2024年11月20日水曜日

(動画 )雪の日、オックスフォードモードリンカレッジの庭で戯れる狐 「投稿者の方も言ってるけど、おとぎ話みたい」

【コラム】ケネディ厚生長官、公衆衛生に最悪のシナリオ-ジャービス(Bloomberg);「陰謀論を唱え反科学を売り物にしてきたケネディ氏が、米食品医薬品局や米疾病対策センター、米国立衛生研究所などの機関を監督することになる」 / 元駐日大使キャロライン・ケネディがいとこのロバート・ケネディ・ジュニアの厚生長官指名について、ケネディ家は一丸となって反対すると表明 / ワクチン懐疑派で陰謀論者のロバート・ケネディ・ジュニア氏(70)を新政権の厚生長官に指名 / 医学のバックグラウンドも公衆衛生のバックグラウンドもない、偽医学を信じる弁護士が厚生長官に就任 / 「今後8年間、新薬の開発や感染症の研究を停止する」 / 「コロナは白人と黒人を攻撃対象にしている。最も免疫が強いのはアシュケナジのユダヤ人と中国人だ」        

 



 

N党立花党首が「援護射撃」 - 動画再生数1500万回(共同) / 立花氏と斎藤氏、「実質2馬力」の兵庫県知事選、専門家は疑問も(朝日) / 「立花氏が副知事になるのでは」N党・立花孝志氏が「週刊文春」に明かした斎藤元彦氏支援の“本当の動機”(週刊文春) / 立花孝志氏『家から出てこいよ』演説にソックリと指摘…大阪市長時代の橋下徹氏「TM演説」の中身と顛末(日刊ゲンダイ) / NHK党の立花孝志候補が斎藤元彦候補の"前座"的に街頭演説。自分に投票しないよう懇願した他、聴くに耐えないような主張を展開<    

 

米トランプ次期大統領、商務長官に投資銀行家のハワード・ラトニック氏を指名(テレ朝) / 仮想通貨支持者のハワード・ラトニック氏 トランプ政権の商務長官に就任へ ;「ラトニック氏は、ステーブルコイン発行者であるテザー(USDT)との関係や、ビットコイン(BTC)についての発言で仮想通貨界隈で注目を集めている。 ウォール街の金融サービス企業カンター・フィッツジェラルドは、1996年からラトニック氏が率いており、2021年からテザーの米国債ポートフォリオ、2023年からは債券ポートフォリオを管理している。」 

「アジア買春ツアーの首都」東京、客は中国人男性が最多(朝鮮日報);「かつて日本経済が活況だった時代、日本の男性たちは貧しい国に「性観光(買春ツアー)」に出掛けていたが、最近では反対に外国人が東京に殺到しているという報道が飛び出した。  香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポスト(SCMP)は17日(現地時間)「アジアの新たな性観光の首都、東京にいらっしゃったことを歓迎します」と題する記事で、日本で行われている売買春の実態について報じた。」

 

大杉栄とその時代年表(320) 1901(明治34)年2月13日~16日 「元義の歌は醇乎たる万葉調なり。故に『古今集』以後の歌の如き理窟と修飾との厭ふべき者を見ず。また実事実景に非れば歌に詠みし事なし。故にその歌真摯にして古雅毫も後世繊巧嫵媚の弊に染まず。」(子規「墨汁一滴」)

 

大杉栄とその時代年表(319) 1901(明治34)年2月8日~12日 子規、『日本』へ投稿する俳句の質を上げて貰いたいと苦言 「小生も追々衰弱に赴き候に付二十句の佳什を得るために千句以上を検閲せざるべからずとありては到底病脳の堪ふる所に非ず候。何卒御自身御選択の上御寄稿被下候様希望候。以上。(二月十二日)」 より続く

1901(明治34)年

2月13日

加藤外相、清国公使に露清交渉について警告を発す。

2月13日

子規のもとに伊藤左千夫が百花園で買った植物の籠を持参。

子規は左千夫に語った。


入浴せぬことすでに五年、足を洗わぬこと半年、顔を洗わず二ヵ月、アルコール清拭は律にしてもらうものの、身動きできぬのでは是非もない。そして、左千夫との交際が、人との交際としては最後になるだろうといい、左千夫をかつ感動させ、かつ悲しませた。

そのあと子規は、歌人平賀元義(もとよし)についてしばらく書きたいといった。平賀元義は万葉以来のすぐれた歌人、源実朝、田安宗武、井手(橘)曙覧(あけみ)とならべて指を折るべき人だ、とつづけた。


石上(いそのかみ)ふりにし妹が園の梅見れどもあかず妹が園の梅  平賀元義


平賀元義は岡山藩士、文化十二年(一八一五)十五歳で黒住教の租、黒住宗忠の講義を聞いて古代研究を志した。天保三年(一八三二)に脱藩、山陰、吉備の古社をめぐりつつ万葉調を学んで、天保八年(一八三七)頃から「高古にして些の俗気なき」歌を詠むようになった。だが、その性格の烈しさゆえに結婚は再三破綻、六十五歳で備前国上道郡大多羅村の路に窮死したといわれる。


皆人の得がてにすちふ君を得て吾率(わがみ)寝(ぬ)る夜は人な来(きた)りそ  平賀元義

矢かたをうち出て見れば梅の花咲有(さける)山辺(やまべ)に妹が家見ゆ


忘れられた歌人平賀元義は、明治三十三年夏、岡山の地方紙上に発掘・紹介された。記事の題号は「恋の平賀元義」というものであった。

この時期たまたま備前児島にいた赤木格堂が、児島の素封家に寄寓したことがあるという元義の縁を頼って、散逸した歌を集めた。それに元義の真筆十数枚と岡山の地方紙の切抜きを添え、子規に見せた。

それらを検討した子規は、平賀元義がたんに天保期の「恋愛歌人」にとどまらぬことを知り、「其歌の万葉調なるを見て一たびは驚き一たびは怪」んだ。自分は「幾多の歌人に就きて研究」し、しかるに「真箇(しんこ)の万葉崇拝者を只一人だに見出だす能はざるに失望」していたまさにそのとき、平賀元義の歌を得たのは奇縁と書いて、平賀元義を万葉以後の四歌人のひとりに数えたのである。

平賀元義の歌を論じた稿は、『墨汁一滴』の二月十四日から二月二十六日まで、都合十三回つづいた。書きながら、子規のうちには再び「古今調」への嫌悪と「万葉調」への好感がよみがえり、それは生涯最後の作歌衝動へとつながっていく。」(関川夏央、前掲書)

2月13日

「 毎朝繃帯(ほうたい)の取換をするに多少の痛みを感ずるのが厭(いや)でならんから必ず新聞か雑誌か何かを読んで痛さを紛(まぎ)らかして居る。痛みが烈しい時は新聞を睨(にら)んで居るけれど何を読んで居るのか少しも分らないといふやうな事もあるがまた新聞の方が面白い時はいつの間にか時間が経過して居る事もある。それで思ひ出したが昔関羽(かんう)の絵を見たのに、関羽が片手に外科の手術を受けながら本を読んで居たので、手術も痛いであらうに平気で本を読んで居る処を見ると関羽は馬鹿に強い人だと小供心にひどく感心して居たのであつた。ナアニ今考へて見ると関羽もやはり読書でもつて痛さをごまかして居たのに違ひない。

(二月十三日)」(子規「墨汁一滴」)


2月14日

亡命中の孫文、和歌山の南方熊楠を訪問4年ぶりの再会。熊楠がイギリスで親しくした福本日南より孫文が横浜居留地に中山樵という名前でいることを知らされ、連絡をとる。

2月14日

「 徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最もっとも善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵(かものまぶち)を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義(ひらがもとよし)といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇(ちゅうちょ)なく答へん者は平賀元義一人なるべし。万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣(もほう)し万葉調の歌を世に残したる者実に備前(びぜん)の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。(中略)この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非(あらざ)るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然(たくぜん)として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧(かえりみ)ざりしはけだし心に大(おおい)に信ずる所なくんばあらざるなり。

(二月十四日)」(子規「墨汁一滴」)

2月14日

2月14日~16日 ロンドンの漱石


「二月十四日(木)、 Edward Ⅶ (エドワード七世)が初めて国会を開く開院式で大騒ぎである。 Queen Victoria (ヴィクトリア女王)の葬式で懲りたので行かぬ。 Brixton (ブリクストン)を散歩する。

二月十五日 (金)、この頃、下宿の食事まずくなる。今迄は、日本人が沢山いたので、少しはうまかったが、家計も苦しいらしいのと安い下宿代では、とやかく云えないとあきらめる。

二月十六日(土)、 Mrs. Edghill (エッジヒル夫人)からお茶に招かれるが、心進まぬ。 Peckham Road (ペッカム街)を散歩する。帰途、道に迷い、バスで帰る。夜、田中孝太郎に誘われて Kenningto Theatre (ケニントン劇場)で Percy Lynwood M. Ambient の ""Christmas"" を観る。余り感心しない。」(荒正人、前掲書)


2月16日 この日付け漱石の『日記』。


「Mrs. Edghill ヨリ tea ノ invitation アリ。行カネバナラヌ。厭ダナー


2月15日

「 天下の歌人挙(こぞ)つて古今調(こきんちょう)を学ぶ、元義笑つて顧(かえりみ)ざるなり。天下の歌人挙つて『新古今』を崇拝す、元義笑つて顧ざるなり。而して元義独り万葉を宗(むね)とす、天下の歌人笑つて顧ざるなり。かくの如くして元義の名はその万葉調の歌と共に当時衆愚の嘲笑の裏(うち)に葬られ今は全く世人に忘られ了らんとす。

(中略)

幸にして備前児島(こじま)に赤木格堂(あかぎかくど)うあり。元義かつてその地某家に寄寓せし縁故を以て(元義の歌の散逸せる者を集めて一巻となしその真筆(しんぴつ)十数枚とかの羽生某の文をも併(あわ)せて余に示す。是(ここ)において余は始めて平賀元義の名を知ると共にその歌の万葉調なるを見て一たびは驚き一たびは怪しみぬ。(略)始めて平賀元義の歌を得たるを以て余はむしろ不思議の感を起したるなり。(略)そも元義は何に感じてかかく万葉には接近したる。ここ殆ど解すべからず。

(二月十五日)」(子規「墨汁一滴」)


2月15日

伊、ザナルデッリ内閣誕生。ジオリッティ内相。立憲主義復活。

2月16日

ロシア、対清協約草案12項を提示し、満州撤退の条件として満州・蒙古・中央アジアの権益独占、北京への鉄道敷設権などを要求。清・日・英、拒否。

2月16日

「 元義の歌は醇乎(じゅんこ)たる万葉調なり。故に『古今集』以後の歌の如き理窟と修飾との厭ふべき者を見ず。また実事実景に非(あらざ)れば歌に詠みし事なし。故にその歌真摯(しんし)にして古雅毫(ごう)も後世繊巧(せんこう)嫵媚(ぶび)の弊に染まず。今数首を抄して一斑を示さん。 

(後略)

(二月十六日)」(子規「墨汁一滴」)

翌17日~23日も元義の歌の紹介と解説を続ける。

つづく

2024年11月19日火曜日

紅葉待ち遠しい鎌倉散歩 円覚寺~浄智寺~亀ヶ谷坂~海蔵寺~寿福寺 2024-11-19

 11月19日(火)晴れ

紅葉待ち遠しい鎌倉散歩。

円覚寺~浄智寺~亀ヶ谷坂経由~海蔵寺~寿福寺と歩いた。

勿論、紅葉はまだまだだが、気配を感じるところもある。

▼円覚寺

なかなかいい感じ。モミジの葉のボリュームが抜群。

順調に紅葉することを期待して、今日は門前通過でゴメンナサイ。



▼寿福寺
こちらもなかなかいい感じ。
イチョウがまだ見頃ではないので、こちらも門前通過でゴメンナサイ。


▼亀ヶ谷坂
木々の色付きがいい。


▼海蔵寺までのアプローチ

▼海蔵寺
門前のモミジは普段からひときわ紅いので、いまの段階ではバリバリの存在感を示している。
境内は秋の香りが充満。
いま、リンドウが満開。




▼寿福寺参道

野党統一会派「Hadash–Ta'al」のアイマン・オデー代表 ネタニヤフに対して「あなたは平和の猟奇的破壊者だ」

 

谷川俊太郎さんと音楽 歌い継がれる「死んだ男の残したものは」(朝日) / 谷川俊太郎さん、R.I.P

不法移民の強制送還、国家非常事態宣言で軍動員 トランプ氏「真実だ!」と投稿(産経); トランプ氏は不法移民の大規模送還を公約に掲げ、バイデン政権の不法移民の救済措置を就任初日に撤廃すると訴えている。新政権の国境警備責任者には対移民強硬派を指名すると発表している。 / 彼が言う「不法移民」とはビザ申請中の移民1100万人のこと。彼らは政府から滞在就労許可を受け、アメリカのGDPの約8%を占める労働力になっている。(町山智浩)     

 

大杉栄とその時代年表(319) 1901(明治34)年2月8日~12日 子規、『日本』へ投稿する俳句の質を上げて貰いたいと苦言 「小生も追々衰弱に赴き候に付二十句の佳什を得るために千句以上を検閲せざるべからずとありては到底病脳の堪ふる所に非ず候。何卒御自身御選択の上御寄稿被下候様希望候。以上。(二月十二日)」

 

(チャリング・クロスの賑わい)古本屋が多く、漱石はしばしば足を運んだ

大杉栄とその時代年表(318) 1901(明治34)年2月3日~7日 子規、自分より早く逝った親友竹村鍛を悼む 「我友竹村黄塔(鍛)は常に眼をここに注ぎ一生の事業として完全なる一大字書を作らんとは彼が唯一の望にてありき。、、、社会のために好字書の成らざりしを悲しまんか。我二十年の交まじわり一朝にして絶えたるを悲しまんか。はた我に先だつて彼の逝きたるは彼も我も世の人もつゆ思ひまうけざりしをや。」(「墨汁一滴」) より続く

1901(明治34)年

2月8日

「 雑誌を見る時我読む部分と読まざる部分とあり。我読まざる部分は小説、新体詩、歌、俳句、文学の批評、政治上の議論など。我読む部分は雑録、歴史、地理、人物月旦(げったん)、農業工業商業等の一部なり。新体詩は四句ほど読み、詩は圏点(けんてん)の多きを一首読み、随筆は二、三節読みて出来加減をためす事あり。俳句は一句か二句試みに読む事もあれど歌は読みて見んと思ひたる事もあらず。

(二月八日)」(子規「墨汁一滴」)


ロンドンの漱石


「二月八日(金)、朝、入浴する。午後七時、同宿の田中孝太郎と共に Metropole Theatre (メトロポール劇場)で、 ""Wrong Mr. Wright"" (『調子の狂ったライト氏』)という滑稽芝居を、最初から最後まで面白く見る。「其滑稽タルヤワルフザケニアラズシテ興味尤モ多シ、」(「日記」)」(荒正人、前掲書)


2月9日

子規、この日の『墨汁一滴』で各地の門人・読者から送られた食物について書く。もっと送ってほしいと催促している?


「 近日我貧厨(ひんちゅう)をにぎはしたる諸国の名物は何々ぞ。大阪の天王寺蕪(かぶら)、函館の赤蕪(あかかぶら)、秋田のはたはた魚、土佐のザボン及び柑(かん)類、越後(えちご)の鮭(さけ)の粕漬(かすづけ)、足柄(あしがら)の唐黍(とうきび)餅、五十鈴(いすず)川の沙魚はぜ、山形ののし梅、青森の林檎羊羹(りんごようかん)、越中(えっちゅう)の干柿(ほしがき)、伊予の柚柑(ゆずかん)、備前(びぜん)の沙魚、伊予の緋(ひ)の蕪及び絹皮ザボン、大阪のおこし、京都の八橋煎餅(やつはしせんべい)、上州(じょうしゅう)の干饂飩(ほしうどん)、野州(やしゅう)の葱(ねぎ)、三河(みかわ)の魚煎餅、石見(いわみ)の鮎(あゆ)の卵、大阪の奈良漬、駿州(すんしゅう)の蜜柑(みかん)、仙台の鯛(たい)の粕漬、伊予の鯛の粕漬、神戸の牛のミソ漬、下総(しもうさ)の雉(きじ)、甲州の月(つき)の雫(しずく)、伊勢の蛤(はまぐり)、大阪の白味噌、大徳寺(だいとくじ)の法論味噌、薩摩(さつま)の薩摩芋、北海道の林檎、熊本の飴(あめ)、横須賀の水飴、北海道の鮞(はららご)、そのほかアメリカの蜜柑とかいふはいと珍しき者なりき。(二月九日)」(子規「墨汁一滴」)


2月9日

(漱石の手紙)ロンドンから狩野や山川ら四人宛に出した手紙。

「僕は帰ったらだれかと日本流の旅行がして見たい。小天行抔(など)を思い出すよ」(明治三十四年二月九日付)


2月10日

「 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『金草(鞋かねのわらじ)』といふ絵草子二十四冊ほどあり。こは三都をはじめ六十余州の名所霊蹟巡覧記ともいふべき仕組なれど作者の知らぬ処を善きほどに書きなしたる者なれば実際を写し出さぬは勿論もちろん、驚くべき誤も多かるが如ごとし。試みに四国八十八ヶ所廻(めぐり)の部を見るに岩屋山海岸寺といふ札所の図あり、その図断崖(だんがい)の上に伽藍(がらん)聳(そび)えその傍かたわらは海にして船舶を多く画えがけり。こは海岸寺といふ名より想像して画きたりと思はるれど、その実この寺は海浜より十里余も隔りたる山の奥の奥にあるなり。寺の称をかくいふ故は此処(ここ)を詠よみし歌に、松の風を波の音と聞きまがへて海辺にある思ひす、といふやうなる意の歌あるに因(よ)るとか聞きたれど歌は忘れたり。

(後略) (二月十日)」(子規「墨汁一滴」)


2月10日

スペインのマドリード、グラナダ、セビリアその他の地域で、反イエズス会の過激なデモ・暴動が数日間続く。民衆は、アストゥリアス家の王女とナポリのフェルディナンド7世の孫カゼルタ公との結婚に反感。暴動は激化。

2月26日、アスカラガ将軍政権は総辞職。

2月10日

2月10日~13日 ロンドンの漱石


「二月十日(日)、田中孝太郎と Dulwich (ダリッジ公園)に行く。門を抜けて Sydenham Hill (シドナム・ヒル)のほうに行き、引き返す。道路は泥濘で大弱りする。

二月十一日(月)、 Brixton (ブリクストン)に行く。「『ミス スパロー』ハ頗ル内氣ノ神経質ノ女デアル人ガ居ルト『ピヤノ』ヲ弾ズルヿガ出来ンノデ始終試験ニ及第スルヿガ出来ナイト云ツタ」(「日記」)

二月十二日(火)、 Dr. Craig の許に行く。文章の添削を求めたところ、余分の謝礼を要求され、卑しい奴だと驚く。帰途、 Charing Cross (チャリング・クロス)に寄る。一週間前に発行された目録に掲げられているもので欲しいと思ったものは、殆ど売切れている。 Mackenzie (マッケンジー)の三巻ものと James Macpherson (マクファーソン 1736-1793)の ""Ossion""(『オシアン』)を買う。

二月十三日(水)、 Camberwell Green (キャンパーウェル草地)の古本屋で絵人の草花を説明した本を二冊(十シリング)買う。古本屋の老主人と雇人の顔を見ると、 Chales Dickens の ""Christmas Carol"" の Scrooge と Bob を思い出す。ストーヴがなくて寒いといい、ガス(ガス・ストーヴではないと推定される)をたいて寒さを凌いでいる。(ガスは極めて貴重な燃料とされている)子供たちが大勢独楽を廻している。蕪形の木に鉄の心棒を通した単純なものである。下宿屋の家族は、雪をものともしないで、犬の共進会を見に行く。鈴木禎次に手紙を出す。 John Keats (キーツ 1795-1821)の I stood Tip-toe upon a Little Hill"" (「わたしは小さい丘の上で爪だちして立った」)から、次の箇所を「日記」に写す。

And onthe bank a lonely Flower he spied, / A meek and forlorn flower, with nought of pride, / Drooping its beauty o'er the wtery clearness, / To woo its own sad image into nearness 」(荒正人、前掲書)


2月11日

「 朝起きて見れば一面の銀世界、雪はふりやみたれど空はなほ曇れり。余もおくれじと高等中学の運動場に至れば早く已に集まりし人々、各級各組そこここに打ち群れて思ひ思ひの旗、フラフを翻(ひるがえ)し、祝憲法発布、帝国万歳など書きたる中に、紅白の吹き流しを北風になびかせたるは殊(こと)にきはだちていさましくぞ見えたる。二重橋の外に鳳輦(ほうれん)を拝みて万歳を三呼したる後余は復(また)学校の行列に加はらず、芝の某(なにがし)の館(やかた)の園遊会に参らんとて行く途にて得たるは『日本』第一号なり。その附録にしたる憲法の表紙に三種の神器を画きたるは、今より見ればこそ幼稚ともいへ、その時はいと面白しと思へり。それより余は館に行きて仮店(かりみせ)太神楽(だいかぐら)などの催しに興の尽くる時もなく夜よ深ふけて泥の氷りたる上を踏みつつ帰りしは十二年前の二月十一日の事なりき。十二年の歳月は甚(はなは)だ短きにもあらず『日本』はいよいよ健全にして我は空しく足なへとぞなりける。その時生れ出でたる憲法は果して能(よ)く歩行し得るや否や。

(二月十一日)」(子規「墨汁一滴」)

2月12日

韓国、貨幣条例を公布し金本位制採用(実施されず)。


2月12日

「『日本』へ俳句寄稿に相成候(あいなりそうろう)諸君へ申上候(もうしあげそうろう)。筆硯(ひっけん)益ゝ御清適(ごせいてき)の結果として小生の枕辺(ちんぺん)に玉稿(ぎょっこう)の山を築きこの冬も大約一万句に達し候(そうろう)事(こと)誠に御出精(ごしゅっせい)の次第とかつ喜びかつ賀(が)し奉(たてまつり)候。しかるところ玉稿拝読致候(いたしそうろう)に御句(おんく)の多き割合に佳句の少きは小生の遺憾とする所にして『日本』の俳句欄も投句のみを以て填(うず)め兼候(かねそうろう)場合も不少(すくなからず)候。選抜の比例を申候(もうしそうら)はんに十分の一以上の比例を取り候は格堂(かくどう)寒楼(かんろう)ら諸氏の作に候。その他は百分の一に当らざる者すら有之(これあり)候。多作第一とも称すべき八重桜(やえざくら)氏は毎季数千句を寄せられ一題の句数大方二十句より四、五十句に及び候。されどその句を見るに徒(いたずら)に多きを貪(むさぼ)る者の如く平凡陳腐の句も剽窃(ひょうせつ)の句も構(かま)はずやたらに排列(はいれつ)せられたるはやや厭はしく感じ申候。(中略)小生も追々衰弱に赴き候に付(つき)二十句の佳什(かじゅう)を得るために千句以上を検閲せざるべからずとありては到底病脳の堪ふる所に非ず候。何卒(なにとぞ)御自身御選択(ごせんたく)の上御寄稿被下候様(くだされそうろうよう)希望候。以上。

(二月十二日)」(子規「墨汁一滴」)


つづく

マット・ゲーツ議員は少女買春について複数の証拠が出ており、今のところ共和党の上院議員30人が承認に反対。 / トランプ氏、司法長官に「問題児」起用を表明 政敵への報復に懸念(毎日); マット・ゲーツが司法長官。 「ゲーツ氏は未成年者との性行為や性交渉目的の人身売買に関与した疑惑を巡って、捜査対象になったことがある。、、、下院倫理委員会は性的な違法行為、違法薬物の使用、関係者への便宜供与、捜査妨害などの疑惑で調査を続けている。共和党内には、身内であるマッカーシー氏の議長解任を主導したゲーツ氏に対する反感が根強く、上院で共和党から数人が反対に回れば、人事承認が滞る可能性がある。」



 

「〈学問の自由〉と大学自治を守る。稼げる大学に未来はない」 おととし去年と、立て続けに強行採決された卓越大法と改定・国大法。その実態は、大学ファンドを通じた政財界支配でした。先程その卓越大制度の廃止を求め、約1.5万の署名が文科省担当に手渡されました。 / 「”大学は、公費に頼らず自らで稼げ”??」 学長権限を上回る会議体=運営方針会議の設置によって、競争することを促され始めた”大学”。学生を含む研究者は研究外の道にー。