2024年7月25日木曜日

大杉栄とその時代年表(202) 1896(明治29)年7月20日~22日 7月20日の一葉日記(2)三木竹二・幸田露伴来訪 7月22日の一葉日記(1)一葉日記の最後の日 緑雨来訪 「めざまし草」同人に勧誘されても断るよう説得

 

齋藤緑雨

大杉栄とその時代年表(201) 1896(明治29)年7月19日~20日 子規のコラム「ベースボール」 7月20日の一葉日記(1) 三木竹二・幸田露伴来訪 本音は「めざまし草」同人勧誘 より続く

1896(明治29)年

7月20日

7月20日の一葉日記(2)


露伴は、しばしなりを静めて、おもむろにいふ。「場処などの事も御心にかなひたるこそよけれ。知り給はぬ処にては、情うつらずしてをかしみ少なし。西洋の事は鴎外君うけもち、田舎のことはそれがし書くといふ体ならば、実景実情まのあたりにうかぶべし。いかやうにも御心ずみのするやう仰せられよ。もとこれ仮の遊戯なれば、書きはじめて後、おもしろからずば半ばにして筆をなげうつ、誰れかは妨げん。しかも御互ひつひえのたつべき事にもあらわは」といふ。

「我れ等一同君に迫りて、我が『めさまし』に無理やりの筆をとらし参らすやう、おぼし給はんか知り候はねど、こと更にさる心得あるにもあらず。同じき業に遊ぶ身の、文のたのしみを相たがひに別(わか)ちもし、知らざるはとひ、ききしれるは教へて、ともに進まばとおもふのみなり。天明のむかし横谷(よこや)宗(そう)みん----の両人(ふたり)、当代の名人、南関といはれぬるこの人々のむつまじかりしこと、一つの額を二人の刀してつくりしもの、其ころの美談として伝へられぬ。もとより人に特異の点あれば、同じ額を二人してつくる、明かに変りし処ありしなるべし。されども、そをは人笑はんものか。引かへ、用なきひぢを張りて、『何がし筆とる以上は、我れ何かは』といふやうの事あらは、そは区域いと狭くるしく成りて、進歩の道のさまたげなるべし。今、君と我れ等と相ともに提携して世に出んか、『文士の交りはかゝる物』と、世人迷夢(めいむ)やゝはれつ、志しあるものは胸壁をつくらずして、おのづから悠々の交りなるべしと思ふ。さまざまはゞかり給ふ事多からめど、此義なれば」とやうやうとくに、「何かは、さる処存にも侯はず。余りに筆のをさなくて、御かたがたと一つ舞台にのらんこと、いと心苦しければぞ」といふ。「さらば用なき遠慮にこそおはせ。我れも鴎外ぬしもいかでか卒業の身なるべき。ともに修業の道にあるもの、出来不出来そは時によるべし。今のわかさにさる弱き事にて成るべきか。うき世は長し。まだ百篇二百篇の出来そこねこしらへ出るとも、取かへしのつく時は多かるを、一生に一つよき物出来なば、それにて事は終るべし。弱き事おほせられな」ととき聞かさる。」

(露件氏は暫く黙っていたが、やがて静かに話し出す。

「場所などもお気に召した所がよい。知らない所では情が乗らないので面白味が少ない。西洋のことは鴎外君が受け持ち、田舎のことは私が書くという形をとるなら、その実際の情景がありのままに浮かぶでしょう。どのようにでも納得するまでおっしゃって下さい。もともとこれは仮の遊びですから、書き始めた後でも面白くなかったら、途中で止めてしまっても、誰も文句を云う人はいないのです。しかもお互に費用がかゝるものでもないのだからね。また、我々一同があなたに強用して、わが『めざまし草』に、無理矢理に筆を執らせようとしているかのように思われるか知りませんが、今更そんな考えなど全くありません。同じ仕事に携わる者同志が、文学の楽しみを互いに分け合い、知らない事は聞き、知っている事は教えて、一緒に進もうと思うだけです。昔、江戸時代、天明年間に、横谷宗珉と□□□口の二人は当代の彫金の両名人と言われた人だが、この二人の仲がよかったことは、一つの額を二人の刀で彫ったという当時の美談として伝えられている。勿論、人にはそれぞれ違った所があるのだから、同じ額を二人で作るからは、明らかに違ったところがあっただろう。しかし、それを人は笑うでしょうか。それに引きかえ、無駄な意地を張って、あの人が書くなら私は書かないというような事があっては、自分の世界がますます狭くなって進歩の妨げとなるでしょう。今、あなたと我々とが力を合わせて世に出ると、作家の交際とはこういうものだと、世間の人たちの迷いの夢は晴れるでしょう。志のある人たちは、心に垣根を作ることなく、自然と自由な交際をすることになるだろうと思うのです。色々と気を遣われることも多いでしょうが、こういう訳ですから、どうかご諒承いただきたい」

と話される。

「私は何も特に気を遣っていることもありません。余りにも幼稚な文章なので、お歴々と同じ舞台に登ることは大変心苦しいのです」

と言う。

「それは全く無用のご遠慮です。私も鴎外君も、どうして文学の道を卒業したなどと言えましょうか。あなたと同じように修業中の者です。出来不出来はその時々によるのです。あなたの今の若さで、そんな弱い事でどうしますか。人生は長いのです。まだ百編や二百編の失敗作を出しても、取り返しのできる機会は多いのです。一生に一つの立派な作品が出来れば、それで事をなし終えたと言えるでしょう。弱いことを言ってはいけません」と、説き聞かされたのでした。)


「此合作出来あがる後までは、世にもらし給ふ事なかれ。うるさき取ざた聞くもあきたり。こしらへあげたる後、『めざまし』の別冊として出すもよく、書(しよ)てんにおくるも時の都合なり。きらずは、各自の間におきて、世に出さぬもまた自由ぞ。すべて打くつろぎたる事こそよけれ」といふ。

「こはいと長く物がたりき。このあら筋立ちもせば、又こそ参らめ」とて立あがる。かたれる事三時間に過ぬ。「これより鴎外君がもとを訪ふ」とて、三木君ともども、家を出らる。いまだ十間ならじとおも

ふに、大雨(おほあめ)車軸を流すが如く降りくる。

以上、七月二十一日午前のうちしたゝむ。」

(「この合作は、出来上がるまでは世間には漏らさないで下さい。うるさい噂はもう聞き飽いたのです。完成したあとで、『めざまし草』の別冊として出版するのもよいし、書店に出すのもその時の都合です。または各自の間に磨いたままで世間に発表しないでおくというのも自由です。すべて気楽に考えるのが一番よいのです」

と言う。

「これはまた随分と長く話しこんだものです。この荒筋が出来たら、またお訪ねしましょう」

と言って立ちあがる。話すこと三時間以上に及んだ。これから鴎外氏を訪ねるのだと言って、露伴氏も三木氏も一緒に家を出られる。まだ十間も歩かれないだろうと思うころに、大雨が車軸を流すように降り出す。

以上は七月二十一日の午前中に書き記す。)

7月21日

山陽鉄道会社、はじめて通学定期を発行

7月21日

日清通商航海条約、調印。10月20日批准書交換、発効。

7月22日

巌谷小波(27)、川田綾子に求婚。長兄が小波が文士であるという理由で拒絶。紅葉「金色夜叉」のモチーフ。

7月22日

樋口一葉の日記、この日で途切れる。

4月頃から病気が進行、この月には定期的に39度の発熱。

このあと、8月上旬、診察を受けるが手遅れと言われ、10月森鴎外の紹介で名医青山胤通の往診を受けるが絶望を告げられる。


「二十二日の夜、ふけて正大夫来る。「露伴および三木竹二参上したりし由。『めざまし草』への寄稿御承諾相成しよしにきけるほ誠か」と間はる。「いさ、取とめたる事にもあらず。例の遅筆なれは、『いつの何号には』など、さだかに申つるにもあらず、『もし書出らるゝことあらは、其折に』と申つる也。いつの事ならん。いとおぼつかなき業」といへば、「いな、書き給ふ、書き給はぬにもかゝはらず。唯『めざまし』に物かならず書き給ふといふけい約遊ばされしにや、其ほど承り参らせ度(たき)なり。『書かれたらはさし出さん』といふ御言の葉は、そこらの新聞やより物たのみに出たる時もおほせらるゝ御ことの葉なるぺければ、さる無責任のものならで、いと明らかに」と問ひ寄る。「さりとも、此外にはこたへ参らする様もなし。責任論のいとむづかしきことは、えしり侍らぬ身なれば」と、たゞほゝゑみてあるに、「我が今宵参りつるは、こゝにいと六(む)つかしき意義のあるあり。こは事(こと)秘密に属すなるを、君が御心さだかに承りて、さて其後にや聞ゆべき、まづ聞えおきて御決心のほどうながすべきか、いかにせん」打たゆたふ。

「我が『めざまし』にて御作得まはしといへるは、御作の事にはあらで、御名を我が方たらしめたき也。『めざまし草』の一員たる事をうけがはれ度を願ふなり。もと我が『めざまし』、一書肆(ほんや)の企てに過ずといふといヘども、内実はしからず、鴎外・露伴および我れ連帯責任をもって起しつる雑誌なり。しかれども、共々筋骨ひとしからぬ人々の連合なり。ことごとに一致せずして、此間(このあいだ)に風波しぱしばおこりつ。我れも露伴も、ともすれば退き去らんの有さま、折々にみゆるなれば、鴎外が痛苦真におもふべき也。世人いへらく、『めざまし草の落城近きにあり』と。此こと真に偽りならず。露伴は、春陽堂より『新小説』の編輯人として立顕(たちあら)はれ、よしや名のみなかしたるにもせよ、紅葉は硯友社を根拠としてF雪月花』のはたあげをなさんの結構あり。森兄弟驚愕、はせて森田思軒、依田学海を誘説し、『めざまし』の社員たる事を依頼するにいたりしかは、我れたるものいかで傍観するにしのびんや。さる見ぐるしき有様を演じて、今更他見(たけん)をかざらんものか。我が社は我が社の人によりてこそ。もし我が説入れられずとならば、我れもやむなし。涙をふるひて此『めざまし草』みすてざるべからず。我れこれをはなるゝとならば、よし三号にしてつぶれんまでも、かならず一雑誌創立には及ぶべし。今かく崩れ初たるを、いかさまにと引かへすべきよしもなけれど、他(はた)より人をいるゝほどの勇気あらば、さる老朽の士を蒐拾する、何事かあらん。『開門とあらは、新らしき人をこそ』と我れはいひき。『さて、其あたらしきにいかなる人かある』と鴎外いひにしかば、我れはその時、君がこと申つるなり。されども、事窮策にて、まことに我が志しにはあらざりき。一昨日三木竹二、露伴がもとをとひて、いかなる談話(ものがたり)をなしたりけん、相たづさえて君がもとをとひつ。さて昨日我がもとに明白の報知は有き。『樋口一葉いよいよめざましの一員たる事承諾あり。合作の事も相談とゝのひぬ』と申(まうし)こせり。我れは頗るあやしき事におもへりしも、さるさだかなる報なれば、もし御承諾なりつるか、ともおもひつるなり。

此事すべて秘みつに属す。君に世にもらし給はぬをしれば、はゞかりなくかくはかたる。つゝみなき誠をいはゞ君が承諾の一語につきて、『めざまし』の利害大かたならぬなり。はた又、君が利害も大かたならぬ事とおもふ。我れつらつら世のさまをみるに、泉鏡花の評判絶頂に達せし時、われはじめて一げきを加へつるより、名声とみに落て、又泉鏡花あるなし、といふさまに及べり。君がけふ此頃の有さま、すでに全盛の頂上ぞとおぼゆるに、今もしわが『めざまし』に入会の事ともならは、世人よりのにくしみを一身におひ給ひて、批難さこそは甚しかるべし。我が『めざまし』の人々とても、しかなり。君が『たけくらべ』賞さんしつるより以来(このかた)、『早稲田』などのわれに冷評(ひやかし)を加ふる事、一月(ひとつき)は一月より甚だしく、我れ君がもとを訪ひたりと聞くより、『いかに、黒やきは本家へ行てもとめ得られしや』などいふ評、いとかしがまし。此際、君の入社せられしとならは、いよいよかゝる沙汰かしましく、思はぬ事より要なき名をも引出づべきに、とかくは入社み合せられたる方(かた)しかるべくや、と余はおもふ。こはさへぎりてとゞめ参らするに非ず。唯、君が為、我が為打わつて申(まうす)までなり」と、くり返しくり返しこの事をいふ。此男が心中いさゝか解(かい)さぬ我れにもあらず。何かは、今更の世評沙汰。」

ここで途切れて、以下の記述はない。一葉は、以降執筆できない状況となる。

(この日の日記の現代語訳は次の記事にて、、、)

つづく



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