失望 岸田劉生生まれる
大杉栄とその時代年表(58) 1891(明治24)年11月 瀬戸内寂聴さんの『炎凍る 樋口一葉の恋』の中の「日記の謎」について(なぜ、一葉は明治24年11月24日の日記を途中で処分したのか?)
大杉栄とその時代年表(63) 1892(明治25)年3月 芥川龍之介・野坂参三生まれる 一葉「闇桜」(『武蔵野』第1編) 一葉「別れ霜」(『改進新聞』) 試験が近づいても勉強に身が入らない子規
大杉栄とその時代年表(64) 1892(明治25)年4月 漱石(25)、分家届提出、北海道に移籍 佐藤春夫生まれる 一葉(20)「たま襷」(『武蔵野』第2編) 一葉、療養中の桃水を見舞う
大杉栄とその時代年表(77) 1892(明治25)年11月18日~30日 子規、新聞『日本』正式入社 東学党の参礼集会 一葉「うもれ木」(『都の花』) 一葉、中央文壇に登場 千島艦事件
大杉栄とその時代年表(82) 1893(明治26)年4月1日~24日 あさ香社結成 徳富蘇峰の国家主義への傾斜 一葉(21)初めて伊勢屋に質入 政府機密費で通信社への助成開始 一葉、桃水を訪問
大杉栄とその時代年表(87) 1893(明治26)年7月12日~20日 漱石、日光旅行 一葉、下谷龍泉寺町に転居 「我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし」(一葉日記)
大杉栄とその時代年表(88) 1893(明治26)年7月19日 漱石の友人小屋保治が大塚楠緒子と見合い 子規の東北旅行(1) 各地の有力な俳諧宗匠を訪ねて俳話を楽しむという目的は期待外れ
大杉栄とその時代年表(89) 1893(明治26)年7月19日 子規の東北旅行(2) 「松島の心に近き袷(あわせ)かな」 「秋風や旅の浮世のはてしらず」 「われは唯旅すゞしかれと祈るなり」
大杉栄とその時代年表(99) 1894(明治27)年2月26日~30日 一葉、田中みの子の家で中島歌子・田辺花圃を批判 一葉「花ごもり」其1~其4(『文学界』第14号)
大杉栄とその時代年表(105) 1894(明治27)年5月2日~16日 第1次甲午農民戦争始まる 黄土峴の戦いで農民軍勝利 第6議会開会(対外硬派が主導権掌握) 北村透谷(25)の自死
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