1901(明治34)年
2月8日
「 雑誌を見る時我読む部分と読まざる部分とあり。我読まざる部分は小説、新体詩、歌、俳句、文学の批評、政治上の議論など。我読む部分は雑録、歴史、地理、人物月旦(げったん)、農業工業商業等の一部なり。新体詩は四句ほど読み、詩は圏点(けんてん)の多きを一首読み、随筆は二、三節読みて出来加減をためす事あり。俳句は一句か二句試みに読む事もあれど歌は読みて見んと思ひたる事もあらず。
(二月八日)」(子規「墨汁一滴」)
ロンドンの漱石
「二月八日(金)、朝、入浴する。午後七時、同宿の田中孝太郎と共に Metropole Theatre (メトロポール劇場)で、 ""Wrong Mr. Wright"" (『調子の狂ったライト氏』)という滑稽芝居を、最初から最後まで面白く見る。「其滑稽タルヤワルフザケニアラズシテ興味尤モ多シ、」(「日記」)」(荒正人、前掲書)
2月9日
子規、この日の『墨汁一滴』で各地の門人・読者から送られた食物について書く。もっと送ってほしいと催促している?
「 近日我貧厨(ひんちゅう)をにぎはしたる諸国の名物は何々ぞ。大阪の天王寺蕪(かぶら)、函館の赤蕪(あかかぶら)、秋田のはたはた魚、土佐のザボン及び柑(かん)類、越後(えちご)の鮭(さけ)の粕漬(かすづけ)、足柄(あしがら)の唐黍(とうきび)餅、五十鈴(いすず)川の沙魚はぜ、山形ののし梅、青森の林檎羊羹(りんごようかん)、越中(えっちゅう)の干柿(ほしがき)、伊予の柚柑(ゆずかん)、備前(びぜん)の沙魚、伊予の緋(ひ)の蕪及び絹皮ザボン、大阪のおこし、京都の八橋煎餅(やつはしせんべい)、上州(じょうしゅう)の干饂飩(ほしうどん)、野州(やしゅう)の葱(ねぎ)、三河(みかわ)の魚煎餅、石見(いわみ)の鮎(あゆ)の卵、大阪の奈良漬、駿州(すんしゅう)の蜜柑(みかん)、仙台の鯛(たい)の粕漬、伊予の鯛の粕漬、神戸の牛のミソ漬、下総(しもうさ)の雉(きじ)、甲州の月(つき)の雫(しずく)、伊勢の蛤(はまぐり)、大阪の白味噌、大徳寺(だいとくじ)の法論味噌、薩摩(さつま)の薩摩芋、北海道の林檎、熊本の飴(あめ)、横須賀の水飴、北海道の鮞(はららご)、そのほかアメリカの蜜柑とかいふはいと珍しき者なりき。(二月九日)」(子規「墨汁一滴」)
2月9日
(漱石の手紙)ロンドンから狩野や山川ら四人宛に出した手紙。
「僕は帰ったらだれかと日本流の旅行がして見たい。小天行抔(など)を思い出すよ」(明治三十四年二月九日付)
2月10日
「 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『金草(鞋かねのわらじ)』といふ絵草子二十四冊ほどあり。こは三都をはじめ六十余州の名所霊蹟巡覧記ともいふべき仕組なれど作者の知らぬ処を善きほどに書きなしたる者なれば実際を写し出さぬは勿論もちろん、驚くべき誤も多かるが如ごとし。試みに四国八十八ヶ所廻(めぐり)の部を見るに岩屋山海岸寺といふ札所の図あり、その図断崖(だんがい)の上に伽藍(がらん)聳(そび)えその傍かたわらは海にして船舶を多く画えがけり。こは海岸寺といふ名より想像して画きたりと思はるれど、その実この寺は海浜より十里余も隔りたる山の奥の奥にあるなり。寺の称をかくいふ故は此処(ここ)を詠よみし歌に、松の風を波の音と聞きまがへて海辺にある思ひす、といふやうなる意の歌あるに因(よ)るとか聞きたれど歌は忘れたり。
(後略) (二月十日)」(子規「墨汁一滴」)
2月10日
スペインのマドリード、グラナダ、セビリアその他の地域で、反イエズス会の過激なデモ・暴動が数日間続く。民衆は、アストゥリアス家の王女とナポリのフェルディナンド7世の孫カゼルタ公との結婚に反感。暴動は激化。
2月26日、アスカラガ将軍政権は総辞職。
2月10日
2月10日~13日 ロンドンの漱石
「二月十日(日)、田中孝太郎と Dulwich (ダリッジ公園)に行く。門を抜けて Sydenham Hill (シドナム・ヒル)のほうに行き、引き返す。道路は泥濘で大弱りする。
二月十一日(月)、 Brixton (ブリクストン)に行く。「『ミス スパロー』ハ頗ル内氣ノ神経質ノ女デアル人ガ居ルト『ピヤノ』ヲ弾ズルヿガ出来ンノデ始終試験ニ及第スルヿガ出来ナイト云ツタ」(「日記」)
二月十二日(火)、 Dr. Craig の許に行く。文章の添削を求めたところ、余分の謝礼を要求され、卑しい奴だと驚く。帰途、 Charing Cross (チャリング・クロス)に寄る。一週間前に発行された目録に掲げられているもので欲しいと思ったものは、殆ど売切れている。 Mackenzie (マッケンジー)の三巻ものと James Macpherson (マクファーソン 1736-1793)の ""Ossion""(『オシアン』)を買う。
二月十三日(水)、 Camberwell Green (キャンパーウェル草地)の古本屋で絵人の草花を説明した本を二冊(十シリング)買う。古本屋の老主人と雇人の顔を見ると、 Chales Dickens の ""Christmas Carol"" の Scrooge と Bob を思い出す。ストーヴがなくて寒いといい、ガス(ガス・ストーヴではないと推定される)をたいて寒さを凌いでいる。(ガスは極めて貴重な燃料とされている)子供たちが大勢独楽を廻している。蕪形の木に鉄の心棒を通した単純なものである。下宿屋の家族は、雪をものともしないで、犬の共進会を見に行く。鈴木禎次に手紙を出す。 John Keats (キーツ 1795-1821)の I stood Tip-toe upon a Little Hill"" (「わたしは小さい丘の上で爪だちして立った」)から、次の箇所を「日記」に写す。
And onthe bank a lonely Flower he spied, / A meek and forlorn flower, with nought of pride, / Drooping its beauty o'er the wtery clearness, / To woo its own sad image into nearness 」(荒正人、前掲書)
2月11日
「 朝起きて見れば一面の銀世界、雪はふりやみたれど空はなほ曇れり。余もおくれじと高等中学の運動場に至れば早く已に集まりし人々、各級各組そこここに打ち群れて思ひ思ひの旗、フラフを翻(ひるがえ)し、祝憲法発布、帝国万歳など書きたる中に、紅白の吹き流しを北風になびかせたるは殊(こと)にきはだちていさましくぞ見えたる。二重橋の外に鳳輦(ほうれん)を拝みて万歳を三呼したる後余は復(また)学校の行列に加はらず、芝の某(なにがし)の館(やかた)の園遊会に参らんとて行く途にて得たるは『日本』第一号なり。その附録にしたる憲法の表紙に三種の神器を画きたるは、今より見ればこそ幼稚ともいへ、その時はいと面白しと思へり。それより余は館に行きて仮店(かりみせ)太神楽(だいかぐら)などの催しに興の尽くる時もなく夜よ深ふけて泥の氷りたる上を踏みつつ帰りしは十二年前の二月十一日の事なりき。十二年の歳月は甚(はなは)だ短きにもあらず『日本』はいよいよ健全にして我は空しく足なへとぞなりける。その時生れ出でたる憲法は果して能(よ)く歩行し得るや否や。
(二月十一日)」(子規「墨汁一滴」)
2月12日
韓国、貨幣条例を公布し金本位制採用(実施されず)。
2月12日
「『日本』へ俳句寄稿に相成候(あいなりそうろう)諸君へ申上候(もうしあげそうろう)。筆硯(ひっけん)益ゝ御清適(ごせいてき)の結果として小生の枕辺(ちんぺん)に玉稿(ぎょっこう)の山を築きこの冬も大約一万句に達し候(そうろう)事(こと)誠に御出精(ごしゅっせい)の次第とかつ喜びかつ賀(が)し奉(たてまつり)候。しかるところ玉稿拝読致候(いたしそうろう)に御句(おんく)の多き割合に佳句の少きは小生の遺憾とする所にして『日本』の俳句欄も投句のみを以て填(うず)め兼候(かねそうろう)場合も不少(すくなからず)候。選抜の比例を申候(もうしそうら)はんに十分の一以上の比例を取り候は格堂(かくどう)寒楼(かんろう)ら諸氏の作に候。その他は百分の一に当らざる者すら有之(これあり)候。多作第一とも称すべき八重桜(やえざくら)氏は毎季数千句を寄せられ一題の句数大方二十句より四、五十句に及び候。されどその句を見るに徒(いたずら)に多きを貪(むさぼ)る者の如く平凡陳腐の句も剽窃(ひょうせつ)の句も構(かま)はずやたらに排列(はいれつ)せられたるはやや厭はしく感じ申候。(中略)小生も追々衰弱に赴き候に付(つき)二十句の佳什(かじゅう)を得るために千句以上を検閲せざるべからずとありては到底病脳の堪ふる所に非ず候。何卒(なにとぞ)御自身御選択(ごせんたく)の上御寄稿被下候様(くだされそうろうよう)希望候。以上。
(二月十二日)」(子規「墨汁一滴」)
つづく
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