江戸城(皇居)東御苑 2013-10-03
*明治37年(1904)
2月22日
・李址鎔外相の記名調印した「日韓議定書」に林権助公使が調印。
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2月23日
・日韓議定書調印。
22日、李址鎔外相署理は、記名調印した「日韓議定書」を林公使へ送り、日本政府から調印実施の訓令をうけた林がただちに調印。
日本では、政府決定と天皇裁可だけで処理し、枢密院への諮問を省略したため、枢密院副議長東久世通禧以下15人の顧問官から政府の手続き上の「失当」を追及される。
日本軍の韓国駐屯と韓国の協力。
韓国政府は日本政府を確信し、朝鮮の財政・外交顧問に日本人を任用し、施政の改善に関する忠告を容れ、これに反する協約を第三国と結ばない、また日本は軍事上必要な韓国の土地を臨機収用できるなどの内容。
2月27日公布。
親露派・反日派要人の解任。
調印に反対した李容翊は、この日夜、日本軍に拉致され日本に移送(「遊覧」)、10ヶ月軟禁。
前年10月から、日本は韓国皇帝と密約をかわす工作をしていた。
①日本は韓国の独立と韓国皇室の安全を確保する、
②韓国は日本の不利益になるような協約を第三国と結ばない、を骨子とするものだった。
韓国は、日本とロシアのいずれかに加担すれば、独立を失うおそれがあり、翌年(この年)1月21日、外相名で各国に「中立声明」を送った。
韓国の局外中立を承認したヨーロッパ諸国は、日露開戦にともなう日本の韓国中立侵犯を黙認。
2月13日に林が作成した日本案は、
第1条に「大韓帝国政府は、全然大日本帝国に信頼し、大日本帝国政府の助言を受け、内治外交の改良を図る可し」とあり、日本が韓国にたいし保護・指導の立場にあることを明文化した。
第4条には軍事協力条項として、「第三国の侵害に依り、若(もし)くは内乱の為め大韓帝国の皇室安寧或は領土保全に危険ある場合は、大日本帝国政府は、速に臨機必要の措置を取る可し。而(しこう)して大韓帝国政府は、右大日本帝国政府の行動を容易ならしむる為め、十分なる便宜を供する事」とした。
さらに日本政府は、この林案の第4条に「大日本帝国政府は、前項の目的を達する為め、軍略上必要の地点を占有することを得べし」を加えて修正した。
強国政府内では、李容翊度支相らが、日露戦争にロシアが勝利した場合、韓国侵略の口実になる、として強く反対したが、大三輪長兵衛の説得工作もあり、李址鎔外相署理の林公使との交渉では、第1条の「助言を容れ・・・」を「忠告を容るる事」に改めるなど文言の修正要求にとどまった。
韓国皇帝・政府内外の反対のたかまりと外国の干渉をおそれる日本政府は、即時調印を韓国側に求めた。
「日韓議定書」は密約とする予定であったが、調印までに「公然の秘密」となり、新聞も概要を報じた。
開戦により、もはや秘密の必要はなく、むしろ公表を有利とみた日本政府は、2月27日『官報』で公示、韓国政府にも公表を求めて3月8日『官報』に公示させた。韓国官報への条約文掲載の初例。
第一条
「大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ヲ確信シ、施設ノ改善ニ関シ其忠告ヲ容ルル事」。
第四条
第三国の侵害や内乱で大韓帝国の安寧や領土の保全に危険のある場合は、大日本帝国が臨機に必要な措置を取り、大韓帝国は「十分便宜ヲ与フル事」。
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2月23日
・西川光二郎(27)、横浜・相生座での社会主義演説会で「弱者勝つ」を演説。
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2月24日
・ロシアのウラジオストク艦隊の第2回出撃。~3月1日。
大本営は東郷にウラジオストク艦隊の威圧を命じ、独立していた第3艦隊を連合艦隊に編入。
東郷は第2艦隊(上村彦之丞中将)にこれを命じる。
上村彦之丞:
嘉永2年(1849)鹿児島城下に生まれる。
戊辰戦争に従軍後、海軍兵学寮に入り、以降、海軍軍人としての人生を歩む。
日清戦争のときには少佐で、竣工したばかりの巡洋艦「秋津洲」の艦長心得を務める。
明治27年12月、「秋津洲」艦長となり大佐に昇進。
日清戦争後、常備艦隊参謀長を務め、のち、海軍省人事課長、同軍務局長、海軍軍令部次長となる。
日露戦争に備えて、はじめて海軍に連合艦隊ができたとき、東郷が第1艦隊兼連合艦隊司令長官に、上村が第2艦隊司令長官になった。
(巡洋艦を中心とする足回りの速い部隊を第2艦隊として編成する日本海軍の方針は、それ以後、第2次大戦中期に第1艦隊が廃止されるまで変わらなかった。)
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2月24日
・外債募集のため高橋是清副日銀総裁・深井英五秘書役、世論工作のため元法相金子堅太郎、アメリカに出発。
3月11日サンフランシスコ、18日ニューヨーク着。
23日高橋・深井はロンドンへ向い、25日金子はワシントン入り。
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同日(2月24日)の「第3回旅順口攻撃(第1回閉塞作戦)」は次回。
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