呉 秀三
大杉栄とその時代年表(454) 1903(明治36)年8月15日~31日 東京初の路面電車 「新橋品川間の電車開通・・・昨日午前五時三十分愈々電車運転を開始せり。・・・是より先き会社にては、従来雇用したる鉄道馬車の馭者中より運転手を選抜し浜松町なる新設会社構内に於いて運転上の練習をなさしめ既に百名の卒業者を出したるのみか、今日に至るまで、数回新橋品川間の試運転を実行したることとて、昨日は開業第一日なりにも拘らず、更に少しの故障もなく、午前五時先づ会社長及び担当技師を始め重なる会社員一同数台の電車に乗って新橋及び品川の両方面に向ひ、何れも其終局点に下車したる後始めて、普通乗客の乗車を許し、・・・」(「時事新報」8月23日) より続く
1903(明治36)年
9月
この頃、満州各地のロシアの軍備強化。旅順口では、守備隊は1万3千が2万に増加、湾口防衛のための強固な砲台構築。
9月
矢野文雄(54)、「社会主義全集」刊行。前年には小説「新社会」を発表して反響を呼び、社会主義講演会にも参加。
9月
漱石、新学年からシェイクスピア作品の講読と、「文学論」講読とを始める。「文学論」は難解な抽象論が続き、学生たちを当惑させが、シェイクスピア講読は大変好評で、多くの学生がその教室に詰めかけた。この新学年から東大の英文科に入った森田米松は、難かしそうな「文学論」を聴講せずに、シェイクスピアの講読だけを聞いていた。
9月
大杉栄(18)、外国語学校仏語科(選科)に入る。明治38年7月卒業。
9月
北一輝(20、武蔵坊弁慶)「鉄幹と晶子」(「明星」)
9月
松岡荒村「山上憶良が貧窮問答の歌を読む」(「社会主義」)
9月
永井荷風『女優ナゝ』を新声社より刊行。
9月
数奇屋橋~神田橋間に東京市街鉄道(街鉄)開通。外濠沿いを走る。1区間3銭。
9月
谷中村、川辺・利島両村大洪水。
9月
トロツキー、メンシェヴィキ指導部に選出。プレハーノフの尽力でボルシェヴィキから奪回した「イスクラ」再開。
9月1日
山中峯太郎、中央幼年学校に入学。同期に広島地方幼年学校から来た阿南惟幾、1期上に東條英機。
9月1日
(露暦8/19)露、ペテルブルク警保局特別部長ズバートフ、免職。
9月2日
京都の二井商会、京都駅~堀川中立売間、祇園~堀川中立売間の乗合自動車営業開始。
9月2日
日本書籍株式会社創立。国定教科書の出版の9割以上を独占。社長大橋新太郎、資本金100万円。
9月3日
津田真道(74)、没。官僚・法学者、新律綱領編纂に参画。
9月3日
駐日韓国公使高永喜、小村外相に韓国中立保障要請。
26日、小村外相、平和維持と友好に努力している現在、戦争を口にし中立を論ずるは「時機に適せざる義」と回答をはぐらかす。事実上の拒否。
9月5日
棟方志功、誕生。
9月6日
北京、ロシア公使レッサル、清国に対し満州撤兵のための7条件を撤回し、新要求を提出。清国はこれを拒絶。
9月7日
清国、商部を設置。
9月7日
小村寿太郎外相、日露交渉地を東京に移転するというロシアの提議に同意を訓令。
9月8日
オスマン帝国軍がブルガリアで数千人を虐殺したと伝えられる。
14日 ブルガリア政府は列強にマケドニア介入を要請。
25日、イギリス、オーストリアとロシアの解決案支持表明。
9月10日
論説「満韓交換の風説を破る」(「皇城新聞」)。日露協商を暴露。日露の「保護属邦」ではなく、「東洋の一独立帝国」である韓国を「日露両国が勝手に交換をいう」不当・無礼を痛憤する。
9月10日
福島県岩城郡内郷村の入山炭坑坑夫1千人、虐待に対して暴動。
9月10日頃
別居していた漱石の妻鏡子が戻る
「九月十日(木)前後(推定)、鏡、戻り、再び一緒に住む。別居生活終る。」(荒正人、前掲書)
9月14日付の菅虎雄あての手紙に、「・・・愚妻先日より叉帰宅致居候。大なる腹をかゝへて起居自在ならず、如何なる美人も孕むという事は甚だ美術的ならぬものに候。況んや荊妻(けいさい)に於てをやかね」とあり、鏡子と子供たちが帰宅したのは9月10日前後のことと推定される。
「鏡子が帰宅したのは、夏休みも終わる九月初句である。実家の母が形式上謝罪に行き、漱石は簡単にそれを受け入れた。掛り付けの甘子医師が東大の呉秀三に紹介し、鏡子は「あゝいふ病気は一生なほり切るといふことがないものだ」、治ったと思うのは一時の沈静で、きっと再発すると宣告されたそうだ。漱石は熊本を辞めるに際して、ロンドンで一度出会った呉に神経衰弱の「診断書を書で呉る様依頼して」欲しいと菅に手紙を書いているから、それが実現していたとすれば、二度目の診断である。
鏡子は彼の病気の性質を知り、虐待されでも決して離れない覚悟で漱石の許に戻った。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
「かう思ひまして、どんな具合かしらと時々行ってはのぞいて見ますが、いつ行ってみてもどうも御機嫌甚だうるはしくありません。さらばといってこの儘いつまでかうしてゐるわけにも行かず、どうしたものかと思つてをりますと、夏目の兄さんが、これは昔風の考から、私が、むきにこの儘離籍でもすると思はれたものか、夏目のためを思ひ、私のためを思って、どうか別れるの何のといはず、その儘黙つて怒らずにかへつてやつてくれ、とかういふお話なのです。で私も、別に怒ってゐるわけではなし、夫婦別れをしようといぶのぢやなし、虐待されたからといつて、それは誰からでもない自分の夫だから、そんなことで人様に御迷惑はかけないつもりですが、ただああいふ頭で、子供がやかましいといつてはいちめられたり打たれたりしたのでは、第一子供のためにもよくないし、また自分の頭も悪くする一方に違びないから、そこで一時遠ざかつてかうして別居してみたのだけれども、さっぱり験(げん)がない、とすれば元どほり帰るよりほかに仕方ありません。どうか兄さんから話の口を切って戴きたい、あやまつて帰ることにするからといふので、兄さんから夏目に、私がかへりたいと言つてるからととりなして下すつたたわけです。
すると夏目が、
「つまり両方で神経衰弱なんだ。帰りたいといふなら、そんなら帰って来るがいい。が、大体中根の家では子供を甘やかせて我が儘に育て過ぎる。だから鏡子なんぞもあのとほり我が儘で、自分のやりたい放題をやる」と、申しますので、兄さんも、
「ほかの姉妹はどうか知らんが、鏡子さんはあんたの奥さんぢやないか。細君のことなら強情であらうと我が儘であらうと、自分のいいやうに教育したらいいちやないか」
とか何とか言つたやうな按排だつたさうです。そこで母を煩はしまして、母から夏目にどうかまあといった具合にあやまってもらって、そこでやうやく千駄木に帰ることになりました。母には別につけつけ文句も言はなかったさうです。私はこの時今度はどんなことがあつても決して動くまいといふ決心をして参りました。これは九月のことで、まづこの事件はここで一段落がつきました」(『漱石の恩ひ出』-一九「別居」)
つづく