1902(明治35)年
5月28日
幸徳秋水『兆民先生』拾い読み②
「嗚呼士の不遇、千古同歎。彼大沢斬蛇の英雄なく、自由党解体し、自由新聞廃刊し、仏学塾亦次で潰散し、明治の張良は、空しく陋巷に窮居し、多少の滄海公と共に、酒を飲で日を消するのみ。
然れども先生が多年撒布せる革命の種子は、決して萌芽を発せずして已まざりき。彼の明治十四年自由党創立の前後より、民権自由の思想は燎原の火の如く、政府は百方之が鎮圧に力め、朝野の紛争軋轢其極に達して、遂に明治十五年、河野広中等の福嶋事件となり、同年赤井景韶等の高田事件となり、同十七年富松正安等の加波山事件となり、同年村松愛蔵等の名古屋事件となり、竟に十八年十月大井憲大郎等の大阪事件あるに至る。其他飯田事件の如き、静岡事件の如き、高崎事件の如き、多くの暴発を見るに至れるは、豈に先生の手中に運らすの一管、与かつて大に力ありしに非ざるを知らんや。
而して風雲は漸く急也、明治二十年井上馨の条約改正失敗するや、全国の志士、名を三大事件の建白に托し、爆弾を抱て輦轂の下に集る者数百人、政府狼狽して、急に保安条例を発布し、疑似の者を捕へて東京三里以外に放つ。而して先生亦逐客となる、即ち母堂を奉じて函山の嶮を踰えて西す。時に十二月二十五日、朔風凛冽の夕なりき。先生歳四十一。
翌明治廿一年、先生、栗原亮一、寺田寛、故宮崎富要の諸君と東雲新聞を大阪に発行し、自ら之に主筆たり。当時東京を逐はるるの政客壮士尽く此地に集り、政治上の言論、集会、出版皆な此地に於てし、関西日報には末広重恭、森本駿、大阪毎日には柴四郎、竹内正志、大阪公論には織田純一、西村時彦、経世評前には池辺吉太郎の諸君、皆な侃諤の論を為し、競ふて政府を攻撃し、一時其盛を極む。而して先生神韻の文、天馬の空を行くが如く、名声忽ち関西に籍甚たり。予が先生の門に入れるは実に此時に在り。」
「明治二十二年春、憲法発布せらるる、全国の民歓呼沸くが如し。先生嘆じて曰く、吾人賜与せらるるの憲法果して如何の物乎、玉耶将た瓦耶、未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ、我国民の愚にして狂なる、何ぞ如此くなるやと。憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯だ苦笑する耳。
先生其著、三酔人経綸問答に於て諷して曰く、世の所謂民権なる者は自ら二種有り、英仏の民権は恢復的の民権なり、下より進みて之を取りし者なり、世又一種恩賜的の民権と称す可き者有り、上より恵みて之を与ふる者なり、恢復的の民権は、下より進取するが故に、其分量の多寡は我の随意に定むる所なり、恩賜的の民権は、上より恵与するが故に、其分量の多寡は我の得て定むる所に非ざるなりと。然り先生は決して恩賜的民権を以て満足する者にあらざりし也。況んや其分量の極めて寡少なる者をや。即ち慨然として曰く、咄々朝三暮四の計、黔首を愚にするの甚しきや。我党宜しく恩賜的民権を変じて、進取的民権と成さざる可らず。
嚮に保安条例に拘して退去の令を受くる者、憲法発布に際して皆な解除せられ、政治運動の中心又東京に移れり。時に後藤象二郎君大同団結を唱道して政界に横行す、疾風枯葉を払ふの概あり。而して其雑誌「政論」を日刊となすや、先生を聘して主筆たらしむ。先生乃ち家を挙げて東京に還る。予も亦従へり。
幾くもなく後藤君其友を売て入閣し、大同団結解体し、在野政党四分五裂の状あり。先生同志と共に自由党を再興し、自由新聞、立憲自由新聞等に主筆として専ら民党の糾合を図り縦横の策最も力む。而して議会開設に及んで、大阪より進まれて議員となる。」
第四章 議員と商人
「而して先生猶ほ意を政界に絶たず、日々握飯を竹皮に包みて、議院に出づ。而して予算八百万円削減の問題に関し政府在野党の衝突するや、以為らく藩閥を殪す此の一挙に在りと。熱心各派の間を往来し、周旋大に力む。当時民党、吏党なる熟語は、先生が立憲自由新聞紙上に於て創作せし所也。
回顧すれば、民吏両党の轡を駢べ、旗鼓堂々として相当るや、恰も東西両軍の関ケ原に闘ふが如く、真に一代の壮観を呈したりき。而して民党の猪突驀進して直ちに藩閥の塁に肉薄するの時に方つて忽然として金吾秀秋は現出せり。自由党の所謂土佐派なるもの款を敵に通じて、六百万円削減の交譲成り、九仞の功一簣に欠きて、民党為めに潰走し、藩閥政府万歳を謳はんとは。
先生此時眦為めに裂く。直ちに「無血虫」なる一文を艸して之を立憲自由新聞に掲げ、大に反覆者を罵倒し、次で辞表届を議長中島信行君に呈したり、其文に曰く、「アルコール中毒の為め、評決の数に加はり兼ね候に付き、辞職仕候」と。議長懇ろに其在任を勧め、滞京の選挙人亦驚きて、馳せて其門を叩きて之を諌むるも、先生頑として聴かざりき。
先生議員を罷むる後、新井章吾君等と経綸雑誌を起し、次で民権新聞を発行し、一面熾んに政府及び吏党を攻撃し、一面自由、改進両派の聯合を主張し、以て全力を藩閥剿滅の事に致せり。先生曰く、維新の革命は実に薩長旧藩の聯合あつて、而して後始めて之を成すを得たり、今の自由、改進の両派は猶ほ当年の両藩の如し、真に第二維新の業を成さんと欲せば、両派直ちに聯合せざる可らずと。
蓋し自由改進の両党、甚だ其主義政見を異にするあらずと雖も、其歴史と感情との異なるが為めに、其反目揆離犬猿も啻ならざりき。而も第一期議会に歩調を斉しくしたる以来、双者の間寖々融和の傾きあり。先生即ち此機に乗じ、百万策を劃して、竟に大隈、板垣両君をして一堂に会見せしむるを得たり。
多年呉越の如くなりし両君が、一朝相会して其旧交を温め、手を携へて政治の改革に努力するを誓へるの一事は、忽ち天下の人心を新にして、政府為めに震撼し、而して大隈君為めに枢密顧問の官を罷められたり。次で民党大懇親会なる者開かれ、民党の意気大に昂る、皆な曰ふ、天下の事手に唾して成すべしと。実に明治二十四年十一月第二議会開会の前なりき。而して其結果や、即ち第二議会の解散となり、所謂二十五年の選挙干渉となれり。
此聯合や蓋し先生が、政治運動に於ける最初の成功にして、又最後の成功たらざる能はざりき、先生幾くもなくして、身を貨殖の業に投じたれば也。」
「先生、仏学塾解散の後、只だ新聞雑誌に衣食す。毎月受くる所、五十金百金、多きも二百金に過ぎず、而して其載筆する所、皆な政党の機関たるが故に、其資金甚だ乏しく、且つ極めて利殖に拙にして、朝に起りて夕に廃す。自由新聞や、立憲自由新聞や、民権新聞や、京都活眼新聞や、東雲新聞や、経綸雑誌や、比々皆な然らざるはなし。家益々貧にして逋債益々多し。廿五年、小樽の有志北門新報を創し、先生を聘して主筆たらんと乞ふ。先生乃ち北海道に行き、居ること少時、遂に政界と文壇とを退き、家を札幌に賃して紙店を開き、次で北海道山林組なる看板を掲げ、貨殖に汲々たるに至れり。」
「二十六年より、二十七八年に至る間、先生北海道より東京に、東京より大阪に、往復頻りにして、而して家益々貧に、衣服典し尽し、蔵書売り尽して、晏如たり。・・・・・」
「此時に方つてや、民間の政党全く当年の気節なく、一に藩閥の駆使に供して官職利禄を求むるに汲々とし、腐敗日を逐て甚しく、第十議会、松隈内閣の買収政策を行ふに至りて、其醜を極めたり。次で伊藤内閣立つや、自由党又提携に托して其奴僕たらんとするの状あり。先生憤慨措く能はず、再び起て政界掃清の事に任ぜんとし、数名の同志を率ゐて、国民党を組織し、雑誌百零一を発行して、以て在野党聯合の急を説き、藩閥の討滅すべきを唱ふ。而も其金銭に乏しきが故に自由の運動を為すこと能はず、数月ならずして潰散せり。時に明治三十一年なりき。
爾来先生貧益々甚し。明治卅三年秋、毎夕新聞の乞に応じて、其主筆となり、僅に米塩を支ふ。次で国民同盟会成るや、進んで之に投じ、奔走頗る力む。」
第五章 文士
「先生初め政府の嘱に応じて訳する所政法の書甚多し、而も尽く公行するに至らず、今其訳書、著書の発售せる者、予の記する所に依れば、左の数種あり。
・ショーペンホウエル道徳大原論
・維氏美学
・ルーソー民約
・理学沿革史
・理学鈎玄
・革命前仏蘭西二世記事
・三酔人経綸問答
・平民の目ざまし
・憂世慨言
・選挙人の目ざまし
・四民の目ざまし
・一年有半
・続一年有半」
第六章 人物
(略)
第七章 書柬(上)
(略)
第八章 書柬(下)
(略)
第九章 末期
「終に行く道とは兼て知りながら、昨日今日とは思はざりしを」先生、明治三十四年十二月を以て、小石川武島町の自邸に歿す、享年五十有五。其初めて余命一年有半の宣告を受けてより、未九ケ月に充たず。天下知ると知らざると、皆な悼惜せざるなし、哀哉。」
つづく
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