2016年3月7日月曜日

元亀4/天正元年(1573)8月1日~8月15日 信長、調略により浅井方支城を開城させ、進出してきた朝倉義景軍を攻撃 更に退却する朝倉軍を追撃しこれを壊滅 [信長40歳]

千鳥ヶ淵緑道 2016-03-02
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元亀4/天正元年(1573)
8月
・武田勝頼、三河に馬場信春・小山田信茂・土屋昌次・武田信豊3千、遠江に山県昌景・一条信竜・穴山信君・武田信廉5千を進出させる。
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・北條氏政、上野に出陣。
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・高山右近、荒木村重より高槻城を与えられる。
右近はフロイス、ロレンソらを城に迎え、キリスト教義を学び、その後一貫してキリシタンとしての模範的な歩みを始める。
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8月2日
・長岡藤孝・三渕藤英ら、山城淀城(伏見区淀)攻撃、陥落。岩成友通討死(三好三人衆、もとは義昭の仇敵。2年前に服属、義昭の信頼厚く淀城を預けられ信長に対抗)。他に番頭大炊頭・諏訪飛騨守が籠っていたが、秀吉が調略し内応。
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8月4日
・信長、岐阜へ帰還。
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8月6日
・朝倉義景、軍議での反対を押し切って柳ヶ瀬、さらに木ノ本の田上山まで軍を進める。
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8月8日
・夜、信長、岐阜を出陣。
小谷に近い浅井方小谷城支城山本山城(滋賀県東浅井郡湖北町)阿閉貞征(アツジサダユキ)父子(浅井郡~伊香郡~竹生島を支配する有力な国人領主)、降参の報を受け。
進軍途中で、部将たち(佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、その他美濃・近江の部将たち)の到着を待ち、人数を整え小谷城(浅井郡湖北町)近くまで進む。

「八月八日、江北阿閉淡路守御身方の色を立て、則、夜中信長御馬を出され、其夜御敵城つきがせの城(月ヶ瀬城)あけのき候なり」(「信長公記」巻6)。

山本山城は小谷城の西方約6kmにある。朝倉軍が小谷救援に南下する時に通る、余呉・木ノ本を臨む重要な地点。信長は、最後の決戦の覚悟で岐阜を出陣した。
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8月9日
・浅井方月ヶ瀬城(滋賀県虎姫町月ヶ瀬)月ヶ瀬忠清、城退去、開城。
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8月10日
・信長、佐久間・柴田らを大嶽(オオズク)北方の山田山(540m)に着陣させ、自身はその西麓の高月(伊香郡高月町)に陣をおき、越前への交通を遮断。越前から小谷に進む朝倉軍に備える布陣。

大嶽(495m):
浅井氏の小谷城(390m)に並びそれを見下ろす位置にあり、小谷城にとって大嶽の砦は詰(ツメ)の城(最後の拠点となる城)。前年の対陣の際、朝倉軍はこの山に布陣し信長の挑発に乗らず、信長軍が引き揚げるまで動かず。いま、山頂の砦には朝倉兵500ほどが駐まっている。
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8月10日
・上杉謙信(44)、加賀・越中国境の朝日山城(石川県金沢市加賀朝日町)を攻めるが、一向衆の鉄砲攻撃に苦戦(朝日山城攻め)。
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8月11日
・山本山城に続き、月ヶ瀬城(東浅井郡虎姫町)が開城。この城は、秀吉の兵が守る虎御前山砦(同)南方約2kmにある浅井氏にとって最南の城。
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8月11日
・朝倉義景2万、余呉(伊香郡余呉町)・木ノ本・田部山(ともに同郡木之本町)に着陣。

「朝倉記」によれば、家臣筆頭の朝倉景鏡(ヨシカゲ)を派遣しようとしたところ病気と称し断られ、やむなく自ら出陣。そのほか魚住景固(カゲカタ)にも従軍を拒否され、軍勢は少ない。「信長公記」は「二万ばかり」とあるが、5~6千と推測される。
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8月12日
・大嶽麓の焼尾城守将浅見対馬、浅井から寝返り織田軍を引き入れる。
その夜中、信忠(17)を浅井長政への押さえとして秀吉が守備する虎御前山に送り、自ら大嶽(前線基地)の朝倉勢(斎藤・小林・西方院ら越前衆500)を攻撃、陥落。
大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置き、続いて丁野山(ヨオノヤマ、越前平泉寺の玉泉坊が籠る、木之本町)攻撃。朝倉兵、戦わず降伏退却。
信長は、大嶽・丁野山の降兵を助命、朝倉本陣に放ち、朝倉義景に小谷城周辺が殆ど占領されていることを知らせる。退却・追尾戦に持込む作戦。

朝倉方近江丁野城攻撃の際、信長方は、陣僧を篭城の平泉寺宝光院に派遣、「降伏したなら恩賞を与える」と申し入れ(「朝倉始末記」)。敵との交渉に陣僧が派遣。
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8月13日
・信長、山田山に着陣している部将たちに対し、朝倉本陣は今夜、陣払いをして越前に退く、それを見たならば、すぐに追撃せよ、と指令。
この指令は「再往再三」出されたという。信長には確信があった。信長は、3年前の志賀の陣の時、前年の対陣の時に、朝倉義景の戦い振りを見ている。決断力がなく、一か八かの戦いはできない。身を守る安全地帯がないと知ったならば、越前に引き返す、と確信していた。
追撃こそ敵兵を大勢討ち取って、戦いの帰趨を決定づけるチャンスである。だが、部将たちのいる山田山から朝倉本陣までは約5km。すぐに追撃を始めなければ追いつくことができない。そうした気負いが「再往再三」の催促になった。
そして、信長の予測は当たった。
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8月13日
・夜、信長、田上山に布陣する朝倉義景を破り、退却の朝倉勢追撃。
朝倉軍は北国街道と刀根・疋壇(ヒキタ)経由敦賀方面の二手に分かれて退却。
織田軍は朝倉義景を追って刀根・疋壇を追撃。
朝倉方は刀根で織田軍を止めようとしここで激戦。
朝倉方は守りを破られ、朝倉一族及び主だった侍大将殆ど(朝倉景氏、同景冬、同景遐(カゲトウ)、同道景、山崎吉家、鳥居景近、詫美(タクミ)越後守、青木隼人佑、印牧弥六左衛門など)討死。斎藤龍興(26、前美濃稲葉山城主)討死。
義景、越前府中館に達する。

部将より先に信長が追撃に出る
信長は今夜にも朝倉勢が退却すると読み、先手諸将にその旨を伝え、退却を逃さぬよう再三命じる。
夜、朝倉軍が退却を始めるが、山田山の信長部将はそれに気付かず、信長が先に馬廻りのみ率い、諸将に先んじて朝倉軍を攻撃。
信長が動いたことで朝倉退却を知った部将たちは、後を追い木ノ本近くの地蔵山で信長に追いつく。
信長は諸将(佐久間信盛・滝川一益・柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆(ヨリタカ)・羽柴秀吉・氏家直通・安藤守就(モリナリ)・稲葉良通(一鉄)・同貞通・同典通・蒲生賢秀(カタヒデ)・同賦秀(マスヒデ、氏郷)・永原重康(筑前)・進藤賢盛(山城守)・永田景弘(刑部少輔)・多賀常則(新左衛門)・弓徳(キュウトク、久徳)左近・阿閉貞征・同貞大(サダヒロ、孫五郎)・山岡景隆・同景宗・同景猶(カゲナオ))を叱責、佐久間信盛は信長に抗弁、信長の怒りを招き、7年後の追放の一因となる。

信長、佐久間信盛が涙を流しながら「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷」(我々程の家臣は中々持てない)と「自讃」したことに対して激昂。佐久間信盛へ「其方は男の器用を自慢にて候歟、何を以ての事、片腹痛き申様哉」と言い放ち「御機嫌悪く」なる。(「信長公記」6)
この時の部将の構成
①佐久間信盛--永原重康(筑前)、進藤賢盛(山城守)、山岡景隆・同景宗・同景猶。
②柴田勝家--蒲生賢秀(カタヒデ)・同賦秀(マスヒデ、氏郷)、永田景弘(刑部少輔)。
③滝川一益。
④蜂屋頼隆。
⑤羽柴秀吉--弓徳(キュウトク、久徳)左近、阿閉貞征・同貞大(サダヒロ、孫五郎)。
⑥丹羽長秀--多賀常則(新左衛門)。
⑦美濃三人衆(氏家直通・安藤守就(モリナリ)・稲葉良通(一鉄)・同貞通・同典通)。①佐久間~⑥丹羽は、信長の尾張一国時代からの部将。
⑦美濃斎藤氏の旧臣。蒲生・永原・進藤・山岡氏らは近江国衆(六角・浅井氏の旧家臣で、信長上洛かそれ以降に信長に従う)で、元亀期(1570~73)に尾張以来の部将の「与力」として附属させられる。

信長の本陣を固める「馬廻」
「甫庵信長記」「『当代記」には、「馬廻」として前田利家・佐々成政・戸田勝成・下方(シモカタ)貞清・岡田重善・同重孝・赤座永兼・高木左吉・福富(フクズミ)秀勝・湯浅直宗・土肥助次郎・織田順元(ノブモト)があり、「信長公記」には、この戦いに参加した馬廻として、これらの他に塚本小大膳(コダイゼン)・不破光治・同直光(光治の子)・丸毛光兼・同兼利(光兼の子)・兼松正吉がある。
「馬廻」にはその分限(身分の程度)に著しい差があり、前田利家・佐々成政らは兵100人以上を従える身分であり、兼松正吉・土肥助次郎らは一騎駆けの武士である。

信長、14日朝までに敦賀に入り、16日迄逗留。
17日、木目峠越え、越前へ乱入。
18日、府中竜門寺に進む。

粟屋勝久・逸見昌経・山県秀政・白井勝胤をはじめ、内藤・熊谷・香川・寺井・松宮・畑田氏らの旧武田家臣らは信長を敦賀郡の道口まで出迎え、粟屋勝久らは一乗谷へ出陣し朝倉氏攻撃に加わる(「若州国吉篭城記」)。
この年、将軍義昭没落後、朝倉方の武田信方・山県秀政らは信長方に寝返り、武藤友益・粟屋右京亮は討たれ、大飯郡の彼らの所領は闕所とされる(「信長公記」巻14)。
旧武田家臣は再び信長の下に束ねられ、若狭支配は信長の手中に握られることになっていた。後、信長家臣の丹羽長秀が入部すると旧武田家臣はその「与力」として再編成され、天正3年(1575)越前一向一揆討伐をはじめ、丹羽氏と共に各地を転戦(「信長公記」巻8~11)。若狭支配に旧武田家臣が登用されていく。
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8月14日
・疋田城まで退いた朝倉軍の朝倉景健・景胤・詫美越後、信長軍に切り込み、壊滅。
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中旬
・作手城奥平貞能・信昌父子、家康に奔る。
20日、家康、誓書を与え、本領安堵や信昌に長女亀姫を嫁がせることなどを約す。
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8月15日
・朝倉義景主従、一乗谷着。
16日、朝倉義景、大野郡山田庄の六坊賢松寺(大野市)に退却。柴田と稲葉ら美濃3人衆が追撃。
同日、義景、娘2人と茶入を福島石見守に預け落ち延びさせる。途中、石見守は坂井郡鳴鹿の村人に殺害。

義景の娘2人は加賀に逃れ、姉は比丘尼になり、妹は「河合の郷の八杉木兵衛と云う者、具して、御喝食を大坂へ昇らせ申しけり。今の門跡(教如)の后婦は、義景の息女にて渡らせ給いけるとなり」(『朝倉始末記』五)とあるように、以前の約束どおり顕如の子教如の内室になっている。
この義景の娘が教如の内室になっていたのは、何時までであったのか、死別したのか、離別したのかは、まったく不明。教如が天正8年8月2日に石山本願寺を退去したとき、「御離別されし歟(か)」(『集古雅編』下)とも、「御内室は、安芸仏護寺へ逃れ落ち給う」(『金鍮記』)と江戸期の真宗関係本にあるが、彼女の消息はわからない。
教如は、義景の娘と離別した後であろうか、大納言家の久我通堅(みちかた)の娘(東之督、清福院)を迎えたものの離別している。この離別には、教如の愛妾の「御ふく」(教寿院)が関わっていたと推測される。
これが教如の実母如春(によしゆん)の怒りをかって、教如は本願寺門跡を追われる遠因となる。
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