1899(明治32)年
10月23日
子規の号令により、道灌山胞衣神社の一室を借り、秋田へ帰って医院開業する石井露月の送別句会。
10月23日
フィリピン、マビニの呼びかけにより民族教会設立会議が開催。
10月24日
島田三郎(46)、横浜・太田町の日盛楼でで横浜経済会28回例会で演説。渋沢栄一も弁士。
10月26日
幸徳秋水「政治家の投機業」(「万朝報」)。利権屋の暗躍を批判。但し、この頃友人の小泉三申は新聞記者をやめ政治的投機師になっており、秋水もこれに絡む。
10月8日「三申の知人に権利株譲渡を約して、金円を受領す」。
同27日「小泉三申と清新軒に昼餐し、森久保作蔵、石坂昌孝とあう」。
同29日「午前八時、岡崎邦輔を内幸町の邸に訪う」。
森久保作蔵:東京市街鉄道市有論者
石坂昌孝:横浜港本牧埋め立て問題の黒幕
岡崎邦輔:自由党星亨派の領袖。
11月28日秋水「十四議会の前提」(「万朝報」)で、山県内閣に盲従する自由党を批判するが、埋め立て問題・街鉄問題への論及はない。
10月30日
「河身堤防改築請願・衛生保護・村費欠額補助請願ヲ各村共村会ノ決議ヲ経テ請願セリ」ことを決め、行動に移る。(室田忠七の鉱毒事件日誌より)
10月31日 栃木県庁に出頭し、知事に面会し請願書に対する添書を要求したところ、知事の了解を得る。(同上)
11月
田中正造、ビラ「足尾銅山鉱毒被害民毎人毎戸の記憶すべき請願の要点」を数万部印刷し被害民に撒く。9ヶ条の要点を「天産と水と人殺しの三条件」とする。
11月
梁啓超、アメリカ華僑の招きで渡米、アメリカ各地で「清朝の政治改革」を講演してまわった。この時、パスポートは柏原文太郎のものを借用しての「なりすまし」であった。
日本へ戻った後、梁啓超は広東省から妻子を日本へ呼び寄せ、ひたすら研究にのめりこみ、経済、金融、法律、歴史から時事問題まで、幅広く近代的知識を蓄積した。代表作『自由書』は、ヘンリー・バックルや福沢諭吉、徳富蘇峰らの影響があるとされる。ダーウィンやスペンサーの「進化論」に基づく論文も発表した。財政改革に関する論文も多数執筆した。それらの論文は膨大な量にのぼり、現在、『梁啓超全集』(全10冊21巻、北京出版社、1999年)に収められている。
11月1日
高野房太郎、京橋区本八丁堀二丁目四番地で消費組合「共営社」を経営。 同店2階に石川島造船所労働者のための労働倶楽部を設置。
11月3日
与謝野鉄幹(26)、新詩社創設。
翌明治4年1月1日「明星」(発行人兼編集人:林瀧野)創刊。
11月3日
活版印刷工「懇和会」解散、「活版工組合」結成
11月3日
労働組合期成会、この日夜、工場法制定要求デモを予定するが、警視庁が禁止。
11月7日
難波大助、山口県熊毛郡周防村大字立野第1011番地(現・光市立野1011番地)に、難波作之進(36)・ロク(30)の4男として誕生。大正6(1917)年3月末、18歳、徳山中学を退学処分。4月、山口県吉敷郡山口町・私立鴻城中学校(現・鴻城高等学校)4年に編入学。9月中旬、東京へ出奔。12月、生活苦のため帰郷。
11月12日
アギナルド、ルソン島北部山岳地帯に逃避。正規軍の解体とゲリラ戦の開始を指示。
11月13日
午後2時頃、子規、招かれて岡麓の新築した家(本郷金助町)を訪問。麓所蔵の書画を見、夕食を供されて9時頃辞す。帰路、本郷切通しの坂を人力車で下ると、たまたま犬鷲神社酉の市の夜で、熊手を買った人たちに出会った。
11月15日
朱紅灯・千清水ら神拳、莅平県張荘教会襲撃(山東西北部の教会勢力3大拠点の一つで厳重に武装した砦)。教会側死者5、教会建物16棟・教民の家16軒焼失。張荘教会は破壊・掠奪。
17日、博平県華岩寺で略奪品分配巡り闘争。朱紅灯は負傷、逃亡途上で部下に裏切られ官兵に逮捕。
23日、朱紅灯・本明和尚(21日逮捕)、済南に護送。
11月16日
午後、子規、小石川原町の香取秀真の家を訪問。
秀真が呼んだ岡麓も来ていて、話題はもっぱら、上野の美術学校出身の秀真が専門とする鋳金造形についてであった。この日子規は、夫人が調理した牛鍋を供された。
翌17日、秀真への礼状にしたためた歌の一首。
我口(ワガクチ)ヲ触レシ器ハ湯ヲカケテ灰スリツケテミガキタブべシ
「子規は病気をうつすことを極度に恐れていた。虚子の娘真砂子はなかなか子規になつかなかったが、それは虚子または虚子夫人がつとめて接触させぬようにしているからだろう、無理ないことだ、と子規は思っていた。しかし実際に子規の病が菌を撒き散らす「開放型」なのかどうかはわからなかった。門下生にも家族にも、また神戸と須磨であれだけ親身になって看病した虚子にも、感染のようすはうかがえなかったのである。」(関川夏央、前掲書)
11月10日
雲竜寺事務所で報告会を兼ね、今後の方針について協議する。(室田忠七の鉱毒事件日誌より)
11月17日
漱石、正岡子規宛に句稿その三十五を送る。
11月18日
内務省、ペスト予防のため、清・インドからの古綿やぼろの輸入禁止措置を発表
11月18日
ユージン=オーマンディ(イェノ=ブラウ)、ブダペスト(ハンガリー)に誕生。父親は音楽好きの歯科医。
11月20日
雲竜寺事務所で、会計上の件及び今後の運動方針について協議する。(室田忠七の鉱毒事件日誌より)
11月20日
田嶋一雄、誕生。ミノルタ創業者。
11月21日
西太后、軍機大臣、各省総督・巡撫に上諭。列強の侵略・脅迫が忍耐の限界に達する時、勝敗の帰趨を考えず断乎戦えと諭す。「勝負の情形はあらかじめ計るところにあらず(後のことは考えるな)」。戦争は文化的に劣った「夷狄」に対する「懲罰」という考え。「国家滅亡」を回避しようとする中央・地方の官僚の総反発は必至。
11月22日
第14議会。~翌年2月23日。
①衆議員議員選挙法改正と、②治安警察法の成立。
11月22日
虚子と青々が子規庵に来て、文章会を開く。
11月24日
福澤諭吉『女大学評論・新女大学』
11月25日
「ホトトギス」第3巻第2号発行。2,300部が即日完売となる。予定していた新聞広告を急遽「売切御礼」に変更する。
11月28日
西太后、大刀会・紅拳ら「不逞の徒」が教会懲罰に名を借りて市民を圧迫している。山東巡撫毓賢は偏向していると非難。
12月1日、毓賢は反論。
つづく
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