1896(明治29)年
7月22日
7月22日の一葉日記(2)一葉日記の最後の日
現代語訳
(二十二日の夜更けに緑雨氏来訪。
「露伴と三木竹二がお訪ねしたとのこと、また『めざまし草』への寄稿を承諾なきったと聞いたが、本当ですか」
と問われる。
「いや、はっきり決めた訳でもありません。私はご存知のように遅筆なので、いつの何号にとはっきり言ったのではありません。もし書けたら、その時にと言ったのです。いつになるやら全くあてのないことです」
と言うと、
「いや、お書きになる、ならないはさておいて、ただ『めざまし草』に必ず書くと約束されたかどうか、そこをお聞きしたいのです。書けたら出そうというお言葉は、その辺の新聞屋から頼まれた時もおっしゃるお言葉でしょうから、そんな無声任なものでなく、はっきり言われたのですか」
と、詰めよってくる。
「そうおっしゃっても、こうしかお答え出来ません。責任論がどうのこうのと、そんなむずかしい事は知らない私ですから」
と、ただ微笑んでいると、
「私が今夜お訪ねしたのは、ここにむずかしい意味があるのです。これは秘密に属する事なので、あなたのお気持ちをはっきりお聞きしてから申しあげるべきか、まず申しあげてからご決心のほどをお聞きすべきか、どうしようかと迷っているのです。
わが『めざまし草』で、あなたの作品をほしいというのは、実際の作品というのではなくて、お名前を私たちの仲間に入れたいのです。『めざまし草』の同人であることのご承諾を願っているのです。もとは、わが『めざまし草』は一出版社の計画に過ぎないとは言っても、実はそうではないのです。鴎外、露伴、および私の連帯責任で起こした雑誌です。しかもお互いに夫々肉体も考え方も違った人間の連合体です。万事に何かと一致しないで、これまでにも波風がしばしば起こったのです。私も露伴も、ともすれば退去しょうとする様子が折々見えるので、鴎外の苦痛は充分推察出来るのです。世間の人は言うのです、『めざまし辛』の廃刊は間近であろうと。これは嘘ではないのです。露伴は、春陽堂の『新小説』の編集者であり、尾崎紅葉はかりに『めざまし草』に名前だけを貸したとしても、本来は硯友社を根拠として雑誌『雪月花』の発刊を計画している。そこで森兄弟は驚き慌てて急遽、森田思軒や依田学海を説いて『めざまし草』の社員を依頼するに至ったので、私としても傍観できなくなったのです。そんな見苦しい有様まで演じて、今更世間体を飾る必要があろうか。わが社はわが社の者の力にょって立つべきです。もし私の考えが入れられないならば、私もやむをえない、涙をふるってこの『めざまし草』を見棄てるほかはないのです。私はこの『めざまし草』をはなれたら、たとえ三号でつぶれようとも必ず一つの雑誌を創刊しようと思っているのです。今こうして崩壊し姶めたのを、どんなにしても引き戻す方法もなかろうが、他から人を入れる勇気があるのなら、あんな老朽の人を集めて何になるというのでしょう。門を開くというのなら新しい人にこそ開くべきだと私は言ったのです。では新しい人にはどんな人がいるのかと鴎外が言ったので、私はその時あなたのことを言ったのです。しかしこれは窮余の一策で、私の本当の志ではなかったのです。一昨日、三木竹二が露伴を訪ねてどんな話をしたのかは知らないが、その後で一緒にあなたをお訪ねしたのです。そして昨日、私のところへはっきりした報告があったのです。樋口一葉がいよいよ『めざまし草』の一員となることを承諾した、合作小説の相談もまとまった、というものです。私はひどくおかしいと思ったが、それ程はっきりした報告なら、もしかしたらご承諾されたのかと思ったのです 。
このことはすべて秘密のことです。あなたは絶対に世間に漏らすことはしない人だと知っておりますので、何の心配もなくこうしてお話するのです。隠さずに本当のことを言えば、あなたの承諾の一語で、『めざまし草』の利害は大体悪い方に向かうのです。そしてあなたの利害も同様に悪い方に向かうのです。私はつくづくと文壇の様子を見ますと、泉鏡花の評判が絶頂に適したとき、私が初めて一撃を加えてからその名声が急に落ちて、泉鏡花の存在は消えてしまったのでした。あなたの此の頃のご様子は既に全盛の頂上と思われますのに、今もし、わが『めざまし草』に入会ということにでもなったら、文壇からの憎しみを一身にお受けになって、あなたへの非難はそれこそ大変なことでしょう。わが『めざまし草』の人々にしても同じ事です。あなたの『たけくらべ』を賞賛してからというものは、『早稲田文学』などが我々に冷評を加えることは、毎月毎月ますます激しくなり、私があなたをお訪ねしたと聞くと、どうだ黒焼きは本家へ行って求めることが出来たかなどいう批評がまことにやかましい程です。こんどあなたが『めざまし草』に入社されたとなったら、ますますこういう噂がひどくなって、思いもかけない事から、つまらぬことで悪名まで立てられることになるかもしれないのです。とにかく入社は見合わせられた方がよろしいのではないかと、私は思うのです。しかしこれは、邪魔をしてでもお止めしょうというのではないのです。ただ、あなたのために、また私のために、心の底をうち割って申し上げるまでのことです」
と繰り返し繰り返し、このことを言うのでした。この男の心の中は、いくらかは理解出来ない私でもないのです。しかし、どうして今さら世間の評判など)
7月22日
信濃川の堤防各所が決壊、被災面積18000haに及ぶ(横田切れ)
7月23日
この日付「朝日新聞」の「台湾近事(五日発) 在台北九江生」の記事、統治の拙劣さが、良民をも土匪に走らせていること、民衆反乱はシナ大陸の援助を受けていることを指摘。
台湾総督府条例公布とともに、樺山資紀(海軍大将)は総督を辞任、29年6月、第3師団長桂太郎陸軍中将が後任に発令。しかし桂は、6月下旬、台湾視察の伊藤博文首相らと共に内地に帰還し任地に行かず、台湾の抗日武装攻撃に現地で対処できず。統治の拙劣さを衝いた現地通信を受け、「朝日」は名古屋の師団長官舎にいる桂総督と会い、「ゲリラ鎮圧について総督府内の文武官に意見の対立が激化している最中に、総督が名古屋に安眠して土匪の驚くに足らざるを壮語しているのは納得できない」と紙面で批判。結局、桂は5ヶ月で辞任。
7月24日
島田三郎(43)、横浜・港座での横浜停車場問題演説会で演説。
7月25日
西園寺・陸奥の援助を受け、竹越与三郎が雑誌「世界之日本」創刊。~1900年3月2日(通巻94号)。
7月25日
『文藝倶楽部』第2巻第9編臨時増刊海嘯義捐小説に随筆「ほとゝぎす」を寄稿。
7月27日
子規、「松蘿玉液」で図を描いてベースボールを説明する(7月19日、23日と続く3回目)
「ベースボールに要するもの は凡そ千坪許りの平坦なる地面(芝生ならば猶善し)皮にて包みたる小球(ボール)(直径二寸許りにして中は護謨、糸の類にて充実したるもの)投者(ピッチャー)が投げたる球を打つべき木の棒(バット)(長さ四尺許りにして先の方稍々太く手にて持つ処稍々細きもの)一尺四方許りの荒布にて坐蒲団の如く拵えたる基(ベース)三個本基(ホームベース)及投者(ピッチャー)の位置に置くべき鉄板様の物一個宛、攫者(キャッチャー)の後方に張りて球を遮るべき網(高さ一間半、幅二三間位)競技者十八人(九人宛敵味方に分るるもの)審判者一人、幹事一人(勝負を記すもの)等なり」
つづく
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