皇居東御苑 2016-05-12
*明治38年(1905)
10月16日
・天皇の批准を終えた日露講和条約・追加約款、勅令で公布。
11月25日批准書交換。
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10月16日
・インド総督カーゾン、ベンガル分割令施行。
ベンガル州をベンガルと東アッサム・ベンガルに分割。民族主義者は反発。1906年12月30日の全インド・ムスリム連盟の結成につながる(いかなる憲法改正が行われても宗教別代表制を要求することを言明)。
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10月17日
・日本、遼陽に関東総督府設置。
天皇に直属。関東州守備と民政の統轄。駐留兵は約1万。
日露講和の追加約款で、鉄道保護のため沿線に1kmあたり守備兵15名を配備する権利をえる(満鉄沿線に1万4419名配備できる)。1906年5月に旅順に移転。
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10月17日
・日本基督教女子青年会(YWCA)設立。東京早稲田の大隈重信邸で発会式挙行。会長は津田梅子
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10月18日
・小村寿太郎に3万円、高平小五郎に1万円が下賜。衆議院議員年収が2千数百万の時代。
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10月18日
・「大阪朝日」、講和条約の天皇による批准が終わり講和を受け入れるが、桂首相及び内閣を攻撃。
この日付第1社説「国民は泣いて大詔に従うのみ」で天皇の名による講和条件を受け入れ。
第2社説「閣臣にして良心あらば自ら処決の機を発見せよ」と書く。
22日の短評欄では、「今は各人各個、手紙なり葉書なりにて桂総理に辞職を勧告するも亦国家に対する忠義の一である」と評す。
10月25日~11月7日発行停止処分。
村山龍平社長は「社はつぶれぬとも限るまいがつぶれてもよかろう、主張だけは通そう」と沈痛な面持ちで漏らしたという。
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10月19日
・大阪瓦斯(株)開業。大阪市と報償契約。
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10月20日
・島崎藤村、長男楠男誕生。
藤村は『破戒』の出版費用を考慮して、生活を切りつめていた。
妻の父・秦慶治から借りた400円は印刷費として手をつけず、神津牧場の若主人・神津猛から借りた150円を生活費とし、毎月30円で暮すようにしていた。しかし数え年6歳の長女緑と4歳の次女孝子があるため、妻冬子は家事を切りまわすことができなくなった。藤村は仕方なく小諸の仕立屋津金良助に頼んで、その娘末子を女中として雇い入れた。
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10月20日
・露、新聞ストライキに続いてモスクワ・カザン鉄道のストライキも始まり、全国的ゼネストに発展。
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同日
・露、皇帝ニコライ2世、15年ぶりにポーランドの学校でポーランド語を教えることを許可。ポーランドの政情不安増大。28日戒厳令発令。
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10月21日
・露軍務知事ワルベフ大佐に、樺太北部を引き渡し。
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10月21日
・北洋常備軍、河間で軍事演習(河間会操)
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10月22日
・午前11時10分、宮中で凱旋式。連合艦隊司令長官東郷平八郎大将・第2艦隊司令長官上村彦之丞中将・第3艦隊司令長官片岡七郎中将・第4艦隊司令長官出羽重遠中将と幕僚ら。
23日、東京湾、日露海戦の海軍凱旋式。参加艦艇200隻。観衆は2万人超。
24日、東京市主催海軍歓迎会、上野公園。
27日、天皇臨席にもと浜離宮で連合艦隊士官候補生以上・大本営幕僚職員を招いた祝宴。
29日、青山墓地で慰霊祭。
12月20日、連合艦隊編制を解く(第1・2、南清、練習艦隊編成とする)。東郷は海軍軍令部部長。翌21日、「朝日」艦上で解散式。
新聞は連日凱旋関連記事で埋め尽す。東郷に関するあらゆるエピソードが伝えられる。
この間の名士の拘引、警視庁廃止問題、戸水事件、俘虜の帰還など、一部の人の目をひくのみ。
司令官・参謀達のその後。
①東郷:軍令部長、軍事参議官。
②上村:横須賀鎮守府長官。明治40年9月男爵。42年12月第1艦隊長官。43年12月大将。44年12月軍事参議官。大正3年3月後備役。5年8月8日没(68)。
③島村速雄:練習艦隊司令官。明治39年11月海軍兵学校校長。40年4月ハーグ万国平和会議出席。9ヶ月。後、中将、海軍大学校校長、第2艦隊長官、佐世保鎮守府長官。大正3年教育本部長、海軍軍令部長。同4年大将、5年男爵、9年軍事参議官。12年11月病没、元帥追贈。
④藤井較一:第1艦隊参謀長、第2艦隊司令官、佐世保工廠長。明治42年中将・軍令部次長。大正3年佐世保鎮守府長官、4年第1艦隊長官、横須賀鎮守府長官。5年大将、軍事参議官。9年予備役、15年7月没。
⑤山屋他人:軍用気球研究会委員、教育本部長兼海軍大学校校長。大正3年第1艦隊司令官として第1次大戦に出征。同8年大将、横須賀鎮守府長官、軍事参議官。12年予備役。昭和15年没。
⑥加藤友三郎:海軍省軍務局長、明治39年1月海軍次官。41年8月中将、42年12月呉鎮守府長官、第1艦隊長官。大正4年8月海軍大臣。ワシントン会議全権委員。首相兼海相として軍縮実現。11年将官7500を整理。12年8月首相在任中に病没。
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10月23日
・サンフランシスコ、上野領事、桂太郎首相の訓令により桂・ハリマン覚書(10月12日)の中止を入港したハリマンに伝達。
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10月23日
・チリで労働者暴動。死者550人。
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10月24日
・露、中央郵便局スト。この時点でゼネスト参加700万人。
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10月25日
・露、カデット党(立憲民主党)創立大会開催(~31日)。
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10月26日
・講和問題同志連合会、国民倶楽部に改組。
「内立憲主義を取り外帝国主義を行ひ、表裏相依り相須ちて始めて方今の大勢に応ずべし。・・・此二主義は国民的自覚に発して国民的自信に立ち国民的活動に依りて大成するものなり」(=「立憲主義的帝国主義」)。
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10月26日
・レフ・トロツキー(26)主導下で、サンクト・ペテルブルクで初の労働者ソヴィエト(評議会)が樹立され、ゼネストを指揮する
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10月26日
・スウェーデンとノルウェー、カールスタード条約調印。ノルウェー、スウェーデンとの同君連合を解消し、デンマークのカール王子がホーコン7世としてノルウェー王に即位(1957年まで在位)。
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10月27日
・閣議、満州に関する清国との条約締結方針決定。
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10月28日
・第2次日韓協約条文、閣議決定。小村寿太郎が原案作成。
閣議決定内容:①条約文、②調印後、公表前に英米独仏政府に通知、条約継承を宣言、③11月初旬実行、④交渉全権を林公使に委任、⑤勅使派遣、⑥長谷川好道(大将)駐剳軍司令官への協力命令、⑦日本軍の漢城集結、⑧韓国政府の同意ない場合、一方的に保護権設定を通知、列国に説明。
これより先、小村は伊藤博文を訪問、政府の満韓経営方針を説明し、伊藤の渡韓内諾を得る。
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10月28日
・露、トロツキー、ペテルスブルク・ソヴィエト総会で演説。ペテルブルク工芸専門学校。
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10月28日
・露領ポーランドでゼネスト、戒厳令布告。
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10月30日
・四平街、日露両軍満州撤兵手続および鉄道線路引き渡し順序議定書、同上覚書調印(11月24日公示)。満州軍参謀福島安正少将と満州軍参謀次長オラノフスキー陸軍少将。
この協定により、長春以南の東清鉄道南部支部および支線が日本に移管。
戦争終結時、日本が管理していたのは昌図まで。
昌図以北の線路は、翌1906年4月21日に両国代表が会合、公主嶺までを5月31日に引継ぎ、公主嶺~寛城子を8月31日迄に引継ぐことになる(実際は8月1日引継ぎ)。寛城子分岐点が満鉄・東清鉄道の境界。
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10月30日
・[露暦10月17日]10月勅令
ニコライ2世、立憲体制を承認、不履行。憲法を認可。ドゥーマに立法権を付与。選挙権枠を拡大。市民の基本的人権としての自由を保障。
各地で誕生するソビエトを通じてさらにストを誘発しようとしていた社会民主党員たちは、この宣言を即座に拒否。
ブルジョワ自由主義者、この勅令に満足し革命から離脱。
ドゥーマ:
代議制立法諮問機関。任期5年。
ツァーリは随時、解散と新ドゥーマ選挙を指定できる。
女性・軍人・25歳未満の男子・小企業労働者・一部の少数民族は選挙権なし。
地主1票=ブルジョアジー3=農民15=労働者451に相当。
間接選挙制(地主・ブルジョアジーは2段階、労働者3段階、農民4段階)。
1906~17迄4次召集。
当初、ブルジョアジーと労働者の利害は一致。スト参加の労働者に対し、革命に協力的なブルジョアから通常の半額~全額の給料が支給。
しかし、露暦11月に入り、労働者が8時間労働を主張するに至ると、この様なサービスは停止。
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10月30日
・露、トロツキー、ペトログラード・ソヴィエト指導者となる。トロツキー妻セドーヴァが恩赦でペテルブルクに戻り、トロツキーと共に変名でペテルブルクに住む。
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10月30日
・フィンランドで「大ストライキ」(~11月4日)。
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10月31日
・露、キエフなどでポグロム、死傷者多数。
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