1903(明治36)年
10月30日
韓国、京仁・京釜鉄道会社を合併。
10月30日
小村・ローゼン第5回会談。日本側の確定修正案を手交し、ロシアの再考を要求。ロシア側沈黙続く。
10月30日
尾崎紅葉(36)没。
1868年1月10日(慶応3年12月16日)、江戸(現東京都)芝中門前町(現在の芝大門)に生まれる。父は根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。
同年の生まれには、正岡子規、斎藤緑雨、夏目漱石、南方熊楠、幸田露伴、官武外骨、藤島武二、池田成形、豊田佐吉、鈴木貫太郎らがいる。
1872年(明治5年)、母と死別し、母方の祖父母荒木舜庵、せんの下で育てられる。寺子屋・梅泉堂(梅泉学校、のち港区立桜川小、現在の港区立御成門小)を経て、府第二中学(すぐに府第一中と統合し府中学となる。現在の日比谷高校)に進学。一期生で、同級に幸田露伴、他に沢柳政太郎、狩野亨吉らがいたが、中退。愛宕の岡千仭(岡鹿門)の綏猷堂(岡鹿門塾)で漢学を、石川鴻斎の崇文館で漢詩文を学んだほか、三田英学校で英語などを学び、大学予備門入学を目指した。
1883年(明治16年)に東大予備門に入るが、それ以前から緑山と号して詩作にふけり、入学後は文友会、凸々会に参加し文学への関心を深めた。
1885年(明治18年)5月2日、山田美妙、石橋思案、丸岡九華らとともに硯友社を結成、回覧雑誌『我楽多文庫』を発刊した。『我楽多文庫』1885年5月2日~1886年5月25日に「江島土産滑稽貝屏風」を連載した。最初は肉筆筆写の雑誌だったが、好評のために1886年11月1日活版化するようになった。
1888年(明治21年)5月25日、『我楽多文庫』を販売することになり、そこに「風流京人形」を連載、注目を浴びるようになる。
しかしその年、美妙は新しく出る雑誌『都の花』の主筆に迎えられることとなり、紅葉と縁を絶つことになる。
1888年(明治21年)、帝国大学法科大学政治科に入学したが、進級できなかったので、翌明治22年9月から、文科大学国文科に移った。学友の川上眉山、石橋思案等と同人雑誌「我楽多文庫」を刊行し、小説を書いていることは学校当局が白眼視されていた。
明治22年4月、彼は叢書「新著百種」(「我楽多文庫」を刊行していた吉岡書店が、新しく小説の書き下ろし叢書を発刊)の第一篇として「二人比丘尼色懺悔」を書いて新作家としての地歩を築いた。
そしてその年(明治22年)12月、「読売」を退く饗庭篁村に替る小説担当の社員として入社した。
入社後もしばらく学校に籍があったが、収入が多くなるに従って自然に学校を放棄した。川上眉山、石橋思案も相ついで退学した。以後、尾崎紅葉は、代表的な文芸新聞であった「読売」に、力のこもった作品を発表した。また彼は、友人・弟子たちにも「読売」に執筆する機会を与えて、庇護した。
彼は「読売新聞」にいることによって、文壇的地位に重きを加え、「読売」はまた紅葉を中心とする硯友社の本拠たることによって文芸新聞の権威を維持した。
明治30年1月以後、紅葉は力作「金色夜叉」を、年に二度または三度の割合でこの新聞に連載し、天下の人気をそこに集めた観があった。"
明治35年(1902)5月頃、尾崎紅葉は、胃の不調を覚え、毎々鳩尾(みぞおち)に痛みを感じた。彼は医者を替えたり、食事に気をつけたり、成東の鉱泉へ行ったりしたがはかばかしくなかった。「金色夜叉」の続篇の休載が長く続き、「読売新聞」は次第に紅葉の扱い方に困り、営業面からの苦情も出て、紅葉に対する冷淡な態度が表面化した。そして、この年8月、紅葉は「読売新聞」を退社した。
尾崎紅葉が「読売」を退社したとの報は、読者・文壇人・新聞関係者に衝撃を与えた。
9月、「二六新報」社長秋山定輔の勧めにより「二六」入社を承諾した。紅葉は法科時代は秋山とは学友で顔見知りであった。
実は、紅葉招聘は、尾崎の最初の弟子で、堺利彦の妻の兄の紫山堀成之が小野瀬不二人に紅葉招聘をすすめ、それを秋山が容れたのであった。この頃「二六新報」は発行部数は十数万と言われ、都下第一の新聞と号し、余裕があり、かつ世間の注目を惹くことに対して積極的でもあった。
明治35五10月2日付け「二六新報」に尾崎紅葉の「入社の辞」が載った。
「予が多病の故に、十余年の締合密なる『読売新聞』と絶って、未だ幾(いくば)くならぬに、『二六新報』社は予の親友其々の二氏を介し、不肖の為に厚遇の椅子を払って、懇(ねんごろ)に招かれるのであった。(中略)予は先づ問はざるべからざる者有るが故に、之を以て氏に答へた。曰く、足下は予が名声を買ふけ乎、或は箇の病骨を買ふの乎。秋山氏は曰ふ、固より其病骨を買ふのである。奇なる哉言や、予が入社の意は之が為に愈よ動いた。(下略)」
紅葉に同情していた人々はこの文章を名文だと言った。紅葉の入社は「二六」の義挙として好評であった。紅葉はこれで当分安んじて病を養うことができるようになった。この時尾崎紅葉は、数え年36歳、秋山定輔は37歳であった。"
尾崎紅葉は明治36年1月から「金色夜叉」の新続篇を雑誌「新小説」に載せたが、これもまた中絶になった。彼は「二六新報」にはレッシングの原作による「草分衣」という小説を連載していた。また2月から、編著「西鶴文粋」を上、中、下に分けて春陽堂から出しはじめた。
2月初め、彼の体重は11貫950匁で、食事のあとに時々嘔気があり、胃が張って気分悪く、鳩尾の痛みが直らなかった。気力が無くなり、消化のために散歩したり、弓を引いたりしたが、それも疲労を増すばかりで、病は目に見えて悪化して行った。
東京帝国大学医学部の入沢達吉博士の診察を受けると、入沢博士は正確な診断のために入院を奨めた。
3月3日に彼は入院し、14日、ガンの宣告を受けて退院した。さっそく、紅葉がガンになって死期が近いとの消息が新聞に掲載され、見舞い客が増えた。巌谷小波、上田敏がよく見舞いに来た。
また、「読売」の旧友からもユーゴー「ノートルダム・ド・パリ」翻訳の話も進んで、早稲田大学出版部が千円で原稿を買い取った。
実際は長田秋涛の知り合いの青年が約した翻訳を徳田秋声が英訳本を参照しつつ訂正するという作業であった。
伊藤整『日本文壇史』に詳しい。
〈内田魯庵『思い出す人々』〉
「硯友社の勃興と道程 十二 紅葉と最後の会見-世間に伝わらざる逸事」
「紅葉の病気が重態であると新聞紙に伝えられてから間もなく、或日の午後」、丸善で紅葉と出会う。
病気の様子などの問答の後、
「やがて間(ま)を措(お)いて、「何を買いに来た!」と訊くと、「『ブリタニカ』を予約に来たんだが、品物がないッていうから『センチュリー』にした」といった。」
「「・・・生延びようとは決して思わんが、欲しいと思うものは頭のハッキリしている中(うち)に自分の物として、一日でも長く見て置かないと執念が残る。字引に執念が残ってお化けに出るなんぞは男が廃(すた)らアナ!」と力のない声で呵々(からから)と笑」ったという。
「不起の病に罷(かか)って、最早余命いくぱくもないのを知りつつも少しも紊(みだ)れないで、余り余裕のない懐(ふとこ)ろから百何十円を支払って大辞典を買うというは知識に渇する心持の尋常でなかった事が想像される。あるいは最後の床の上で、『ノートル・ダーム』の翻訳を推敲していたからであったかも知れないが、それならはなお更、死の淵に瀕してすらも決して苟且(かりそめ)にしなかった製作的良心の盛んであったを知るべきである。
普通ならば医者から三月しか寿命のないのを申渡されて死後を覚悟すべき時である。聊かでも余財があれは家族のために残して置く乎、さらずば自分のための養生喰いをする乎、病気のために食慾の満足が得られないなら慰みになるものでも買うのが普通である。病気のためにも病床の慰みにも将(は)た又死後の計(はかりごと)の足しにもならないこういう高価の大辞典を瀕死の間際に間際に買うというは世間に余り聞かない咄(はなし)で、著述家としての尊い心持を最後の息を引取る瞬間までも忘れなかった紅葉の最後の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」
結びは、
「紅葉は真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。」
でむすばれる。
「紅葉が明治三十六年十月に亡くなった時、彼はその時代を代表する押しも押されもしない大文豪だった。色々な雑誌が彼の追悼特集を組み、その内の一つに『卯杖』という俳句雑誌があった。その特集の最初の頁に、葬式当日の神楽坂(紅葉の終の住処は神楽坂の途中を脇に入った横寺町という町にあった)の様子を写した写真が載っていて、坂の両脇に多くの人びとが集まっている。野次馬らしき人もいる。まさに大文豪の死だ。
(略)
紅葉という大文豪が死んだ時、明治を、いや近代日本を代表する、もう一人の大文豪、夏目漱石は、一部の生徒たちからは人気があったものの、神経衰弱に悩まされる、無名の、ロンドン帰りの、第一高等学校教授兼帝大講師に過ぎなかった。鈴木三重吉や森田草平、小宮豊隆ら、のちの漱石神話を作り上げて行く弟子たちが彼のもとに集まってくるのも、翌々年のことだ。だからこの頃に彼が亡くなっていたとしたら、妻との不仲に悩むただの大学講師の死として片付けられていただろう。」(坪内祐三『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』)
10月31日
自由党幹部で衆議院議長の片岡健吉(59)、没。
10月31日
『毎日新聞』、10月31日「永久の平和の為めに」において、、「永久の平和を望むが為めに(中略)実力を用ゐるも、亦巳むを得ずと信じる者なり」と、「平和」の名のもとに戦争を肯定した。
つづく
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