2018年3月20日火曜日

「『草枕』の那美と辛亥革命」(安住恭子 白水社)編年体ノート8 (明治28年~30年)

千鳥ケ淵緑道
*
明治28年
前田卓と永塩の仲が険悪になる。
明治28年9月(日付不明)の宮崎滔天から妻槌(卓の妹)宛て手紙。滔天の夫婦観、女性観も現れている。

〔前略〕卓姉の夫婦げんかは、是また浮世の出来事也。浮世の出来事は浮世で治むべきはず也。両方より我儘を言い互に非を挙ぐれは、到底何人とでも寸時もつき合い出来ぬ也。〔略〕ことに長塩とは御自分の勝手の嫁入なれば、夫婦けんかで相破れ候様にては、何の面目あって天下に御願が出されるや。自分の考えにては、何程長塩に不始末があって、或は心腐り身体迄腐っても、一旦嫁入して別るるなどは人間の道に非ずと思う。それも親の無理押付けなればなおしも。しかしそれにても一旦夫婦の契ありし上は別るる事道に非ず。況んや全く此例に反したる嫁入方に於てをや。もし長塩に不始末あれば、なるべくそれを隠して世に顕さずして夫の名を傷けず、行先の於磯さん、如何にやかましとて鬼ではなし、同居すると言えば同居して、相助る極の意はなくては、幾百万遍嫁入して世界中を回っても出来るものに非ず。其辺は姉上少し御考え可然と存候。〔略〕姉上自分で婿殿を見付て、それが間違なら致方なきに非ずや。唯自分の不明不幸と諦めて、出来るだけ夫を助けて善に導く様する外はなき也。其方法に出でずして、却て罵言し悪口し、やけ酒飲んで自分も酔狂する様では、婦の道は立たぬもの也。世の中には住めえぬもの也。小生は万々破談には不同意也。十分折入て忍んで一緒になるが真実女の道にして亦後来の幸と思う。〔略〕少し六ケ敷注文なれども、例令(ちゃとえ)如何の困難あり、如何なる貧乏に陥り、如何なる自堕落を男がしても、死する迄は離れぬと云う覚悟を定め、郷土再び行かるれば男を改心せしむる事万々受合也。左様な手数の入らぬ正直にして富有の男に嫁入り直すと云うは、極々いかんいかんいかんいかん。それは禽獣々々。神も人も見限る可し。姉上、左らば一生嫁入りせぬと言われんなれども、それは真実の心より出だにせよ唯一時の感情也。ダメダメダメダメ。〔後略〕 (『宮崎滔天全集』第5巻)

永塩にお磯さんという愛人ができた。彼女も気性の激しい女らしく同居を迫った。で、永塩は、お磯を家に引き入れようとした。これは、妻妾同居である。卓は、激しく反発し、別れると言い出す。気性が激しく、誇り高い彼女が、それを堪え忍ぶはずがない。永塩への失望も大きかった。

しかし、滔天は、反撥を態度に出し、別れると主張することをダメダメダメダメ、禽獣禽獣とまで言う。男が「心腐り身体迄腐っても」、どんな理不尽な仕打ちにも耐えるのが「女の道」だと言う。勝手に同棲したのだから、なおのことそれに耐えるべきだと言い、さらに、正式に結婚していても女の道は同じだと言う。

滔天・槌夫妻の関係はどうだったか
実際に滔天は、この手紙と全く同じ事を、その後何年にもわたって妻槌に強いる。
子供の頃から父親に叩き込まれ、男は大儀に生きるものである、お金は「阿斗物(あとぶつ)」や「黄白(こうはく)」と称して忌み嫌う。したがって、お金を稼ぎ家族を養うことは、結婚当初から念頭になかった。経済も、子育ても、教育も、家事全般すべてを槌に押しつけ、自分は浴びるほど酒を飲み、遊郭に通い、浮気をし、同棲し、子供をつくって恥じなかった。後年の槌が作った和歌に次のようなものがある(『宮崎滔天全集』第5巻、「槌子夫人歌稿(抄)」)。

遊び女や酒にかわるる財(もの)あるも妻子にめぐむ財はあらずと
ものなくて袂(たもと)かろきをめでる夫(つま)求めし我は未だ若かりし

それでも槌は、まさに、「如何の困難あり、如何なる貧乏に陥り、如何なる自堕落を男がしても、死する迄は離れぬという覚悟」を貫いた。

絶望する卓
卓は、男に忍従する、どこまでも付き従い、支えていくなどという「女の道」は選ばない。二重の裏切りへの絶望は深かった。そして怒りは、お酒を飲んで、不満をそのまま口にする方に向かう。そのような行動自体が男たちにとがめられる。そして、さらに孤独を深めていった。

民権活動から離脱した長塩
案山子とともに「大同倶楽部」の大会に参加した翌年の23年6月、長塩は、熊本で結成された「自由協同苦楽府」の主要会員の筆頭に名前が出てくる。自由協同苦楽府は、案山子と対立した池松豊記らが結成した団体である。そして、やがてそうした政治の表舞台から彼は姿を消す。滔天の手紙にあるように、明治28年当時、永塩は、移民を斡旋する広島会社(広島海外渡航会社)に関わっていた。
当時はハワイなどへの官選移民が終わり、移民事業を行う民間の会社がつぎつぎと作られていた。発案したのは、かつての民権派の闘士井上敬次郎と菅原伝で、時の衆議院議長星亨に相談し、政府の認可をとりつけた。井上らは熊本移民会社を作り、菅原が広島会社を設立した。菅原は、孫文の革命に共鳴してハワイに行った男であり、永塩はその菅原に共鳴してか、彼の会社に入っていた。滔天のシャム行は、この広島会社の依頼で移民する人たちを引率する仕事だった。
しかし、明治33年(1900年)のアメリカのハワイ合併により、一時は盛んだった移民事業も41年頃にはすべての移民会社が消滅する。そして永塩の消息も消える。

明治29年-30年
卓の帰郷
卓は、永塩と別れた。正確な日付は分からないが、漱石が小天を訪れる1年前、明治29年11月頃には、小天に帰っていたと思われる。
11月19日付け宮崎滔天の妻、槌宛の手紙に、「卓姉の身上如何、片付申候や。折合は如何」とある。小天に帰り、落ち着いただろうか、父親との関係はうまくいっているか、と気にかけている。

さらに、翌年(明治30年)2月2日付の手紙では、卓が滔天の荒尾の実家に行き、彼の兄民蔵の妻、美以の看病をしたことを感謝する手紙を書いている。
卓はぐずぐずと悩んではいない。自分を必要とするところにさっさと出かけて行く、世話好きの本領を発揮している。

「前田のお卓さんは、また帰ってきたんだって」などと、小さな村ではうるさい視線にさらされたであろう。『草枕』が描くように「き印だ」などと噂されたかも知れない。華やかに嫁入りしながら、1年ちょっとで戻ってくるし、その後は東京で「ご自分勝手」の同棲をする。しかもそれもまた勝手にやめて、戻ってきた。少しおかしいんじゃないか、と。
けれども彼女は気にしない。深い絶望と屈託をかかえながら行動する。
そして、その年末、漱石は初めて小天を訪れ、そんな卓に出会う。

(つづく)



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