皇居東御苑
*明治23年
第三回内国勧業博覧会
この年(明治23年)東京で開催の「第三回内国勧業博覧会」のためのパンフレットを、案山子は個人で編集・発行した。「縦覧人(けんぶつにん)の概則(おきて)」、入場券を売っている場所、開催日の日程、荷物の取扱い場所、出入り口や入場の手順、各館の内容やそれらを買う手続きなど、事細かく示した案内書である。
この頃の漱石
この年(明治23年)6月に書いた課題英作文「16世紀における日本とイギリス」、大学2年の終わり頃の「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト、ホイットマン』の詩について」では、「彼〔漱石〕がイギリスをはじめとする欧米の文学・歴史などに学んで、次第に市民革命(名誉革命・アメリカの独立・フランス革命)の基本理念であった自由・平等・友愛などの精神や個人を尊重する思想を身につけていったことがわかります」(『夏目漱石と戦争』)。
「漱石は透谷のように直接的に運動に参加したことはないが、青年時代より時代思潮としての民権思想や共和思想に深くかかわることで、思想形成を行った人間であった。〔略〕青年漱石が、心の最も深いところで反封建・反薩長と結びついた民権運動の地下水脈に触れたことは確かであり〔後略〕」(小澤勝美『透谷・漱石・独立の捕神』)。
父案山子、衆議院議員となる
案山子は、この年(明治23年)7月の第一回衆議院議員選挙に当選、みごとに伸ばした白ひげで、河野広中や鈴木充実とともに「議会三美髯」と呼ばれた。しかし、25年の第二回衆議院議員選挙には立候補しなかった。「干拓地問題」の活動は、翌年に決着するまで続けているが、その決着をみて以後、彼は政治の表舞台から身をひいた。
前田卓が影響を受けたと推測できる清水豊子(古在豊子、古在紫琴)
卓が影響を受けた人物として岸田俊子の他にもう一人の女性民権家、卓と同年生まれ、当時『女学雑誌』に健筆をふるっていた清水豊子(後の古在豊子。古在紫琴のペンネームも持つ)がいる。この年(明治23年)5月に女学雑誌社に入社して盛んに男女同権の論陣を張った女性記者だ。
清水豊子のコラム「細君たるものの姓氏の事」(明治23年11月15日号)。
「理論上より考へ候ても、実際の上より申候ても、里方の姓を称(とな)ふる方(かた)、至当ならむと存候。全体夫婦とは、婦人が男子に帰したるの謂にはあらず〔略〕何れが主、何れが客という筈のものには候はず。〔略〕かかることは差しつかへなき限りは改めて、成るべく婦を夫の付属物の様に思はれぬ様、改まった書附などには、そのお里方の姓を用ひられ度ことと恩ひます」(山口玲子『泣いて愛する姉妹に告ぐ-古在紫琴の生涯』より)。
正式に結婚した場合でも、一人の女性一人の人間として責任ある言動をとるためには、妻が夫の付属物と見られないように、妻は里方の姓を名乗った方がいい。結婚する男女の、どちらが主でどちらが従ということはありえないという主張である。
この頃、卓と永塩はすでに一緒に暮らし始めていたかもしれないし、恋愛の最中だったかもしれないが、卓が入籍しない結婚を貫こうとした気持ちを、この記事は強く後押ししたのではないだろうか。
清水豊子は卓と同年齢というだけでなく、境遇もよく似ていた。(山口玲子『泣いて愛する姉妹に告ぐ』、大木基子『自由民権と女性』、村上信彦『明治女性史(二)』などによる)
豊子は明治元年、岡山県の生まれ。幼いときに一家は京都に移住し、京都で育った。父親は漢学者で、京都府の官吏になった。豊子は幼いときから父のもとで学問と文学を学び、強い向学心と文学好きの少女として育った。明治19年頃、民権家の弁護士岡崎正晴と結婚(卓の初婚の1年前)。そして夫に勧められて演説するようになり、植木枝盛や中江兆民らとも知り合った。夫には、結婚以前からの愛人がいて、豊子は苦しみ、3年後に離婚する。
豊子もまた、卓と同じく民権家と結婚し、別れたいきさつがあった。
「一夫一婦制」と男女同権を求める豊子の主張は、この最初の結婚に破れた自分自身の体験から出発している。例えば、「細君たるものの姓氏の事」と同じ号に書いた、彼女の評論の白眉とされる「当今女学生の覚悟如何」では、平和で幸福な結婚を夢見る女学生たちに対して、厳しい警告を発している。
「婚家は実に、楽園には非ず、安息室には非ず、一時は実に失楽園、憂苦室(ゆうくしつ)にてあるべきなり」。その現実を打ち破り、理想の結婚を実現するのは、実にあなた方の努力にかかっていると訴える。
「只之れを転じて、天国とし、不満足なる良人をば、理想の紳士とまでなすことは、一に諸嬢の忍耐と奮励とを要するなり」。
「諸嬢の前途や実に遼遠、而して日本今日の状態たる実に困難、家裡(かり)に於ても、夫婦間に於ても、改むるべきもの、変ふべきもの一、二にして止まらず。況んや二千万姉妹と二千万兄弟との間に於ける関係をや。而して之れを改め之れを実行するの責に当たるべきもの、女学生諸嬢を措きて実れ誰ぞや」(山口玲子『泣いて愛する姉妹に告ぐ』より)。
覚悟して結婚せよ、そして日々忍耐し、ねばり強く奮闘せよと、まるで戦場に赴く兵士を激励するような文章である。なぜなら、夫らは理想の男性ではない。彼らを変革し、よりよき紳士にするために、改めるべきこと、変えなければならないことは山のようにあるのであり、前途遼遠な現実があるからだ。
岸田俊子、「生意気論」(『女学雑誌』明治23年11月29日)発表。
俊子は、7月に開設されたばかりの衆議院の議長夫人。
「元来生気ありということは非難せし言葉ならで誉し言葉なり、御身は死物の如しといえば誰も心地悪しかるべし、これに反して御身は活物なり生気ありといえば誰も心地悪からざるべし、唯僅かに意の一字を加えてこれをなまいきと読むときは誉し言葉に聞こえぬこそ不思議なれ」(『湘煙選集1 岸田俊子評論集)。
これは、世の女学生が一般的に「生意気だと非難される」ことに対する反論。
そもそも生意気と生意気ではないことの区別はどこにあるのか。縁日の猿のようにお辞儀をしないのがいけないのか、束髪がだめなのか、はっきりとした物言いか、おかしいと思うことを質すことか、女権拡張説を唱えることか、等々とたたみかけて、こう言う。
生気があるというのは本来はめ言葉ではないか。あなたは死人のようだと言われてうれしいか。その「生気」にただ一文字「意」という語を加えただけで、否定的な意味になるのは不思議なことだ、と。
「生意気」のどこが悪い?と主張する。
(つづく)
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