「”大学は、公費に頼らず自らで稼げ”??」
— Choose Life Project (@ChooselifePj) November 18, 2024
学長権限を上回る会議体=運営方針会議の設置によって、競争することを促され始めた”大学”。学生を含む研究者は研究外の道にー。#卓越大制度を廃止に #卓越大https://t.co/SRORbiaM6G pic.twitter.com/bZa4xW3muU
2024年11月19日火曜日
「〈学問の自由〉と大学自治を守る。稼げる大学に未来はない」 おととし去年と、立て続けに強行採決された卓越大法と改定・国大法。その実態は、大学ファンドを通じた政財界支配でした。先程その卓越大制度の廃止を求め、約1.5万の署名が文科省担当に手渡されました。 / 「”大学は、公費に頼らず自らで稼げ”??」 学長権限を上回る会議体=運営方針会議の設置によって、競争することを促され始めた”大学”。学生を含む研究者は研究外の道にー。
2024年11月18日月曜日
【兵庫県知事に斎藤元彦氏再選】政治と報道のプロを完膚なきまでに打ち負かしたネット世論 「批判一色から擁護・応援へ」、わずか1カ月で大転換させたSNSやYouTubeの爆発力(松本創) / 兵庫県知事選挙について(その1)(その2) |尼崎市長 松本眞 / SNSの支援がリアルに拡大、集まった聴衆 斎藤陣営の兵庫県知事選(朝日) / 《期日前投票をめぐる衝撃データ》兵庫県知事選・斎藤元彦氏の「猛追」を支える“隠れサイトウ”県民たち(週刊文春) / 「出口調査では10〜30代の斎藤氏への投票数は稲村和美氏の3倍でした。攻勢の原動力はSNS投稿を担う約400人のスタッフ。写真や動画が拡散され、Xフォロワー数は20万超に。」(日経) / 60代以下、斎藤氏が上回る - 告発文書問題「重視」9%(共同)
丸尾まき
— まL"カヽ (@73kia) November 18, 2024
▶︎斎藤さんは立花さんとの2人体制。2人で行動していた。
▶︎稲村さんへの誹謗中傷や、百条委員会はデタラメだというような事実と異なる意見が飛び交っていたのが大きく影響した。#めざまし8 pic.twitter.com/BUwxi2kshz
【兵庫県知事に斎藤元彦氏再選】政治と報道のプロを完膚なきまでに打ち負かしたネット世論 「批判一色から擁護・応援へ」、わずか1カ月で大転換させたSNSやYouTubeの爆発力(1/5) | JBpress (ジェイビープレス) https://t.co/1nrr0iEmBV @JBpressより
— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) November 17, 2024
尼崎市長のnote
— 隆祥館書店 二村知子 (@ryushokanbook) November 17, 2024
ぜひ、読んで考えなければならない問題だと思います
全国から、ユーチューバーやSNSのライターが登場し、彼らが様々な情報を拡散していくことによって、何が真実か、全く分からない状況に陥っています
兵庫県知事選挙について|尼崎市長 松本眞 #note https://t.co/yGJhpclTo2
今回の選挙のこれまでの経緯が書かれています
— 隆祥館書店 二村知子 (@ryushokanbook) November 18, 2024
この状況を放置していて最も恐れるべきは、権力者が「通信」を意図的に利用し始めたときです
再び、世界は「プロパガンダ」で席巻される恐れがある
兵庫県知事選挙について(その2) 放送と通信の問題|尼崎市長 松本眞 #note https://t.co/BS4f0HEfHh
当選についての専門家たちのコメントプラス、とても読み応えがあります。
— 朝日新聞社会部 (@Asahi_Shakai) November 17, 2024
SNSの支援がリアルに拡大、集まった聴衆 斎藤陣営の兵庫県知事選:朝日新聞デジタル https://t.co/Wp45FYo0Is
兵庫県知事選挙、斎藤元彦氏が再選https://t.co/TSHNttsGN0
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) November 17, 2024
出口調査では10〜30代の斎藤氏への投票数は稲村和美氏の3倍でした。攻勢の原動力はSNS投稿を担う約400人のスタッフ。写真や動画が拡散され、Xフォロワー数は20万超に。
【昨日の話題記事】
— 週刊文春 (@shukan_bunshun) November 17, 2024
第2位:《期日前投票をめぐる衝撃データ》兵庫県知事選・斎藤元彦氏の「猛追」を支える“隠れサイトウ”県民たち
記事はこちら↓https://t.co/dzy9x9LwDJ#週刊文春
60代以下、斎藤氏が上回る - 告発文書問題「重視」9%https://t.co/x3pAb3wLzb
— 共同通信公式 (@kyodo_official) November 17, 2024
つまり「テレビが選挙や政治についてちゃんと報道しないから投票率が低くて……」という段階は終わったということ。若い世代はもうテレビを観ない。持ってすらいない。選挙を動かすのはファクトチェックなきSNSに移った。 https://t.co/D4dzGEolbA
— 町山智浩 (@TomoMachi) November 17, 2024
これでも当選してしまうという恐ろしさ((( ;゚Д゚)))#兵庫県知事選2024 pic.twitter.com/DmvkjcVzSw
— 川上芳明 (@Only1Yori) November 17, 2024
インターネットって下品なやつが勝つようにできてるけど、さいきんは現実世界もそんな感じだね
— 岸政彦 (@sociologbook) November 10, 2024
そばにいた高齢の女性に斎藤当確を伝えたら、「よかった、パワハラなんて嘘ですもんね、YouTubeで見ました、被害者が一人も名乗り出てないのですってね」と返されました https://t.co/7fHJogSal7
— 池田香代子 ケストナー『ぼくが子どもだったころ』 (@ikeda_kayoko) November 17, 2024
ミヤネ屋より
— おいたくism (@oitakuzo) November 18, 2024
意外だったのが、多くの御高齢の方々もマスコミを鵜呑みにせずしっかりsnsを活用して情報を取っていた事 pic.twitter.com/i6Ydbk6dyg
特殊詐欺に引っかかりそうな方々 pic.twitter.com/PSNJjxglQL
— Feelハマーン@🍂雪組🍜 (@masirito22) November 18, 2024
これはすごい。 https://t.co/kEXHUi0CBT pic.twitter.com/TIYawrElVe
— C.R.A.C. (@cractyo) November 18, 2024
街宣の熱狂と票はあんまり関係ないは僕も感じました。蓮舫の時もあったし。
— 鍋倉 雅之 (@nabekuramasa) November 17, 2024
それでも斎藤が勝ちそうと早い段階で感じていた理由は兵庫に入ってから選挙関係ない文脈の友人との会話や居酒屋、定食屋でのその場の会話で驚くほど立花孝志の話を真に受けてる人が多い事だった。
兵庫県知事選でおきたこと(はてな匿名ダイアリー);「多くの流言飛語が飛び交っているので実際に起きたことを間近で目撃していた者として記します。 今回は兵庫県民も、そうでない人も、何が起きたのか理解できてない方が非常に多く、それも当然かと思います。 また、私が記すことは、今後、他の方も分析されて文字にされる内容だと思いますので、この内容を鵜呑みにせず多くの情報を見て判断していただきたい。」
なぜ立花孝志氏などに兵庫県民が翻弄されてしまったのか、不思議でならなかったのですが、経緯が下記記事で非常にわかりやすくまとめられています
— 田幸和歌子 (@takowakatendon) November 18, 2024
↓
今後同様のことは各地の選挙で行われる気がします。ぜひご一読を。
兵庫県知事選でおきたこと https://t.co/9O43sVn5JM
別の百条委メンバーも兵庫県知事選中に「脅迫された」…自宅前に県外ナンバーの車、不審人物が何度も行き来、クレーム電話ひっきりなし(日刊ゲンダイ) / 斎藤氏の疑惑調査する百条委委員長が会見「家族が避難」立花氏が自宅前で演説し誹謗中傷と訴え「引きこもってないで家から出てこい」「これ以上脅して自死しても困る」 | 2024/11/18 - 読売テレビニュース / 兵庫県議会、百条委メンバーの竹内英明氏が議員辞職…知事選を巡りSNSで誹謗中傷受けたか(読売) / 兵庫県知事選挙で落選の稲村和美氏陣営、選挙中にXアカウント2度凍結…「組織的に虚偽通報された」と主張(読売)
【独自】別の百条委メンバーも兵庫県知事選中に「脅迫された」…自宅前に県外ナンバーの車、不審人物が何度も行き来、クレーム電話ひっきりなしhttps://t.co/NszCg2wxnl#斎藤元彦 #兵庫県知事選 #百条委員会 #日刊ゲンダイDIGITAL
— 日刊ゲンダイDIGITAL (@nikkan_gendai) November 19, 2024
兵庫県議会 「百条委員会」 奥谷委員長
— じたくん🍯🇯🇵 (@slugger1002) November 18, 2024
立花氏は自宅兼事務所前で「引き篭ってないで家から出てこい」と言っていた。
奥谷氏の自宅であるという認識は明白。
「これ以上脅して奥谷が自死しても困るのでこれくらいにしておく」と脅迫目的である事を自ら仰ってる。
今後、厳正に対応していきたい。 pic.twitter.com/0m7b0uZMey
【速報】斎藤氏の疑惑調査する百条委委員長が会見「家族が避難」立花氏が自宅前で演説し誹謗中傷と訴え「引きこもってないで家から出てこい」「これ以上脅して自死しても困る」 | 2024/11/18 - 読売テレビニュース https://t.co/M0sHJ2zcN6
— 本田由紀 (@hahaguma) November 18, 2024
兵庫県議会百条委員会の奥谷謙一委員長が、立花氏の言動や飛び交ったデマに対し、根拠を挙げて逐一具体的に反論されています。
— 岡田 悟 衆議院議員 立憲民主党兵庫7区(西宮市・芦屋市)総支部長 (@occupy012123) November 18, 2024
「脅して『自死』しても困る」立花氏に脅されたと百条委の奥谷委員長 SNSに流れる複数の情報デマと否定(関西テレビ) https://t.co/ri6BHBKPCZ
再選の斎藤元彦前知事に出頭要請へ…百条委の委員『SNSなどで誹謗中傷受けた』と明かす 奥谷委員長 百条委メンバーの県議も「一身上の都合」で辞職「誹謗中傷から家族を守るために身を引いた」(MBSニュース)#Yahooニュースhttps://t.co/MM9GbTi63V
— 中沢けい (@kei_nakazawa) November 18, 2024
「まぁ余り脅しても奥谷さん自死されても困るのでこれくらいにしておきます」 pic.twitter.com/tOPQtLf5dJ
— 大津皇子 (@Prince_Ootsu) November 3, 2024
こんなん
— 大津皇子 (@Prince_Ootsu) November 18, 2024
許されんやろ
これが
今回の選挙の
ひとつの側面
ハッシュタグも
よう見ときや
誰が何のために
どう動いたか pic.twitter.com/BAaOLClxER
【百条委員会 奥谷委員長記者会見】立花が凸したのは奥谷委員長の事務所兼自宅でお母様は危険を避けるために避難していた。戻ってから泣いていた。竹内議員は家族が恐怖で錯乱でこれ以上政治家をやらないでほしいと言われ議員辞職、丸尾議員も恐怖を与えられた。法的措置も考えるとの事。…
— junko (@junko1958) November 18, 2024
兵庫県議会、百条委メンバーの竹内英明氏が議員辞職…知事選を巡りSNSで誹謗中傷受けたか : 読売新聞 https://t.co/uhLb0gBFyI
— ガイチ (@gaitifuji) November 18, 2024
“関係者によると、知事選を巡ってSNSで 誹謗ひぼう 中傷を受けたとして周囲に相談していたという。”
百条委委員の兵庫県議辞職 知事選のネット中傷理由に | 2024/11/18 - 共同通信
— 共同通信ヘイト問題取材班 (@kyodonohate) November 18, 2024
立花孝志氏が、百条委委員に関する情報などを街頭やネット上で発信。竹内氏の自宅に行くと予告したり、デマ情報を流したりして生活が脅かされ、家族を守るために辞職を決断したという。https://t.co/PugX4ZL3tJ
〈上野英一委員は、竹内県議から「言葉の暴力が拡散して、家族が狂乱状態までになった。昨晩も話をしっかりしたが、家族から『政治の道から退いてほしい』と話があった」と相談を受けたと話し、「優秀な議員を追い込むほどのネットの怖さ、これを武器として選挙をする怖さがある。この問題をしっかりし… https://t.co/ZjQyT0w4Ec
— 布施祐仁/新刊『従属の代償』講談社現代新書 (@yujinfuse) November 18, 2024
県民連合上野代表の悲痛な話を聞いてほしい。
— ポストマン 開示請求クラスタ (@postmankaiji) November 18, 2024
竹内県議の家族は、立花が攻撃対象にしたことにより、誹謗中傷を受け選挙期間中家から一歩もでられない状態となった。
最後には奥様が錯乱状態になり竹内県議に辞職を懇願した。
こんな事が許されていいのか?… https://t.co/3olqtY9pvL
虚偽通報によるXの凍結。これはひどい。
— 安田登 (@eutonie) November 18, 2024
"兵庫県知事選挙で落選の稲村和美氏陣営、選挙中にXアカウント2度凍結…「組織的に虚偽通報された」と主張" - 読売新聞 #SmartNews https://t.co/FZFRUi0TJi
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「むきだしのSNSだけが情報」 世田谷区長、兵庫知事選で問題提起:朝日新聞デジタル https://t.co/PQ6cR0AqYZ 「当選は考えていない」として斎藤氏の応援者として立候補した立花孝志氏(57)の選挙戦についても問題提起した。「仮に(そうした立候補が)許されるなら、資金がたくさんある陣営が勝つ
— 保坂展人 (@hosakanobuto) November 18, 2024
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政見放送で「10年不倫してたから」と言った勢いで10年で10人と不倫したと言ってしまい、さらに10人に不同意性交やったとまでいい選挙ポスターに書いて貼りまくり、その上犯罪者扱いの次はテロリスト扱いして「一死を持って抗議」の自殺をした県民局長を侮辱し誹謗中傷した事が「真面目な取り組み」だと… https://t.co/grUBRfGbgj
— junko (@junko1958) November 18, 2024
立花孝志さん本人が政見放送で政見放送で10人と言ったのは10年の言い間違いだと認めている💦
— 初鹿明博 (@AkiHatsushika) November 18, 2024
つまり、間違ったことをそのまま政見放送で流してしまったって事になる。
選挙の結果に影響した可能性あるし、お咎め無しで良いのか?
発言削除しなかった選管やNHKも責任あるよな。#兵庫知事選#政見放送 https://t.co/emh5epVEOS
量子コンピューターの公開特許数、中国がアメリカを抜いて首位に(日経); 本源量子計算科技がIBMを上回りました。中国政府は2025年までに最大150億ドルを量子技術研究に投じるとの見方もあります。
量子コンピューターの公開特許数、中国がアメリカを抜いて首位に。https://t.co/qsb3AFiwnv
— 日本経済新聞 電子版(日経電子版) (@nikkei) November 17, 2024
本源量子計算科技がIBMを上回りました。中国政府は2025年までに最大150億ドルを量子技術研究に投じるとの見方もあります。 pic.twitter.com/JoRDNwrkiu
大杉栄とその時代年表(318) 1901(明治34)年2月3日~7日 子規、自分より早く逝った親友竹村鍛を悼む 「我友竹村黄塔(鍛)は常に眼をここに注ぎ一生の事業として完全なる一大字書を作らんとは彼が唯一の望にてありき。、、、社会のために好字書の成らざりしを悲しまんか。我二十年の交まじわり一朝にして絶えたるを悲しまんか。はた我に先だつて彼の逝きたるは彼も我も世の人もつゆ思ひまうけざりしをや。」(「墨汁一滴」)
1901(明治34)年
2月3日
福沢諭吉(66)、没。
8日、葬儀。大崎村本願寺墓地(常光寺墓地)に埋葬。
2月3日
黒龍会設立。この日発会式。日清戦争後の三国干渉に憤慨した玄洋社の一部が大陸での活動をするために、内田良平(平岡浩太郎 の甥)を中心として葛生修吉、平山周、葛生能久らが結成。玄洋社の頭山満が顧問。東京神田の錦輝館で行われた発会式には、伊東正基、吉倉汪聖、佃時夫、大原義剛、権藤震二らが参加。事務所は芝区西久保巴町の内田の自宅。賛助員に平岡の他には犬養毅、鳩山和夫、頭山満、大井憲太郎、神鞭知常、河野広中、中江兆民。
2月3日
「○伊藤圭助歿す九十余歳。英国女皇崩(ほう)ず八十余歳。李鴻章(りこうしょう)逝く七十余歳。
○星亨(ほしとおる)訴へられ、鳩山和夫(はとやまかずお)訴へられ、島田三郎(しまださぶろう)訴へらる。
○朝汐(あさしお)負け、荒岩(あらいわ)負け、源氏山(げんじやま)負く。
○神田の歳(とし)の市に死傷あり。大阪の十日夷(とおかえびす)に死傷あり。大学第二医院の火事に死傷あり。
○背痛み、臀(しり)痛み、横腹痛む。
(二月三日)」(子規「墨汁一滴」)
2月3日
ロシア、バクー、ナフサ精留塔6基火災。約25万トンの近隣石油備蓄施設に広がり周辺の建物と共に全焼。死者約30人、重傷者約100人。
2月3日
~4日 ロンドンの漱石
「二月三日(日)、 Dulwich Park (ダリッジ公園)を散歩する。広い池に家鴨多く、紳士淑女多い。
二月四日(月)、下宿屋の女たちが一日に五回食事して、一日中働き続けることに驚く。」(荒正人、前掲書)
1901年2月4日の日記
「うちの女連は一日に五度食事をする 日本では米つきでも四度だ これには驚く その代わり朝から晩まで働いている」
この五度の食事のうちの二度は午前と午後のお茶。この下宿の女性たちは、掃除や食事の支度などに一日中かかりきりなので、午前と午後のお茶の時間に、いくらかお腹にたまるような軽食をとっていたと推測できる。
「アフタヌーン・ティ」と呼ばれる習慣は、1840年代にベドフォード公爵夫人アンナによって始められたとされる。その時代のイギリスの上流家庭での夕食の時刻は、だいたい夜の8時、9時というのが普通だった。すなわち昼食から夕食の時間が長すぎたたために、空腹を覚える人が多く、そこでアンナが午後の3時か4時頃、軽い食事(バター付きパンやビスケットのような)とともに、ポット・オブ・ティを用意すると、やがてこのような午後の紅茶は、たちまち一種の社会的流行となった。
2月4日
憲政本党、増税案(1月26日上程)賛成を決議。反対派34人は脱党し、18日、三四倶楽部結成。
2月4日
「 節分に豆を撒(ま)くは今もする人あれどそれすら大方はすたれたり。ましてそのほかの事はいふもおろかなり。我郷里(伊予)にて幼き時に見覚えたる様はなほをかしき事多かり。(略)それも今はた行はるるやいかに。
(二月四日)」(子規「墨汁一滴」)
2月5日
「 節分の夜に宝船の絵を敷寐して初夢をうらなふ事我郷里のみならず関西一般に同様なるべし。東京にては一月二日の夜に宝船を売りありくこそ心得ね。(後略)
(二月五日)」(子規「墨汁一滴」)
2月5日
官営八幡製鉄所操業開始。第1号溶鉱炉、火入れ式。しかし不調で、7月23日の第3次火入れでようやく軌道にのる。
同製鉄所は、明治29年(1896)3月に公布された製鉄所官制に基づいて、福岡県遠賀郡八幡町に官営の製鉄所として設置された。
2月5日
~7日 ロンドンの漱石
「二月五日(火)、 Dr. Craig の許に行く。教授料支払う。帰途、 Cervantes Saavedra (セルバンテス 1547-1616)の ""Don Quixote""(『ドン・キホーテ』)、 Thomas Warton (トマス・ウォートン)の ""The History of Engrish Poety"" 4 vols. 1774-1781 を買い、配達を頼む。代価約四十円程。夜、同宿の田中孝太郎と入浴する。大いに気分よい。藤代禎輔(素人 在ベルリン)から手紙来る。夜遅く、藤代禎輔(素人)と中根カツ(鏡の母)に手紙を出す。
二月六日(水)、午前一時頃就寝する。起床した際、咽喉の調子少し悪い。正午過ぎ買物に行く。十円以上費す。『ワーズワース詩集』を買う。前日買った古書届く。下宿の主婦、何処でこんな古本を買うかと云う。
二月七日(木)、山川信次郎から年質状来る。菅虎雄からも絵葉書の年質状来る。(当時は郵便物がロンドンに届くには二ゕ月余りかかったらしい)」(荒正人、前掲書)
2月6日
「 節分にはなほさまざまの事あり。我(わが)昔の家に近かりし処に禅宗寺ありけるが星を祭るとて燭(しょく)あまたともし大般若(だいはんにゃ)の転読とかをなす。(後略)
(二月六日)」(子規「墨汁一滴」)
2月6日
イタリアのサラッコ内閣、ミラノのストライキ収拾失敗、倒れる
2月6日
フィリピン、州自治法制定。
2月7日
「 我国語の字書は『言海(げんかい)』の著述以後やうやうに進みつつあれどもなほ完全ならざるはいふに及ばず。我友竹村黄塔(こうとう)(鍛(きたう))は常に眼をここに注ぎ一生の事業として完全なる一大字書を作らんとは彼が唯一の望にてありき。その字書は普通の国語の外に各専門語を網羅しかつ各語の歴史即ちその起原及び意義の変遷をも記さんとする者なり。されど資力なくしてはこの種の大事業を成就(じょうじゅ)し得ざるを以て彼は字書編纂(へんさん)の約束を以て一時書肆(しょし)冨山房(ふざんぼう)に入りしかど教科書の事務に忙殺せられて志を遂ぐる能はず。終にここを捨てて女子高等師範学校の教官となりしは昨年春の事なりけん。尋(つい)で九月始めて肺患に罹かかり後赤十字社病院に入り療養を尽(つくし)し効(かい)もなく今年二月一日に亡き人の数には入りたりとぞ。社会のために好字書の成らざりしを悲しまんか。我二十年の交まじわり一朝にして絶えたるを悲しまんか。はた我に先だつて彼の逝きたるは彼も我も世の人もつゆ思ひまうけざりしをや。
我旧師河東静渓(かわひがしせいけい)先生に五子あり。黄塔はその第三子なり。出でて竹村氏を嗣つぐ。第四子は可全(かぜん)。第五子は碧梧桐(へきごとう)。黄塔三子あり皆幼。
(二月七日)」(子規「墨汁一滴」)
2月7日
オスマン帝国スルタン、マケドニアの政情不安を理由として、ブルガリア国境に軍数千を派遣(~4月5日)。
つづく
新組織「政府効率化省」のラマスワミ氏、一部政府機関を「完全廃止」に(CNN); 国防総省、教育省、「医療」を対象分野として挙げた / マスク氏を「政府効率化省」トップに起用、トランプ次期大統領が発表 ラマスワミ氏も抜擢(BBC);「ラマスワミ氏は予備選で、連邦政府職員の75%以上を解雇し、教育省や連邦捜査局(FBI)、アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局など、いくつかの主要連邦機関を閉鎖すると主張していた。」 / トランプ氏「現代のマンハッタン計画」 マスク氏の政府効率化組織(毎日) / マスク氏、米FRB廃止支持? SNS投稿に賛同の絵文字(時事) / 「新たな時代の幕開け――アメリカのテック・ボス連(bros)が権力の中枢で権力を誇示」(ガーディアン)
新組織「政府効率化省」のラマスワミ氏、一部政府機関を「完全廃止」に https://t.co/rJt0s4lYG4 @cnn_co_jpより
— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) November 18, 2024
「イーロン・マスク氏とともに主導する実業家のビベック・ラマスワミ氏は、国防総省、教育省、「医療」を対象分野として挙げた。」
ラマスワミ氏は予備選で、連邦政府職員の75%以上を解雇し、教育省や連邦捜査局(FBI)、アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局など、いくつかの主要連邦機関を閉鎖すると主張していた。 https://t.co/dG7SV59GyM
— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) November 13, 2024
BBCニュース - 【米政権交代】 マスク氏を「政府効率化省」トップに起用、トランプ次期大統領が発表 ラマスワミ氏も抜擢https://t.co/PhQ7BmJcfr
— BBC News Japan (@bbcnewsjapan) November 13, 2024
“ラマスワミとマスクは以前から政府の規制の権限に批判的でラマスワミは、連邦政府の労働力の75%以上を削減し教育省やFBIなどの機関を閉鎖すると述べている。一方マスクは連邦機関をより小規模にする意向を示しており連邦機関の活動を議会が承認した範囲内のものに限定すべきだと主張” https://t.co/WlMYf7Tj3Y
— ガイチ (@gaitifuji) November 13, 2024
こういう感覚なのだよな>「マンハッタン計画」
— れもんた (@montagekijyo) November 13, 2024
>トランプ氏「現代のマンハッタン計画」 マスク氏の政府効率化組織 | 毎日新聞 https://t.co/azGutyweez
マスク氏、米FRB廃止支持? SNS投稿に賛同の絵文字https://t.co/HSMMzMmoaY
— 時事ドットコム(時事通信ニュース) (@jijicom) November 13, 2024
イーロン・マスク氏が、米FRBの廃止を呼び掛けたXの投稿に、賛同を表していたことが分かりました。トランプ氏はマスク氏を、政府機関の効率化を進める新組織のトップに起用する考えを示しており、波紋を広げそうです。
この記事は必読。
— 石田英敬 (@nulptyx) November 11, 2024
「新たな時代の幕開け――アメリカのテック・ボス連(bros)が権力の中枢で権力を誇示」
(日本語による要約を以下に添えます)。https://t.co/j8TUFiW78f
「新たな時代の幕開け――アメリカのテック・ボス連(bros)が権力の中枢で権力を誇示」
The…
〈ツイート全文〉
The Observer紙キャロル・カドワラダー氏記事。
米国の技術業界の新しいエリート層(いわゆる「テック・ブロ」)が政治の中心に進出し、社会全体に根本的な変革を引き起こしている。
1.背景と新しい情報秩序の台頭
2016年の米国大統領選挙を契機に、「情報空間の裂け目」が生じ、事実や証拠で支えられた従来の安定した世界観が揺らぎ始めた。その時点で、「技術の混乱」が民主主義を脅かす可能性を感じ取られ、以来8年間を通して「偽情報」「ディスインフォメーション」「マイクロターゲティング」などの新しい言葉が登場し、社会が情報戦争の時代に突入したことを示した。
2.ソーシャルメディアの変質と影響力の拡大
ソーシャルメディアは単なるプラットフォームの枠を超え、現在はメインストリーム・メディアとして、世界中で情報収集の主要な手段となっている。2016年の選挙を通じて既にその兆しが見え始めていた。例えば、ケンブリッジ・アナリティカやロシア政府がソーシャルメディアを「脅威の表面」として悪用し得ることが証明された。
3.技術エリートの影響力と政治的結合
イーロン・マスクをはじめとするテック・エリートが政治権力と結びつき、「監視産業複合体」としてメディアや学者に圧力をかける事態が顕著である。この記事では、イーロン・マスクがトランプやプーチンとのつながりを持ち、テクノロジーを用いて権力を掌握しようとする姿勢が問題視されている。カドワラダー記者は、マスクを「シャドウ国家元首」のように描写し、情報操作や憎悪を助長する行動が社会に大きな影響を与えていると指摘する。
4.文化と政治の相互関係
この記事ではスティーブ・バノンの「政治は文化の下流にある」という言葉を引用し、テック・エリートの支配が単に経済や技術の問題にとどまらず、社会文化的な影響力を持ち、選挙結果さえも左右する現状に注意を促している。この文化的影響が、YouTubeやTwitch、ポッドキャストを通じて「テック・ブロ」文化が根付くことを可能にしていると述べる。
5.民主主義と真実への脅威
記者は、マスクやピーター・ティールなどの技術エリートが真実や科学、ジャーナリズムといった啓蒙主義的な価値観に対して脅威となっていることに懸念を示す。テック業界がもはや真実やエビデンスを重要視せず、既存の制度や秩序を破壊し、代わりに独自の影響力を行使する傾向があるとする。
6.社会の情報汚染とその対策
記事の結論部では、現在の社会が「情報の下水道」に浸っている状況を比喩的に描写し、汚染された情報環境に対する「浄化」が必要であると述べる。これは政治的な問題にとどまらず、社会全体で取り組むべき課題であると強調する。
このように、カドワラダー記者は、技術エリートが支配する「新しい時代」において、情報と権力の不均衡が深刻化していると警告し、民主主義や真実が維持されるためには新しいアプローチが求められると提言している。
Trump announces he will close the federal Department of Education.
— Wall Street Silver (@WallStreetSilv) November 11, 2024
He will send it all back to the states and allow local states and counties and cities decide their education policy.
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寛仁元年(1017)5月、三条上皇(42歳)没。 子の敦明親王(24歳)は東宮を辞退(小一条院の称号を受ける)
寛仁元年(1017)
5月9日
・三条上皇、42歳で没。
3ヶ月後、東宮敦明親王(三条の子)が東宮を辞退。
5月27日
・この日、道長邸の倉から金銀2千両が盗まれる。『小右記』の後日の記事によると、砂金1,400両、銀800両であるという。
7月10日、盗賊は逮捕され、砂金1,000両などを取り戻した。この盗賊は播磨国に逃げたのを、同国白国(しろくに)郡司の手の者が捕えた。
『御堂関白記』と『小右記』・『左経記』では少し食い違っているが、盗人の主謀者は道長の家司の甘南備保資(かんなびのやすすけ)という者の郎等らしい。保資は当の金銀を納めた倉の管理責任者だったのであるが、その手下が他の公卿の従者たちと共謀して犯行をとげたもののようである。
このように、他の例を見ても、当時の記録に出て来る盗賊の多くは、いわゆる無職無頼の徒ではなく、れっきとした官吏であったり、貴族などの従者であったり、主人持ちの連中が多い。
*
6月10日
・源信(76歳)歿。
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7月
・この年は5月頃から雨が多く、6月末に3日2夜の大雨が降り続き、7月に入るとたちまち一条以北の鴨川堤が決潰して濁流が流れこみ、京極一帯に大海のごとく、病者を収容していた悲田院では300人が押し流されたと伝えられた。その間、神祗官と陰陽寮が命ぜられて占いを奉仕し、どの神社の祟りかを考えている。
朝廷が本腰を入れて鴨川堤の修理を諸国に割り当てたのは、3年後であった。
*
・7月以降、天皇の諸社行幸の上卿を命じられた大納言実資の行幸準備が繁忙となる。
彼のところに行幸に関する各種の問題が殺到し、弁や史を指揮し、道長や摂政頼通に相談しながら進めてゆく。
行幸の際に奉献する神宝類の選定・調達、賀茂上下両社の破損箇所の調査・修理、行幸の際の天皇御座所の新築の指図、行幸に使用する御輿の検査・修理、駕輿丁の衣裳の検査や補充、諸国に賦課した行幸費用・資材の督促などの問題が、連日のように持ち込まれ、これらを先例旧規を考え、周囲の実情とにらみあわせながら処理してゆく。
また、行事を担当する弁も史も、親族が死んで喪に服することになったから、神社行幸という神事に関係することはできなくなって、急に他の弁・史と交代するという事件も起こる。
*
7月5日
・摂政頼通、皇太后宮で検非違使の補任宣旨を下す。
皇太后彰子は幼い後一条天皇の代理を行っている。
*
8月
・敦明親王(24歳)が東宮を辞退し、小一条院となる。
敦良親王(9歳、後一条弟、皇太后彰子が生んだ子、道長の外孫、のちの後朱雀天皇)が立太子する。
敦明親王の母は立后に際して道長一派の激しい妨害を受けた皇后娍子であり、後見のない、非力な存在である。
親王は、左大臣藤原顕光の娘の延子(堀河女御)を妻とし、既に数人の王子が生まれているが、その舅と頼む顕光は無能と人々から謗られ軽んぜられている状態である。
『御堂関白記』『小右記』などによれば、8月4日、敦明親王が道長の子能信(よしのぶ)を介して道長との会談を求め、6日、道長は東宮御所に赴き、親王から「日来(ひごろ)の間思ひ定め聞こゆる所」として東宮辞退の決意を打ち明けられたという。
道長は、おそらく以前から敦明親王に辞任を仕向けるような工作を進めていたであろうし、この決心を聞くに及んで心中快哉を叫んだと思われる。
道長が、母の皇后娍子や舅の顕光の意見はどうであったかと尋ねると、東宮は、母皇后は不愉快だと思っているが、顕光はご随意にとの返答である、この決心はよく考えた末のことであるから、よろしく取りはからってもらいたい、と答えた。
実資が道長から聞いたところでは、敦明が、「輔佐の人無し。宮の事(春宮坊の仕事)有りて亡きがごとし。院崩御の後、弥よ為(せ)ん方無し。傳(顕光)・大夫(斉信)、その中宜しからず。一分も我がために益なし」、と嘆いたという(『小右記』)。
道長は、直ちにその場に摂政頼通を呼びよせ、敦明親王の今後の待遇について相談を纏めてしまった。
道長の示した条件には親王も満足の意を表したようである。
そして、道長は退出し、その足で皇太后彰子のもとに行って一切を報告した。
東宮辞退の噂はその日(6日)のうちに人々の間に広まった。
実資には6日のうちに蔵人右少弁藤原資業(すけなり)がこっそり話して、実資を驚かせている(『小右記』)。
源経頼はその日、人々と東光寺に遊びに出かけたが、たちまちある人の噂として、道長一家のこまごました動静までも聞きこんでいる(『左経記』)。
また、『左経記』には次の東宮は敦良親王ということまで、6日の条に記されている。
行成は前日の5日に、摂政頼通から、東宮の件が起こりつつあることを聞かされ、6日には従者や子供から知らされて、頼通の邸に駈けつけた(『権記』)。
これらの記事から、人々が、東宮の一件の結末を見守っていた関心のほどがわかる。
翌7日、公卿たちは頼通以下続々と道長邸に集まった。
新東宮が敦良親王であることには、なんの疑いもなく、相談の内容は新東宮の立太子式の時期についてである。
早いに越したことはないという意見が纏まり、早速陰陽道の達人の安倍吉平(よしひら)に日を選ばせたところ、明後日が吉日であるという。それとばかりに立太子式の準備が始まり、9日には敦良親王立太子の式典が盛大に挙行された。
*
8月10日
・この日、急に天皇の賀茂社行幸予定日の19日が天皇の物忌の日になってしまった。
日取りを変更することになって、摂政頼通が陰陽道の安倍吉平に暦を見て考えさせると、9月26日は吉日だが、天皇の生母の皇太后彰子の衰日(すいにち)に当たる、11月25日ならば不都合ないとのことで11月25日に変更と内定。
しかし、8月10日は重日(じゆうにち)で、行幸日取りの変更を発表するには不適当な日というので、正式発表は翌11日となった。
*
8月中旬
・天皇の賀茂社行幸の上卿になっている実資は、道長から一代一度大仁王会(にんのうえ)の検校に指名される。
仁王経を講ずる仁王会は毎年行なわれるが、一代一度大仁王会は、その最も大規模なもので、天皇一代に一回だけ行なわれて、国家安泰を祈願するもので、検校はその上卿である。
実資は賀茂社行幸と大仁王会との両方の上卿を兼ねたわけだが、10月8日に大仁王会を、11月25日に天皇の賀茂社行幸を無事に片づけている。
*
8月21日
・新東宮が天皇に初めて拝謁する儀式が行なわれた時、人々は、道長一家の栄華は古今無比、いったい前世にどんな善根があってこのように栄えるのだろうか、と語り合ったという(『権記』)。
*
8月23日
・新東宮に内裏から壷切の太刀が授けられ、勅使の捧げる剣を、道長自ら取り伝えて東宮の枕もとに置いた。
壷切の太刀は、関白藤原基経が父から伝えられた名剣であり、基経がこれを宇多天皇に献上し、天皇は皇太子敦仁親王(醍醐天皇)にこれを授けてから、東宮の守り刀として代々の東宮に受け継がれてきたもの。
道長は、敦明親王の立太子の時には、この壷切の太刀を授けることを拒み、敦明親王は立太子の後1年半の間、遂に壷切の太刀を新帝後一条天皇から受けつぐことなく、太刀は内裏の納殿にしまわれていた。
これは『御堂関白記』や『小右記』に記されており、道長は敦明親王を皇太子としておく気はなく、初めからその退位を予定していたことが知られる。
*
8月25日
・東宮の地位を退いた敦明親王は、小一粂院という称号を受け、太上天皇に准ずる待遇を受けることになった。
自身は危険な境を脱し、道長からは厚遇され、一応満足したようである。
封戸や年給なども東宮のときのまま減額されず、年分受領も与えられた(実体は不明だが、国の守の収入を得られる特別の待遇。受領推薦権とも)。
*
8月末
・この時の除目は、頼通が摂政となって最初の除目であった。
道長は宇治の別荘に数日滞在し、除目の指図はしないとの態度を表明した。
しかし、それまでの彼の威勢は余りに大きく、公卿も頼通自身も、道長が前摂政として新摂政頼通に適切な指示を与えることを望んでいた。
除目の事前運動も、相変わらず道長を目あてに行なわれたらしい。そして、頼通も除目の間、道長のもとに急使を派してその指揮を仰ぎ、道長はこれに返書を授けている。
人々は道長の引退を事実上認めず、道長は、この後も、前摂政、前太政大臣として、相変わらず万事に指示を与える立場に置かれていた。
*
*
東宮を辞退し政治権力は失った敦明親王だったが、「小一条院」の号と准上皇の待遇、さらには領地や特権などが次々と付与され、経済的には非常に富裕となった。子孫は源氏の姓を与えられ三条源氏として存続、有名な子孫には百人一首の歌人・前大僧正行尊がいる。また、源頼義・義家親子が家臣として出仕… pic.twitter.com/QhSVAewUxp
— 令和の土星人。'24@ワクチン4度接種&インフル接種完了 (@4568Ts) November 17, 2024
寛仁2年(1018)1月~3月 後一条天皇(11歳)元服 道長の娘威子(20歳)が入内
寛仁2年(1018)
この年
・この年、仏師康尚は近江国逢坂の関寺の仏像を造り始める。
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・この頃、『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)成立。藤原公任撰の歌集。
『倭漢朗詠集』或いは巻末の内題から『倭漢抄』とも呼ばれる。
もともとは藤原道長の娘威子入内の際に贈り物の屏風絵に添える歌として編纂され、のちに公任の娘と藤原教通の結婚の際に祝いの引き出物として贈られた。
達筆の藤原行成が清書、粘葉本に装幀し硯箱に入れて贈ったという。
下巻「祝」部に『君が代』の原典がある。
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1月
・『御堂関白記』寛仁2年正月に
「栖霞寺一切経を渡し奉る、これ故法橋奝然、唐より持ち渡る経なり、而して遺弟献ずるなり」と、道長が宋版一切経を手に入れたことがみえ、釈迦堂の造営に道長の関与があったことも推測される。
棲霞寺は五台山清涼寺と称された。これは聖地五台山を日本に移したものであり、清涼寺の名称は五台山最古の名刺の名によっている。
清涼寺には、国宝の十六羅漢図もあるが、北宋羅漢図の唯一の遺品であり、奝然が帰国の際にもたらしたと考えられる。
永延元年(987)2月、奝然は帰国・入京後、愛宕山に五台山大清涼寺を建立することを申請して、準備を進めたが、在世中には実現せず、「遺弟」の盛算が嵯峨の棲霞(せいか)寺に釈迦堂を建立した。
*
1月3日
・この日、紫宸殿で後一条天皇(11歳)の元服の式。
後一条天皇の母彰子は皇太后から太皇太后へと昇る。
翌々5日、盛大な祝賀の宴が張られた。
*
1月23日
・寛仁元年(1017)に内大臣、ついで摂政となった藤原頼通は、この日、大臣大饗を開く。
この時、摂政就任記念ということもあってか、4尺の倭絵屏風12帖が新調された。
この時の和歌について、『栄花物語』「ゆふしで」に記事がある。
「さべき人々に皆歌くばり賜はするに」「すべて和歌八十首ぞ出で来たりつれど」厳選され、前大和守藤原輔尹、道長、左馬頭藤原保昌妻式部(和泉式部)、祭主大中臣輔親、藤原公任の計8首をあげている。
さらに『小右記』などによると、この屏風の色紙形には、和歌だけでなく漢詩も書かれた。
漢詩は、大納言藤原斉信(ただのぶ)、公任、式部大輔藤原広業(ひろなり)、内蔵権頭慶滋(よししげ)為政、大内記藤原義忠、藤原為時(紫式部の父)が献じ、献じられた詩と和歌は藤原定頼(公任の子で書の名手)が書き出し、藤原公任と斉信という両才人が撰定にあたり詩と和歌の採否を決め、最後に行成によって色紙形が清書された。
実資は、「儒者に非ざる上臈の公卿、臣下の命に依り、屏風詩を作るは如何。凡人に異ならず」と非難している。
従来専門歌人によって作られていた和歌や、儒者(学者)によって作られていた漢詩が、摂関期以降は公卿など上級貴族によっても作られるようになった。
公卿など上級貴族が漢詩や和歌の世界に進出するようになっていった契機のひとつとして、道長への権力集中によって公卿たちに漢詩や和歌の制作が課されたことがあげられる。
院政期になると院が文化の巨大プロデューサーとなるが、道長はその先駆けである。
他の公卿たちは、別の公卿に詩作を依頼することはできない。
道長は、経済的賦課・文化的賦課をかけながら他の公卿たちとは隔絶した地位を築いていった。
*
2月
・2月早々から、威子入内の準備は始められ、入内の日取りは3月7日と決定する。
*
2月9日
・道長が太政大臣を辞任、前太政大臣となる。在任は2ヶ月間。
*
3月7日
・道長女威子(20歳)が入内。
元服した後一条天皇(11歳)には母である太皇太后彰子(道長の娘)の妹威子(母は倫子、つまり天皇の母と同母妹、叔母)が入内し、女御となった。
年齢差はあるが、威子は小柄なので天皇と釣り合っていたという。
入内は結婚の式であるから、当時の風習として、これに先立って男女間に手紙のやり取りがなくてはならない。
そこで3月1日、蔵人が勅使として天皇の書状を捧げて道長邸に赴く。道長のほうでは道長・頼通以下、公卿が多数集まって勅使を迎え、頼通の弟の左大将教通が勅使から書状を受け取って御簾のなかに入る。
この第1回の時には威子からは返書を奉らず、勅使は別の席で公卿たちから振舞を受け、禄として女の装束一揃いをもらって帰る。
5日にも天皇から書状があり、今度は威子からも返事を差し出す。先回同様、公卿が集まって勅使を迎える。
万事は儀式的に、華やかに進められた。
3月7日、公卿・殿上人多数が従って、夜に入って無事威子の入内は終わった。
この頃の内裏は一条院であり、威子の室はその西北の対屋(たいのや)に設けられた。
彼女の母、源倫子も共に参内して世話した。
威子は天皇の生母太皇太后彰子の同母妹、つまり叔母であり、そして天皇より9歳も年長。
当時の例から見ると、姉妹の一人が父に、他が子にとつぐ例はかなり多く、嫌うべきことではなかったようである。
こんにちではこのような近親結婚は法律でも禁止され、医学的にも避けるべきこととされているが、もっと古くは兄妹の結婚も同母でなければかまわない風すらあった。天皇が11歳では結婚といっても形ばかりのことで、威子に子の生まれたのはそれから8年後のこと。
威子の入内に従った女房40人の中に二条殿の方と呼ばれた、道長の兄道兼の娘がいた。
長徳元年(995)、兄の関白道隆の病死によって関白の地位を得た道兼もまた病死して世に「七日関白」といわれ、この道兼の死によって道長の前途が開けた。
道兼が健在であったら、彼女も女御として後宮に入ったことであろう。彼女の姉の尊子(そんし)は、一条天皇の女御である(のち、参議藤原通任と仲よくなって評判を立てられた)。
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藤原威子(1000~1036)は道長の六女、倫子の第五子。寛仁2年3月7日(1018年3月26日)、甥でもある後一条帝に入内する。後一条帝よりも9歳年上であったため本人は入内を恥ずかしがったという。ただその後の後一条帝との夫婦仲は良好であった。性格は長姉・彰子に似てしっかり者の倹約家であった。… pic.twitter.com/QoX8xRcazp
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長和5年(1016)2月 後一条天皇(7歳)即位式 母后(皇太后藤原彰子)が高御座に登る初例 道長の本邸である土御門邸全焼
長和5年(1016)
2月7日
・敦成親王が即位(後一条天皇、7歳)。
後一条天皇即位式における摂関と母后の登壇
道長は他の公卿たちとは異なる存在であることを明らかにし、権力集中を実行してゆきながら、天皇に極めて近い地位を築いて行く。
この摂関の王権への接近を象徴的に示すのが、「即位式における摂関と母后の登壇」である。
後一条天皇即位時の皇太后藤原彰子は、母后が幼帝の即位式において高御座(たかみくら)に登る史料的初例である(『小右記』長和5年2月7日条)。
その時摂政左大臣道長は、大極殿の「北庇東幔内(きたびさしのまんのうち)」に伺候(しこう)していたという。この「北庇東幔内」は本来皇后の座であり、この座の配置は母后との関係で成立したものと考えられる。
一方、関白の座が明確になるのは、後朱雀天皇即位時からで、時の関白頼通は「北庇東幔内」に座を占めたと推測される。
のちの院政期には、摂政は即位式において母后とともに大極殿の高御座に登り、関白は高御座の下に座を占めるようになる。
即位式では、他の公卿は朝庭から大極殿を見上げる位置に並んでいたことと比較すると、その立場の違いは歴然としている。
道長は外孫の後一条天皇が即位した後には、儀式の際公卿の列に加わらず、母后である娘彰子と共に御簾の内にいる姿が頻出する。
つまり、道長は拝礼を受ける側に回ったことになる。
2月13日
・三条天皇、太上天皇の尊号を得て上皇となる。
翌年5月9日、42歳で没。3ヶ月後、東宮敦明親王(三条の子)が辞退。
*
3月16日
・源経頼『左経記』には、道長が摂政となったため、一上の仕事を他の公卿へ譲ることになり、その後任者を決める定(さだめ、会議)が皇太后宮で摂政道長同座のもとで行われた。
右大臣顕光と内大臣公季が老齢なので、大納言以上なら誰でも務めてよいと定めている(長和5年3月16日条)。皇太后宮で公卿たちの定が行われているのは天皇の御前定(ごぜんのさだめ)に准じたものである。
*
6月10日
・摂政道長と室倫子に准三宮(太皇太后・皇太后・皇后の三宮に准じる)の待遇、年官・年爵を与え、封戸を益(ま)し、道長に随身と帯刀資人(たちはきのとねり、刀を帯びた従者)与える勅書が下された。
『小右記』『左経記』によると、「母后令旨」によって命じられた。
『小右記』『左経記』によると、母后の前にいた左大将頼通が、摂政道長と北方倫子を三宮に准ぜよという「母后令旨」を蔵人頭資平を召して伝えた。資平は陣に出てその旨を上卿中納言源俊賢に命じた。
『小右記』によれば、三宮に准ずる勅書は大内記藤原義忠が作成して内々に草案を道長に見せ、その後、蔵人頭資平が奏上した。
奏聞の手順は、まず摂政道長へ見せ、次に奏聞したのだが、「只母后の御格子(みこうし)外に於いて案内(あない)を申すと云々」とある(奏聞と言っても、母后御所の御格子の外で申し上げただけであった)。
幼少の天皇へ奏聞したわけではなく、母后が天皇に代わって聞いている。
母后は摂政よりさらに天皇に近い立場で天皇の代理を務めている。
このような「母后」の立場は、天皇が行幸する時は天皇と同輿(どうよ、同じ輿に乗ること)し、即位の儀において天皇とともに高御座(たかみくら)に登るという行為に象徴されている。天皇と一心同体である。
*
7月10日
・この日、摂政道長が皇太后彰子に啓上した後、後院司(三条上皇の院司)を定めた(『御堂関白記』)。
*
7月20日
・この日、近江守藤原惟憲宅から出火し、火は土御門南、京極西、万里小路東、二条北に至る地域に及んで、あわせて「五百余家」(『御堂関白記』)が焼失した。
この日深夜、道長の本邸である土御門邸(上東門邸ともいいう)が全焼。
公卿や、諸国の受領たちも、その報を聞いて次々と上京して道長を見舞った。
道長は直ちに土御門邸再建の手はずを定め、家司を総監督として、8月19日には普請を開始。
11月には寝殿をはじめ、対局など5、6の殿舎が立ち始める。
道長は、寝殿の造営には、新旧受領たちの中の腕の立つ者に、柱間一間ずつの造営を割り当てた。
実資はこれを前代未聞のこととして憤慨している。
世人一般の感覚としては、土御門邸は道長の私邸であるものの、前摂政太政大臣の本邸であり、何かの折には里内裏として用いらる邸であるし、随時三后や東宮の御所となるものなので、選ばれた受領たちは単なる私邸の造営とは思わなかった。
また、受領たちはこれを名誉とし、直接道長の覚えをめでたくする絶好の機会と考えて、ここぞとばかりサービスを惜しまなかった。
寛仁2年(1018)6月27日、盛大な新築移転の式が挙行される。
*
8月
・尾張国の郡司・百姓が入京し、国守橘経国のことを愁訴する。道長はその訴状を受理し、会議にかけることを命じる。
*
11月
・大嘗会が行われる。
・道長の娘寛子(明子腹)が女御代となり、『栄花物語』「たまのむらぎく」では、「これはなにはのことも改めさせたまへり」と、さらにいっそう華やかな御禊行列の様をくわしく記している。
*
長和4年(1015)7月~12月 三条天皇退位を決意。「こころにもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜はの月かな」
長和4年(1015)
7月
・入宋の天台僧寂照の弟子念救が宋に戻る。
道長は、多くの公卿の知識物とあわせて、琥珀や水晶の念珠、螺細蒔絵厨子、砂金百両、奥州の貂裘(ちようきゆう、貂の皮衣)を送る。
尚、この時に先に延暦寺に送られた品々が座主故覚慶の弟子院源が隠匿していたことが発覚して問題になった。
道長が天台山に答えた書によれば、天台山は大慈寺再建の助成を求めたようで、道長以下はそれに応えて砂金等を送ったらしい。
*
・この月、道長は宋僧から『白氏文集』を贈られて感激している。
一条朝を中心とする時代は『白氏文集』がもっとも愛好された時代。
三蹟の真跡とされるのは多くが『白氏文集』である。
*
7月5日
・この日、六衛府の連中が八省院の廊に集合して相談を始めた。
これは数日前に蔵人藤原親業が左近衛番長茨田弘近の欠礼を怒り、弘近をつかまえて首に水をあびせたという一件があり、これを知った衛府の適中が憤慨してのこと。
蔵人頭に弘近の親である左近衛将監茨田重近から訴え出て、それから衛府の連中一同、陽明門に集まって騒ぎたてようということになったらしい。
訴を受けた蔵人頭藤原資平は直ちに左大臣道長にこれを報じ、道長の命で左近衛府以下の連中を説諭して解散させた。
道長の指示は、蔵人親業の行為は別に厳罰に処すべきほどのことではないが、やはり不当であると、衛府の連中にも達するようにというもの。
これは発展すれば衛府のストライキにもなりかねない事件。この頃の世相の一端を示している。
*
8月
・8月に入ると、道長の三条天皇に対する退位要求は一段と頻繁に、かつ公然化して来たようである。
目が見えなくては官奏や、叙位・除目が行なえないので、この月、天皇は官奏を代わって見るように道長に言ったが、道長は辞退し、政務は停滞、三条天皇は追い込まれていった。
そしてついに天皇は、焼失後、目下新築中の内裏が完成して皇居に入ったのち、なおも目が見えないようだったら道長の意に従うほかはないと漏らすに至った。
*
9月14日
・三条天皇が眼病の平癒を祈って立てようとした諸社奉幣使が、4月以降7回の延期を重ね、ようやく伊勢神宮以下諸社に派遣される。
天皇は最後の望みを諸社にへの祈願に託した。
通例、諸社に祈願を立てる奉幣使は、殿上人とか蔵人の役であるが、天皇のこの時の祈願は特別で、皇大神宮をはじめ、石清水・賀茂社以下の諸大社に公卿を使いとして派遣し、眼病の平癒を祈ろうという意向だった。
この計画は4月から天皇の意中にあったようで、6月に入って道長にも打ち明けて実行に移そうとしたが、その実現には異常な障害が重なった。
使いに選ばれた公卿が急に病気を申し立てたり、使いの家や皇居内に死体が発見されて触穢として延期になったり、ようやくこの日、中納言クラスの連中が使いとなって諸社に向かうまで前後7回にわたって延期を重ねた。
天皇の平癒を喜ばない道長の意中を察した故意の故障があると推測できる。
天皇は、これらの故障の続出を道長が天皇の計画を妨害するものと思い、なおさらその実現に躍起となったが、こうしておこなわれた祈願も効果なしと知ると、絶望して日々の神拝も止めてしまうという混迷に陥った。
*
9月20日
・新造内裏が完成。三条天皇は里内裏であった道長の枇杷殿(びわどの)から移る。ここで道長はまた改めて譲位を天皇にしきりに迫ったらしい。
*
10月2日
・この日、天皇は密かに道長からの退位圧力について資平に告げ、次のような話も打ち明けた。
「道長は自分の前で、退位後、つぎの東宮には敦明親王以下、自分の子供たちはみなその器ではない、故一条天皇の皇子、今の東宮敦成親王(後一条天皇)の弟である敦良親王こそ、次代の東宮たるにふさわしい、と放言した。もうこうなっては譲位の事などはいっさい思いとどまった」
さすがに天皇は道長の態度に憤激して、このときはあくまでも踏みとどまって道長と対決しようと思ったのであろう。
10月27日
・道長、准摂政となる。
三条天皇の眼病が悪化し、除目や官奏が行なえず、政務が停滞し、道長を摂政に准じて行なわせることとした。
それを伝える前日の『小右記』には、「摂政の例に准じて、官奏を見る事、除目を行なふべき事、一上の事を行なふべき事等、明日仰せらるべきなり。是れ相府(道長)の詞なり」とあり、摂政と同じく官奏や除目を行なうのに、例外的になお一上のことを手放さないと付け足していることがわかる。
11月17日
・新造内裏がまたも焼亡。天皇は再び里内裏へ移る。
火は内裏の東側から起こり、西北風を受けてしだいに燃え広がったので、天皇は一時、内裏北側の桂芳坊に避難し、そこもあぶないとなって太政官に入り、翌日、2月前まで里内裏であった枇杷殿に再び戻ることになった。
こうして、譲位するにしても、せめて新しい内裏で引退の式を挙げようとする天皇の志も、むなしく潰えた。
鎮火の直後、道長は天皇に譲位を迫った。
たび重なる内裏の焼失は、天皇の不徳を天が責めているのだというような論法を用いたのであろう。
天皇は、いまは気が顛倒しているから、落ち着いてから考えて返答しようと答えたが、もはや事態は決定的。新しい内裏が僅か2ヶ月でまたも焼けてしまったことは、まさに天に見放された形である。
世人は天下滅亡の時といったという。人心の動揺はもう抑えることはできない。
*
12月
・三条天皇の退位はすでに決した。
天皇の病は一向によくなることなく、12月なかば、月明の夜に、天皇はつぎの一首を詠じた。
こころにもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜はの月かな
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長和4年(1015年)10月15日、三条帝は13歳の皇女・禔子内親王を藤原頼通に嫁がせる内意を示したが、頼通は妻隆姫女王への思いに悩み病と称して出仕しなくなった。亡き伊周の怨霊の祟りとも噂されこの話は破談となったが、破談が決まると頼通は何事もなかったかのように「平癒した」という。#光る君ヘ pic.twitter.com/PcDfOPEchD
— 令和の土星人。'24@ワクチン4度接種&インフル接種完了 (@4568Ts) November 17, 2024
三条帝が譲位の際に無念の想いを込めて詠んだ歌、
— 令和の土星人。'24@ワクチン4度接種&インフル接種完了 (@4568Ts) November 17, 2024
「心にも あらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな」
(本当は死にたいくらいだが、心ならずもこの浮世を生き延びたなら、今夜の月を恋しく思い出すのだろうな)
は百人一首に採用され有名である。#光る君へ pic.twitter.com/pqL7tB7ert
寛仁2年(1018)10月16日 道長の三女威子が後一条天皇の中宮となる。 「一家が三后を立てるのは、未曽有である」(『小右記』) 道長「此世をば我世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思へば」。
寛仁2年(1018)
10月16日
・道長の三女威子が後一条天皇の中宮となる。
道長が望月の歌を詠む。
10月5日、威子は内裏から一旦土御門邸に退出した(女御が立后する時、女御はいったん自邸に帰って、そこで立后の命を受ける)。
そして16日、立后の儀式が行われた。
儀式はまず内裏の紫宸殿に天皇が出御して行われる。紫宸殿前の庭には、公卿たちと官人たちが立ち並び、宣命使が「中宮(妍子)を皇太后に、女御威子を皇后に」という宣命を読み上げた。
この時まで、彰子は太皇太后、三条天皇の皇后娍子・中宮妍子の称はそのままであった。2人は共に先帝の后であるが、当時は天皇の代替りがあっても、皇后が皇太后に自動的に変わるわけでなく、そのままの称号が残されるのが常だった。
しかし、中宮が塞がっていては困るから、同じ日に中宮妍子は皇太后となり、代わって威子が中宮の称を得た。皇后娍子の称号はそのままに残された。
この式の時も左大臣顕光が、又いくつかの失敗を重ねているが、なかでも大きいのは、中宮妍子を皇太后にするという宣命を係の内記に作らせるときに、あやまって皇后を皇太后にするという文を作れと命じた。これでは皇后娍子が皇太后に昇ることになってしまう。当日、道長は早くから参内して指図していたが、この顕光の失言を聞くや、言葉を極めて彼を罵倒したという。
式がひととおり終わると、続いて新たに設置される中宮職(しき)の職員を任命する除目がある。この地位を望む者は多かったが、結局、大夫には大納言藤原斉信(ただのぶ)、権大夫には権中納言藤原能信が任命され、以下亮・権亮・大少進・大少属などが定められた。顕光はこの除目のとき、自分に縁のある者を少進に任命してもらいたいと申し出たが拒否された。
権大夫能信は威子の異母兄である。このように、皇后官職・中宮職や春宮坊の大夫・権大夫には、叔父・兄弟などの肉親や、その家と親しい公卿が選ばれるのが普通であった。大夫以下の職員は、中宮や東宮が羽ぶりがよさそうだと思うと希望者が殺到し、ぱっとしない官の職員にはなり手がなかった。
その後、公卿たちは里第の土御門第にいる新中宮威子のところへ祝いに赴く。
まず、公卿たちは寝殿前の庭に立ち並び、寝殿にいる新中宮へ拝礼を行い、ついで東の対に設けられた饗座に着いた。
その後、二次会にあたる穏座(おんのざ)が寝殿の南面の簀子(すのこ)に設けられ、摂政以下の公卿たちは東の対から移動して座に着いた。集う公卿は3人の大臣以下18人、やむを得ぬ事情や病気で遠慮したのは3人だけ。
祝宴の様子は実資の『小右記』に詳しい。
皆酔って盃を勧めようにも通る道がない有様である。南階の下には伶人(楽人)たちの座が設けられ、公卿・殿上人たちも楽器を演奏したり歌ったりして、堂上・地下そろって音楽を演奏した。
酒が3、4回廻ったところで、道長が私に向かって、「右大将よ、盃を我が子(摂政頼通のこと)へ勧めてくれ」と言ったので、私は盃を執り摂政へ勧めた。摂政頼通は左大臣顕光へ渡した。左大臣は盃を道長へ献じ、道長は右大臣公季へ渡した。
ついで、中宮威子から道長以下の参列者に禄を給わった。道長は、「親が子どもから禄をもらうというのはあるだろうか」と仰ったが、喜びの声だろう。
道長は私を招いて、「和歌を詠もうと思う。必ず和してほしい」と言った。私が「どうして和さないことがありましょうか」と答えると、道長は、「得意そうな歌なのだが。ただし、用意しておいたものではない」と言った。
そして詠んだ歌が、
此世をば我世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思へば
であった。
私は「御歌は優美であるので、お答えする術がございません。みなでただこの御歌を誦しましょう。中国では元稹(げんしん)の菊の詩に白居易は和さないで、深く賞嘆し終日吟詠していたと言います」と言ったところ、公卿たちも私の言葉に応じて、道長の歌を数度吟詠した。
道長をこれほどまでに喜ばせ、この世はわが世と思わせたもは、威子立后による「布石」の完成である。
その布石とは、天皇・東宮を自分の外孫で占め、太皇太后・皇太后・中宮と、歴代天皇の后の地位を全部自分の娘で囲んだことである。
伊周排斥から、皇后定子・皇后娍子への妨害、三条天皇退位、東宮廃立と、その時々に全力を挙げて進路を切り開いて道筋の先にあるものはこれであった。摂政も太政大臣の任も、この道筋の単なる里程標であった。彼がこの世をわが世と思い、円満具足の境遇を誇ったのは、威子立后によって、現在および将来にわたり、外戚の地位が保証されれたことである。
天皇の外戚ゆえに摂関の栄位を得ることができ、後宮を押さえることによって外戚の地位を確保することができるという摂関政治体制の原則を、彼ほど完全な形で実行し得た者は他にない。彼こそが摂関政治の権化と呼べる者である。
威子立后の祝宴は、3日間にわたって行なわれ、引き続いて10月22日、土御門第へ後一条天皇ならびに三后(彰子・妍子・威子)の行幸啓(ぎようこうけい)があった。
池の上で龍頭鷁首(りゆうとうげきしゆ)の船が楽を奏し、ついで天皇と東宮は共に馬場殿に御し、競馬(くらべうま)を覚る。ついで寝殿に還御し、文人や擬文章生(ぎもんじようしよう、文章生の候補者)を召し、作文(さくもん)の会が開かれ、天皇御前で省試(しようし、文章生を選ぶ式部省の試験)が行なわれ、文運の隆盛が示される。
道長の子弟や家司は位階を進められ、道長は馬十頭や、道風・佐理の書を献上した。その間、東の泉殿において、三后の御対面があり、道長は感激の頂点にいたり、「言語に尽くし難し、未曾有の事なり」(「御堂関白記」)と記している。
こうして、道長一家の栄華はその絶頂に達した。
2年半後、彼はさらに威子の妹の嬉子を東宮敦良親王の妃として送りこみ、ますますその地位を固めたが、それは確固不動の態勢を築いた後の、若干の補強策にすぎない。
威子立后後、道長は急速に世事と離れて法成寺の建立に心を傾け始めた。
立后の盛儀から半年後の寛仁3年(1019)後半以降の彼の日記は、記事が激減し、空欄のみ目立っている。
*
ちなみに
— 大河ドラマ「光る君へ」(2024年) (@nhk_hikarukimie) November 17, 2024
『小右記』には…
寛仁2年(1018)10月16日条
◆◇◆◇◆
今日は女御藤原威子を皇后に立てる日である<前太政大臣(藤原道長)の第三娘。一家が三后を立てるのは、未曽有である>。#光る君へ pic.twitter.com/BGTD95cSy8
ちなみに
— 大河ドラマ「光る君へ」(2024年) (@nhk_hikarukimie) November 17, 2024
『小右記』には…
寛仁2年(1018)10月16日条
◆◇◆◇◆
また、(藤原道長が)云(い)ったことには、「誇っている歌である。但し準備していたものではない」ということだ。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
欠けたる事も 無しと思へば」
と。#光る君へ pic.twitter.com/rFePaJ5F4W
長和6年/寛仁元年(1017)3月 藤原道長、長男内大臣頼通(26歳)に摂政を譲るが、大殿として継続して実権を掌握。
長和6年/寛仁元年(1017)
この年
・摂関賀茂詣(せつかんかももうで)
摂関の賀茂詣は、藤原時平以降、賀茂祭の当日などに賀茂社へ参詣することから始まったが、当初は摂関だけではなく他の公卿も参詣していた。
しかし、一条朝後半以降になると、他の公卿は独自には参詣しなくなる。
一方で、道長の賀茂詣は大規模化していき、摂政を頼通へ譲った寛仁元(1017)年には頼通と2人で参詣しており、その弟敦通や頼宗も同行し、頼通には上官が従い、「上達部十四人、皆車に乗」って同道していることが注目される(『御堂関白記』)。
道長は他の公卿たちを従えて賀茂詣に行くようになった。
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・この頃、藤原公任『北山抄」の基礎が成立。
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1月
・前年、後一条天皇が三条天皇から皇位を継ぎ、諸社(石清水八幡宮・賀茂神社・春日神社)行幸のはこびとなる。
この年正月8日、摂政道長は、石清水・賀茂社行幸の上卿を勤めるよう大納言実資に内示した。
翌9日、正式に人選が決定し、上卿は実資、副には参議藤原公信が選ばれ、弁官からは左少弁源経頼・左大史但波奉親(たんばのともちか)がこの行事に当たることになった。
即日、行幸の吉日が実資の監督のもとに陰陽寮によって選ばれ、石清水行幸は3月4日(実際には3月8日に実施)、賀茂行幸は8月19日と決まる。
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1月22日
・この日深夜、宿直の滝口が一条院内裏の西中門の南わきで黒装束の男を発見し、蔵人頭のもとに連行中、逃げ出したので、追いかけて矢を放って射倒して捕えた。面体をあらためたところ、故左衛門尉忠道の従者であり、盗品と思われる鏡一面と白の狩衣を持っていた。
この騒ぎに検非違使を召したが1人も居合わせず、諸門の宿直を蔵人に巡検させたところ、誰も詰めていなかった。
結局、宿直をさぼった連中は怠状(たいじよう、始末書)を取られ、1ヶ月後厳重戒告のうえで許された。
盗人を捕えた滝口は大舎大允に昇任された。
内裏の警備容態はいたってだらしなかったらしい。
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2月6日
・この日、滝口大蔵忠親が一条堀川の橋(戻橋)上で殺害される(『御堂関白記』『日本紀略』)。
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3月8日
・この日午後3時頃、六角小路と富小路の辺(三条京極の少し西南)に住んでいた前大宰少監清原致信(むねのぶ、藤原保輔の兄の前大和守藤原保昌の郎等、清少納言の兄といわれる)の家を、「乗馬の兵七八騎、歩者十余人許(ばかり)」が取り囲んで襲撃、致信を殺害した。
襲撃は、その日、後一条天皇の石清水八幡宮行幸があった最中のことで、警備の手薄を衝いて巧妙に行なわれた。
殺された致信の親分の保昌は、道長の家司も勤めたお気に入りで、和泉式部の夫にもなった人だから、検非違使が現場に派遣されて調べた。
すると、一味のなかに秦氏元(はたのうじもと、源頼親の従者)がいた。頼親は頼光・頼信の兄弟で、有名な武士である。
検非違使が摂津にいるという氏元を追捕に赴き、その家に召し使われていた僧を捕えて調べたところ、この事件は頼親の指令で氏元がやったことだと白状した。
事の起こりは大和国の当麻為頼にからんでのいざこざで、保昌も頼親もともに大和守の前任者であるから、在任中の紛争が発展したものと考えられる。
頼親は一時、右馬頭兼淡路守の官を召し上げられた(やがて復活)。
頼親は世間に広く「くだんの頼親殺人の上手なり。たびたびこのことあり。」(『御堂関白記』)として知られている。
武士の暴力団的性格は恐るべきものがあり、しかもその裏には、私的な主従関係・血縁関係が絡み合っている。
この場合、保昌は元方の孫、致忠の子であり、頼親や頼信の母は元方の娘とも致忠の娘ともいわれるが、とにかく両者間に姻戚関係があるらしく、事態は複雑を極めるものだった。
このような暴力を伴う私的な人間関係の絡み合いは、当時の世相の一裏面である。
*
3月16日
・藤原道長が長男内大臣頼通(26歳)に摂政を譲る。
道長が摂政だったのは僅か1年。道長は摂政の地位に執着しなかった。
この後、道長は「大殿」として隠然たる力を振るっていくことになる。
「大殿」とは貴人の当主の父の意味で、道長は公的な役職を自らは保持せず、周囲の人間を動かすことで実権を握っていった。
頼通より上席の大臣として、左大臣藤原顕光、右大臣藤原公季がいたため、摂政頼通を左右大臣より上席とする一座の宣旨を賜ることになった。
こうして、朝廷においては頼通が最上席になったが、実際にはまだ元気な父道長が大殿として控えており、頼通自身も何かと大殿道長にお伺いを立てている。
大殿道長
政治形態として道長が院政の先駆けであったことは、摂政を頼通に譲り、太政大臣を辞して以降も、大殿として摂関である頼通の背後において、政治の実権を掌握していたことからも窺える。
道長の大殿方式が院政へと継承され、譲位した後も天皇の背後で院が政治に関与する院政が成立した。
摂関政治から院政への変化の原因としては、摂関家に入内させる娘が生まれなかったり、入内しても皇子が生まれず、外戚になれなかったこと、院が長命で政治に関心を示すようになったこと、貴族層において「家」が成立し父系が確立したことなどの状況的要因が挙げられるが、道長の大殿方式の政治形態が院政という統治のあり方の可能性を示したことが、その直接的淵源であると思われる。
摂関の地位は、道長・頼通以降、彼らの直系の血筋に固定化していく。
そして、院政期以降、摂関家が家格として成立し、外戚関係がなくとも摂関の地位を独占できるようになる。
摂関家の成立は、直接的には嘉承2年(1107)年、白河院により、鳥羽天皇と外戚関係にない、頼通の曾孫忠実が摂政に指名されて時に完了する。
その淵源は道長が、他の公卿たちとは隔絶した、天皇に極めて近い地位を築いたことによってもたらされた。
道長が圧倒的な権力・地位を築いたことによって、外戚関係になくとも、準三宮(じゆんさんぐう)宣下(太皇太后・皇太后・皇后と同等の待遇を与える命令)がなくとも、摂関家は王権の中に位置づけられるようになっていった。
4月23日
・寛仁に改元。
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