『朝日新聞』に漱石『門』が連載中であるが、過日、主人公宗助のお給料についての記事が『朝日新聞』の同じ欄に掲載された。
(後半)
・・・日露戦争後の不景気は庶民の生活を直撃した。「門」には、新しい靴や外套を買うことに躊躇する宗助や、物価騰貴のために家計をやり繰りする御米の姿がリアルに描かれている。叔父の家から取り戻した家伝来の酒井抱一の絵は古道具屋に売却され生活の資となる始末だった。「官吏の増俸問題」は新聞で知った小六から御米にいち早く伝えられる。
宗助が免れた局員課員のリストラとベースアップの問題には、明治43年2月、第26通常議会において、第2次桂太郎内閣と政友会総裁西園寺公望との妥協で決まった官制改革と増俸25%の給与改正が反映している。ここにも漱石の現実を見つめる鋭い目が表れている。5円の増俸からすると、宗助の地位は判任文官(官吏の最下級で、本属の長官に任免権があった)中の9級か10級で、俸給は20円だったことが分かる。当時の25円といえば、夫婦2人で1カ月の借家暮らしができたといわれている。
上司にゴマをすって文三(*二葉亭四迷『浮雲』の主人公)に軽蔑される本田昇は、同じ判任文官だが、35円に昇給したことが書かれている。明治20年ごろ、判任文官の5等級が35円。それから約20年が経っている。大学中退者だったとはいえ、宗助の俸給が妥当なものかどうか一考に値しよう。
主人公宗助は幸いリストラからは逃れて、25%(5円)の俸給アップがあり25円になったという。
「宗助の俸給が妥当なものかどうか」は、私には難問だが、漱石は、『坊ちゃん』(明治39年4月)でも教師を辞めた主人公の給与について記述している。
其後ある人の周旋で街鉄(がいてつ)の技手になった。月給は二十五円で、屋賃(やちん)は六円だ。清は玄関付きの家でなくつても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹(かか)つて死んで仕舞った。・・・
こうして見ると、『門』の主人公宗助の給与水準は、25%アップ後でようやく『坊ちゃん』の主人公とは同じ額になったことになる。
宗助は大学中退で、坊ちゃんは専門学校(物理学校)卒、学歴では坊ちゃんが少し上とみなされたのだろうか。
「妥当かどうか」は措くとしても、宗助の場合、ベースアップ前の20円だと、夫婦2人の借家暮らしも難しかったのだろう。だからこそ、俸給改定があったということなんだろう。
では、同じ頃、リアル世界はどうだったんだろうか。
同じ年明治39年4月に東北の寒村で代用教員になった石川啄木(20歳)の場合、日記によれば、資格のない代用教員のためか、なんと月給8円という。
八円の月給で一家五人の糊口を支へるといふ事は、蓋しこの世で最も至難なる事の一つであらう。予は毎月、上旬のうちに役場から前借して居る。
啄木はつくづく嘆くのだ。30円は欲しいと。
「月に三十円もあれば、田舎にては、楽に暮らせると - ひよつと思へる。」(『悲しき玩具』)
そして、東京に出て、明治42年3月から勤め始めた「東京朝日新聞」の校正係で、ようやく30円程度の月給となる。但し、田舎生活ではない。
日記には、「二十五円外に夜勤一夜一円づつ、都合三十円以上」とある。
日露戦争後の物価動向(賃金動向)などの知識もないので、明治39・40年と42年を単純比較していいものなのかどうか、残念ながら判断材料は持ち合わせないが、どうやら啄木は、そこそこのお給料を貰える位置についたというところだろうか。
前期の漱石の小説の主人公の給与は二人とも、この時の啄木のレベルより低い。
漱石は、意識して主人公の経済基盤を低めに抑えたのだろうか。
そして最後に、漱石ご本人のリアルなお給料はといえば・・・。
明治40年に「東京朝日新聞」に入社した漱石ご本人のお給料は年俸8千円。
彼の小説の主人公とは違って、帝大出・帝大講師の漱石のお給料は、池辺三山による破格の待遇での招聘とはいえ、その格差の大きさに驚く。
(一旦終り)

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