1903(明治36)年
11月
中国、商務印書館、日本の4大教科書出版社金港堂社主原亮三郎と提携。小学校の国語教科書を出版。一方で、「繍像小説」(1903)、「東方雑誌」(1904)、「教育雑誌」(1909)、「小説月報」(1910)、「少年雑誌」(1911)を発行。中国最大の出版社となる。「天演論」(1905、進化論を紹介)など西洋近代思想翻訳・出版を行う。
「1903年 -日本の出版社金港堂と合弁。金港堂との合弁により、商務印書館は資金だけでなく当時最新の印刷技術や教科書編纂技術を獲得し、その後の発展の基礎となった。金港堂が派遣した長尾雨山らの監修で 中国で第1部となる小学校の教科書『最新国文教科書』を出版し、以後、小中高の教科書が全国で用いられる。これら金港堂合弁で得た商務印書館の利益は、今日の商務印書館公式社史ではほとんど触れられていない。同年厳復訳『群学肄言』、林紓等訳『伊索寓言』(イソップ寓話)を出版する。両者の訳著は後代に大きな影響を及ぼす。」(Wikipedia)
11月
この月、政府は日銀に対して、開戦になった場合の戦費調達方法、海外からの軍需品購入のための正貨準備について調査するよう内密に指示。高橋是清副総裁は早急に戦費と流出する正貨の推定を横浜正金銀行に指示。
これら戦時経済収支の推計は秘密裏に行われたが、この月から売為替や信用状の発行を控え目にする政策が取られたため、経済界は動揺し、日露開戦が公然と口にされるようになった。特に大阪財界では戦争による経済危機の噂が広まった。
正金銀行の試算によると、開戦1年間に日本から流出する正貨高は約6,500万円で、この計算には開戦後に海外から購入する軍需品の代価は含まれていないため、現実にはもっと困難な財政状態になると推定された。
事態を憂慮した曾禰荒助大蔵大臣は、松尾臣善(しげよし)日銀総裁に事態の収拾を依頼。
11月
漱石(36)、神経衰弱再発。翌年4~5月まで続く。
「十一月、再び神経衰弱重くなる。鏡にあたりちらし、実家に帰れと繰り返す。
十一月頃(日不詳)、鏡を再び実家に戻そうとして、中根重一に引き取るように交渉したけれども、夫婦の離縁は双方の合意なくては成立しない、裁判にかけぬとだめだとの手紙が届き、そのままとなる。(この後、親類との交際はすべて鏡の受持ちとなる。)
「神経異常のひどくなっている時期に書いた日記があったらしいが、破棄したものか、紛失したものと想像される。「断片」(小宮豊隆校訂)は、明治三十四年四月以降と明治三十七、八年頃のものが残っている。「そンときはまだ、ちょうど三番目の妹が生まれたばかりで、まだ四番目の妹が生まれていない時ぐらいでございますね。母がしょっちゅう書斎によばれていっては、髪ふり乱して泣きながら廊下を走って出てくるのを、わたくし覚えております。」(座談会「夏目漱石の長女」『銀座百店』二五四号 昭和五十一年一月一日)」(荒正人、前掲書)
「十一月、水彩画に熱中し、書にも精進する。」(荒正人、前掲書)
11月
古河力作、上京。滝野川の印東熊児経営康楽園入店。
11月
坪内逍遥(44)、尾崎紅葉の葬儀参列中に脳貧血で倒れる。
12月、健康上の理由で早稲田中学校校長を辞任。
11月
(露暦11月)ロシア、ゼムストヴォ議員立憲派グループ大会。
11月
ケープのアメリカーナ・ボンド、南アフリカ党に。党首はホフマイヤー。
11月
カナダ、独からの輸入品に増税。
11月
スペインの鉱山労働者、週給制を要求してストライキ。
11月1日
石川啄木(17)、正式に新詩社同人に推挙。石川白蘋等を新詩社同人とするとの社告(『明星』卯歳第11号)。
この年2月27日、啄木は東京から戻り帰宅。故郷の禅房でしばらく病身を養う。
5月31日~6月10日、評論「ワグネルの思想」を「岩手日報」に連載(7回)。
また、帰郷後、与謝野鉄幹の知遇を得て白蘋の筆名で「明星」に短歌を発表し、11月1日発行の「明星」で新詩社同人とする旨が発表された。
啄木はこの月初旬より詩作に没頭、「愁調」と題する5篇の長詩を啄木の筆名で鉄幹の許に送る。
この年秋頃から翌37年2月上旬、アメリカの女流文学者Anna Lydia Ward(1850~1933)の編集した『Surf and Wave : the Sea as Sung by the Poets』の影響を受け、最初の詩稿ノート「EBB AND FLOW」(エプ・アンド・フロウ)を作る。
11月2日
川上音二郎一座、「ハムレット」初演。本郷座。
「・・・歌舞伎劇場に対立して、新劇樹立の宣言の下に西洋劇の上演を試み、その鑑賞者の標的を学徒及文化人に措いた結果、凡ゆる点に於て大改良を企図し、差当り下足料其他の伝統的陋習を根本的に改めた為、未だかういった訓練に慣らされてゐない今夜の見物客は徒らにまごつくはかりであった。入場客は大半、大学生、女学生の新人、教員、学者、ジャーナリスト、金持ちの若旦那夫婦といった風の人々であって、老人株の者は殆ど一名も居らなかった。入口は、是等の健康な肉体の持主である上に、英国人式の紳士道の修養が全く欠けてゐる人々が、力づくで我れがちに入場しようとするので、山賊の大群が一時に殺到したやうな修羅の巷を現した。中には、乱暴にも前に立ってゐる人々の頭をはらばひして入口に迫る者すらあった。・・・ハムレットの亡父が青山墓地に幽霊の姿よろしく現はれて来て、その昔シェークスピアー自身が其の役割りを勤めたといふ亡霊の、あの幽かなものすごい口調で、「怨めしや」「怨めしや」の言葉を吐くあたりは、誠に感傷的の気分をそゝるに十分なものがあった。しかし、ハムレットの母の出来栄えは非常に悪かつた。それから、私の同伴者の一人が余り文芸趣味を持ってゐなかった為か、可憐な乙女オフエリアが既に狂人となって全身を花でつゝみなから、ものさびしげな口調でうたひながらステージに現はれて来るのを見て、声を出して不謹慎にも笑ったから、私は彼に「笑ふところの場面ではないぢやないか、泣いて見るべき深刻なシーンだよ」と注意した。・・・ちょうど、私達が夏目先生から『マクベス』の講義を聴いてゐる時に、ともかくシェークスピアー劇を川上一座が日本式に上演してくれたのは私達英文科の学生に大きな幸福であった。私のクラスの者は沢山見物に来てゐた。私はこれ程迄に知識層の、しかも、若い学徒が群を成して観劇した例を今逸見たことはなかった。・・・」(金子健二『人間漱石』ー「私の日記ところどころ」)
11月2日
(漱石)「十一月二日(月)、晴。菓京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで、「英文学概説」を講義する。午後一時から三時まで Macbeth を講義する。」(荒正人、前掲書)
11月2日
米、パナマ近海に軍艦3隻派遣。
11月3日
漱石三女栄子誕生。
「十一月三日(火)、天長節。早朝、三女エイ生れる。(鏡、夜半に産気づく。下女を起し、向いの家の竜話で、産婆に連絡するように頼む。)」
「夏目鏡子述松岡譲筆録『漱石の思ひ出』には、「十月の未三女の榮子が生まれました。」とある。漱石は、「エイ子さん」「アイ子さん」と呼ぶ。筆は、呼びすてである。恒子についてはよく分らない。「お子さんの中では一番榮子さんを可愛がつていらしたやうで御座いますね、確に。」(山田房子談)」(荒正人、前掲書)
「しばらくは平静だったが、秋も深まったころから大声で怒鳴り、物を投げつけ、鎮子には実家へ行けと催促し、はては手紙で義父宛に離縁状を出す始末だった。彼の心は幻覚・幻聴に支配され、そのすべての原因が鏡子にあるように思われていたらしい。この「狂態」に関しては鎮子の回想にくわしい。それが始まりかけた十一月初句に、鏡子は三女の栄子を産み、漱石は水彩で絵を描き出した。
水彩画による慰め
漱石は子供時代から絵が好きだった。ロンドンでも日本でもしばしば美術館に出かけている。水彩画の相棒は五高時代の教え子橋口貢である。彼は東大法科を出た外交官だが、弟の清(五葉)が洋画家であり、彼自身も巧みな絵葉書を描いた。この兄弟との絵葉書交換もあった。
滞英中は子規やドイツの立花、藤代に外国製絵葉書を出しているが、藤代、芳賀ら九名の連名で十一月三日に出した中国南京の菅宛が帰国後の最初の絵葉書らしい(未見)。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
「鏡子の『漱石の思い出』によれば、このころ洋服を着せようとしてもふいと向こうへ行く、金をくれず一円札を足元に放り投げる、夜中に雨戸を開けて庭に飛び出す、ランプを割って火屋(ほや)を粉みじんにする、火鉢をひっくり返し灰をたたみ一面にばらまく、などの奇行がつづき、鏡子は困り果てた。「私達ばかりでなく、母も大方髪でも掴まれて引きずりまわされたのか、父の書斎から髪を振り乱して、目を泣きはらして出てくるのを、私はしばしば見かけたものでした」(松岡筆子「夏目漱石の「猫」の娘」)と長女の筆子はのちに語っている。
こういう時期、弟子というより弟のような寺田寅彦の存在は救いであったろう。そのころ漱石が水彩画を描き出したのも寅彦や橋口五葉の影響と言われる。」(森まゆみ『千駄木の漱石』)
11月3日
コロンビア共和国パナマ地方地主たちが反乱。アメリカ擁護下でコロンビアから独立。パナマ共和国成立宣言。
11月6日、米、承認
11月3日
米軍艦ナッシュビル号、コロンビアのコロン到着。セオドア・ルーズベルト大統領、コロンビアにパナマ運河建設許可を要求。拒絶。
11月3日
イタリア、第2次ジョリッティ内閣誕生(~1905年3月4日)。
つづく
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