2016年5月25日水曜日

詩人茨木のり子の年譜(1) 1926(大正15)~1945(昭20)19歳

鎌倉 大巧寺 2016-05-24
*
1926(大正15)年6月12日
宮崎洪(ひろし)と勝の長女として、父の赴任地の大阪(回生病院)で生れる。
父はスイス留学の経験もある長野県出身の医師、母は山形県庄内出身。
茨木のり子はペンネーム。本名は三浦のり子(独身時代は宮崎のり子)。

父・宮崎洪;
宮崎は信州・長野の出身で、生家は善光寺門前で味噌・醤油を商っていた。
1920(大正9)年、金沢医学専門学校(後の金沢大学医学部)を卒業、病院勤務を経て、スイス・ベルン大学に留学、「ドクトルメヂチーネ」(医学博士)となる。
帰国後、済世会大阪病院耳鼻咽喉科医長となり、大阪在住時に長女のり子が誕生。
その後、京都帝国大学医学部解剖学教室専修科生、医学部副手などを経て、1932(昭和7)年、西尾に、さらに吉良に居を構える。
1942(昭和17)年、吉良吉田駅前に宮崎医院を開く。
宮崎医院は現在三代目(二代目はのり子の弟・英一、三代目は英一の長男で、のり子の甥の宮崎仁)が継いでいる。
のり子の夫も医師で、夫、父、弟、甥と、彼女の周辺は医師たちの家系が続いている。
もう一人の甥、英一の次男・宮崎治も国立成育医癒研究センターの勤務医。

茨木 ・・・父は長野県人。末っ子で後を継がなくてもよかったものですから、金沢医大を卒業してドイツへ留学して、戻って来て就職するについて愛知県に来たんです。
・・・
茨木 初めは大きな病院の副院長をしてまして、途中で戦争中無医村みたいなところがたくさんできまして、町議会で医師を招く運動があって、それで吉良吉田というところへ行ったわけです。
大岡 ああ、吉良上野介のね。
茨木 そこで開業したんです。
大岡 その時初めて開業されたんですか。
茨木 ええ、私が女学校を卒業するくらいに開業したんです。おそいんですよ、とても。それまでは勤務医でした。私は物心ついたら愛知県で育っていた、ということですね。京都で研究生活したときもあって京都でも暮らしましたし、幼稚園のとき愛知県へまいりました。・・・
(大岡信との対談「美しい言葉を求めて」 谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)

母・大滝勝;
1905(明治38)年、山形県東田川郡三川(みかわ)町の庄内平野有数の大地主の家に七人兄弟姉妹の次女として生まれる。
当主は、江戸・天保年間には江戸城西丸普請に冥加金を献上したと三川町史に記載されている。
戦後の農地改革によって豪農の世は終わるが、イギリス人研究者ロナルド・ドーアは大滝家に滞在し『日本の農地改革』(岩波書店、1965)という書物を書き残している。
勝は、明治の終わりから大正はじめにかけて小学校や女学校に通っている。女学校は鶴岡にある鶴岡高等女学校(現県立鶴岡北高校)。

1928(昭3)2歳
弟英一生れる。家庭内では母がしゃべる庄内弁をたっぷり浴びて育つ。"

1931(昭6)5歳
父の転勤により京都に転居。京都下総幼稚園に入園。"

1932(昭7)6歳
愛知県西尾市に転居。

1933(昭8)7歳
愛知県西尾小学校入学。
母の影響で宝塚に夢中となる。

茨木 ・・・子供時代には宝塚ファンで、よく見ました。亡くなった母が好きでしたから。私も夢中になって。舞台の魔力はまず宝塚から。・・・」
(大岡信との対談「美しい言葉を求めて」 谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)

1937(昭12)11歳
母・勝が結核で没。のり子は小学校5年生。

1939(昭14)13歳
愛知県立西尾女学校入学。「活字の虫」のような本好きで、夏目漱石、森鴎外、中勘助、佐藤春夫、吉川英治、林芙美子、吉屋信子、横光利一などを手当たり次第に読む。
この年、第二の母のぶ子を迎える。

1941(昭16)15歳
太平洋戦争勃発。
全国で最初に校服をモンぺに改めた学校で良妻賢母教育と軍国主義教育とを一身に浴びる。

1942(昭17)16歳
この年の秋、いまの名鉄西尾線・吉良吉田駅前(愛知県幡豆郡吉良町吉田)に、父、宮崎洪が宮崎医院を開く。
この頃、吉良は無医村状態で、町議会が隣町・西尾の山尾病院副院長の職にあった宮崎に懇願し、医院開設となった。
三河湾に画した吉良町に転居。

1943(昭18)17歳
「女も資格を身につけて一人で生き抜く力を持たねばならぬ」という開明的な父の方針により、東京・蒲田にあった帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現・東邦大学)薬学部に入学。
父の敷いたレールに乗って薬学を学びはじめた茨木であるが、まるで向いていない世界であった。
勤労動員と空襲がはじまり、学校での勉学は有名無実となっていく。
6月、山本五十六元帥の国葬に一年生全員参加。

新刊本が少なかったこの時期、『万葉集』(武田祐吉編)を買い求め、熟読する。

茨木 ・・・、私の少女時代には、それこそ新刊本は無くて、読むものは古典くらいしかない。だから万葉集なんてよく読みましたよ、くりかえし。
大岡 ああ、そうですか、やっぱりね。
茨木 十代の後期 - 十七歳位の時。
戦争中だったから「み民(たみ)あれ生ける験(しるし)あり」とか、「醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つわれは」などがもてはやされたわけですね。私はむしろ、若いから恋歌とか東歌に夢中になっていましたけど、ただ、学校で万葉集なんて習った覚えはないんですよね。教科書には古今集の十首くらい。万葉集は入っていなかったんです。
大岡 へ-え、それはユニークな教科書だったんだね。
茨木 それでね、私は自分で買って読んだ。武田祐吉編の、ザラ紙で印刷も悪いすさまじい製本のですが未だに愛着があって捨てられないんです。それを持ってお嫁に来て、まだあるけれど。
大岡 それも一人で発見したということですね。恋歌といえば、巻の一に出てくる額田王あたりから始めるということになりますね。」
(大岡信対談)

1945(昭20)19歳
この年から、医学系の女子の専門学校にも動員がかかる。
この年の夏、茨木は世田谷区上馬にあった海軍療品廠、海軍のための薬品製造工場に泊り込みで詰めていて、「ろくにお風呂にも入れず、薬瓶のつめかえ、倉庫の在庫品調べ、防空壕掘りなど真黒になって働き、原爆投下のことも何も知らなかった」とある。
東京の空は日夜、爆撃機B29が来襲した。空襲警報が鳴り、防空頭巾をかぶって防空壕に入る日々 -。インタビュー集『二十歳のころ』ではこう語っている。

敗戦放送の翌日、友人と二人で郷里に向かう。東海道線は大混乱で、蒲郡までたどりついたが、無賃乗車であった。郷里の吉良は、東京の激動と混乱が嘘のようにのんびりとしていた。
秋になって、再び上京。大森の軍需工場の跡地が学校の仮の寮となっていた。

(その2)に続く


★基本情報は下記に拠った
『清冽―詩人茨木のり子の肖像』(後藤正治 著)








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