北の丸公園
*大正7(1918)年
周恩来は最後の望みを託して、京都帝国大学政治経済科選科に入学願書を提出した。京都大学には今もその入学願書が保存されている。端正な筆文字で丁寧に書かれていて、周恩来の律犠な性格を表している。
京都帝国大学には河上肇教授がいて、講義はいつも学生で溢れかえっていた。周恩来もせめて科目履修生である「選科生」として、憧れの人の講義を受けてみたかったにちがいない。
ところが、周恩来はいったん提出した入学願書を自ら取り下げる。どのような心境の変化があったのか。学費が払えず諦めたのか。新たな目標ができたのか。彼は帰国を決意した。
大正7(1918)年
李漢俊は16年過ごした日本から帰国、故郷湖北省には戻らずに上海の実兄の元へ身を寄せ、積極的に著作活動に励んだ。日本では雑誌『改造』などにも「李人傑」の名でよく寄稿したことから、日本でも中国の代表的な社会主義者として知られるようになった。
大正7(1918)年
日華学会が、財界の中心的存在であった渋沢栄一、内藤久寛らが発起人となり、高橋是清を中心とする政界の支援を得て、日本と中国の文化交流を目的として創立された。主な活動は日本における中国人留学生を援助することで、いわば官民一体となった教育支援組織である。
もともとは、辛亥革命により清国政府が消滅し、清国政府から支給されていた奨学金が途絶えて困っていた中国人留学生を支援するため、渋沢栄一が中心となって組織した「支那留学生同情会」が前身。そして、「支那留学生同情会」の残金37,500余円をもとに、内藤久寛が寄付した1万円を加えて設立基金とし、国庫補助を得て発足した。
『日華学会二十年史』(『中国近現代教育文献資料集』第2巻)によれば、初代会長には小松原英太郎(後に細川護立侯爵)、理事に内藤久寛、山本灸太郎、白岩龍平、濱野慶喜。顧問として渋沢栄一、清浦子爵、岡部子爵、山川男爵、近藤男爵、益田男爵、田所英治、豊川良平、江庸らが就任。また帝国大学や官立私立高等専門学校の職員、文部省、農商務省、外務省の当局者、その他多くの著名人が評議員に加わった大陣容である。
この年、1914年に始まった第一次世界大戦が終結した。
その間、中国では列強の勢力図が大きく塗り替えられた。世界の列強がヨーロッパを舞台に大激戦を繰り広げている間に、日本は列強の力が弱まった中国で利権を拡大しようと、1914年、ドイツが領有していた山東省の膠州湾に攻撃をしかけて占領し、翌年、袁世凱の北京政府に対して対華21ヶ条要求を強引に承諾させて、満州と蒙古の権益拡大を図った。
一方、1918年、ドイツ帝国が降伏してベルサイユ条約が結ばれると、戦勝国のイギリス、フランス、アメリカなどの列強は、連合国の一員だった中国に対する親和ムードが広がり、1899年の義和団事変以来、ずっと中国に強要してきた義和団賠償金を返還しようという動きが活発になった。
返還金の使い道として、その使用目的を「教育と共同開発事業」に絞ることが決まった。アメリカは北京に清華学堂(現、清華大学)を作ってアメリカへの留学生派遣の拠点とした。イギリスは広東省の鉄道開発車業に返還金を使った。フランスは上海に合弁投資会社を設立して、中国の基幹産業の発展を促した。
日本も1918年、「教育振興と衛生事業の普及」を目指して、中国と協議を始めた。そして1923年、外務省に「対支文化事業局」を設置して、翌年2月に田淵勝次局長と汪栄宝駐日公使との問で汪・出淵協定を結んだ。その内容は、
一、来日中国人留学生に月額七十円の奨学金を支給する。
二、北京に人文科学研究所、上海に自然科学研究所を設立する。
三、山東省の学校、病院、その他日本の団体が経営する文化事業に資金を提供する。
しかし、この日中文化事業はうまくいかなかった。
まず、「対支文化事業」という名称が中国側から批判された。これでは日本が一方的に中国を支援するような印象になってしまうとして、議論沸騰した。
もうひとつは、同時期に日本の軍事侵攻が拡大したことで対日批判が高まり、「侵略戦争」と「文化事業」という矛盾した日本の政策に対して、中国側が強く反発した。
北京と上海に設立された二つの研究所も、日本人の著名な教授たちが赴任して研究成果を上げたものの、中国人の雇用が限られたことから、「日本による一方的な中国研究」だと中国側から非難された。
その後も日中関係が悪化の一途をたどり、1931年9月、満州事変が勃発するに至って、ついに日中合同の文化事業は完全に破綻してしまう。
ところが、不思議なことに、日本政府はその後も日本側だけで「対支文化事業」を続けた。
1918年
魯迅が出世作『狂人日記』を書く。夏目漱石と芥川龍之介、有島武郎に心酔し強い影響を受けたとされる作風は、風刺とユーモアにあふれ、世相や伝統を鋭く突いた社会批評であった。それまで中国には存在しなかった「短編小説」という形式を用いたことで、中国の文学形式を「近代化」した典型例として絶賛された。
魯迅は、藤野先生の写真と上野博覧会で買った小さな七宝焼の花瓶をいつも机に飾り、朝顔の咲く家を終生忘れることはなかった。
(つづく)
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