2025年1月18日土曜日

「フジテレビは「映像なし」、「フリーランス締め出し」、「控えます」連発の記者会見をして、放送局、報道機関を続けるつもりなんでしょうか。、、、、」(南彰) / 中居正広“深刻トラブル”被害者X子さんが口を開いた「9000万円ものお金はもらってません」、フジテレビに対しては「諦めの気持ちが強い」(NEWSポストセブン) / 《資料入手》「フジ社長は“女性アナ接待”の常習者」中居正広9000万円トラブルを引き起こしたフジテレビの“上納文化”(文春オンライン) / 中居正広「女性トラブル」フジは編成幹部の“上納”即否定の初動ミス…新告発、株主激怒の絶体絶命(日刊ゲンダイ) / 中居の女性トラブル騒動で渦中のフジ名物プロデューサーが出社停止「心身の負担が募っている」(スポニチ)←まるで「被害者」? / フジ現役女性アナウンサーが告発 中居会食に呼ばれた 男性タレントが全裸で手招きも…拒絶 文春報道(スポニチ) / 中居正広さん騒動、米ファンド「フジ・メディアに欠陥」 第三者委要求(日経);「中居正広氏を巡る騒動に関連する最近の一連の出来事は、単なる芸能界の問題にとどまらず、(フジが)コーポレートガバナンスに深刻な欠陥があることを露呈している」 / 中居さんトラブル「フジはあいまいにせず調査を」 米ファンド要求(朝日);「物言う株主」として知られるダルトンがフジ・メディア・ホールディングスの取締役会に対し、書簡を送付していたことが明らかに。 / 民放各局が中居正広に聞き取り調査へ、フランス報道で急展開…旧ジャニに続き “外圧” でしか変わらない “情けなさ”(FLASH) / 中居さん問題、フジテレビが調査 日テレは降板発表、代理人が回答も(朝日)        

 

 

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2025年1月17日金曜日

大杉栄とその時代年表(378) 〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ2

 

木下尚江

大杉栄とその時代年表(377) 〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ1 より続く

〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ2

4.婦人矯風会と鉱毒問題

1)木下尚江と大関和

毎日新聞は、木下尚江が「足尾鉱毒問題」を連載するなど徹底的にキャンペーン。

そして、当時の廃娼運動によって、矯風会と木下尚江・島田三郎・田中正造を結ぶ線が形成される


木下尚江は、故郷長野で受洗していて、すでに廃娼運動や禁酒運動に関わっていた。

1897(明治30)年、日本最初の普選運動をおこし入獄、

出獄後の明治32年、青年問題、婦人問題、労働者問題をモットーとする島田三郎主宰の毎日新聞12)に強く惹かれ入社。島田三郎も植村正久によってキリスト教に入信していた。

木下は入獄前、新潟の高田教会で開催された廃娼演説会に登壇したとき、高田女学校の生徒取締であった大関和と出会う。大関は、矯風会ゆかりの桜井女学校の看護学校出身で矯風会の会員でもあり、のちの東京看護婦会会頭である。

大関は木下と出会った直後、『女学雑誌』に「男女同権のさきがけにまず廃娼を」と投稿。

それを読んだ木下は、感激し、大関に激励の手紙を書いた。「基督教主義の学校で西欧先進国のデモクラシーにもとづく教育を受けても、卒業後は嫁して家父長的家族主義の中に埋没してしまうのが大半であるのに、あなたは社会の一線で世の中の改良のために活躍する新しい生き方をしていて、未来の女性の姿だ13)」という賛辞の手紙だった。

大関は離婚を経験し、30歳過ぎで、子どもを母親に任せて看護の道を歩んでいた頃であった。年齢は木下より11歳年上だった。大関は木下が入獄中になんども差し入れをし、二人の間には特別な感情が芽生えていたといわれているが、結局、大関は周囲の反対にもあい、木下との恋愛を成就させることはなかった。大関は、木下に看護学校の後輩で弟子でもある和賀操(矯風会の会員)を紹介し、木下は操と結婚した。木下と矯風会は個人的に強いネットワークを持っていた。島田三郎の妻信子も矯風会の主要メンバーであった。

12)現在の毎日新聞とは無関係である。

13)尾辻紀子『近代看護への道―大関和の生涯』新人物往来社、p.170 1996

木下はまだ若く、無名ではあったが、廢娼を唱え、廃娼学術演説会で「公娼主義の迷信を破る」と題する演説を行うなど熱心に全国を遊説し、『廢娼之急務』を執筆(発行は1900年10月12日、博文社、島田三郎の序)している。

木下はまた、1900年の3月2日、吉原から逃げ、毎日新聞者に助けを求めてきた「津田きみ」という少女を木下らが楼主と談判し、自由の身にした。「きみ」はしばらく潮田千勢子のもとで暮らし、翌年6月、矯風会「慈愛館」に入り、その後、横浜の共立女学校に学んだ14)

14)日本キリスト教婦人矯風会編『日本キリスト教婦人矯風会百年史』ドメス出版1986 年p164

2)木下尚江の鉱毒問題への傾倒

1900(明治33)年2月、木下は、島田三郎の命により『毎日新聞』特派員として足尾鉱毒問題調査のため、現地に赴く。

木下は、啓蒙主義教育の刺激を受けて育ったので、当初は、足尾鉱毒問題を日本の工業化にとっての障碍、「我が国運の障碍」と捉えていた。田中正造が足尾銅山の鉱業停止を叫んでいたが、木下は操業停止など論外と考えていた。何故なら、足尾銅山によって、生命を支える者は「所員と坑夫と其の家族と合わせて一万六千五百」にのぼり、「鉱業停止は直に被害の荒地をして、蜜流れ乳滴ることを得せしむるに非ずして、偶々一方山中に於いて、男女老若一万六千の飢餓を生み出すに過ぎず」という現実があると考えていた。

しかし、現地調査により、その惨状を実視し、被害民や田中正造が鉱業停止を叫ぶのは無理がないと考えるようになる15)。木下尚江は毎日新聞に現地ルポ『足尾鉱毒問題』(2月26日号〜3月17日号)を発表し、6月にはそれを纏めて毎日新聞社から刊行する。

15)木下尚江全集vol.1 p382、教文館、1990 年

3)矯風会の廃娼運動の全国展開

1889(明治22)年6月27日、矯風会は、一夫一婦の建白書を元老院へ提出する16)。

同年11月28日、群馬県議会が廃娼建議を可決し、それに呼応して東京でも廃娼演説会が開かれる。

同年12月9日、矯風会廃娼演説会で、植木枝盛、島田三郎が、1890(明治23)年3月8日には、島田三郎、巖本善治が講演している。

3月21日、前橋の青年廃娼協議会結成会に潮田千勢子と佐々城豊寿17)が出席。

5月24日、全国廃娼同盟会が発足、矯風会も加盟団体となる。

同年、集会及び政社法について、首相と司法相に建議提出。衆議院規則案の改正要望し、「婦人の傍聴禁止削除に成功」している。さらに、貴衆両院議員に公娼制度廃止を請願、各大臣に廃娼の決議書を呈送するなど、政治的な運動を精力的に展開する。

1892(明治25)年、一夫一婦の請願(刑法民法改正)と在外売淫婦取締法制定を貴衆両院と政府に提出する。


「これは毎年続行されるがなかなかとりあげられなかったが、矯風会は廃娼運動とそれに連なる一夫一婦の請願を粘り強く展開していた。特筆すべきことは、運動のひろがり、会員の全国化である。本拠地東京のみならず、地方に支部をもちそこを拠点に全国に矯風会の運動は広がりを持つことになるのである。

明治34年の『婦人新報』第49号に掲載された当時の全国の矯風会一覧(明治34年4月調査)によれば、明治26年名古屋、27年横浜、28年は外国人、29年東北宮城、30年北海道函館、室蘭、関西神戸……31年は上毛基督教矯風会18)が発会、この年は実に14箇所、32年5箇所、3 年7箇所と全国に矯風会の運動の拠点が広がっている。さらに長崎、長府、京都同志社、堺、加えて、新設の北海道旭川と京都矯風会などの名がある。矯風会は全国の教会を基盤としつつ2000人をはるかに超える正会員と特別会員(男性)によって支えられた巨大なキリスト教に基づく女性のための女性による全国的組織だったことがわかる。」(山田)

16)著名人男女を含めた800余名の署名連印で提出されたが、原本は残っていない。ただ、『女学雑誌』161号に、建白運動の中心人物だった湯浅はつ(矢島楫子の姪)が寄稿している。内容は次のとおり。「儒教は、遺徳の活気なく、且その教へ妾を卑しめす、仏教は女人を以て悪人となし、仏の熱心なる信者の中若しくは高僧の中には数婦を蓄ふるものおおけれは以て頼みとするに足らず、只基督教は一夫一婦を主張するものなれは必す之によらざる可らす。」「民法若しくは婚姻法の如きものにおいて男女の姦通を罰する為・・箇条を設けんことを希望す。」

17)佐々城豊寿は相馬黒光の母方の叔母、黒光の夫の相馬愛蔵は松本中学出身で、木下尚江と同窓であり、親しかった。

18)上毛基督教矯風会の基盤は安中教会前橋教会など。安中教会は、新島襄ゆかりの教会で、初代牧師は海老名弾正。5代目牧師柏木義円は、当時地域ミニコミ誌の先駆けである「上毛教界月報」を発行し、反戦・非戦を終生訴え続けた。全国先駆けの群馬の廃娼運動の最初は真下珂十郎による安中遊郭廃止請願だった。真下は安中教会ゆかりの人物であり、湯浅治郎(後に群馬県議会議長・国会議員を歴任、廃娼運動の中心となる)の義兄。ともに新島襄より洗礼を受けた30名の一人。

5.鉱毒地救済婦人会の設立
1)田中正造の矯風会への接近 

1900(明治33)年11月1日、鉱毒調査有志会の第1回演説会会合が神田青年会館で開催され、木下尚江、島田三郎、内村鑑三、安部磯雄、巖本善治が登壇。矯風会からは潮田が出席。彼女は鉱毒問題に敏感に反応した。
11月16日、矯風会有志(矢島、潮田、島田信子、松本英子)が被災地へ現地視察に赴く。正造と木下の案内で海老瀬村、谷中村を訪れ、惨状を目の当たりにし、救済婦人会の組織化が帰りの車中でまとまった。
正造は、木下尚江や島田三郎から矯風会の情報を得ていて、情報発信力と全国規模の組織力から矯風会を運動に巻き込んだと思われる。正造は、矯風会は毎月25日に機関誌を発行していて、その情報発信力に期待し、全国に広がる矯風会の組織力を基盤に足尾鉱毒の問題を全国に訴えたいと企図した。
矯風会の情報発信力を利用した例
1901(明治34)年4月25日発行の『婦人新報』vol.48で、表紙裏の広告文が初めて掲載される。『足尾鑛毒惨状画報』三好退蔵君題字、島田三郎君序論、津田仙君寫眞、松本隆海君編纂(発賣所 青年同志鉱毒調査會 芝区二丁目九番地)。
広告文は「足尾鑛毒事件は問題として世に現れすでに十有余年その被害は年一年に惨を加ふれそれ未だ解釋決定を下されず然れども今や人道問題権利問題社会問題として同情の聲四方に起こらんと此の時に際して世の被害惨状の実地を視察し能わざる人々に対して其の被害幾分の状態を紹介せんと欲して本書を編纂せしものにして挿む處の寫眞画四十余箇に詳細なる説明を加ヘたれば所謂百聞は一見に若かずの弁に背かざらん。婦人新報事務所にて御取次するも苦しからず。」

この号で初めて田中正造が登場し、「矯風會員其他に対する希望」(『婦人新報』明治34年4月25日発行)の記事で、4月2日の青年会館での正造の演説が掲載されている。

演説の概略
・明治30年春、会頭矢島楫子に(民法改正の件で)矯風会の会合に出席を要請されたが、鉱毒問題があり、出来なかった。
・明治33年11月に私が前橋に行ったとき、矯風会会員の松本忠次氏の訪問を受け、日本婦人矯風会は、一夫一婦制度に関して、民法刑法改正の件と在外売淫婦取締法制定の件で十余年来毎年国会に請願しているが、今年も両院に請願するので、衆議院の提出者の一人になってくれと依頼された。
・私は若かったのでこのような請願の提出者の資格があるかないか危ぶまれたが、今は、先年来禁酒禁煙を実行しているし、これらの制度は立派なことなので、松本氏の御依頼に喜んで賛成し、直ちに承諾書を認め、捺印して、同氏にお渡しした。
・本日、矯風会会員のみなさんに請願したいことが二つある。第一は、婦人新報を売り広めるようお願いしたい。第二は、島田三郎君は20年来、私は10余年来尽力していているが、医学博士、三宅秀君も衛生問題として栃木県に来て2回ほど演説をしてくれたが、どうかこの被害民の実況を視察してほしい。「賢明なる矯風会会員はじめご来会の諸君も然るべき方法を立てて、被害民を御救済くださることを望みます。」
・実例をあげると、婦人が他に嫁して子どもができますが、鉱毒によって乳がでず、子どもが餓死するというようなことがある。鉱毒で死んだものは1年1064人になる。
・被害の実況について、このほど、青年諸君が一冊の書籍を造りました。ご覧くだされ。
・救済について、政府に請願を致そうとして出京致そうとしても、その意を達することができない。
・多数の被害民のなかに、私共のように、他人の利益のため、自分は大いなる害を受け、子どもは死に、妻は飢え、田畑は荒れる、これでは、憲法も政府も何処にあるのか。一方は普通人民以上の地位を得ながら、他は、獄中に呻吟せねばならぬというようなことはいかがか。帝国のため、一大憂患ではないか。

正造は、矯風会という女性団体を鉱毒問題に巻き込み、世論を高揚させようと考えた。それまでの男性中心の社会運動にはない女性団体ならではの影響力を期待したものだった19)。正造の希望通り、矯風会の組織力により鉱毒問題は全国の注目を浴びることとなる

19)鹿野はこの鉱毒地救済婦人会の運動を、「他の政治運動とはことなった、むしろ今日の住民運動にも通じる性格の一端がうかがえる」と指摘している。鹿野政直編『足尾鉱毒事件研究』p.339 三一書房、1974 年

矯風会もまた明治30年頃から議員正造を通して、議会に働きかけ、影響力をもとうと企図した。正造の鉱毒問題とともに自分たちの団体のモットーである一夫一婦制や廃娼、禁酒運動を同時に広めたいと考えた。従って、当初は、ある意味で駆け引きだったかもしれない。
この辺のことは、1900年の毎日新聞の動きと連動させると、分かりやすい。

11月9日、島田三郎は、現地に赴き田中正造の案内で被災地を実地見聞し、人道上黙過できないと木下に相談し、被災民支援の協力を願った。島田と木下が世論喚起を引き起こすための仕掛けとして選んだのが、矯風会だった。

「島田は「(被災民支援)この事業は、従来の鉱毒運動とはまったく別箇の新運動として、同情ある婦人の手にゆだねたい。婦人の同胞愛に信頼したい」と考え、木下は「先夜の鉱毒演説会にも、婦人矯風会の人たちが傍聴に来ていて、たいへん感動して聴いていたようです。ひとつあの人たちに乗り出してもらったらいかがですか」といい、早速、矯風会の潮田と交渉をしたのだという20)
こうして、田中正造、島田三郎、木下尚江、そして矯風会がプライベートな関係が社会的に結びつき、鉱毒地救済の全国展開が始った。」(山田)
20)大鹿 卓『渡良瀬川―第三篇 第十章』底本:「渡良瀬川」新泉社 1972(昭和47)年


つづく



日本語小説の「居心地の悪さ」に抗う 3度目の正直で芥川賞 安堂ホセさん(産経);「芥川賞を受賞しても、純文学に対する見方は冷ややかだ。「詩っぽくなったり、方言が入ったりすると喜ぶのに、政治的なプロテスト(抗議)があるとすごく動揺する。それっておかしくないか」と問題提起する。」

2025年1月16日木曜日

日本国のGDP、カリフォルニア州に抜かれる~円安の影響も大きいが、産業構造の違いも~|ニッセイ基礎研究所

 

大杉栄とその時代年表(377) 〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ1

 

古河市兵衛

大杉栄とその時代年表(376) 1901(明治34)年12月11日~29日 中江兆民(55)没 告別式参列者1千余名 大杉栄(14)陸軍幼年学校退校 「イスクラ(花火)」第1号発行 学生による鉱毒被害地救済運動始まる より続く

〈足尾銅山鉱毒事件と女性運動― 鉱毒地救済婦人会を中心に― 山田知子〉メモ1

〈目次〉

1.視点

2.婦人矯風会と慈愛館

3.足尾銅山と河川、土壌汚染、農民の疲弊

4.婦人矯風会と鉱毒問題

1)木下尚江と大関和

2)木下尚江の鉱毒問題への傾倒

3)矯風会の廃娼運動の全国展開

5.鉱毒地救済婦人会の設立

1)田中正造の矯風会への接近

2)鉱毒地訪問から鉱毒地救済婦人会の発足へ

3)破竹の演説会と世論の沸騰

6.鉱毒地救済婦人会の政治運動への旋回

7.小括


1.視点

女性に焦点をあてた研究

・井手文子「足尾鉱毒問題と女性」『田中正造とその時代』vol.3、青山館、1982年

・阿部玲子「足尾鉱毒問題と潮田千勢子」『歴史評論』No.347(1979年3月号)

・田村紀雄「押し出し―農家の女たちの登板」『田中正造をめぐる言論思想』(社会評論社、1998年)

 「川俣事件の「押し出し」における農家の女たちの当事者運動および、男性抜きの女性運動として、そして「下からの運動」について無名の鉱毒地の女性たちのアナーキーに闘う姿をリアルに描」(山田)く。


「本稿の目的は、足尾銅山鉱毒事件(以下、鉱毒問題)という社会問題、生活問題に対し、当時の女性たちがどのようにそれを受け止め、女性運動として、被災した鉱毒地の人々の運動と生活支援を展開したかを鉱毒地救済婦人会という側面から明らかにしようとするものである。鉱毒地救済婦人会の動きを日本基督教婦人矯風会(以下、矯風会)の運動との関連で捉え直し、矯風会の運動のなかで鉱毒問題とはなんだったのか、について再整理し、当時の女性運動の一面を明らかにしたいと思うのである。鉱毒地救済婦人会を設立した中心的な女性たちのその多くは、会長の潮田千勢子をはじめとし矯風会のメンバーである。彼女たちは鉱毒問題に、田中正造や木下尚江、島田三郎など、当時の議員やジャーナリストと連携しながら、どう取り組んだのだろうか。矯風会の機関誌『婦人新報』および関連資料(『婦女新聞1)』)より解き明かしたい。矯風会の先見性と政治性、社会性、そして女性運動と慈善事業の限界性について新たな知見を提供できればと思う。」(山田)


1)1900年(明治33年)5月10日、福島四郎によって東京・神田三崎町で創刊。当時は、創刊まもないとはいえ、女性のための啓蒙週刊誌として影響力を持ち始めていた。


2.婦人矯風会と慈愛館

1874(明治7)年、米国基督教婦人矯風会がオハイオ州クリーブランドで発足。中心的運動は禁酒運動。

1883年、世界基督教婦人矯風会結成。

1886(明治19)年12月6日、日本橋教会で「東京婦人矯風会」発会。初代会頭矢島楫子2)、会員56 名。

1888(明治21)年、機関誌『東京婦人矯風会』発刊。

1893(明治26)年4月3日、全国組織が成立し「日本婦人矯風会」と改称、会頭矢島楫子、本部を東京、千代田区一番町女子学院内に置く。『婦人矯風雑誌』発刊。

1895年、『婦人矯風雑誌』発行停止処分を受け、『婦人新報3)』と改称して発行。

「世界の婦人矯風会は禁酒同盟であったが、日本基督教婦人矯風会の目標は禁酒にとどまることはなく、一夫一婦制、公娼廃止という「人権闘争」、さらに暴力反対、平和運動であり、中心的女性運動団体となった。」(山田)

明治27年、婦人矯風会事業として「慈愛館」を開所。「醜業婦」を教導し養成する会館としての役割をになう。

潮田千勢子は「醜業婦と申しましても、一度泥土のなかに陥りました者ばかりでなく、将に醜業婦に陥らんとする貧人を養ひたいと云う目的で建てたので御座いますが、是れはなかなか困難の事で御座いまして……結果をもみませぬ……」4)と述懐。

この「慈愛館5)」がのちに鉱毒地被災農民の子女を受け入れることになる。"

2)矢島楫子;徳富蘇峰・徳冨蘆花の叔母。家父長制度のもと夫の飲酒と暴力に苦しんだ。離婚、その後、既婚男性と恋愛をし、出産シングルマザーとなった。当時の女性としてはきわめてタフな女性。矢島楫子の人生についての詳細は、久布白落実『矢島楫子伝』に詳しい。

また、三浦綾子の小説『われ弱ければ』(小学館)のモデルは矢島楫子である。

3)『婦人新報』は現在も発行され続けている。

4)「慈愛館のことに就て」『婦人新報』18号(明治31年10月20日)

5)DV シェルター「ヘルプ」として今日もその社会的役割をになっている。

3.足尾銅山と河川、土壌汚染、農民の疲弊

1877(明治10)年古河市兵衛が、相馬家と共同で渡良瀬川上流の足尾銅山の経営を開始。

明治12年夏、栃木県渡良瀬川で、魚類数万尾が原因不明浮上、翌年夏も同様の事件が発生6)。

1880(明治13)年1月、渋沢栄一が足尾銅山の共同経営に参加7)。

同年、栃木県当局は、渡良瀬川の魚類は衛生上害があるとの理由で、捕獲・売買および食用に供することを禁止。

1881(明治14)年頃より、渡良瀬川の鮎や鱒などの魚類、激減する8)。川の水によって皮膚疾患が生じる場合も見受けられるようになる。

1985(明治18)年、栃木県の勧業諮問会で、渡良瀬川の汚染が論議されるも原因は不明。

明治20年6月、栃木県梁田郡の梁田宿外四カ村用掛の記録には、渡良瀬川について「水源の足尾に銅山が開けてより。鉱毒水が流出し、魚類を減らし、絶滅に近くした」9)とある。

6)、7)、8)、9)飯島伸子編著『公害・労災・職業病年表( 新版)』すいれん舎 2007年


1884・1885(明治17.18)年を境に足尾銅山は急激な進歩を遂げる。

銅山操業には、坑内支柱材等のため大量の木材が、またボイラーの燃料として薪・木炭が、精錬過程においてコークスの代わりとして木炭が、夫々使用され、それらは銅山周辺の山林資源でまかなっていた。

精錬過程で発生する亜硫酸ガスとその他の有毒ガス、煙塵による山火事の頻発によって周辺の山林は被害を受けていた。

銅山の進歩とは裏腹に、渡良瀬川沿岸の農作物が激減した。銅山周辺の栃木県松木村など5村に精錬所排出ガスによる農作物被害が発生し 、松木村を除く他の村は古河と示談した。

1888(明治21)年7月、栃木県下都賀郡、安蘇郡、足利郡の渡良瀬川沿岸が洪水にみまわれる。

翌1889年も洪水があり沿岸八郡に被害が出る。

それまでは洪水は肥沃な土砂を運び、農作物の豊作をもたらしていたが、今回は農作物に深刻なダメージを与える「異質の洪水10)」だった。

1890年8月、翌1891年9月と毎年洪水にみまわれるようになる。とくに90年の洪水は「古今未曾有の大洪水11)」であり、栃木、群馬両県の堤防を決壊させた。

10)鹿野政直編『足尾鉱毒事件研究』p.31 三一書房、1974年

11)永島与八『鉱毒事件の真相と田中正造翁』1938年

この頃から、被害民が動き出す。

・1890年(明治23年)、4月、足利郡吾妻村は臨時村会を開き、県知事へ上申書提出、12月、吾妻村で村会決議、足尾銅山鉱業停止要求を県当局に提出、

10月、安蘇郡植野村有志、8月洪水の泥土分析を栃木県立病院に依頼、12月、栃木県議会、知事に対し、鉱毒除外を求める建議提出

1891年(明治24年)12月18日、田中正造、足尾鉱毒に関する質問書を衆議院に提出、これに対して、政府は「被害の原因不明につき調査中。鉱業人は独、米より、粉鉱採取器を購入し、鉱毒流出予防準備整えた」と答弁

・1892年、足尾銅山周辺山林の荒廃ぶり、濫伐、亜硫酸ガス、野火による裸地化が問題となる。

・1896年(明治29年)12月21日、群馬県邑楽郡渡良瀬村早川田雲龍寺に群馬・栃木両県鉱業停止請願事務所設立

・1897年(明治30年)3月2日、被害民 第1回押し出し(大挙上京請願運動)

同年3月24日、第2回押し出し

同年5月27日、政府(東京鉱山監督署長)、足尾銅山に対し第3回の鉱毒予防工事命令。目こぼしで完成。監督所長はのち古河に入社。

・1898年(明治31)年9月3日、足尾地方に大雨。足尾銅山沈殿池の一つが決壊し、渡良瀬川大洪水となる。

同年9月26日、第3回押し出し

 この頃より、足尾銅山、脱硫塔設置で本山に精錬が集中し、松木地区への亜硫酸ガス濃密になる。松木村民、現金収入途絶え、食物なし。健康被害多発。正造のいらだちは最高潮に達す。

・1900(明治33)年2月8、9日、足尾鉱毒被害民、請願書を貴衆両院、内閣総理大臣、農務省等に提出、9日、田中正造、衆議院で鉱毒問題に対し何らの対策をとらない政府を批判する質問演説、

2月13日川俣事件。17日、正造の「亡国演説」。

木下尚江、毎日新聞に『足尾鉱毒問題』掲載(2月26日~3月17日、6月に単行本発刊)、

7月21日、神田青年館で足尾銅山鉱毒調査有志会設立。

・1901(明治34)年5月21日、鉱毒調査有志会、足尾鉱毒被害地の死亡調査を決定、内村鑑三ら現地調査、

10月23日、田中正造代議士辞任、

11月20日、鉱毒調査有志会「足尾銅山鉱毒調査報告第一回」発表。

12月10日 田中正造、天皇直訴。


「1900 年代に入る前までは、鉱毒事件はまだ、一地方の小さな鉱毒問題にすぎなかった。20世紀にはいって、ジャーナリズム、女性団体などと結びつきながら、全国化していった。」


つづく


被害の女性検事が厳罰求める署名活動 検察、裁判所に提出へ 元検事正の性的暴行事件(産経1/15) / 性被害訴える女性検事が語った苦悩「気持ちも身体も完全に凍りついた」 大阪地検・元検事正の被告が一転、無罪主張【報道特集】(TBS) / 「女性検事に職権乱用疑い」と主張 性的暴行で起訴の元検事正側(毎日) / “性的暴行”元大阪地検トップ一転「無罪」主張。被害を訴える女性検事「『同意があったと思っていた』などという姑息な主張をして無罪を争うことが私だけでなく今まさに性犯罪被害に苦しんでいる方々をどれほどの恐怖や絶望に陥れ被害申告することを恐れさせているか」 / 元村有希子氏「怒りを覚えました…一回目『争いません』と言った後に覆す卑怯さ…こういった戦術が世の中の性被害者をどれだけ落胆させてるのか…女性がようやく声を上げた途端この仕打ちですよ、性犯罪は魂の殺人、人間として正しいことやってるのか?と本当に私は直接問いたい」     

 



 

2025年1月15日水曜日

自宅近くで梅が咲き始めた 2025-01-14

1月14日(火、昨日)はれ

自宅近く、梅が咲き始めた。
 


 

米国務長官候補のルビオ氏、中国を非難 NATOは「重要な同盟」(朝日) / BBCニュース- 米国防長官候補ヘグセス氏に厳しい追及 トランプ次期政権の閣僚人事審議が開始 / トランプに司法長官に指名されたボンディ氏の公聴会。 「議会に乱入した暴徒は犯罪者ですか愛国者ですか?」  ボンディ「そのことについてよく知りません」 「『移民はアメリカの血を汚す』と言った人は?」  ボンディ「よく知りません」 / トランプが国防長官に指名したヘグセク。ASEAN構成国を言えと言われて「韓国、日本、オーストラリア」

ひっそりと引き上げが決まった「高額療養費制度」の自己負担の上限額 ⇒ 高額療養費制度 引き上げで自己負担どうなる?年収別に詳しく2025年8月から 2026-2027年も段階的に引き上げ(NHK)

米SEC、マスク氏を提訴 - ツイッター買収、証券法違反疑い(共同) / 証券取引委員会は14日、イーロン・マスク氏が2022年に開示規則に従わずにツイッター社の株を大量に取得し、証券詐欺を働いた疑いでイーロン・マスク氏を提訴した / 米加州知事とマスク氏、山火事の偽情報めぐり対立(AFP=時事) ; 「研究者によると、Xでは山火事をめぐる右派の偽情報が爆発的に増加している」

 

 

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私はウソをついてますと自白してる ⇒ 「4」千万円と「2」千万円を書き間違え?加藤財務相がパーティー収入を大幅減額 「弁明すればするほど不可解に」識者もあきれた国会での説明(共同)

大杉栄とその時代年表(376) 1901(明治34)年12月11日~29日 中江兆民(55)没 告別式参列者1千余名 大杉栄(14)陸軍幼年学校退校 「イスクラ(花火)」第1号発行 学生による鉱毒被害地救済運動始まる

 

イスクラ初版

大杉栄とその時代年表(375) 1901(明治34)年12月1日~10日 「中村屋」開業 堺利彦、角筈へ転居 福田英子と親しくなる エスエル党結成 日英同盟裁可 田中正造直訴 より続く

1901(明治34)年

12月11日

コロンビア政府は運河建設予定地を含む幅10キロの土地の永久貸与に同意したと米側の発表。

12月12日

マルコーニ(27)、大西洋横断無線通信成功。

12月12日

林董駐英公使、日英同盟の日本修正案を英外相に提出。

12月13日

中江兆民(55)、没。12月10日ごろから意識混濁状態に入り、この日午後7時30分、永眠。

14日午後、東京帝国大学医科大学病院で、山極勝三郎の執刀により解剖した結果、食道ガンと判明した。体重は20kgで、骨と皮だけに痩せ細った衰弱死であった。

弟子幸徳秋水に、「文章経国大業不朽盛事 兆民老人 為幸徳秋水兄」と絶筆。

臨終の前日、兆民の枕頭に駆けつけた秋水に麻布宮村町の自宅の家宅捜査の報。間もなく警視庁から出頭命令。田中正造の直訴を弁護した(無署名)「臣民の請願権」(「万朝報」12日)について取調べ。


〈幸徳秋水が伝える中江兆民の人となり〉

「・・・・秋水の号を兆民より譲られた幸徳秋水は、兆民の死後、『兆民先生』(博文館、明治三十五年)なる一書を編んで、兆民を偲んでいる。この書、兆民の人となりが髣髴(ほうふつ)として、すこぶる興味深い。例えば、同郷ということもあろう、坂本龍馬を崇拝していた兆民の左のごとき言葉を紹介している、といった具合である。慶応元年(一八六五)、長崎での出来事である。


予(筆者注・兆民)は当時少年なりしも、彼(龍馬)を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの言語もて、『中江のニイさん煙草を買ふて来てオーせ、』などゝ命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々(しばしば)なりき。彼の眼は細くして、其額(そのひたい)は梅毒の為め抜上(ぬけあ)がり居(い)たりき。


龍馬、兆民のいかにも人間臭い実像が浮び上ってくるではないか。秋水は、『兆民先生』の中で「革命の鼓吹者」である兆民の思想的姿勢を、


階級を忌(い)むこと蛇蝎(だかつ)の如く、貴族を悪(にく)むこと仇讐の如く、誓って之を刈除(がいじよ)して以て斯民(しみん、人々)の権利を保全せんと期せるや論なし。


と伝えている。」(複本一郎『子規とその時代』(三省堂))

12月14日

大杉栄(16)、11月の事件に関して退校届は受理されず、「品行不正、改悛の余地なし」として菅谷竜平とともに退校を命じられる

12月14日

坂東妻三郎、誕生。

12月14日

伊藤博文、ベルリン入り。ウィルヘルム2世と謁見。

17日、ロシア外相より日露協商修正案送付。日本はロシアの満州での行動を黙認、ロシアは日本の韓国での行動を制限する内容。

12月17日

中江兆民の告別式。青山会葬場において、宗教上の儀式を一切廃し行われる。板垣退助の弔詞、大石正巳の追悼演説、門下生総代野村泰亨の永別式辞に続き、参列者の告別が行われた。参列者は、板垣、大石、野村のほか、石黒忠悳、浜尾新、林有造、片岡健吉、箕浦勝人、大井憲太郎、頭山満、柴四朗、栗原亮一、原敬、佐々友房、徳富蘇峰、三宅雪嶺、門下生初見八郎、加藤恒忠、伊藤大八、原田十衛、土居通豫、幸徳秋水ら、1千余名。告別のあと、長男丑吉と親族浅川範彦が参列者に挨拶をし、式は終了。式後、遺骸は落合火葬場に送られ、茶毘にふせられた。遺骨は、東京青山墓地の母柳の墓の隣りに埋葬された。墓碑は建てられなかった。

1915(大正4)年12月、友人門下生らが、埋骨地に、「兆民中江先生瘞骨之標」と刻した石碑を建て、それが現存している。

12月18日

アインシュタイン、ベルンの特許局に応募。

12月19日

英独の同盟交渉失敗(1898年~)。

12月21日

「労働世界」100号、次回より日刊「内外新報」に改称。

翌明治35年1月「内外新報」発刊。3週間で廃刊。

4月3日「労働世界」復刊(月3回)。

12月23日

オーストラリア、連邦移民制限法成立。労働賃金の安さを理由に非白人の永住を禁止。白豪主義的な移民制限法。

12月23日

伊藤元老、ロシア外相に不公平点指摘し回答保留。この日、ベルリンよりロンドンに向かう。

12月24日

ロンドン・ニューヨーク・天津・シドニー・モントリオール各領事館を総領事館に昇格。

12月24日

シュトゥットガルト、「イスクラ(花火)」第1号発行。プレハーノフ、ヴェラ・ザスーリッチ、アクセリロードらの「労働解放団」(1883)とマルトフ、レーニンらの「労働者階級解放闘争同盟」の結合

12月25日

荒畑寒村(14)、勤務先の英国人羅紗商リチャード・ホーショ商会からクリスマスに賞与金5円を貰い、新刊の「透谷全集」「藤村詩集」を買う。

12月25日

財政問題について政府・政友会首脳会談。妥協成立。

12月26日

ウガンダ鉄道、(モンバサからビクトリア湖)開通。ビクトリア湖畔のキスム到達。

12月26日

スウェーデンのアウグスト・ストリンドベリの戯曲『死の舞踏』、初演。

12月27日

鉱毒地救済婦人会、東京の学生に鉱毒地視察を訴え、1100余名の大学、専門学校、中学、学生、安部・木下・内村らに引率され鉱毒被害地訪問。以後、学生の救済運動始まる

30日、視察報告会。学生鉱毒救済会組織。学生鉱毒救済会を解散させられた後、青年修養会を設置、のちの谷中村事件まで運動継続。

12月27日

マレーネ・ディートリヒ、誕生。

12月29日

東海道線急行列車に食堂車ができる。

12月29日

桂太郎首相、伊藤博文に露との商議開始前に対英商議完結の意向を表明。


つづく


BBCニュース - 米アップル取締役会、多様性プログラム廃止案への反対を株主に呼びかけ / 多様性対策廃止相次ぐ トランプ大統領就任前に―米IT大手(時事);  SNSを運営する米メタ(旧フェイスブック)やインターネット通販最大手の米アマゾン・ドット・コムが、トランプ次期大統領の就任前に、保守派からの反対が強まる多様性を尊重する取り組みを後退させています / マクドナルドも多様性目標廃止 世界15万人社員に影響も 北米(日経 会員限定);「米マクドナルドは6日、多様性確保の目標を廃止すると発表した。米国内の保守系活動家からの圧力を受けたとみられる方針転換で、.....。米国では小売最大手ウォルマートなども相次ぎDEI(多様性、公平性、包摂性)の取り組みを縮小しており、同国発のグローバル企業の代表格であるマクドナルドも変更を迫られたかたちだ。」