《須佐之男命厄神退治之図》
ロスト北斎「幻の巨大絵に挑む男たち」(2016-11-23放映)メモ北斎の幻の傑作
神須佐之男が疫病をもたらす厄神たちをひざまずかせ二度とはやらせないよう誓わせる場面
北斎最大級の作品
幅は3m近く
入念に筆を振るった極彩色の絵画だったという
約170年前東京・墨田区の牛嶋神社に奉納されたが、関東大震災で焼失
白黒写真のみが残された
すみだ北斎美術館で、失われたこの大作を復元するプロジェクトが去年始動
復元の出発点は残された1枚の白黒写真
これを最新鋭スキャナーで読み取り
肉眼では判別し難い色の明るさの僅かな違い(明度差)をデータ化する
写真は明治末、美術品撮影の第一人者によって撮られていた
(本来の作品の様々な色が白黒写真のグレーの色調の違いに置き換えられ、
しかも、その写真は高度な技法で印刷されていた)
まず、同じ写真家が撮影したという作品で現存するものを捜し出し撮影して
当時の白黒写真と比べてみる。
こうして作品の実際の色と白黒写真のグレーの濃淡を厳密に比較して、カラーチャートを作る。
また、文化財修復の専門家の知見によって色を探り当てる。
例えば、紫。
北斎は紫にどんな絵の具を用いたのか?
まず青。
北斎は、ドイツで開発された絵の具、発色がよく美しいグラデーションが出るベロ藍を使用した。
この青に綿臙脂、鮮烈な紅綿臙脂、貴重な絵の具で江戸時代には中国から輸入していた、
今では入手困難な綿臙脂。
北斎はこの綿臙脂に目をつけて、ベロ藍と配合した筈
葛飾北斎伝
明治時代、飯島虚心という人物が詳しく聞き取りをして書いたもの
北斎は1760年に本所割下水(現、墨田区)に生まれた
生涯に93回の引っ越しをしたが殆どこの辺りを行ったり来たりしていた
19歳の時、名の知れた浮世絵師に弟子入り
その後、工房を離れ様々な技法を習得し独自の画風を確立していく
北斎の名を広めたのは小説の挿絵。
怪力無双の英雄が悪を懲らしめる物語
緻密で迫力に満ちた筆が人々を魅了した
《北斎漫画》は絵の教科書
86歳の時、 《須佐之男命厄神退治之図》を牛嶋神社に奉納
北斎の絵の中でも最大級の大きさ
画面上部に神須佐之男、
足元には疫病神がうごめき二度と悪さをしないと証文に判を押す
北斎は厄神にそれぞれがもたらす病を重ねて描いた
鼻が欠けている男、江戸にまん延した梅毒の疫病神
風で膨らんだ大きな布を持つ男、インフルエンザ
腕のところに発疹が出ている男、疱瘡
牛嶋神社は、疱瘡よけの神社として知られ、
主祭神は須佐之男命(八岐大蛇を退治した強大な力を持つ神)
病にかかれば神にすがるほかない時代
北斎は、この絵で人間の生老病死を描こうとした
《羅漢図》
(《須佐之男命厄神退治之図》の翌年の作品)
日本画は線による表現を重んじるので、輪郭線をどう描くかは重要なポイント
そこで参考にしたのが《羅漢図》
ここでは、人体を描く赤い線の上にところどころ墨の線が置かれている
それが不思議な存在感を放っている。
人体の動きの精緻な解析で世界的に知られる研究室
羅漢図と同じポーズで、筋肉の解析をしてもらうと、
力の入っているラインと、《羅漢図》に惹かれた墨の線が一致した
墨線を引くことで見た目の筋肉の躍動感を生み出している
北斎は絵という平面の中で、
線一本で人体の動きすら感じさせる立体的な表現を行っていた
牛嶋神社の拝殿の西側の壁の高い位置
ここを一日観察すると、
絵は、暗がりの中にあるが、いっとき日がさし込む事が分かった
絵には金箔が貼られていたので、この時は神々しく輝いただろう
金色の光の中で堂々たる姿を浮かび上がらせる須佐之男
その足元にひれ伏す多彩な色の厄神たち
疱瘡神は朱の服をまとっている
朱は魔よけの効果があると人々が信じた色
紫の衣装の梅毒の厄神
傍らに寄り添う者は悲しげなまなざしをまっすぐに向けている
この絵を見る者が病がなくなる瞬間をありありと感じられるよう、北斎は点一つ線一本おろそかにする事なく全てを生き生きと描き出している
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