大杉栄とその時代年表(244) 1898(明治31)年7月7日 ハワイ併合 〈ハワイ併合に至る経緯(2)〉 〈アメリカへの傾斜と抵抗(2)〉 〈ハワイ事変(ハワイ革命)(1)〉 より続く
1898(明治31)年
7月7日
ハワイ併合
〈ハワイ併合に至る経緯(3)〉
〈ハワイ事変(ハワイ革命)(2)〉
しかし、リリウオカラニの抵抗やアメリカ国内における女王支持派の存在、およびスティーブンスがこのクーデタでとった強引な手法に対する世論の反発などにより、併合は見送られた。
当時、第24代アメリカ合衆国大統領に就任したばかりのグロバー・クリーブランドは、1890年の「フロンティア消滅」を受けてアメリカの「マニフェスト・デスティニー」は既に果たされているという認識に立っており、海外進出には抑制的で、スペインからの独立運動のつづくキューバにも不介入の方針を採った。
クリーブランド大統領は、ハワイの状況視察のためジェームズ・ヘンダーソン・ブラントを現地に派遣した。ブラントは、親米派グループが君主制を転覆させるような過激な行動をとるべき口実は何も存在しなかったこと、一外交官が軍隊を上陸させて友好的な政府を倒す手助けをしたことを大統領に報告し、ハワイ政庁の星条旗を下ろし、アメリカ海兵隊を船にもどすよう指示した。クリーブランドはブラントの報告を受け、革命家たちの行動を「ホノルルの無法な占拠」と批判し、スティーブンス公使の更迭を決め、新任公使にアルバート・ウィリスを任命した。これに対し、当時のニューヨークの新聞にクリーブランドが当時の流行歌をもじって「リリウオカラニはわたしの恋人」と歌っている漫画が掲載されるなど、多くのアメリカ国民は革命家たちやスティーブンスに同情を寄せた。
新公使アルバート・ウィリスは、リリウオカラニが革命家たちを処罰しないことを条件に復位させるというクリーブランドの指示のもと、暫定政府の取り消しと女王復位の道を模索した。
1893年12月20日、ウィリスは、ドールに対し、「リリウオカラニを正式なハワイの統治者であることを認め、現地位と権力の全てから退くこと」というクリーブランドのメッセージを伝えた。
こうした諸状況から、ドールらはクリーブランド在任中の併合は不可能であると判断し、12月23日、「過ちがあったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権の要求は内政干渉にあたる」との声明文を発した。
さらに、暫定政府を恒久的な政府として運営するため、「ハワイ共和国」と改称し、1894年7月4日、新憲法の発布と新国家成立を宣言した。共和国大統領にはサンフォード・ドールが就任した(結果としては、ハワイ共和国の最初で最後の大統領)。ハワイ共和国憲法は多くの点でアメリカ合衆国憲法に似ていた。新憲法は、東洋人に対し選挙権や市民権を与えず、公職勤務を禁じる一方、白人団体が多くの点で権力を保持できるよう配慮されていた。"
〈日本との関係〉
1867年、ハワイ王国と日本は日布親善協定を締結して外交関係が樹立。
1868年、日本から民間の第1号移民団153名がハワイに渡った。ハワイ王国はこの後も日本人移民を積極的に受け入れた。
1881年、国王カラカウアは、世界一周旅行の最初の訪問国として日本を訪問。明治天皇に謁見した際、ハワイ王国の安泰のため日本とハワイの連邦化を提案した。その時のカラカウアからの提案は、①日本・ハワイの連邦化、②日本・ハワイ間のホットライン敷設、③日本主導によるアジア共同体の創設、④カイウラニ王女(5歳)と山階宮定麿王(15歳)の縁談、⑤日本人のハワイへの移民(当時のハワイは西欧からもたらされた疫病により、原住民の人口が激減していた)、であった。
日本政府はアメリカとの対立を避けるため、これらの提案を丁重に断ったが、移民促進に関しては、1885年、日布移民条約を締結され、官製移民団が組織されるようになった。官製の移民は1885年から1894年まで続き、総計29,339人がハワイに渡った。
ハワイ事変に際し、王党派は日本の援助を求め、駐日ハワイ公使は日布修好通商条約の対等化を申し出た。日本政府はハワイ公使の申し出を受け入れ、両国は1893年(明治26年)4月に改正条約を締結した。これは、日本にとってメキシコに次いで2つ目の対等条約であった。
日本政府はアメリカによるハワイ併合の動きを牽制するため、1893年11月、邦人保護を理由に東郷平八郎大佐率いる防護巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇させた。この入港は米国軍艦のボストンなど3艦が停泊中の出来事であり、女王を支持する先住ハワイ人たちは涙を流して歓喜したと言われる。日本海軍は、翌年には「浪速」を「高千穂」と交替させている。
しかし、1894年3月、日本政府は巡洋艦高千穂の撤収を決めた。日本の軍艦派遣は、米布併合の牽制には一定の成果をあげたものの、かつての親日的なハワイ王国政府を復活させることはできなかった。
この間、1894年8月、日清戦争最中の上海から孫文(28)がハワイに渡ってきた。目的は、清朝打倒のために華僑を組織して資金援助を受けるためであった。1894年11月、孫文はワイで興中会を結成した。
1895年1月6日、王政復古を目指し、先住ハワイ人たちが共和国に対し武装蜂起したが、2週間で鎮圧さ。リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが、反乱を知りながら黙っていたことから問題視され、1月16日、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で他の王族とともに反逆罪によって逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。この蜂起のなかで多くの先住ハワイ人が虐殺されたという。1月22日、リリウオカラニは約200人の命と引き換えに王位請求を断念し、今後はハワイ共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る趣旨の宣言書に署名した。こうしてハワイ王国は名実ともに滅亡した。リリウオカラニは2月27日、反乱に加担した罪で5,000ドルの罰金と5年間の重労働の判決を受けたが、9月6日に釈放された。
1897年4月7日、駐ハワイ公使島村久は、外相大隈重信に軍艦派遣を要請し、4月20日、軍艦浪速はハワイにむけ出発した。 5月11日、公使島村はハワイ外相へ日本移民上陸拒絶にかんし抗議し、1898年7月27日、賠償金7万5000ドルで解決した。
6月17日、駐米公使星亨は、アメリカのハワイ併合阻止のため移民問題を名目にハワイ占領の意見を具申した。6月21日、外相大隈は、ハワイ併合は太平洋の現状を変動し、日本の権益を危うくする旨アメリカ公使に抗議した。6月25日、アメリカ国務長官は、公使星に、日本の正当な権益は阻害されないと回答した。
〈ハワイ併合(米布併合)〉
1894年、アメリカ連邦議会は国内産の砂糖に対する特別補助金の打ち切りを決めて外国産砂糖に課税し、ハワイ産砂糖には互恵制度を復活させて無関税としたため、ハワイ製糖業は再び活況を呈した。
1897年、新大統領ウィリアム・マッキンリーは「海のフロンティア」開拓を推進する帝国主義政策を採り、同年、アメリカ合衆国上院にハワイ併合条約を上程した。ハワイ上院はそれに呼応してただちに賛成の意を表明したが、アメリカ上院では条約批准には3分の2以上の賛成が必要であり、可決は困難とみられた。ただし、議会の合同決議であれば上下それぞれの院で過半数の支持があれば可決されるという規定になっていたため、1898年3月16日、合同決議案が議会に出された。
この間、米西戦争が勃発し、ホノルルはアメリカ軍にとって重要な寄港地となっていた。アメリカは真珠湾の独占使用権を獲得していたが、これをより強固にするため併合が必要であるとの世論が高まった。
こうして米西戦争中の1898年6月15日、先に提出していた合同決議案(ニューランズ決議)はアメリカ下院を通過し、7月6日には上院を通過した。
7月7日、マッキンリー大統領は連邦議会におけるハワイ併合決議案に署名し、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。
8月12日にはアメリカのハワイ編入が宣言され、イオラニ宮殿の上に星条旗が掲げられた。併合後のハワイはアメリカ合衆国自治領として準州の扱いを受けることとなった。
米西戦争は、8月に休戦条約が結ばれ、12月にはパリ条約が結ばれてアメリカはフィリピン群島・グアム島・プエルトリコを獲得することとなり、キューバは米国占領下におくこととされた。
アメリカの連邦議会がハワイに適用する法律を通過させるまで、ハワイ準州の大統領ドールは、ハワイとアメリカの両方の憲法のもとで行政権を行使した。
1900年4月30日、マッキンリー米大統領はハワイがアメリカの一州になるまで効力を持つハワイ基本法に署名、6月にハワイ準州政府が設立された。ハワイ準州の要職にはハワイ共和国下の官僚が就くこととなり、6月14日、初代ハワイ準州知事にサンフォード・ドールが就任した。「1900年基本法」はハワイの法律となり、アメリカの諸法がハワイに適用されることとなった。ハワイの市民は合衆国市民となり、日系移民や中国系移民が事実上ハワイ市民になることができなかったのに対し、先住ハワイ人は投票上の制約が取り除かれ、多くの権限を獲得した。また、ハワイでも共和党と民主党が結成され、当初は自治党が優勢であったものの、しだいに二大政党の力が大きくなっていった。
〈100年後の謝罪決議〉
「アメリカ人のクーデタでハワイ王国が倒された1893年から100年後の1993年、ホノルル市内では多数のネイティヴ・ハワイアンが集まり、抗議の集会とデモが行われた。このときネイティヴ・ハワイアンとして初めてハワイ州知事を務めていたジョン・ワイヘエは100周年の記念行事のあいだ、州庁舎からアメリカ国旗を降ろし、ハワイ王朝の国旗(今はハワイの州旗になっている)だけを掲げることを表明した。「星条旗への冒瀆である」との猛烈な批判にもかかわらず知事は決断を実行した。「ハワイアンとしてのプライド」を宣言し、100年前の不正義を「耐え忍んできた」ことへの敬意を表すために旧ハワイ国旗を高く掲げるべきだと主張したのである。
そしてついに、アメリカの連邦政府は過去の誤りを認め、謝罪するにいたった。ネイティヴ・アメリカンに対する「謝罪決議」が連邦議会を通過し、クリントン大統領はハワイ王朝の転覆にアメリカ政府が関与していたことと、その後の併合がネイティヴ・ハワイアンの意思を充分に確認しないまま強行されたことを公式に認め、今後、かれらの文化的アイデンティティの保持を従来以上に促進すべきだと述べた。金銭的な補償や、アメリカ本土に住むネイティヴ・アメリカンに認められているような、アメリカ国内である程度の自治を有する「国家」を持つ権利までは認められなかったものの、連邦政府がネイティヴ・ハワイアンの歴史と文化の重要性とともに、過去の過ちを公に認めたことは、かれらにとって重要な勝利だった。」(矢口祐人『ハワイの歴史と文化』中公新書)
つづく
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