皇居東御苑 2018-03-07
*明治22年
前田卓、二度日の結婚、同棲
卓の二番目の夫は永塩亥太郎(長塩と書く場合もある)、植田より3歳年下、卓の4歳上である。熊本市山崎町の出身で、同心学舎に在学中、民権論者になった。植田と同じく、明治20年11月15日に東京で開かれた「有志大懇親会」に出席している。永塩は、以前から東京で活動を続けていた。これに先立つ同年9月に、不平等条約をさらに上塗りするような条約改正案に反対する、17県壮士学生の代表として宮内省に行き、天皇に「上書奉呈」しようとしたり、「檄文配布未遂事件」に連座している。
さらに、10月2日、「加波山事件刑死一回忌」の際、自由党のリーダー星亨や壮士として名をはせていた井上敬次郎とともに、参列者の主だった一人として永塩亥太郎の名前が上げられている。
この日、「加波山事件」の遺族関係者や民権家有志が、義捐金を募り谷中墓地に「加波山事件墓碑」を建立し、「加波山事件刑死一回忌」を開催した。谷中墓地の茶屋沢潟屋の二階座敷で40人余が参加、その席で星亨は、刑死したメンバーを義民佐倉宗五郎につづく志士として顕彰しつつ、その志を受け継ぐ自分たちは急激な武力蜂起ではなく、「漸次」的な社会改良をするべきだと訴えた。その会合で永塩の名前は、「本会の幹事である井上敬次郎・井上平三郎・荒川高俊のほか、星亨・永(長)塩亥太郎・・・」と出てくる。幹事以外では、星亨につづく存在だった。
次に、11月28日には「檄文配布未遂事件」が起こる。当時自由党は、①条約改正に対する批判、②租税の軽減、③言論集会の自由、の三つの要求を求める「三大事件建白運動」を広く進めていて、東京では、学生や壮士のデモなども繰り返された。永塩も、井上敬次郎や井上平三郎と共に建白請願を繰り返し、その最終行為として、9月、宮内省への上書奉呈を行った。しかし、それは受け取ってさえもらえなかった。
ならばその思いを広く知らせようと、「政府の罪」を訴える檄文を秘密裏に印刷し、東京にばら撒こうとして、3人は逮捕される。出資者の星亨も逮捕された。そして永塩らのこの「檄文配布未遂事件」により、12月、政府は更なる治安強化策として「保安条例」を施行した。この条例によって、案山子・下学父子も、東京から追放された。
永塩は、熊本の一民権家ではなく、星亨や両井上らと密接に行動を共にする、運動の一つの流れの中心人物であった。
星・長塩・両井上らは共に入獄し、明治22年2月、「憲法発布による大赦」で共に出獄した。その後、星亨は渡米することにし、獄中で星の影響を受けた井上敬次郎も同行することになった。資金のない井上は、星に100円の寄付を貰ったほか、寄付を仰ぐべき人の紹介を受け、「井上は井上平三郎・長塩亥太郎らの協力を得ながら寄付金集めに奔走し」たという(安在邦夫「自由民権運動における壮士の位相」、安在・田崎編著『自由民権の再発見』所収)
永塩が東京で、星亨や両井上らと活動していた明治20年、卓は植田耕太郎と結婚し、翌年離婚したとき、水塩は獄中にいた。二人が、いつ、どこで出会ったのかは分からない。
明治22年当時、自由民権運動は、政府の弾圧と、翌年に迫った第1回衆議院選挙を前にして、さまざまに離合集散を繰り返していた。
案山子は、その頃、九州の旧改進党派から分裂し、長年行動を共にした池松豊記らの反対を押し切って大同団結派に接近、同年4月に東京で開かれた大同団結全国大会に出席し議長をつとめた。卓はこの頃、父と共に上京していたと推測される。
案山子は、水塩と同じように条約改正問題に取り組んでいる。
案山子は、明治22年夏、「熊本で同志にはかり、条約改正中止建白書を元老院に提出。また上京中には、非条約改正者の演説会に参加した」。
同年12月12日に大阪で開かれた「大同倶楽部」の臨時大会でも案山子は議長をつとめているが、その大会には永塩も参加している。
おそらく卓と永塩はこの頃、明治22年夏~冬の時期に接近したと推測できる。
非条約改正者の演説会などで、案山子は永塩の力を認め、東京に構えていた家に招く。そこで21歳の卓に出会う。二人は恋をする、という状況だろうか。
星亨はアメリカに出発し、井上敬次郎もそれに続く。永塩は寄る辺をなくしている。そこに、面識のあった九州の有力民権家と、きれいで勝ち気なその娘が現れた。卓にとっても、入獄もいとわず熱烈な行動をとった青年が、まぶしく見えたにちがいない。
ただ、二人は正式の結婚を選ばず、同棲する。互いに独身であったので正式に結婚できない理由もなかったのに。
(つづく)
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