《子規の妹、正岡律のこと》
早坂暁「子規とその妹、正岡律 - 最強にして最良の看護人」(正岡子規『仰臥漫録』附)より《子規の妹、正岡律》に関するノート
「『根岸夜話』という、可憐な本がある。
上野に近い根岸で、江戸時代から将軍家出入りの瓦屋、”瓦亀”に生まれた大熊利夫さんが、昔から文人墨客が住んだ町内のあれこれを書き綴ったものだが、・・・まことに可愛らしい町内のミニコミ本である。
その夜話の八番目に、「律女看病記」と題したものがある。
(略)
寝床の子規は、毎夜、カリエス患部の繃帯がえで、痛さに絶叫する。その声は、のちに国鉄鶯谷駅が設けられるあたりまで届いたというから、まさに瓦亀さんあたりまで、ゆうに届いただろう。
瓦亀さんちの大熊さんは、こう語っている。
「わたしは、子規先坐があれだけの文学上の功績をおあげになった陰の力として、子規先生の妹律さんのことを、誰かが書かなければいけないと思っていたんですよ。律さんのご苦労は、それはそれは大変なことだったんですから (……)」」
「大熊さんは『根岸夜話』で語る。
「律さんは (・・・) 三つちがいの妹です。結婚もされずに子規先生の看病で一生を終られたような人です」
さらにこうも語っている。
「子規先生がお亡くなりになったんで、(・・・) お母さんの面倒を一切律さんがみなければならなくなりました」
つまり町内の人たちは、律さんという女性の、看護の戦いがずいぶんと長いものであったことを書いてあげてほしいと、言っているのだ。まさに看護は、男とは違う女の”長くて、辛抱の戦場”だった。」
「律さん必死の勉学
・・・・・
・・・律さんは子規の死後に、共立女子学園、そのころの共立女子職業学校に入学、さらに卒業してから、裁縫の技術を磨き、母校である共立女子職業学校の教員となり、十四年間勤め上げているのだ。共立女子学園には、律さんの履歴がきちんと残されていた。次の写真を見てもらいたい。これは子規の死後三年の、明治三十八年(一九〇五)三月に、共立女子職業学校を卒業したときの写真である。
見てすぐわかるように、律さんは同級生よりもかなり年上だ。このとき律さんは、なんと三十五歳だったのた。
この共立女子職業学校は、自立した女性の育成を目的として、東京の中心地に名士の鳩山春子さんを含む三十四名の有識者が集まって明治十九年(一八八六)に設立された。共同で設立した学校なので名前が共立なのだ。
・・・・・
律さんが職業婦人を目指したのは、正岡家が長男の子規こと升を失って、律さんが戸主となり、年老いた母の面倒を見なければならない事情が第一であったのだが、実は、律さんは、〝勉強〞をしたかったのである。
病臥する子規の口述を筆記し、膨大な日本の俳句の分類を手伝わねばならなかったころ、その子規さんの仕事を支えるに当たって、あまりにも律さんは文化を知らなさすぎた。余命いくばくもない兄の子規は、病苦の中で、妹の律さんに「馬鹿」とか「阿呆」のきつい言葉を浴びせたという。
無理もない。明治のころの普通の女子は、漢学の勉強をさせられることもなく、学閥と無縁のところにいた。女は結婚して、子供を産み、義父母に仕えて家事に尊念するのが務めであったのだ。
- 兄は、俳句革新の道半ばにして倒れた。そのあとを何とか継いでいくためには、戸主として家計を安定させた上で、文化の勉強が必要だった……。そのために、女子の自立の旗をかかげた共立女子職業学校に入学したのた。それ故か、律さんは若い仲間に気おくれもせず、常に成績がトップだったそうである。・・・・・」
「二度の結婚と離婚
共立女子学園の図書館には、同校を卒業し、教員として奉職もした律さんの公式年譜がつくられている。
それによると、兄・正岡子規さんの三歳年下の妹として明治三年(一八七〇)に生まれたとあり、そしていきなりの感じで、明治十八年(一八八五)に従兄・恒吉忠通と結婚となっている。年齢をみると、十五歳である。やや若すぎると思ったが、日本が近代国家に成熟するまでは、女子の十五歳は結婚適齢期であった。
夫となる恒吉忠通は、同じ松山藩の士族であり、陸軍大学にあって銀時計をもらうほどの英才だったから、実に良縁であったといえよう。
ところが結婚して二年にして、律は離婚されて正岡家に帰ってきている。
(略)
子規さんの説得によるのか、律さんは二年後に再婚している。相手は松山中学校の教員・中堀貞五郎である。夫になった中堀さんは夏目漱石『坊っちゃん』に出てくる「うらなり」のモデルだという説もある人で、教育熱心かつ実直な人と評判が高かったが、なんと、こちらも一年で離婚となっているのだ。
この破婚は、子規の病気が原因であったようだ。
「兄の看病に、帰らせてもらいます」
と律さんは、夫の中堀さんに宣言したのだと、私は想像する。なぜ、そういうことをするのか - 。ざっくり言ってしまえば、律さんにとって兄・子規が恋人であり、理想の人であったのではないか。
(略)」
「わが兄はホトトギス
子規の主治医であった宮本仲(ちゆう)博士は、こう語っている。
「子規も偉かったが、御母堂と御令妹の奉仕と愛もまた偉いものだった」
子規が身体に何箇所も穴が開き、膿が流れ出し、毎日ガーゼを替えるたび痛みで号泣しながらも、俳句と短歌革新という大業を成就できたのは、母八重と妹の律の献身的な看護と奉仕があったからこそだと感動を込めて話しているのだ。
「ことに妹律さんは、十分表彰されてよい方だと思う」
とも語っているが、律さんは十分表彰されているかというと、残念ながらまことに乏しいと言わざるを得ない。
そう思うのは私一人ではないようで、すぐれた小説家であった山田風太郎さんが、昭和五十一年(一九七六)に書いた「律という女」の一文がある。
「私は『仰臥漫録』を読むたびに、妙にこの女性のことが気がかりであった」
なぜなら、子規の偉業を支えた律は、
「他の大作家の妻の内助の功などというもの以上に偉大なものであったといえるのではないか」
そして、
「律という女性は、子規の歿後どうしたのだろう。どんな運命を辿ったのだろう?」
と書いている。
まったくその通りで、律さんのその後はまったくといっていいくらい検証されていない。
(中略)
すると、子規さんの側近の弟子であった俳人寒川鼠骨さんの一文を見つけたのだ。
鼠骨さんは関東大震災のあと、老朽化した根岸の子規庵を再建し、お律さん(と鼠骨は呼んでいる)と母堂八重さんとは壁一重の隣家に住み、律さんと一緒に子規の遺品や子規魔そのものを護った上、律の最期をも看取った人物である。
その鼠骨さんは、こう書いている。
「子規没後、お律さんはまだ三十一歳。再々婚してもよい年頃であった。実際に、お婿さんに擬せられた人もあった。しかし、お律さんは健気にも独力で家を支持し、令兄の跡を濁(けが)すまいとの決心を固められた」
つまり、お婿さんを迎えることも出来たのだが、自分が正岡家の戸主となったのだから、まず自立して正岡家を維持したいと決心したのだ。自立するには、どうすればいいか。先に書いたように、律さんは、神田の共立女子職業学校に通学して、卒業後はその教員として独立の計を立てたのである。
(中略)
律は職業婦人となって、独立の計を立てたのち、親戚から義子(*)を迎え、正岡家を立派に永続させた。そして子規さんに続き、母・八重さんを看護し、看取るのである。」
(*)律44歳、母八重70歳の時、子規の叔父加藤拓川の三男忠三郎(東京府立一中に入学)が、律の養子として正岡家を継ぐことになる。
「電鈴のボタン
・・・・・
正岡子規の最良の看護人である妹の律さんを支え抜いて、その生涯を看取ったのは、寒川鼠骨さんである。
鼠骨さんが昭和十六年(一九四一)に改造社の『俳句研究』に書いている回想録「律子刀自を懐(おも)ふ」を紹介したい。
「お律さん(私はこう呼んでいた)は、私の宅とは壁一重を隔てる子規庵を護って居られた。
老齢であるにもかかわらず、女中なしで、ひとり寂しく暮して居られた。
それで萬一の場合の用心にとて、私の宅と扉一つで往来できるよう電鈴をつけ、お律さんがボタンを押されると私の宅のベルが鳴るようにしてあった」
つまり、子規庵が再建されてからは、鼠骨さんは、子規庵の隣に家族で住んで、子規庵を護ると同時に、老齢の律さんも護ったのだ。
(中略)
「お律さんは、電鈴のボタンを枕元にして、子規居士の病室だった部屋に、居士と反対の方向である北枕に寝られるのであった。そうした設備をしてから十余年の間、扉の開閉は毎日のようだが、ベルの鳴ったことは一度もなかった」
そして、こうも続けている。
「お律さんは令兄子規居士と反対に、平生極めてお達者であった。身に病あることを知らない人であった。子規居士に似て、ざわめて健啖、南瓜なんかは、私の家人四人が食べる分量を一人で食べられるので、大笑いしたほどであった」
「だから子規居士の五十年忌までは生きているつもりだと語っておられた」
しかし、律さんは七十歳をこえるころから、体に異変がおきるのである。
「ベルは鳴らなかったが、ベルよりも大きな物音が響いた。お律さんの寝室の方からであった。(…:)急いで扉を排してお律さんの寝室へ行ってみると、お律さんは蒲団の上に横たわって居られた。『どうなきったの』。『少し目まいがして倒れましたが、イエ、タイシタこともありません』。『大丈夫ですか』。『大丈夫です、すみません、おやすみ下さい』。その夜はそれだけで済んだ」
翌午前六時、再び大きな物音がした。急いで駆けつけると、お律さんは寝室の次室に倒れていた。
「『小用に行きたいのです』と言われるので、すぐ前の縁側の便所へ後ろ抱きにして伴(つ)れていく」
医者を呼んできてもらうと、軽い脳溢血だということであった。
舌が少しもつれていたが、高熱を発して小石川の東大分院に入院した。
- 丹毒という診断であった。
寒川鼠骨さんは病室に泊まりきりで看護した。しかし、律さんの衰弱はひどい。
そこで鼠骨さんは、律さんの耳元に口をよせて魔法の言葉を言ったのだ。「お律さん、あんたはさむらいの娘でしょ。しっかりして下さい」「あなたはさむらいの娘なんですよ」と。」
「さむらいの娘
その魔法の言葉を聞いた律さんは、どう反応したか。鼠骨さんの一文を借りる。
「『お律さん、しっかりしてください。食事を食べてください。さむらいの娘でしょ』と声をかけると、お律さんは首肯(うなづい)た。二人の看護婦はひそかに笑っていたが、お律さんは何時も〝さむらいの娘〞と自分でも言っておられ、真にさむらいの娘の気魄で一生を過ごされたのであった」
時代はすでに昭和。とうに侍の身分は消えて、チョンマゲも腰の刀もなくなっている。鼠骨さんはどんな憲味をこめて〝さむらいの娘〞を口にしたのだろう。また鼠骨さんの一文を借りよう。
「お律さんは〝さむらいの娘〞であるから、猥(みだ)らなことが大嫌いだった。お律さんはチャボを育てるのが道楽で、また上手であって、可愛いい沢山のチャボを育てられたのだが、小さなチャボが成人すると、みな他に譲ってしまわれるのだ。卵を割って出たばかりの、黄色の生ぶ毛の雛を育てる間が楽しいようであった。しかし、卵を生まずためには親鶏が必要であり、その親鶏が朝早く塒(ねぐら)の箱を開けられたとき、庭に飛び出すや否や、交尾をするのである。するとお律さんは、それを目の敵のように竹箒を持って雄鶏を叩いて追っ払うのだ。雄鶏は悲鳴をあげて逃げ回る。こうして一時間近くも葛藤(たたかい)が続く。『どうしたんですか』とたずねると、『朝から無作法ですもの。行儀を直さんといけませんから』と答える。律さんは誰に対しても『さむらいの道』を要望するのだった」
(中略)」
この項おわり
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