1896(明治29)年
2月17日
鴎外より虚子宛て書簡
「將來の事につきては御頼申度も有之候につき右あらかじめ御承知置被下度候めさまし草巻一二千部うり切れ再版中事務は盛春堂主人にあつかはせ」とある。
『めさまし草』創刊号が思いがけず2千部も売れ再版中であり、今後とも子規以下の日本派への俳句関連の記事を依頼する内容である
2月18日
ゴンパースより高野房太郎(27)に発信、オルグとして再任辞令送付
2月19日
ブルガリア公国フェルディナント公、息子ボリス(2)をギリシャ正教に改宗、ロシア露承認
2月20日
この日より一葉の日記「みづの上」始まる。明確な日付があるのはこの20日のみ。署名「なつ」
この頃、日記が途絶えがちになるのは、「たけくらべ」の改稿と「通俗書簡文」執筆で忙しいためだが、病状も進みつつあった。禿木への手紙の下書きに、病気で早くに就寝していた旨が書かれている。
「雨じたりの音軒(のき)ばに聞えて、とまりがらすの声かしましきに、ふと文机(ふづくゑ)のもとの夢はさめぬ。今日は二月廿日成きとゆびをるに、大かた物みなうつゝにかへりて、わが名わがとし、やうやう明らかに成ぬ。木よう日なれば、人々稽古に来るべき也。春の雪のいみじう降たるなれば、道いとわるからんに、さぞな佗びあへるならんなどおもひやる。
みたりける夢の中には、おもふ事こゝろのまゝにいひもしつ、おもへることさながら人のしりつるなど嬉しかりしを、さめぬれば、又もやうつせみのわれにかへりて、いふまじき事かたりがたき次第など、さまざまぞ有る。
しばし文机に頬づえつきおもへば、誠にわれは女(をんな)成けるものを、何事のおもひありとて、そはなすべき事かは。
われに風月のおもひ有やいなやをしらず。塵の世をすてゝ、深山(みやま)にはしらんこゝろあるにもあらず。さるを、厭世家とゆびさす人あり。そは何のゆゑならん。はかなき草紙にすみつけて世に出せば、「当代の秀逸」など有ふれたる言の葉をならべて、明日はそしらん口の端にうやうやしきほめ詞など、あな佗しからずや。かゝる界(きかひ)に身を置きて、あけくれに見る人の一人も友といへるもなく、我れをしるもの空しきをおもへば、あやしう一人この世に生れし心地ぞする。我れは女(をんな)なり。いかにおもへることありとも、そは世に行ふべき事か、あらぬか。」
(雨垂れの音が軒端に聞こえ、ねぐらの鴉の声の騒々しさに、机のもとのうたた寝の夢は覚めた。今日は二月二十日だったと指を折っているうちに、やっと現実の世界に立ち戻って来た。今日は木曜日なので皆が稽古に来る日。春の雪がひどく降っているので、道が悪くて、さぞかし困っているだろうなどと思いやる。
今まで見ていた夢の世界の中では、思うことを思いのままに言いもし、私の思ったことはそのまま人も理解してくれて嬉しかったのに、覚めると再び現実の私に戻って、言ってはならない事や言いにくい事などが沢山出てくる。
机に頬杖をつきながらよくよく考えてみるに、所詮、私はか弱い女にすぎない。色々な事を仮に思ったとしても、それらは到底実行出来ることではない。
私に風雅な文学的才能があるかどうかは知らない。またこの俗世間を棄てて深山に隠れる心があるわけでもない。それなのに私を厭世家と言う人がいる。何故だろうか。ほんの一寸したつまらない書き物を世に出すと、「現代の秀逸」などとありふれた言葉を並べて、明日はまた誹謗するだろうその口先きで、大げさに褒めそやしたりする。何と侘しいことよ。このような文壇の中に身を置いて、毎日顔を合わせる人の中には、一人として友と言える者もいない。私を本当に知ってくれる者は誰もいないと思うと、ただ一人この世に生まれてきたような気持ちがして、何ともたまらない思いがする。所詮、私はか弱い一人の女にすぎない。たとえどんなに心の中に思うことがあっても、それをこの世で実行することが出来るとは思われない。)
女なるがゆえに「何事のおもひ」があってもなし得ないという嘆きと同時に、晩年のいい知れぬ孤独な魂のうずきを読みとることができる。
晩年の一葉の心の奥には、はげしいヒューマニズム、きびしいモラリズムと同時に、それらとはうらはらな、色濃いニヒリズムが渦巻いてもいる。
2月21日
山県有朋を特派全権大使に任命。ロシア皇帝ニコライ2世戴冠式出席、朝鮮問題につき交渉のため。
2月22日
大阪、日本海上保険㈱、設置(のちの日本火災海上保険)。
2月25日
国民協会、態度を変じ決議案否決。
2月25日
二葉亭四迷、この日付で妻つねとの離婚届提出。以後、復縁にこだわり明治31年3月末つねが四迷以外の子を宿すまで続く。
2月26日
高瀬文淵と鳥海嵩香より「新文壇」第2巻第3号に掲載予定の「裏紫」続稿の督促
2月26日
仏、ベクレル、放射能発見。
2月28日
西村釧之助に借金返済の猶予を願う手紙を出す。
2月29日
辰野金吾設計の日本銀行本店の建物が完成
2月29日
この日(うるう年)、横山源之助が来訪。一葉は作家生活からの転向を考えていることをほのめかす。
この日付け横山源之助の一葉宛て手紙。
「人間の運命と世相の真実御冥想、余り気迅なる事、御忍耐生活を処せられん事、是れ小生の第二に貴方に望むものに御座候、当分確実なる見込つき候まで文学者生活御忍耐如何に候や、おん談ノ中ホノメキ候もの看取せられ候故、強て此事申上候」
一葉を訪問した後に横山源之助が一葉に送ったと推測できる手紙からは、一葉は貧民救済事業を起こしたいと考えていたように思える(私見)。
和田芳恵さんの「読み」は以下。
「どういうことが二人の話題になったかわからない。しかし、一葉が文学者生活をやめて、そのことを実行してみようと云ったらしいことは考えられる。また、源之肋が共感しているのだから、下層社会のことだろう。・・・一葉が社会の不条理を感じてのことだから、素描な意昧での社会主義的なものかもしれない」。
つづく
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