木に彫られた巌頭之感
大杉栄とその時代年表(444) 1903(明治36)年5月9日~21日 漱石、「第一高等学校に初めて出講する。藤村操に指名すると昂然として、「やって来ません」と答える。〝何故やって来ない〞と聞き返すと、「やりたくないからやって来ないです」とか何とか答えるので、”此次やって来い”と言い渡す。」 / 「第一高等学校で、前回にも指名した藤村操に訳読を指名すると、また予習して来ない。”勉強する気がないなら、もう此教室へ出て来なくてよい”といい渡す。」(荒正人) より続く
1903(明治36)年
5月22日
千島海域を測量中の軍艦「操江」、根室沖で沈没、乗員全員が死亡。
5月22日
第一高等学校生徒の藤村操(18)、「巌頭之感」を残し、日光華厳の滝に投身自殺。以降4年間で、この滝の投身者185名(助かった者を含む)。
「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。ホレーンョの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は唯だ一言にして悉す、日く「不可解」。我この恨を懐きて煩悶終に死を決するに至る。」(「巌頭之感」)
「約四ヶ年の今日までに、未遂、既遂を合はせて其無分別を真似たる者百八十五名と云ふ多数に及びたる由にて、其内に可惜生命を滝壷の泡にして了つた者四十余名有」(「時事新報」明治40年8月25日)
「藤村操は、明治三十六年五月二十二日(金)、華厳の滝の絶頂にある楢の大樹に「巌頭之感」と題する一文を彫りつけて投身自殺する。(十六歳十か月)
「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからんとす。ホレーシヨの哲學竟に何等のオーソレチーを價するものぞ、萬有の眞相は唯一言にして悉す、曰く『不可解』。我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安無し。始めて知る大なる悲親は大なる樂観に一致するを」
この蒔件を積極的に取り上げたのは、黒岩周六(涙香)で、五月二十七日(水)の『万朝報』に『少年哲學者を弔す』の一文を掲げる。また、五月二十七日(水)の『万朗報』には、那珂通世(高等師範学校教授、東洋史)の一文も掲げられる。
藤村操は、那珂通世の甥であった。この文章は、驚きと悲しみの情が溢れていた。この事件は長く世間を騒がせた。また、流行となり、その後、十数名の学生が華厳の滝で自殺する。
藤村操の妹恭子と結婚した安倍能戌は、後年つざのように述べている。「これは他人には分らぬ謎ではあらうが、私は彼の少年らしい学問的大望の幻滅に加へて、失恋の跡が見られるやうな気がする。」「藤村操の死はたしかに時代的意義を持つて居た。日本は明治以来欧米列強の圧迫に囲まれて、富国強兵の一途に進んで来た。一高の籠城主義だとか勤倹尚武だとかいふものも、結局は日本のその趨勢の一波に過ぎなかった。ところが朝鮮問題を中心として日清戦争があっけない勝利に終り、更に十年を経て日露戦争が起こる前後から、国家問題とそれを中心とする立身出世に余念のなかった昔年の間に、国家でなく自己を問題にする傾向が起って来た。」(安倍能成『我が生ひ立ち』昭和四十一年十一月二十八日 岩波書店刊)」(荒正人、前掲書、段落を付加した)
「一高の学生の中に、藤村操という最年少の学生がいた。彼は何度指名しても「やって来ません」を繰り返し、立腹した漱石から、予習してこないのならもう授業に出るな、と叱られた。
藤村は東京生まれで、父の事業に従って札幌で育った。だが父親は銀行事業に失敗して自殺、母とともに上京して伯母の許から一高に通ったが、勉強にはまったく気が入らなかった。彼は無断で家を出、日光から「世界に益なき身の生きてかびなきを悟り」という意味の手紙を伯父伯母宛に出し、五月二十二日華厳の滝で投身自殺を遂げた。傍らの樹に、「万有の真相は唯一言にて悉す 曰く「不可解」などの辞世の文を遺したことは周知のとおりである。
漱石はそれを新聞で知った日、朝出会った学生に、藤村はどうしたんだろう、と尋ねたという。彼は自分が怒ったことが原因かと気にしていたのかもしれない。だが遺書の「巌頭の感」がひろく知れわたり、自分の責任ではなく生への煩悶であることを知ったとき、彼は多少の安堵感を持つとともに、あらためて自分の生の苦痛を深めたに違いない。特に「大なる悲観は大なる楽観に一致する」という末尾は、彼の考えと一致している。後述するように、彼は後に新体詩「水底の感」を「藤村操女子」の名で作った。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))
この年9月から始める「文学論」の講義で、漱石は、藤村の死をエトナ山に投身自殺したギリシャの哲学者エムペドクレスと較べて語る。
27日の「万朝報」には、社長兼主筆黒岩涙香(周六)が「天人論の著者」という筆名で、改めて藤村操の「巌頭之感」を全文引用し、「少年哲学者を弔す」という文章を掲載。
「我国に哲学者無し、この少年に於て初めて哲学者を見る。否、哲学者無きに非ず、哲学の為に抵死する者無きなり。
独のシヨツペンハウエル、悲観の極に楽観ありと為す。而も自死するに抵らず。然らば哲学の極致は自死に在るか。日く、何ぞ然らん、唯だ信仰の伴はざる哲学は、茲に窮極するなり。」(「万朝報」明治36年5月27日)」
藤村と同級であった安倍能成による、この時期の青年たちの心理。
「三十四五年頃から日露戦役の頃までの間は、人生問題が青年の関心事になり、所謂青年の煩悶と青年の自殺との問題が頻に教育者の頭を悩ますに至った。その内生活に於て国家的公共的生活と離れんとし、その潔癖と感情とによつて世俗的事功と好尚とを卑まんとした彼等青年にとつての人生問題は、結局自己の問題に帰した。」(「明治思想界の潮流 - 文芸評論を中心として」昭和7年10月)
5月23日
サトウ・ハチロー、誕生。
5月23日
パリ-マドリード間の自動車レース(参加車250台)、死亡事故続発のため中止。
5月23日
米ウィスコンシン州、初の予備選挙制採用。
5月24日
政府・政友会妥協。政友会議員総会で、地租増徴案に関する妥協案承認。尾崎行雄らは反発して脱党。
25日政府、地租増徴継続案撤回。
5月24日
日本初のゴルフクラブ、神戸ゴルフ倶楽部が開場
5月24日
ムウェジ2世ブルンジ国王と独に、保護条約締結(キガンダ協定)。
5月25日
横川省三、安東に渡りロシアの馬賊工作を知る。龍岩里を統括する参謀マトリトフ中佐は、馬賊頭目林七・李大本を利用。彼らの雇った馬賊の乱暴狼藉を働いたため、清国討伐隊が制裁、処刑。マトリトフは討伐隊指揮官を連行するが、清国市民との間で一触即発の状況となり釈放。
5月25日
東大で講義する漱石
「五月二十五日(月)、晴。東京帝国大学文科大学で午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。三年生の石川林四郎から英誌の「スカンション」(詩行の韻律調べ)の誤りを指摘され、質問に応じたので、講義は進まない。」(荒正人、前掲書)
「五月二十五日 月 晴 暖
午前エリオットのサイラス・マーナーを復修す。一時より三時迄夏目氏の(英)文学概論に出席す。休みなく引続けらるゝには閉口す。講義中三年生の秀才石川林四郎氏、先生の誤解せる点を上げて質問す。(石川)氏はなかなか博覧なり。講義終にうやむやにもみけす。能き気味なりき。夏目氏の散文的なるは,余の最も好まざる所なり。俳句などに時々筆を染む,と聞きてはあきれざるを得ず。苟も英文学を修めし身が、此(かか)る不具的小詩形に依(り)て想を写さんとするに至りては、実にはつかしき事に非ずや。… 夜サイラス・マーナーを読みしが心に入らず。」(金子健二日記)
5月26日
東大で講義する漱石
「五月二十六日(火)、曇り。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。午後二時から四時まで「英文学概説」を講義する。
五月二十七日(水)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。「先日第一高等學校文科の一生徒藤村操が日光華厳の瀑に投じて自殺した事が今日英文科の各クラスの大きな話題となった。」(金子健二『人間漱石』)藤村操の自殺を新聞で知り驚く。第一高等学校の授業時間に、最前列の生徒に”藤村はどうして死んだのだ”と聞くと、「先生心配ありません、大丈夫です」というので、”心配ないことがあるものか、死んだんじゃないか”と云う。(野上豊一郎)」
「漱石は、教壇に立って一か月めであったこともあり、藤村操が訳読の下読みをして来ない理由で二度注意した、そのため自殺したのではないかと心配する。『吾輩は猫である』(第十)や『文學論』(第二編第三章)でも触れる。なお、藤村操の自殺は、東京帝国大学でも大きな話題となる。」(荒正人、前掲書)
5月27日
鄒容、『革命軍』発表(「蘇報」)。
5月27日
衆議院、憲政本党の内閣弾劾上奏案を、228対123で否決。
5月27日
ペルシア、英との新関税協定締結。
5月28日
駐韓公使林権助の小村寿太郎宛意見具申電報。韓国王室は事大的で、このままではロシアに屈服する。ロシアを森林事業だけに制限させるため、ロシアの満州での「僭越ヲ抑止」するため、態度を強固にすべき。
5月28日
「五月二十八日(木)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。(第三学期最終講義)試験の結果で、新学年度の講義は文学を重んじるか、語学を重んじるかどちらかに決めると学生に話す。
五月三十日(土)、曇。午後、寺田寅彦来る。」
「「こんなくだらない話があるものか、われわれが英文科に入學したのは英文學に親しまんが為なのでめって、語學をけいこする考へならば初めから大學になどわざわざ入學する理由はないのだ」と不平を洩らす。(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)
5月28日
イスタンブールで地震。死亡2千人。
5月29日
外務省政務局長山座円次郎・陸海軍省の中堅幹部、料亭「湖月」集合。対露強硬意見、決議(「戦争ヲ賭シテ露国ノ横暴ヲ抑制スル・・・」)。
他に、外務省官房電信課長石井菊次郎、大臣秘書官本田熊太郎ら。陸軍は参謀本部総務部長井口省吾少将、同第1部長松川敏胤大佐、同参謀田中義一少佐、陸軍大学校福田雅太郎少佐ら。海軍は軍令部第1局長富岡定恭大佐、「和泉」艦長八代六郎大佐、海軍大学校教官秋山真之少佐ら。
決議
「帝国ハ今時ヲ以テ一大決心ヲ為シ、戦争ヲ賭シテ露国ノ横暴ヲ抑制スルニ非レバ、帝国ノ前途憂慮スベキモノアリ。而シテ、今日ノ機会ヲ失シテハ、将来決シテ国運回復ノ機ニ会セザルベシ」
但し書
「但シ、此ノ決議ハ唯各自一身ノ覚悟ヲ決スル為ノ研究ニ止ラシメ、政治運動ヲナスベキ為ニ非ズ」
「
5月29日
衆議院、高田早苗提出の「教科書疑獄につき大臣が責任を負うべし」との決議案を可決。結果、菊池大麓文相、辞職。
5月30日
衆議院、海軍拡張案可決(六六艦隊)。政友会から脱党者続出。
6月2日、貴族院も可決。
5月31日
啄木(17)、石川白蘋の筆名で評論「ワグネルの思想」(『岩手日報』、~6月10日、7回連載)発表、反響なし。
つづく