2024年11月18日月曜日

寛仁2年(1018)10月16日 道長の三女威子が後一条天皇の中宮となる。 「一家が三后を立てるのは、未曽有である」(『小右記』) 道長「此世をば我世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思へば」。

北の丸公園 2013-02-07
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寛仁2年(1018)
10月16日
・道長の三女威子が後一条天皇の中宮となる。
道長が望月の歌を詠む。

10月5日、威子は内裏から一旦土御門邸に退出した(女御が立后する時、女御はいったん自邸に帰って、そこで立后の命を受ける)。

そして16日、立后の儀式が行われた。
儀式はまず内裏の紫宸殿に天皇が出御して行われる。紫宸殿前の庭には、公卿たちと官人たちが立ち並び、宣命使が「中宮(妍子)を皇太后に、女御威子を皇后に」という宣命を読み上げた。
この時まで、彰子は太皇太后、三条天皇の皇后娍子・中宮妍子の称はそのままであった。2人は共に先帝の后であるが、当時は天皇の代替りがあっても、皇后が皇太后に自動的に変わるわけでなく、そのままの称号が残されるのが常だった。
しかし、中宮が塞がっていては困るから、同じ日に中宮妍子は皇太后となり、代わって威子が中宮の称を得た。皇后娍子の称号はそのままに残された。
この式の時も左大臣顕光が、又いくつかの失敗を重ねているが、なかでも大きいのは、中宮妍子を皇太后にするという宣命を係の内記に作らせるときに、あやまって皇后を皇太后にするという文を作れと命じた。これでは皇后娍子が皇太后に昇ることになってしまう。当日、道長は早くから参内して指図していたが、この顕光の失言を聞くや、言葉を極めて彼を罵倒したという。

式がひととおり終わると、続いて新たに設置される中宮職(しき)の職員を任命する除目がある。この地位を望む者は多かったが、結局、大夫には大納言藤原斉信(ただのぶ)、権大夫には権中納言藤原能信が任命され、以下亮・権亮・大少進・大少属などが定められた。顕光はこの除目のとき、自分に縁のある者を少進に任命してもらいたいと申し出たが拒否された。
権大夫能信は威子の異母兄である。このように、皇后官職・中宮職や春宮坊の大夫・権大夫には、叔父・兄弟などの肉親や、その家と親しい公卿が選ばれるのが普通であった。大夫以下の職員は、中宮や東宮が羽ぶりがよさそうだと思うと希望者が殺到し、ぱっとしない官の職員にはなり手がなかった。

その後、公卿たちは里第の土御門第にいる新中宮威子のところへ祝いに赴く。
まず、公卿たちは寝殿前の庭に立ち並び、寝殿にいる新中宮へ拝礼を行い、ついで東の対に設けられた饗座に着いた。

その後、二次会にあたる穏座(おんのざ)が寝殿の南面の簀子(すのこ)に設けられ、摂政以下の公卿たちは東の対から移動して座に着いた。集う公卿は3人の大臣以下18人、やむを得ぬ事情や病気で遠慮したのは3人だけ。

祝宴の様子は実資の『小右記』に詳しい。
皆酔って盃を勧めようにも通る道がない有様である。南階の下には伶人(楽人)たちの座が設けられ、公卿・殿上人たちも楽器を演奏したり歌ったりして、堂上・地下そろって音楽を演奏した。
酒が3、4回廻ったところで、道長が私に向かって、「右大将よ、盃を我が子(摂政頼通のこと)へ勧めてくれ」と言ったので、私は盃を執り摂政へ勧めた。摂政頼通は左大臣顕光へ渡した。左大臣は盃を道長へ献じ、道長は右大臣公季へ渡した。
ついで、中宮威子から道長以下の参列者に禄を給わった。道長は、「親が子どもから禄をもらうというのはあるだろうか」と仰ったが、喜びの声だろう。

道長は私を招いて、「和歌を詠もうと思う。必ず和してほしい」と言った。私が「どうして和さないことがありましょうか」と答えると、道長は、「得意そうな歌なのだが。ただし、用意しておいたものではない」と言った。
そして詠んだ歌が、

   此世をば我世とぞ思ふ望月の虧(かけ)たる事も無しと思へば

であった。
私は「御歌は優美であるので、お答えする術がございません。みなでただこの御歌を誦しましょう。中国では元稹(げんしん)の菊の詩に白居易は和さないで、深く賞嘆し終日吟詠していたと言います」と言ったところ、公卿たちも私の言葉に応じて、道長の歌を数度吟詠した。

道長をこれほどまでに喜ばせ、この世はわが世と思わせたもは、威子立后による「布石」の完成である。
その布石とは、天皇・東宮を自分の外孫で占め、太皇太后・皇太后・中宮と、歴代天皇の后の地位を全部自分の娘で囲んだことである。

伊周排斥から、皇后定子・皇后娍子への妨害、三条天皇退位、東宮廃立と、その時々に全力を挙げて進路を切り開いて道筋の先にあるものはこれであった。摂政も太政大臣の任も、この道筋の単なる里程標であった。彼がこの世をわが世と思い、円満具足の境遇を誇ったのは、威子立后によって、現在および将来にわたり、外戚の地位が保証されれたことである。
天皇の外戚ゆえに摂関の栄位を得ることができ、後宮を押さえることによって外戚の地位を確保することができるという摂関政治体制の原則を、彼ほど完全な形で実行し得た者は他にない。彼こそが摂関政治の権化と呼べる者である。

威子立后の祝宴は、3日間にわたって行なわれ、引き続いて10月22日、土御門第へ後一条天皇ならびに三后(彰子・妍子・威子)の行幸啓(ぎようこうけい)があった。
池の上で龍頭鷁首(りゆうとうげきしゆ)の船が楽を奏し、ついで天皇と東宮は共に馬場殿に御し、競馬(くらべうま)を覚る。ついで寝殿に還御し、文人や擬文章生(ぎもんじようしよう、文章生の候補者)を召し、作文(さくもん)の会が開かれ、天皇御前で省試(しようし、文章生を選ぶ式部省の試験)が行なわれ、文運の隆盛が示される。
道長の子弟や家司は位階を進められ、道長は馬十頭や、道風・佐理の書を献上した。その間、東の泉殿において、三后の御対面があり、道長は感激の頂点にいたり、「言語に尽くし難し、未曾有の事なり」(「御堂関白記」)と記している。

こうして、道長一家の栄華はその絶頂に達した。

2年半後、彼はさらに威子の妹の嬉子を東宮敦良親王の妃として送りこみ、ますますその地位を固めたが、それは確固不動の態勢を築いた後の、若干の補強策にすぎない。

威子立后後、道長は急速に世事と離れて法成寺の建立に心を傾け始めた。
立后の盛儀から半年後の寛仁3年(1019)後半以降の彼の日記は、記事が激減し、空欄のみ目立っている。
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「今日は女御藤原威子を皇后に立てる日である<前太政大臣(藤原道長)の第三娘。一家が三后を立てるのは、未曽有である>。」
「太閤(藤原道長)が戯れて云(い)ったことには、「右大将(藤原実資)は、我が子<摂政(藤原頼通)である>に勧盃するように」と。私(藤原実資)は盃を執って、摂政に勧めた。」
また、(藤原道長が)云(い)ったことには、「誇っている歌である。但し準備していたものではない」ということだ。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の
 欠けたる事も 無しと思へば」
「私(藤原実資)が申して云(い)ったことには、「御歌は優美です。酬答する方策もありません。満座は、ただこの御歌を誦すべきでしょう。元稹の菊の詩に、(白)居易は和すことなく、深く賞嘆して、終日、吟詠していました」と。」
「諸卿は私(藤原実資)の言に饗応して、数度、吟詠した。太閤(藤原道長)は和解し、特に和すことを責めなかった。夜は深く、月は明るかった。酔いに任せて、各々、退出した。」
(『小右記』寛仁2年(1018)10月16日条)
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