2016年5月5日木曜日

堀田善衛『ゴヤ』(97)「戦争の惨禍」(2) 第一次サラゴーサ包囲戦  「かくて六一日間にわたる、細い路地で家々を、各階を、各室を争う、酷烈な市街戦が終った。この戦いに従事したフランスの将軍や兵の回想録は、そのほとんどがサラゴーサ市民の英雄的かつ献身的な郷土愛を称えている」

ゴヤ『戦争の惨禍』7 「何と勇ましい!」 1808-14
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 ゴヤは一八〇八年の一〇月と一一月、最大限で一二月の半ばまでをアラゴン地方ですごしている。この旅行は、・・・サラゴーサのパラフォックス将軍の招待によるものであり、ゴヤは可成りに意気込んでこの旅に出ている・・・
フランスのアンダルシーア派遣軍とポルトガル派遣軍の壊滅後の諸情勢と、特にアラゴン地方及びサラゴーサで何が起っていたか・・・

 ・・・両軍団の壊滅はマドリードに決定的な衝撃を与えた。ホセ一世(ジョセフ・ボナパルト)は七月二五日にマドリードに入りながら、一二日目の八月五日にはもうマドリードを出てアランダ、プルゴス経由エプロ河の北のビトーリアへと退避しなければならなかった。・・・アンダルシーアでの潰滅事件の後に、全軍を置ちにエプロ河の北方に引き揚げる決定をしたとき、ナポレオンは、
- あっち(スペイン)にいる連中は、あれは将軍たちではない。駅逓の駅長どもだ。
と言って逃げ足の早さを揶揄している。けれども、そのための理由に事欠きはしなかった。敵意に満ちて、隙あらば襲いかかろうという住民、極暑極寒の耐えがたい気候、荒涼たる不毛の地での糧食不足。脱走兵も多く、勝手に休暇をとってパリへ帰ってしまう将校たち。・・・

 ところで、この当時のサラゴーサは、人口五万五〇〇〇で住民の対仏抵抗の意志は全スペインの郷市中ではもっとも強かった。

 この町から颯爽たる二八歳の青年将軍にひきいられた五〇八〇人の新編部隊がフランス車との戦いを求めてエプロ河の上流へ出撃した。六月一三、一四日の両日、四〇〇〇のフランス車と会戦をして、大敗、というよりは軍はたちまち蒸発してしまい、パラフォックスがいのちからがらでサラゴーサヘ逃げ帰って来たときには手兵わずかに二五〇人。

 ・・・しかしこの町(サラゴーサ)の住民こそは、”釘を与えられればトンカチでではなくて、自分のドタマでぶち込む〞と言われている頑固かつ強情無類のアラゴン魂の持ち主である。・・・独立不羈の魂こそがサラゴーサの城壁であった。

 ・・・サラゴーサ包囲戦とはいうものの、フランス軍が市中に突入しての以後は、実にこの見えざる城壁との死にもの狂いの市街戦となった。大通りは別として、この町もコルドバ同様に七世紀にもわたってイスラム教徒の支配下にあったのであり、ユダヤ人も多かったから、下町地区は今日でも道幅は二メートルもない迷路である。フランス軍はこの迷路の町を一つ一つ、地区ごとに、家ならば各階、各室の全部をしらみつぶしに掃討して行かなければならなかった。女も子供も戦ったのであってみれば、双方ともに犠牲は大きかった。

 犠牲は大きかったのであるが、しかし、フランス軍はどうしても全市を制圧することはできなかった。それに住民の燃えるような敬意に逆に包囲されていたのでは、たとえ戦闘が中絶しても安閑として駐屯などしていられなかった。それに交通が途絶えて糧食が足らぬ。撤退と侵入が繰りかえされた。

 ・・・七月一日、サラゴーサの名を世界にとどろかせる一事件が起った。
 事件はマリア・アグスティンという若い女性の名をもっていた。市の東端、現在では闘牛場のある広場に大砲が一門据えつけてあった。彼女はこの大砲に配属された兵士の許婚者で、この兵士のところへ昼御飯をもって行った。ところがその兵士をも含めて全員が倒れ、一人は火のついた火縄をもったまま息が絶えていた。そこでマリアは、その火縄をとり、自ら大砲をぶっ放した、というのである。

 ゴヤがそれを目撃していたということはありえない。彼は聞いた話を描く名人である。そうしてこの「何と勇ましい!」と題された一枚は大層有名なことになってしまったが、しかし、これを時間をかけてじっと眺めていると、少々不思議な気がして来るのである。

 この一枚は、大砲ばかりが大きく目立ちすぎ、その大砲の右隅にフランス兵らしいお椀帽の頭だけがのぞいているのだが、他の版画の数々に比べてみて、どうにも構図が簡単すぎ、第一この大砲をどこの誰に向けて射とうとしているのかがまるでわからないのである。彼にもこのアグスティン挿話について感動があったとしたら、もう少しどうにか恰好のついたものを描いた筈ではなかったかという疑問がのこる。

 少しおざなりではないか、という感ものこるのである。それにこの大砲が据えつけられていた場所からは、異端審問所の監獄の建物が見える筈であり、またこの方角に、大砲の筒口の背景としてのピラミッド型の大きな山などは到底見えない筈である。

 伝説によれば、マリア・アグスティンはここでひとり大砲を射ち続けて婚約者もろとも戦死したことになっているが、事実は戦後に夫に従ってモロッコのメリーリアに行き、静かな生活を送っているようである。

 私にはこの一枚が、八月に入ってマドリードで上演された愛国劇『アラゴンの愛国者たち』という、マリアという女性が主人公になった芝居の印象に拠って描かれたものであろうと思うことを避けられない。

 八月四日、フランス軍は総攻撃をかけた。市の半分は掃討され、あわや全市がと思われたとき、攻撃軍の主力部隊は道を間違えて下町の迷路に迷い込み、袋小路に詰め込まれて大きな損害を出した。

 全市制覇も間近かと思われたとき、仏軍には北方のパンブローナへの撤退が命ぜられた。バイレーンでの〝敗北〞がその理由であった。八月一三、一四日の両日の夜、フランス軍は全軍サラゴーサをあけ渡した。・・・これが第一次サラゴーサ包囲戦と称されるものであった。

 八月一七日、アラゴン地方に一兵もフランス兵がいなくなってから、パラフォックス将軍は、セピーリァからやって来た援軍の指揮官カスターニォスとともに、堂々の凱旋入城式を行った。・・・

 ともあれ、かくて六一日間にわたる、細い路地で家々を、各階を、各室を争う、酷烈な市街戦が終った。この戦いに従事したフランスの将軍や兵の回想録は、そのほとんどがサラゴーサ市民の英雄的かつ献身的な郷土愛を称えている。

 しかしそのあとが、バイレーンでのフランス軍の”敗戦”とその後の運命とは違った意味で、これまた目の玉を大きくひらき、耳もそばだてて注目しなければならなくなる。

 一〇月二〇日に、パラフォックス将軍とセピーリァの正規軍指揮官カスターニォス将軍の共催で、勝利一大祝賀大宴会が催された。ゴヤはおそらくこの祝賀会に招待されたものと推定される。

ゴヤはこのときまではアカデミイから依頼されたフェルナンド七世の騎馬像の制作に従事していた。それが完成をして、一〇月二日にアカデミイに対して次のように報告をしている。

画面が乾燥してから、ドン・ホセ・フォルケに掛けに行くように伝えてあります。と申しますのは、私はドン・ホセ・パラフォックス将軍から今週中にサラゴーサに来るようにいわれているからですが、それは同市の荒廃の様を見て、サラゴーサ人の栄光を描きとめるためであります。私は、祖国の栄誉に非常な関心をもっておりますので、この招待を断わる訳にはまいりません。云々。

ゴヤは、文面からも察せられるように、この旅に可成りの期待を、気合いをいれていたと思われる。
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