「戦争を想像する」帚木蓬生(ははきぎほうせい)(『朝日新聞』2014-08-06)
47年生まれ。「逃亡」で柴田錬三郎賞、「蝿の帝国」「蛍の航跡」で12年の日本医療小説大賞受賞。ほかに「三たびの海峡」「水神」など。
手記の細部つなぎ
使命果たせない
軍医の無念さ見た
いまだからできる
あの時代の俯瞰
たわけ者に戻るな
戦争とは何か。
その本質を、長く平和の時代を生きてきた私たちは想像できているのだろうか。
「あの戦争」の悲惨から学んだ教訓は、戦争体験者とともに消えゆく運命にあるのか。
戦後の生まれでありながら、多くの犠牲を払った昭和の戦争にこだわり続けてきた作家・精神科医
の帚木蓬生さんに、戦争と想像力について尋ねた。
■まるで戦地を見てきたかのような作品を多く書いておられます。
「よく驚かれるんです。えっ、戦争を知らない世代ですかって。故郷福岡の小郡は戦災も受けず、美しい田畑が広がる田舎町で、戦争にまつわる記憶といえば博多駅前で傷痍軍人を見かけたぐらいでした」
「実は親父が香港で憲兵だったんです。日本が戦争に敗れると、戦犯として捕まりました。ただ親父は戦後一切、当時の話をしなかった。釈放後は久留米で保険会社に勤め、転勤拒否をして、万年ヒラの会社員のまま58年の人生を閉じました」
「それから15年ほどたったころです。私は作家としてデビューしていました。そういえば俺は親父のことを何も知らんなあ、と気付いたんです。そこで週刊誌に、父のことを知る人はいませんかと尋ね人を出しました。昔の同僚が連絡をくださり、そのつてで更に2人が見つかって当時の話を聞いた。これは書いておかんといかん、と思いましたね」
■何を書きたいと?
「親父が感じたに違いない理不尽さですよ。いけいけドンドンの国の命令で香港に送り込まれ、戦地憲兵となった。軍紀を守るのが主な仕事である内地憲兵と違って、戦地憲兵はスパイの役割を担わされました。民間人を取り調べ、対象には英国人も含まれた。戦争ですから暴力もあったでしょう。でも、お国のために任務を果たしたのです」
「その行為が、戦後になると犯罪とされた。逃げ出した親父は敗戦翌年、身分を偽装して何とか日本に帰り着いたものの、今度は日本の警察から追われたんです。英国からの手配を受けた、BC級戦犯として。さぞ悔しかったろうと思いますよ」
■国に裏切られたわけですね。
「そうです。愚か者の指導者が始めた戦争なのに、その尻ぬぐいを末端の親父にまでさせようとした。それまでは私も、『A級戦犯は罪が重く、BC級は軽い』ぐらいにしか考えていなかったのですが、調べて驚きました。政府や軍の指導者が裁かれたA級では死刑は7人だったのに、個々の行為の責任者や実行者が裁かれたBC級では1千人近くも死刑になっていた。人違いの処刑もあったようです。日本が侵略した国々の怨念を鎮めるための、いわば人身御供とされたわけです」
「九州から山陰、関東へと逃げた親父はついに茨城で捕まりました。身柄は警視庁から巣鴨プリズンに送られ、香港の法廷で裁きを受けるため現地に移送される手はずだった。ところが、いよいよ送還という1948年末に現地法廷が閉廷となったんです。ひたすら逃げて逃げて、時間を費やしたことで命を拾った。すぐに釈放された親父はその足で憲兵隊の元上司を訪ね、『ただいま帰って参りました』と敬礼すると男泣きに泣いたそうです。そんな話を聞き、想像を膨らませて書いたのが『逃亡』です」
■ ■
■戦争とは何か、理解するうえで必要なものは何でしょう。
「いわゆる戦記ものに、私は不満を抱いてきました。象の細い尻尾をなでて、これが戦争だという人もいれば、長い鼻が戦争だという人もいる。戦争体験者はとかく自らの狭い体験にこだわりがちです。それでは戦争の全容は見えてこない。たとえば硫黄島には45年2月に米海兵隊6万人以上が上陸し、死闘が繰り広げられましたが、近くの父島は米軍に素通りされ、闘った相手はむしろ飢えと病魔でした。わずかな違いで月とすっぽんの差があるのです」
「戦地に散らばった大勢の軍人の目に何が映ったのか。その集積を通じて、戦争とは何かが描けるのではないか。そう考えて、軍医たちが書き残した膨大な数の手記を20年かけて集め、読み込みました。細部にこだわって読んでいると、逆に全体が見えてきた。あちらこちらにある別々の細部をつなぎ、理解をどんどん広げていくうえで必要なのが、想像力でした」
■細部というのは?
「たとえば、兵士たちが下痢に苦しみながら退却する光景です。戦地では水、食料も体力も尽き果て、つい道端の濁り水をのんでは腹を下すんです。それでも逃げ続けるときに、まずは衰弱した兵から先に出発させた。さすがに置き去りにはできませんから。でも軍医にはわかるわけです。彼らの体力がもたず、途中で倒れてしまうことが。実際、後から進んでいくと先に出発した兵が右にも左にも倒れて息絶えている。そんな出発を見送るとき、『俺はいま生きている死者を見ているんだ』と書いた軍医がいました。これは想像では書けない」
■作家の想像力を駆使して見えた戦争とは何ですか。
「軍医の場合は手術道具もない、薬もない、何もかも失った戦地で、戦死者の名前だけ書き取って持ち帰る有り様でした。ようやく治癒した兵士に対しても、日本の故郷に帰れと言えるはずもなく、再び戦場に送り返した。また死にに行ってこい、と命じるようなものです。命を尊ぶ医療を志した著者たちが、正反対の行為を強いられたわけですよ。無念でたまらなかったはずです。職能集団が本来の使命をずたずたにされ、その機能を果たせなくなる。これが戦争の本質だと思います」
「記者だって、戦争が始まれば自由にモノが書けなくなるんですよ。兵士ですら、敗走を始めたら鉄砲も弾薬も尽きて戦うことができなくなる。弁護士だって学者だって同じでしょう。自分たちの職能集団としての機能が、より発揮できる世の中にするにはどうすればいいか。日ごろから考え、志をもって行動する。そうやっている限りは、この国が再びつぶれることはないと思う」
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■精神科の開業医でもいらっしゃいます。医師の目に、いまの社会はどう映っていますか。
「精神科医になって36年。いまは福岡県中間市の、筑豊電鉄の駅前にクリニックを開いています。この辺は昔は炭鉱銀座として栄えたんです。たまたま今日診察した母子家庭のお母さんは、下請けのパソコン入力の会社で10年働いても時給が730円のまま上がらず、雇用保険もない。そんな職場が最近ごろごろあります。世の中全体が過酷な労働を強いられ、思いやりや寛容さが消え、心の余裕を奪われている。いま自分が生きているのはどんな時代か、考える力も失いつつある。社会の底に大きなひびが入っています」
「そこに今度はカジノまでつくりたいというんでしょう。日本はすでにパチンコ、競馬、競輪のギャンブル大国なのに。ますます殺伐とした社会になるのは目に見えている」
■安倍政権は集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をしました。
「何か架空の物語を押しつけられている感じがします。抑止力とか言って、戦争はどこか遠い南の島の話だと思い込んでいませんか。でも戦争はいったん始まったら制御できないんです。真っ先にやられるのは東京であり、原発ですよ。日本の破局につながり、勝ちも負けもない。戦争が始まったらどうなっていくか、想像する力がいまの社会は弱まっているのではありませんか」
■あの戦争で学んだ教訓は引き継がれなかったのでしょうか。
「戦争に負けたことを早く忘れたかったのか、軍国主義に走った過去を消し去りたい人が多かったのか。きちんと現代史に向き合わず、必要な教育もしてこなかったつけが回ってきたように思います。やられたらやり返す、なんていう言葉が出回り始めたのは」
「でも知らないことは案外、悪いことではないんですよ。知ったときの驚きがあり、怒りもわいてきますから。私白身、朝鮮人が戦前・戦中に日本に連れて来られ、炭鉱で働かされていたことも知らなかった。26年前、筑豊の病院に赴任して初めて知ったんです。炭鉱で亡くなった朝鮮人労働者の墓の写真を見て衝撃を受けました。ぼた山の片隅に石ころが無造作に並んでいた。まるで犬猫のように埋められるなんて、あってはならんと思った。よーし、この人たちの無念を書いてやろう、と徹底的に調べ始めました」
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■過去の歴史を知る手がかりは今は探せばあるわけですね。
「今だからこそ、偏見にとらわれない自由な目で、あの時代を見つめ直すことができると思うんです。むしろ現代に生きる私たちのほうが、様々な事実と知見を踏まえ、あの時代を俯瞰できる特権的な立場にいる。第1次世界大戦だって、100年たった今年になって新しい資料や論考が次々に出ています」
「自らの歴史を、どうとらえ直すか。そのやり方が、日本の将来を決めていくんでしょうね。真実から目を背け、言葉をもてあそび、失敗を糊塗するようでは、たわけ者の時代に逆戻りでしょう」
(聞き手・萩一晶)
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