2024年10月17日木曜日

組織的な隠蔽工作ですよね → 《アベノマスク契約》がXでトレンド入り…血税約600億円費やす契約を「口頭」でやり取り?の真偽(日刊ゲンダイ) / アベノマスク契約めぐる訴訟 裁判長も「全て口頭で?」と突っ込み(朝日);複数省庁による「合同マスクチーム」職員ら「やりとりは口頭が基本で、文書は残していない」 自身が受け取ったメールは「容量が限られているため2~3日に1度消去し、保存していない」   

自民党に新たな裏金疑惑! 「本丸は萩生田氏」 特捜部が水面下で自民党東京都連を捜査(デイリー新潮)

橋下徹が上告断念、敗訴が確定。 大石あき子の完全勝利。法的に「名誉毀損に該当しない」だけでなく「大石氏の発言は重要部分において真実」と認定され、橋下氏の不当な言動までも認定されました。メディアのあり方も問う重要な判決となりました。

大杉栄とその時代年表(286) 1900(明治33)年5月1日~19日 与謝野晶子・山川登美子の歌が「明星」2号に掲載 南京同文書院、授業開始 『青年の福音』第3号「人生の大惨劇」で山川均・守田有秋の筆禍事件 義和団、北京・天津に迫る 北京、11ヶ国外交団を作る 

 

山川均

大杉栄とその時代年表(285) 1900(明治33)年4月12日~30日 パリ万国博覧会(5回目)開催 子規に浅井忠より大鳥籠が届く 各地で金融恐慌 「二六新報」、三井財閥攻撃キャペーン開始 より続く

1900(明治33)年

5月

天津に「紅灯照」出現。

1899~1900、山東省荏平県、高唐県、稜県一帯に朱紅灯の神拳よりやや遅れて「紅灯照」が流行。殆どの村に道場が出来、村中の女性が参加。「まず義和拳を学び、のち紅灯照を学び、洋鬼子を殺し、天主教を焼こう」という言葉が流行。

5月

「明星」2号、初めて鳳晶子の歌(「花がたみ」6首)が掲載(晶子の歌の対象は、関西青年文学会所属、弟籌三郎(ちゅうさぶろう)の友達、覚応寺の僧「河野鉄南」)。山川登美子も始めて「明星」に登場。その他の寄稿者は鉄幹、高浜虚子、川上眉山、落合直文、佐佐木信綱、正岡子規、薄田泣董、久保猪之吉、服部躬治、金子薫園、高須梅渓、嘉納治五郎など。3、4号と重ねる毎に評判が高くなり、投稿者も多くなる。鳳晶子・山川登美子など女流作者が登場、若者の人気の的となる。家には多くの客が集まる。しかし、雑誌は赤字で、家計は苦しく、瀧野の実家への無心がつのる

山川登美子:

越前小浜の素封家に生まれる。明治30年梅香女学校(大阪のミッションスクール、校長成瀬仁蔵)卒業後、故郷に戻るが、この年、再び母校の研究科に入学、英語を学ぶ。「明星」に投稿し採用される。

5月

平出修(23)が新詩社に入社。

5月

活版工組合衰退。職工のみで「誠友会」組織。

5月

ゴールド・コーストでアシャンティ蜂起、首都を包囲するも鎮圧される(~11)。

5月

フランス、モロッコ進出。サハラ砂漠北部の支配権を得る。

5月

トーマス・マン(26)、「ブデンブローク家の人びと -ある家族の没落-」。自分のリューベックにおける子供時代の体験を、家族の歴史を敷延した作品。

5月1日

南京同文書院、授業開始

翌1901年5月26日、上海に移転し、東亜同文書院と改称。

5月1日

中国で義和団が蜂起したため、対中国輸出が停滞し紡績産業が不況に陥る。大日本錦糸紡績同業連合会、第3次操短。7月25日から翌1901年3月までの夜業休止を決議。

5月1日

『青年の福音』第3号「人生の大惨劇」で山川、守田らの筆禍事件起る

5月1日

オスマン朝アブデュル・ハミト2世、即位25周年記念。ダマスカス~メッカ間ヒジャーズ鉄道建設勅命。

5月1日

シアトル、日本人の料理店に対する妨害事件発生。

5月2日

フィリピン、ゲリラ鎮圧に苦戦する中、オーティス米軍政長官更迭。アーサー・マッカーサー将軍、フィリピンの軍政長官に就任。

5月3日

義和団の兵、北京・天津に迫る

5月3日

島田啓三、誕生。漫画家「冒険ダン吉」。

5月3日

青木外相、清国の義和団の乱に関し、欧米諸国と共同の措置をとることを訓令。

5月4日

河北省淶水県知県祝芾、義和拳の活発な活動を省に報告、騎兵隊2~3哨(1哨は50人)派遣要請。

5月5日

ドイツ、指揮者ハンス・シュミット=イッセルシュテット、誕生。

5月6日

この日の子規の歌。伊藤左千夫が贈った鉢植え。


鉢植に二つ咲きたる牡丹の花くれなゐ深く夏立ちにけり

5月8日

この頃、北京東郊通州富豪村に義和団出現、教民を襲撃。

5月9日

安荘の教会が、義和団から襲撃予告を受けていた事が判明する。脅迫状には「教民を殺害し、奉教者の家に放火する」というものであった。

5月10日

日本初の電気自動車が現れる。

5月10日

皇太子嘉仁親王(20)と九条節子の成婚式。公爵九条道孝4女。5摂家、戊辰戦争時の奥羽鎮撫総督。宮中の掌典長。

5月10日

アメリカ下院、日本移民制限に関する建議案を可決。

5月12日

拳民1千、河北省淶水県高洛村に集結、教民の家75・教会7放火。殺害4(「教民61名」殺害と伝わる)。

5月12日

山川均と守田文治(有秋)、雑誌「青年の福音」において皇太子妃の意志を無視した結婚を非難、逮捕。両名共、内村鑑三に心酔するクリスチャン。

5月31日1審判決、翌年7月5日控訴審判決。1審どおり不敬罪で重禁固3年半、罰金120円

5月18日、幸徳秋水(無署名)「皇室と人民」(「万朝報」)、「ひそかに思う。堯舜の時にも悪人はありき。かれら不敬漢も、またこの類なるか」。

5月15日

河北省淶水県高洛村に、河北省から楊福同副将が定興県の騎兵隊2哨を率い、到着。

16日、大仏寺の道場から武器など押収。夜、集結した拳民を夜襲、拳民負傷20余・逮捕10余。

副将の楊福同;京師(北京)一帯の警護を受け持つ直隷練軍の人で、戦功ありと認められた「記名総兵副将」という肩書きも持っている。「副将」は、日本軍では少将から中将に該当する。"

5月15日

東海道線全駅を歌い込む『鉄道唱歌』第1集が出版。

5月17日

河北省淶水県で「教民61名」虐殺(実は4名)の報が北京の公使館に伝わる。仏公使ビションは、列強の派兵により北京の公使館地区を護衛すべしと提案。従来の5ヶ国(英米仏独伊)に6ヶ国(日本、ロシア、スペイン、ベルギー、オーストリア、オランダ)を加え11ヶ国外交団を作る。

5月17日

イギリス軍、ボーア軍に包囲されていた英の3拠点の1つ、マフェキング解放

5月17日

イランの宗教的指導者ホメイニ、誕生。

5月19日

陸軍省・海軍省の官制改正。軍部大臣現役武官制確立。軍部大臣の現役大・中将制が確立。

陸海軍両大臣は現役の大将・中将、次官は現役の中将・少将を補任すると法制上明文化。政党員の軍部大臣・次官就任の可能性と、軍部のコントロールから比較的自由な予備役・後備役・退役将官が両官職に就任する可能性を排除。政党勢力の進出に伴い、超然主義が変質していく中で、超然主義を守る最強の最後の拠点としてその位置を固めていく。

5月19日

海軍教育本部条例・海軍鑑政本部条例、公布。

5月19日

南太平洋のニウエ島とトンガ諸島、英保護領に。王は主権を主張するが聞き入れられず。


つづく

無念さ、生きられなさ、人類の小さな声 ノーベル文学賞にハン・ガンさん 寄稿・斎藤真理子(朝日)/ ノーベル文学賞作家ハン・ガン氏、初めて読む人に勧める著作は『別れを告げない』-ハンギョレ新聞 / ハン・ガンとはどんな作家? 韓国初のノーベル文学賞受賞。光州事件や4・3事件を題材に(ハフポスト日本語版) / (YouTube)平野啓一郎 × ハン・ガン ─「文学の力」他者の痛みを感じること / 平野啓一郎がハン・ガン『少年が来る』を解説した回のダイジェスト記事 / 「弱い人寄り添う」手紙 火付け役が明かす韓江さん ノーベル文学賞(毎日) / 「別れを告げない」書評 引き裂かれた島の記憶から光が(安田浩一) / 損なわれてはいけない記憶 ―小説『少年が来る』(ハン・ガン著)を読む女性たち(安田菜津紀) / 同じ小説家である韓江の父、ハン·スンウォンさんが娘に感想を尋ねると「世の中にこんなに多くの人が戦争で死んでいくのに賞に何の意味があるのか分からない」と話したと。           

 


 

▼インスタグラム

今年の味噌が完成 2024-10-15 仕込みは2月5日 天地返しは7月27日だった

10月15日(火)

今年の味噌が完成した。うまく出来たようだ。



▼2月5日、仕込み


▼7月27日、天地返し


2024年10月16日水曜日

大杉栄とその時代年表(285) 1900(明治33)年4月12日~30日 パリ万国博覧会(5回目)開催 子規に浅井忠より大鳥籠が届く 各地で金融恐慌 「二六新報」、三井財閥攻撃キャペーン開始

観覧車「グランド・ルー・ド・パリ」

大杉栄とその時代年表(284) 1900(明治33)年4月1日~11日 鉄幹「明星」創刊 長塚節と伊藤左千夫が初めて会う 毛利柴庵ら「牟婁新報」創刊 「義和団党天津北京ニ侵入セリ」(第1報) より続く

1900(明治33)年

4月12日

英艦2隻・独仏米各1隻、大沽に集結、上陸。英は新式大砲を天津租界に持込む。

4月12日

西太后、上諭。村民・教民の争いには、ただ是非だけを論じ、公平に処理すべき。偏りはあってはならない。

4月12日

プエルトリコ民政府設立。プエルトリコに対する米の軍事占領終了。民政に移行。

4月13日

寒川鼠骨が子規を訪問。子規の口ききで京都の新聞社から「日本」に移った鼠骨は、総理大臣山県有朋をはげしく攻撃した記事により、署名人として官吏侮辱罪に問われ3月27日から15日間市ヶ谷監獄に入獄し、2日前に出獄していた。

4月14日

パリ万国博覧会(5回目)開催。11月12日の閉幕迄に4,800万人以上入場。

会場としてグラン・パレとプティ・パレが建てられ、ロシア皇帝ニコライ2世の寄付によりセーヌ川両岸を結ぶアレクサンドル3世橋が架けられた。当時世界最大となる高さ100メートルの観覧車「グランド・ルー・ド・パリ」が博覧会に合わせて一般公開となり、動く歩道や1889年の第4回パリ万博に合わせて建設されたエッフェル塔にエスカレーターが設置された。

装飾美術ではサミュエル・ビングが出展した店(パビリオン)が一躍注目を集め、店名の「アール・ヌーヴォー」は今回の万博を象徴する表現となり、さらにはこの時代を象徴するフランスの装飾美術様式そのものを指す名称ともなっている。

サラ・ベルナールはサラ・ベルナール劇場で『レグロン』を演じ、大好評となり、ロイ・フラーも自身の劇場で披露したサーペンタインダンスも好評を受けた。

海外ツアー中でロンドン公演を終えたばかりの川上音二郎一座はロイ・フラーによってパリに招かれ、貞奴はフラーの劇場に「マダム貞奴」として出演し大人気となった。

アメリカの旅行作家バートン・ホームズは、フランスの演劇批評家らがこぞって川上一座を称賛していること、ある高名な演劇評論家は「サラ・ベルナールがフランスの女優で、エレオノーラ・ドゥーゼがイタリアの女優なら、貞奴は世界の女優だ」とまで評したと伝え、その他の催し物がつまらなく見えてしまうほど日本の役者たちは1900年の万博で成功した、と書き綴っている。

4月15日

子規、 第1回万葉集輪講会。

4月16日

ハンガリー、「再建社会民主党」結成。ヴァールコニの運動壊滅後ジャーナリスト、メゼーフィ・ヴィルモシュ指導、農業運動支援目指すがのち地主・ブルジョアに接近。

4月17日

清朝、上諭。各省の郷民が団を設けて自衛し身家をを保護するのは、古人の「守望相助」の考えに基くものである。分に安んじ法を守る限り自由にして良い。

4月18日

福井市で大火事。1,500戸焼失。

4月18日

インドの連合州、ヒンディー語を公用語に加える。

4月19日

袁世凱、山東駐在の営勇を武衛右軍先鋒隊とし、武衛右軍を拡充する

4月20日

子規のもとに洋行中の浅井忠が知り合いの銀行家に頼んであった人の背ほどある大鳥籠が届く。ヒワのつがいなど7羽を入れ、子規は窓外の生のざわめきを楽しむ。

4月22日

この月初め、河北省淶水県の北部汝河村で義和拳道場が開かれ、中旬、下荘・高洛村にも道場が開かれる。高洛村では、前年教民との争いで拘留された閻洛福の子閻肇修が義和拳導入に積極的に動く。この日、知県祝芾は閻肇修を呼出し拘留、のち釈放。30日、閻肇修、大廟に道場開設。

4月22日

ラービフ帝国(中部アフリカ、チャド湖周辺)、フランスの侵略により崩壊。

4月23日

福田友作(36)、没。

4月24日

東京株式市場大暴落。以後、各地で金融恐慌起こる。

4月24日

子規、牡丹を見にきたらいかがと誘われていた、本所・亀戸の竪川(たてかわ)沿いにある左千夫の家を訪ねる。赤木格堂を先行させ、香取秀真をともなう。

4月24日

カナダ総督、英領コロンビア議会の日本人排斥諸法を認可せず。

4月26日

カナダで大火事。36時間燃え続けてオタワ北岸ハル市全焼、オタワ市も大きな被害。家を失った人1万5千。

4月27日

内務省の社寺局を神社局と宗教局に分割。神社行政をその他の宗教行政から分離。

4月28日

2月11日に発表された皇太子(大正天皇)の婚約の記念切手発売。使用開始は5/10の結婚式以降とされる。

4月28日

川上一座、NY発

4月29日

北京西城に義和団掲帖、神拳が散布

4月29日

「二六新報」、三井財閥攻撃キャペーン開始

4月30日

ハワイ(1898年8月12日にアメリカに譲渡)、米の準州に。


つづく

2024年10月15日火曜日

神奈川県立近代美術館鎌倉別館 コレクション展 ゴヤ版画集《戦争の惨禍》 1《来たるべきものへの悲しき予感》 ~ 80《彼女はよみがえるだろうか?》 2024-10-14

10月14日(月、昨日)晴れ

神奈川県立近代美術館鎌倉別館で開催されているゴヤの版画《戦争の惨禍》展覧会に行ってきた。

まるで、

「人間はかくも残酷になれるものなのか?」

「真理、正義、自由は死んだのか?」

という老画家ゴヤの怒りと嘆きが聞えるようだった。



〈今回はほぼすべてが収蔵品のため、僅かの例外以外は写真OK〉





〈『戦争の惨禍』の構成〉

〈最後の二枚の絵⓵;真理、正義、自由死んだ〉

〈最後の二枚の絵②;真理、正義、自由は甦るだろうか?、と問いかけ〉

〈美術館ツイッターによる作品紹介〉


〈堀田善衛『ゴヤ』より〉


堀田善衛『ゴヤ』(96)「戦争の惨禍」(1) 「歴史のかかる光景に接していると、私もがゴヤとともに人間に絶望をしなければならなくなる。 この絶望を越えて、なおも生きて行くことが出来るためには、人間がかかるものであることを身に徹して認識し、表現してかからねばならぬ。」

堀田善衛『ゴヤ』(97)「戦争の惨禍」(2) 第一次サラゴーサ包囲戦  「かくて六一日間にわたる、細い路地で家々を、各階を、各室を争う、酷烈な市街戦が終った。この戦いに従事したフランスの将軍や兵の回想録は、そのほとんどがサラゴーサ市民の英雄的かつ献身的な郷土愛を称えている」

堀田善衛『ゴヤ』(98)「戦争の惨禍」(3終) 「”独立”戦争は”半島”を英国の植民地にしてしまい、スペインの諸植民地は、今度は英国帝国主義の二重植民地に仕立てなおされてしまった。」

堀田善衛『ゴヤ』(101)「続・戦争の惨禍」(1) 1808年12月~第二次サラゴーサ包囲戦 「ゴヤもまた被包囲者心理の中にあって、この「民衆」の行為を是認する心境にあったことをあかし立てていはしないだろうか。」

堀田善衛『ゴヤ』(102)「続・戦争の惨禍」(2) 『戦争の惨禍』三三番の詞書「これ以上何が出来るか」というゴヤの問いを背に負って、われわれは”絶望”などということばでは間尺のあわぬ、惨憺たる人間の惨禍に、ゴヤとともに直面して行かねばならなくなる。

堀田善衛『ゴヤ』(103)「続・戦争の惨禍」(3終) ナポレオンに制覇された諸国の人民にとっての悲劇は、征服者ナポレオンの政治こそが、革命的、民主的、進歩的であり、それなくしては政治も経済も文化も前進しえぬことは明瞭なことであるのに、しかもなお”独立”を求めるとなれば、それはどうしても絶対王制、貴族、教会の支配という旧制度への”復帰”という、超反動的なことにならざるをえないという辛さにあった。

堀田善衛『ゴヤ』(113)「版画集『戦争の惨禍』」(1) 「彼の理性は、この戦争の惨禍を前にしての人間の弱さ、無力な怒りと悲しみなどを記録することの空しさ加減を恐らくは明らかに告げていたであろう。」

【閲覧注意;全てゴヤの版画作品ですが一部に残虐な光景があります】 堀田善衛『ゴヤ』(114)「版画集『戦争の惨禍』」(2)「この老画家の、人間としての真の偉大さ - という言葉を私は敢て使いたいと思う ー は、人間のやらかす所業の一切に耐えて、現実としてのこの怪獣をあえて描き出し、なおかつ、これを如何にしてでも押しとどめようとする、無名の、足腰ともに逞しい女性をこの怪獣にとりつかせたところにあるであろう。」

堀田善衛『ゴヤ』(115)「版画集『戦争の惨禍』」(3)「この「私がこれを見た」という詞書は、この版画集全体の副題であってもよく、またこの画家、ゴヤの全生涯のそれであってもふさわしいものである。 時代の証言者としての芸術家、という、存在のあり様は、ここに全的に成立しているのである。」

堀田善衛『ゴヤ』(116)「版画集『戦争の惨禍』」(4)「戦争には果たして、本当に勝利というものはあるものなのだろうか。死者にとって、勝利とは何か、敗北とは何であろうか。生き残った者にとっても、とりわけて女性や子供にとって勝利とは何であろうか。ナポレオンは「戦争をして戦争を営ましめる」と言ったが、戦争には、本当は戦争だけしかありはしないのだというのが、歴史のもう一つ奥の真実なのではなかったか。」

堀田善衛『ゴヤ』(117)「版画集『戦争の惨禍』」(5)「現代の開始期の、まさにその時に当ってゴヤによって深刻な警告を受けていながら、あたかも聾者ででもあるかのようにして一向に聴き入れようとせず、殺戮に殺戮を重ねて来たのは、われわれの歴史そのものなのである。「答は汝にあり」。 ここで聾者なのはゴヤではない。」


大杉栄とその時代年表(284) 1900(明治33)年4月1日~11日 鉄幹「明星」創刊 長塚節と伊藤左千夫が初めて会う 毛利柴庵ら「牟婁新報」創刊 「義和団党天津北京ニ侵入セリ」(第1報)

 

『明星』第10号の表紙、一條成美 画

大杉栄とその時代年表(283) 1900(明治33)年4月下旬 義和団運動、3地方(①淶水:盧保線沿線、②天津:京津線沿線、③北京)から同時多発的に急速発展 義和団運動の概観 〈各集団の概観〉 〈農民が義和団に参加した理由〉 〈義和団発展過程の4段階〉 より続く

1900(明治33)年

4月

御沙汰書をもって枢密院諮詢事項を拡張。「教育制度の基礎、内閣官制、官吏の服務・懲戒・任用・試験・分限などに関する勅令は枢密院の審査を経ることとする」など。

4月

米国製ロコモビル蒸気自動車1台輸入され在日米人トンプソン買いとる(最初の自動車輸入)。

4月

アリス・ベーコン、再来日。

4月

子規(34)。第1回万葉集輪講会

4月

島村抱月、後藤宙外、伊原青々園「風雲集」(「春陽堂」)

4月

永井荷風(23)、『闇の夜』を懸賞当選作として「新小説」に掲載。

4月

愛媛県の別子銅山新居浜製錬所、政府の指令で約70メートルの大煙突を作る。

4月

反ドレフュス派勢力に対抗し、共和制擁護をめざす共和派連合結成。

4月

カナダのビクトリア港、日本人労働者3,000人上陸。

4月1日

与謝野鉄幹、「明星」(第1次)創刊

藤村「旅情」、泣菫・鏡花・虚子・子規・有明・柳浪・信綱ら。

16ページ、定価6銭。1号~5号は新聞型。発行人兼編集人林滝野(鉄幹の妻)、発行所は東京市麹町区上六番町四五の東京新詩社、発売所は神田区錦町一丁目一〇番地の明治書院。

2号の寄稿者は鉄幹、高浜虚子、川上眉山、落合直文、佐佐木信網、正岡子規、薄田泣董、久保猪之吉、服部躬、金子薫園、高須梅渓、嘉納治五郎など、挿絵は一条成美など。

石川啄木(14)、この年、上級生及川古志郎(後、海軍大臣)を知り、与謝野鉄幹の「東西南北」「天地玄黄」の手ほどきを受け、その紹介で上級生金田一京助を知り、「明星」閲読に便宜を得、与謝野晶子らに圧倒的な影響を受ける。また、野村長一(後、胡堂)などの影響により文学に志す。

4月1日

子規庵で歌会。長塚節と伊藤左千夫が初めて会う

4月2日 この日も長塚節は子規庵を訪問

■長塚節、伊藤左千夫、正岡子規


十五歳年長の左千夫と、節は自然に知己となった。子規門下の他の歌人たちとは、ややへだてのある感じの左千夫だが、節には気を許した。へだては、青年歌人たちは世を生きる苦労を知らないと見た左千夫の思いから発していた。その点、節は苦労している。なのに人柄は屈していない。

節にとっても左千夫は気の許せる相手であった。在京して、連日子規庵を訪ねるのに気がさす日には本所へ行った。左千夫の家である。話は長びく。夜は更ける。左千夫の家に泊る。明ければ、ふたり連れ立って根岸へ向かう。そんなふうであった。

伊藤左千夫は、子規が没した直後、回想を「日本」に寄せている。

「先生(子規)には一人の愛子があった。当年二十四歳の男で歌詠(うたよみ)である」

子規はついに妻を持たず、満三十五で死んだ。むろん実の子ではないが、長塚節と子規の「其交りの親密さというものが、どうしても親子としか思われない」ものだった、と左千夫は書いた。


(子規は)明敏精察でそして沈着冷静という態度で、常に人に接するから逢う人は必ず畏敬の念を起すと同時に容易に近づく事の出来ぬという趣きがあった、かくいう吾輩も、此人は師として交るべき人で友として交ることは容易に出来ぬ人であるなどと思うたことは幾度かあった。(伊藤左千夫「正岡子規君」、明治三十五年十月三日付「日本」)


なのに節とは違っていた。子規と節の親昵(しんじつ)のしかたは独特で、情にあふれていた。


先生と長塚との間柄は親子としては余りに理想的で、師弟としては余りに情的である、故に予は之を理想的愛子と名附けた。(同前)」(関川夏央、前掲書)

4月1日

市町村立小学校教育費国庫補助法施行。

4月2日

M・ボーチグレビンクを隊長とする英の南十字星探検隊、南極の真の磁極を確定。その後ニュージーランドのブラフ沖に到着。探検隊の到達地点は史上最南。

4月4日

日本鉄道会社の鉄鋼同盟、待遇改善を要求。退職新規定を獲得。

4月4日

毛利柴庵ら「牟婁新報」創刊。和歌山。

毛利柴庵(さいあん);

明治5年(1872)、現在の新宮市に生まれる。幼い頃に父と死別、新宮の遍照院に預けられる。13歳で得度し、高野山中学林(現:高野山高校)で学んだ後に東京へ遊学、在京中は東京日々新聞の社員を務めた。

明治24年(1891)高野山大学林(現:高野山大学)で学ぶため帰郷。首席で卒業し、田辺の高山寺住職を拝命する。

明治20年代、伝統仏教教団の一部には、仏教が国から公認を受け、政府の保護を求める動きがあった。これに対して、政府の保護干渉を受けず、信仰の自由と自立を目標として仏教界の革新を目指す新仏教運動が展開されていた。柴庵もこの運動に参加、仏教界の革新を志した。

明治33年(1900)田辺市で「牟婁新報」が創刊され主筆となる。創刊にあたり「吾輩は唯だ此地方の進運を扶助し、あらゆる方面に於て無二の親友たらんとする」と抱負を述べている。柴庵は新仏教運動を通じて社会主義者たちとの交流が深かったため、県内外から大石誠之助や幸徳秋水、堺利彦らが寄稿、管野すが、荒畑寒村らを記者に迎えるなど、牟婁新報は一地方紙にとどまらない存在感を見せた。柴庵は言論の自由を何よりも尊重、あらゆる立場の主張を掲載したため、自由闊達な議論が闘わされていた。

明治42年(1909)田辺の大浜台場公園売却に対し反対の論陣を展開。柴庵のこの意見に共鳴した南方熊楠が、牟婁新報紙上に自然保護の観点から神社合祀反対意見を寄稿。柴庵も「強制威圧的な廃合は信教の自由を侵すものであり、勝景の地である神社の森を伐採することは自然保護・環境保護に反する」と合祀反対を敢然と表明し、ともに協力して神社合祀反対、自然保護の運動を推進した。

4月5日

在北京公使館付海軍武官森義太郎中佐、軍令部総長伊藤祐亨大将宛に「義和団党天津北京ニ侵入セリ」と打電(第1報)。特命全権大使(公使)西徳次郎は、義和団の乱は西欧=キリスト教に対する排外運動であり、日本はこれに深入りしないほうが良いという認識。青木周蔵外相は、列国共同の動きにならい機会を捕らえて積極的に参加するという姿勢。

4月5日

子規、右肘を枕に託し、半身を起こして写真撮形をする。撮影者は赤石定蔵。

4月5日

漱石、村上霽月宛手紙に「近頃は發句癈業駄句もなにも皆無に候」と書き、二句送る。

4月6日

4ヶ国公使、2ヶ月以内に義和拳鎮圧なければ陸海軍を山東・河北省に派遣、清に代わって平定と通告。

4月7日

マッキンレー米大統領、タフトをフィリピン行政委員会委員長に任命。

4月8日

山陽鉄道、初めて1等寝台車の使用を開始。

4月9日

日本鉄道会社の鉄鋼同盟、待遇改善を要求。退職新規定を獲得。

4月10日

朝鮮、漢城に初めて電灯。

4月10日

この日の子規の歌。ガラス障子越しに見た花の姿。


ガラス戸の外面(とのも)さびしくふる雨に隣の桜ぬれはえて見ゆ

4月11日

朝鮮、馬山浦、日本領事館開館。

4月11日

中村汀女、誕生。

4月11日

小村寿太郎駐米公使、渡米移民制限の要を具申。


つづく

被団協の箕牧代表委員が「ガザの子どもが血をいっぱい出して抱かれている、80年前の日本と同じ」 / 駐日イスラエル大使、被団協委員のガザ発言を批判 「不適切」な比較(AFPBB)

【特集】関係者が実名証言 参政党の正体(週間文春)

「裏金議員」35人を推薦…公明の「クリーンな政治」看板にキズ それでも推薦やめない理由とは?(東京) / 「不記載」32人、公明が推薦(読売) / 公明党が裏金議員を“続々推薦”で救いの手…やっぱり自民と「同じ穴のムジナ」(日刊ゲンダイ)

日本は「変化促す動きが弱い」 MIT教授アセモグル氏(朝日 有料記事); 日本は「約25年間も停滞を経験したのに、反発する運動が起こらなかったのは驚くべきことだ…反発する運動がいい結果につながるとは限らないが、人々を目覚めさせる警告になっていた可能性がある」