2024年4月25日木曜日

大杉栄とその時代年表(111) 1894(明治27)年7月1日~8日 ラフカディオ・ハーン、五高を退職 イギリスの仲裁に清国が受け入れ難い項目を入れる(筋書き通り調停不調) 一葉、父方の従兄弟の死に衝撃を受ける 大鳥公使、朝鮮政府に改革綱領を提示 アメリカのプルマンスト鎮圧 尾崎紅葉・渡部乙羽校訂『西鶴全集』発売禁止  

ラフカディオ・ハーン

大杉栄とその時代年表(110) 1894(明治27)年6月21日~30日 清国、日本の朝鮮共同改革提案を拒否 陸奥、次の手(御前会議~第1次絶交書)をうつ 日本軍混成旅団主力、仁川から京城へ移動 加藤増雄書記官が京城に到着し「曲ヲ我ニ負ワザル限リ、如何ナル手段ニテモ執り、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」との内訓を大鳥公使に伝える より続く

1894(明治27)年

7月

有賀長雄(日清戦争に万国公法担当法律顧問として従軍)、ブラッセル宣言を陸軍大学校に提出。

7月

ラフカディオ・ハーン、熊本の五高を退職。 神戸のジャパンクロニクルに就職、神戸に転居する。

7月1日

駐日イギリス公使ラルフ・ページェット、外務省を訪れ日本の妥協を要請。別に、キンバリー外相も青木駐英公使に妥協を求める。

イギリスは、清国の韓国への宗主権を認めロシアの南下を防ぐという現状維持論がベース。青木公使は、清国が元山に、日本が釜山に駐兵する条件でイギリスの調停に応じるのが得策と上申。

伊藤首相は、これを容れ、大鳥公使には進んで激越な処置をとらぬよう、参謀本部には大島旅団に急激な処置をとらぬよう指示。

陸奥外相はこれに不満で、イギリスの調停受諾条件に、清国が受入れ難い「政治・通商上の均一な地位」を入れる。李鴻章は同時撤兵が先決と主張。

イギリスは、ロシアが紛争調停し、日清間に勢力を伸張する事を恐れ、「露国ヲ局外中立ノ地ニ立タセ置夕為メ」に、仲裁に立とうとする。イギリスも朝鮮の現状維持を期待するが、政策のウエイトはロシアの南下阻止に置かれる。日本はこれを見抜き、その提案に同意しつつ、清国が受け入れられない朝鮮における政治上・経済上の同一特権を要求。これは第3回目の挑発。

7月1日

下谷区上野桜木町の丸茂病院(院長は山梨出身の丸茂文良)で治療を受けていた一葉の父方の従兄弟の樋口幸作が急死、大きな衝撃を受ける。丸茂病院は皮膚科の医院。幸作はハンセン病との説もある。一葉は、幸作の突然の死に自分の短命を予感。樋口くらは幸作の妹で、入院している幸作に付き添っていた。


「七月一日 芳太郎来訪。しばしありて、横須賀より野々宮君参らる。かなしく、浅ましく、かつは哀れにも、はづかしくも、さまざまなる物語をかたり出る。失敗の女学生が標本ともいふべきにや。十時頃成けん、桜木丁より使来り、幸作死去の報あり。母君驚愕、直に参らる。からはその日寺に送りて、日ぐらしの烟とたちのばらせぬ。浅ましき終(おはり)をちかき人にみる。我身の宿世(すくせ)もそゞろにかなし。(「水の上日記」)

*「日ぐらし」;北豊島郡日暮里村の火葬場。

*野々官菊子は結婚に失敗して、この年の二月から横須賀小学校に勤めていた。

(七月一日。芦沢芳太郎が来る。しばらくして横須賀から野々宮菊子さんが見える。悲しく、情けなく、また可真相な身の上話をなさる。彼女は本当に失敗した女学生の見本とでも言うべきでしょうか。十時頃だったでしょうか、桜木町の病院から使いが来て、幸作さんの死去を知らせてくる。母上は驚き慌ててすぐ病院に行かれる。なきがらはその日のうちに寺に移し、日暮里の火葬場で茶毘に付されたとのこと。悲しく情けない人生の終焉を身近な人の上に見て、私の一生のことも考えられて何となく悲しい思いでした。)

7月2日

「二日 早朝、母君およびおくらと共に、日ぐらしに骨ひろひにゆく。山川程を隔てたる叔甥の、おなじ所に烟とのぼるは、こものがれぬ宿縁なるべきにや。「おはしまさば」と、今日はなき人に成し父上嬉しとおもふ。」

*一葉の父則義は明治22年7月12日死去、同14日に日暮里火葬場にて茶毘に付された。

(二日。早朝、母上やおくらと一緒に日暮里の火葬場に骨拾いに行く。遠く離れて別別の人生を生きた叔父と甥が同じ火葬場の煙となって消えて行くのも、これものがれられない前世からの因縁だったのでしょうか。父上が存命であったらどんなに悲しまれただろうと思うと、今日ばかりはおなくなりになっていたことが嬉しい気さえするのでした。)

7月2日

米、連邦裁,シャーマン反トラスト法違反を理由にプルマンのストに禁止命令. 

7月3日

陸奥外相、大鳥公使に、内政改革要求中に鉄道・電信の権益獲得条項を入れること、政務局長栗野慎一郎を派遣するので4日迄、実行行為を避けるよう命令。

7月3日

朝鮮、大鳥圭介公使、外務督弁に改革綱領を提示。回答期限を8日正午とする。朝鮮政府は内政改革調査委員を任命。

7月3日

クリーブランド大統領,スト鎮圧のため連邦軍など1万4千名出動・弾圧.死者13名. 

〈プルマン・ストライキ〉(「日本大百科全書(ニッポニカ)」より)

アメリカ合衆国の19世紀末の労働争議。1894年5月、シカゴ郊外にあった発明家プルマンGeorge Mortimer Pullman(1831―97)の経営するプルマン寝台車製造会社の大幅賃金切下げに抗議して、アメリカ鉄道組合に属する労働者がストに入った。会社側が交渉拒否、首切りの挙に出たため、デブス(後の社会党党首)を長とする同組合は、6月下旬、寝台車取扱いをボイコットし、各地で鉄道輸送を止めた。経営者団体が、同時に郵便車阻止となるように工作したため、組合側は公務妨害を問われることになった。政府は作業員を派遣して一部列車を動かし、裁判所は差止め命令を出した。なお従わぬ組合に対し、クリーブランド大統領は連邦軍を派遣し、抵抗する労働者に発砲させたため、7人死亡、多数負傷のうちに組合は敗れた。デブスは法廷侮辱および州際通商妨害による反トラスト法違反で投獄され、社会主義思想に傾いていった。また、このとき用いられた差止め命令と反トラスト法は、その後長く労働者を苦しめるものとなった。[長沼秀世]

7月4日

対外硬派大演説会。神田錦輝館。大井憲太郎、犬養毅、新井章吾、小林樟雄、福田友作。

7月4日

この日付け福沢諭吉、「時事新報」社説「兵力を用るの必要」。

「斯る頑民(朝鮮人民)を導て文明の門に入れんとするには、兵力を以て之に臨むの外、好手段あることなし」と云う。更に、17日付けの社説では、「抑も今回日本政府が隣国(朝鮮)の国事改革を謀るは、其国を日新の門に導き国民を無政無法の塗炭に救ふて文明の恩沢に浴せしめ、世界万国と共に天与の幸福を与にせしめんとするの義挙にして、俯仰天地に愧ぢず・・・」と述べる。

27日付け「時事新報」では、「今日に到りては押し問答は無益なり。一刻も猶予せず、断然支那を敵として我より戦いを開くにしかざるなり・・・直ちに開戦を布告して、もって懲罰の旨を明らかにすると同時に、彼支那人をして自ら新たにするの機を得せしむるは、世界文明の局面において大利益なるべし」と述べ、清兵が集結する朝鮮牙山への進撃を希望。

7月4日

ハワイ、共和国となる。サンフォード・ドール判事(50)大統領選出。

7月5日

大屋晋三、誕生。

7月5日

尾崎紅葉・渡部乙羽校訂『西鶴全集』発売禁止となる。

「明治二十七年の風俗壊乱としては、尾崎紅葉・渡部乙羽校訂の『西鶴全集』(上・下巻)がある。五月二十日(上巻)と六月十二日(下巻)の発行で、上巻千十八頁、下巻千二十二頁という分厚い背革の立派な本である。渡部乙羽が上巻で「西鶴是非」を書いているが、古人の西鶴についての諸説を列記して、なかなか手がたい解説となっている。七月五日に発売を禁止された。」(平凡社「別冊太陽」シリーズ『発禁本』)

7月7日

イギリスの調停により、北京で小村寿太郎代理公使と清国との交渉、筋書き通り成果なし。

9日も。陸奥外相は好機到来と判断、「我国将来の行動上ようやく自由を得た」と喜ぶが、イギリスとの条約改正が未実現という問題があり、条約改正に成功するまでは、ロシアに与えた言質からも、日本から戦争を仕掛けることはできない

7月7日

駐清ロシア公使カシニ、日清紛争へのロシアの積極的干渉を上申。

10日、本国政府は、①極東ロシア軍の兵力不充分、②日本が撤兵に応じないとき、ロシアが戦争に巻き込まれる危険がある、③単独干渉では、外交上ロシアは孤立する、ため紛争に干与することを絶対に希望しないと訓令。欧米諸国の日本を妨害する可能性は消滅。

7月7日

山県、桂太郎第3師団長に、「此際、欧州諸大国之容喙不致之時期ニ授ジ、兵端を開く可き手段を尽シ、工夫を凝シ」ていると伝える。

7月7日

一葉の日記より

「七日 小石川稽古日也。十二日までには是非金子(きんす)の入用(いりよう)あるに、此月は別していかにともなすによしなく、「師君(しのきみ)に申てこそ」とこゝろは定めたりしを、さても猶いひおくれて、昨日までに成ぬ。「今はいかにしても言はではあられぬ時」とて、夕べ書物(かきもの)おはりて帰るさに、文したゝめて机の上に残し置し。されば、今日の稽古日に何とかの給ふべきは道理なり。よきこたへならは嬉しけれど、例(いつも)の気質も知らざるにはあらぬ師君が、いか様なる事やの給(たまふ)らん。」


(七日。小石川の稽古日。十二日までには是非ともお金が必要なのに、今月はとりわけどうしようもなく、先生にお願いしてと心に決めていたのに、それも言い出せずに昨日まで過ぎてしまった。今日はどうしてもお願いせずにはおれない時まできてしまったので、昨日の夕方書き物の仕事などすべて終わって帰りがけに、手紙を書いて机の上に残しておいたのです。だから今日の椿古日には先生はきっと何かおっしゃる筈です。善いご返事なら嬉しいけれど、いつもの先生の気性を知っているので、はたしてどのようにおっしゃるでしょうか。(以下五行抹消))

7月8日

陸奥外相、大鳥公使にイギリス政府が調停を提起したことを伝え、事態好転の見込みは「物質的利益」の獲得にあると注意。

7月8日

一葉の日記より

「八日 平田君来訪。田中ぬしが「かまくら紀行」、いづくの雑誌にか記載のこと頼む。「これより森鴎外君のもとに趣けば、同君にたのみて、『しがらみ草紙』などに出さばや」とてかへる。午後、中島くら殿来訪、物語多し。夜食を馳走してかへす。樋口のくらも来る。「明早朝、一番汽車にて帰郷したし」とあるに、今宵はみやげ物などとゝのふる為、本郷通へ諸共に行く。」

*「かまくら紀行」:明治25年7月1日~5日、中島歌子と鎌倉に旅行した折の紀行。「しがらみ草紙」第58号に掲載。


つづく

元県民局長が作成した知事らへの「告発文」、県議が内容の外部調査を要望…知事は否定的(読売) / 県民局長の斎藤知事批判文書問題 兵庫県人事課が本紙記者を聴取 (神戸新聞) / 「贈答品」県幹部が返却 県職員「告発文」問題 加西の会社に(読売) / 兵庫・斎藤知事を揺るがす「告発文書」 阪神・オリックスパレードにも疑惑が(AERA) / 兵庫県知事を中傷する文書、筆者の元幹部が公益通報 解任され、県の調査は「真相究明できない」(神戸新聞) / 兵庫県の斎藤知事 自身の疑惑の真偽、明言避ける  「一つ答えると次も次もとなる」  解任の元県民局長文書問題(産経) / 内部告発された斎藤知事、会見にて『反論文書はまだ見ていない』という裏設計を開始20秒足らずでバラしてしまう… 「報道等では承知していますけど、私については内容そのものは承知していないことになっています。(アッ!)してません!」 / 兵庫県庁大激震!定年退職直前の幹部職員が知事などの行為を内部告発!そのウラ事情とは?(YouTube) / 知事や職員を中傷する文書流布か 退職間際の兵庫県幹部、処分を検討(朝日) / 兵庫県幹部が知事を中傷する文書を配布 知事「うそ八百」と解任、退職認めず 報道機関や県警が入手(神戸新聞) / 「定年退職が近い県民局長が知事らを批判する文書を作成し、報道機関や議会などへ送っていたという。退職が目前なのに降格処分を覚悟しての確信犯的行動だろうが、むしろ局長にそこまでさせた兵庫県で何が起こっているかが気にかかる。— 吉富有治」



 

【パレスチナと連帯するアメリカの大学生たち】 BBCニュース - 米大学での「反ガザ攻撃デモ」、キャンパス内で何が 学生らの思いは(動画) / NY大の学生や教職員逮捕 コロンビア大の親パレスチナデモ、全米の大学に飛び火(CNN) / コロンビア大学。パレスチナ支援運動が続き、全学がリモートに。教授陣もウォークアウト / コロンビア大学は、学生が1週間、芝生の上でテントに泊まるのを許可すると発表した。 / 名門MITの有志たちも立ち上がる。MITの学生・職員らで野営地『ジェノサイドに反対する科学者の陣」を設置 / NYU(ニューヨーク大学)。大学側がガザ支援活動を行う学生の大量逮捕を通告。学生を守るために教授/教員が立ち上がった。 ⇒ NYUではプロテストする学生を囲っていた教員たち全員が逮捕された様子 / 米エール大で60人逮捕 イスラエル軍への抗議活動、米大学で過激化(朝日)←「過激化」? / カリフォルニア大学バークレー校にも「ガザ連帯キャンプ」が設営されました / ハーバード大学でもガザ連帯キャンプ設営を開始            

 



 

2024年4月24日水曜日

「密告を奨励するとは…」医療・介護関係者が怒りの集会 マイナ保険証「通報」依頼した河野太郎氏を批判(東京) / マイナ保険証不可の医療機関、「通報」文書は適切 河野デジタル相(毎日) / マイナ保険証使えぬ医療機関の「通報」促す 河野太郎氏、議員に文書(朝日) ← 「チクリ」の奨励 / 「ブロック太郎」の真実 ⇒ ツイッターの仕組みを知らないでやってたのか! しかも、その間違いを外に向かって堂々と説教してる 止める人も周りにいなかったみたい       

 

 

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▼私も数年前から光栄にも、、、

(一度もこの方のツイートを見たことないのに、どうして?) 



 

大杉栄とその時代年表(110) 1894(明治27)年6月21日~30日 清国、日本の朝鮮共同改革提案を拒否 陸奥、次の手(御前会議~第1次絶交書)をうつ 日本軍混成旅団主力、仁川から京城へ移動 加藤増雄書記官が京城に到着し「曲ヲ我ニ負ワザル限リ、如何ナル手段ニテモ執り、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」との内訓を大鳥公使に伝える    

 

李鴻章(1896年)

大杉栄とその時代年表(109) 1894(明治27)年6月12日~20日 全州和議成り日清共同撤兵交渉開始(ほぼ妥結) 全羅道50郡余に「執綱所」(農民的自治機関)設置 大本営は追加派兵決定 閣議、大本営決定を追認(甲午農民戦争への干渉、朝鮮内政への干与強行を決定) 「如何なる口実を用うるもわが兵を京城に留め置くこと最も必要なり」と大鳥宛電報 子規『当世媛鏡』 明治東京大地震 より続く

1894(明治27)年

6月21日

清国、日本の朝鮮共同改革提案を拒否。

22日、陸奥は、待ち構えたように、次の手(御前会議~第1次絶交書)をうつ。

陸奥外相は、「政治的必要の外、何等の意味なきもの」(「蹇蹇録」)である朝鮮内政改革を日清共同して行うことを清国に提唱。案の定、「内政不干渉」として清国に拒絶されると、撤兵しないための口実の為、大鳥公使に、①京城~釜山間の電線の譲与、②日本人所属の商品に対する不法課税の廃止、③防穀令の全廃、を朝鮮政府に要求するよう指令。

6月21日

陸奥外相、清国が韓国に兵力増派するという天津の神尾武官の情報により、日本単独で朝鮮改革進める旨上奏。天皇は、上奏後、徳大寺実則侍従長に対して、清国軍増派は信じ難く、確実かどうか陸奥に質問するよう命じる。

6月21日

米、プルマン・スト開始。プルマン(鉄道の寝台車)会社の労働者決起。ユージン・デブス指導。全米鉄道労組も参加。シカゴを中心に24州にまたがる大闘争。

6月22日

御前会議、再度の神尾少佐の誤報に基づき、日清提携断念・朝鮮内政単独改革決議。この決定に基づき政府は行動開始。

①陸奥外相、清国公使汪鳳藻に「第1次絶交書」呈出(清が日本の提議に応じない限り撤兵しない)。

②23日、大本営、延期していた第5師団の追加2大隊の派遣を命令(牙山の清国軍を粉砕しうる混成旅団の完成)。

③この日、大鳥公使に閣議決定を伝えるため、「曲ヲ我ニ負ワザル限リ、如何ナル手段ニテモ執り、開戦ノ口実ヲ作ルベシ」との内訓を与え加藤増雄書記官を派遣(大鳥はハラを決め、陸奥らの意向に沿い、強硬な態度で朝鮮政府に対するようになる)。

陸奥外相の計算:①開戦の口実は列強が承認できるものでなければならず、それには、将来の民乱を予防する「保証」としての内政改革が適当。②列強の干渉により開戦不可能となっても、内政改革を通じて朝鮮を市場として解放し、日本に利権をもたらす「改革」で国内世論をなだめえる。

23日、山県は「清国卜談判将ニ破裂セントスルニ当り、左ノ順序二着手スべシ」、まず大本営を宮中に移し、時機をみて下関から釜山に前進させる、と建議。天皇を擁し大本営が首都から遠く離れるならば、統帥部が天皇を独占し、統帥に対する国務の容喙を遮断することができると計算した。

6月22日

この日付け『東朝』「●東学党鎮定の説に就て」

東学はまだ鎮定していない,という「或朝鮮事情に通ぜし人の話」を第1面に掲載。農事が繁忙になったので一時休戦しただけで,農事が終わればまた「起て干戈を執るに至るや必定」であり,たんなる休戦を「全く鎮定した」とするのは「韓廷が日本撤兵の請求口実を作」るためのもので,信じてはいけない,というもの。内容から見ると,商人などの民間人というより役人や軍人が語った説のように思える。疑心暗鬼は,日本軍撤兵の口実作りではないか,という朝鮮政府への不信としても現れている。

6月22日

西アフリカ、ダホメー王国、フランスに降伏。フランス領となる。

6月23日

高等学校令公布。従来の高等中学校を改組して、第一(東京)から第七(鹿児島)にいたる七つの官立高等学校を設置。

6月23日

露外相ギエール、露駐日公使に日本の朝鮮撤兵要請を指令。

6月23日

国際オリンピック委員会設立

6月24日

朝鮮、仁川の日本軍混成旅団主力(第11連隊及び特科隊)、京城へ移動。陸奥外相は、強行手段を主張する大鳥公使の上申を斥け、全軍の首都集中を背景に行政・財政・司法の改革を要求し、作戦上必要な釜山・京城間の電線修復を朝鮮政府が遷延するならば、日本軍が修復・管理する事を命じる。

〈この時までの日本軍の状況〉

・混成旅団の先発隊(一戸大隊、約1千)、6月12日、仁川入港。14日、公使館警備のためソウル入り。

・後続部隊は2回に分けて出発。第1次(旅団司令部、歩兵第11連隊、兵站部ほか)、6月14,15日、仁川到着。第2次(歩兵21連隊、兵站司令部など)、6月18日、仁川到着。24日まで船中で待機。

6月24日

園田警視総監、内相臨時代理芳川顕正に「全国同志新聞記者聨合禁止処分の議に付伺」提出。新聞同盟(反政府・反自由党)を政社として認定し禁止するよう具申。

6月24日

仏大統領カルノー、リオン市で暗殺。イタリア無政府主義者カゼリオ。

6月25日

清国軍機処、上諭を奉じ対日政策の不徹底を批判、李鴻章はロシアの調停に期待しているがロシアの術中に陥ると注意喚起。

この頃の清国:

徳宗皇帝(光緒帝)と重臣李鴻藻・翁同蘇中心に主戦論高まるが、皇帝大権は形式のみで、軍事・外交実権は西太后の意をうけた北洋大臣李鴻章が主宰。李鴻章は自国の戦備不足・日本の軍備充実をみて、列強の調停による戦争回避・現状維持を図る政策。皇帝派はこれを批判。

6月25日

朝鮮、京城駐在アメリカ公使ジョン・ヒル、英露仏外交代表と共に日清両国の同時撤兵を求める。

6月25日

駐清公使カシニ、日清紛争調停は東アジアでのロシアの権威を高めるため、対日干渉を強めるべきと本国に上申。

6月25日

駐日ロシア公使ヒトロヴォ、陸奥宗光外相に日本軍の撤兵、日清関係斡旋を申入れ。陸奥は、日本は朝鮮領土侵略の意図を持たず、朝鮮独立と平和維持に努力する、清国に対し積極的に戦をしかけることはないと「確言」。

陸奥は「確言」に縛られ、28日、開戦スケジュールをひとまず凍結(同27)。

6月26日

朝鮮、大鳥公使、高宗に謁見、朝鮮内政改革の必要性を説き、日本案を検討するよう述べる。高宗は日本軍撤兵を求めるのみ。

6月27日

加藤書記官、京城に到着。「・・・開戦は避くべからず、・・・いかなる手段にても執り、開戦の口実を作るべし」の口頭訓示。

6月28日

朝鮮、日本軍第21連隊、仁川上陸完了。混成旅団は完成。

6月28日

朝鮮、大鳥公使、外相命令の内政改革は外交に有利でも開戦口実には効果的でないと報告。

30日、露英の干渉を考慮し、日本主導での開戦を避ける意向の返電。

6月30日

駐清公使カシニの意見を容れたギールス外相の指令に基づき、露公使ヒトロヴォ、日本に朝鮮撤兵勧告。7月2日、拒否。但し、警告以上の行動には至らず。13日、ロシア、日本政府の回答に満足と表明。

6月30日

ロンドン、タワーブリッジ完成。

つづく

もし万が一、維新が政権をとったら、どんな日本になるか想像してみよう ⇒ 維新・足立議員に賠償命令 ← 「暴言議員」 / 「大阪では高校生全員が授業料無償化」と選挙運動で「ウソ」を / 維新・音喜多氏 「ミャクミャク像」損壊への投稿「万博反対派と決めつけていない」と“弁明” / 大阪・吉村洋文知事らの発言に非難殺到、「犯人を万博反対派と決めつけ…」「誤った印象操作」ミャクミャク像損壊事件で(中日スポーツ) / ミャクミャク像事件「真犯人」の正体がわかって窮地「吉村知事」東京15区補選も敗色濃厚で / 維新・馬場代表「立憲をたたきつぶす必要ある」 自民党とは将来「お互い切磋琢磨」(FNN)  

2024年4月23日火曜日

大杉栄とその時代年表(109) 1894(明治27)年6月12日~20日 全州和議成り日清共同撤兵交渉開始(ほぼ妥結) 全羅道50郡余に「執綱所」(農民的自治機関)設置 大本営は追加派兵決定 閣議、大本営決定を追認(甲午農民戦争への干渉、朝鮮内政への干与強行を決定) 「如何なる口実を用うるもわが兵を京城に留め置くこと最も必要なり」と大鳥宛電報 子規『当世媛鏡』 明治東京大地震  

 

大鳥圭介

大杉栄とその時代年表(108) 1894(明治27)年6月6日~11日 軍隊の進退、軍機軍略に関する記事を厳禁する陸海軍省令 論説「朝鮮は朝鮮の朝鮮にあらず」(自由新聞) 東西「朝日」は、対清国強硬意見 清国派遣隊、牙山湾上陸 日本軍第1次派兵、宇品出港  一葉に久佐賀から手紙(歌道成道まで面倒をみるので「妾になれ」と提案) 全州和議成立 大鳥公使は軍隊派遣見合わせを打電 より続く

1894(明治27)年

6月12日

朝鮮、混成旅団先頭部隊,仁川に到着

6月12日

朝鮮、共同撤兵交渉開始。農民反乱が和議により終結し、小康を得たため。

15日には、袁世凱・大鳥間でほぼ妥結

6月12日

朝鮮、農民軍、全羅道50郡余に「執綱所」(農民的自治機関)設置。総本部を全州大都所とする。全琫準・金開南が全羅右道(本拠金溝)・左道(本拠南原)を夫々管轄。執綱所を通じて貪官汚吏処罰、身分制廃止、税制改革、土地制度改革など幣制改革に着手。

6月12日

大鳥公使の共同撤兵交渉に関して、日本側の反応は冷ややか。

大本営は、大島旅団の上陸をさし控えるようにとの大鳥公使の要請とは逆に、更に第5師団の残部を動員して派遣すること決定(清は山海関から12時間で仁川に達するが、日本は宇品から40時間を要する。機先を制するためには、これしか道はない)。

朝鮮では共同撤兵交渉が順調に進展。

外務大臣陸奥宗光と駐韓全権公使大鳥圭介との間にズレが生じる。杉村代理大使が、日本の将来のためこれを機に韓国から外国勢力の一掃が必要と、大鳥を説得。陸奥は後に「今においてこれを追懐するも、なお悄然たるものあり」と当時の「惨憺の苦心」を述べる。

6月12日

対外自主派中央選挙本部、結成。新聞同盟からは志賀重昂が総代。

6月13日

この頃の日本のいくつかの新聞は農民軍を高く評価し、これを肯定。

「毎日新聞」6月13日社説「東学党を懯む」は「東学党は朝鮮官吏に対しては不忠なるも、朝鮮国、朝鮮人民に対しては忠義なり、生命を犠牲にして苛政を除んとする者なり」と言い、14日の「日本」社説「内乱に係る国際法」(陸羯南執筆)は、東学党は「少なくとも一の国事犯として視るぺく、盗賊蜂起といふぺからず」と言う。

しかし9月下旬以降農民軍が日本軍に対し戦闘を開始すると、これらの新聞の態度は変る。

6月14日

「自由新聞」、観兵式をするために派兵したのではない、と述べる。

6月14日

閣議、伊藤首相、日清両国軍隊により朝鮮内乱を鎮圧し、後、共同で内政改革を行うことを提案。

翌15日、陸奥外相は、伊藤提案に、清国との協議如何に係らず撤兵しない、清国との共同が実現しないときは独力でも改革を実行するという2項目を追加。閣議諒承。陸奥「わが外交は百尺竿頭一歩を進めた」。大本営の大兵力派遣方針を追認。日本軍は公使館・居留民のみでなく、甲午農民戦争への干渉、朝鮮内政への干与を強行することを決定

閣議後、大鳥公使宛に「如何なる口実を用うるもわが兵を京城に留め置くこと最も必要なり」と電報。

第2回目の挑発。15日閣議決定。「密雲不雨」の情勢を「疏通」する為、朝鮮内政を日清共同で改革し、その結果をみるまで撤兵しないこの内政改革の提唱は「政治的必要の外、何等の意味なきもの」(「録」47)で、予想される清国の拒絶を待って「陰々たる曇天を一変して一大強雨を降らす」(同48〉ことを目的とする。第2回の挑発は、「我外交の位置を一時被動者より主動者に変ぜしめ」(「録」36)るが、それは直ちにロシアの干渉を呼ぶ。

6月14日

朝鮮公使、陸奥宗光外相に日本軍の撤退を要求。

6月14日

一葉、田中みの子の歌会の発会(例会)の手伝いのため朝から出かける。来会者は22~23人。

6月15日

子規『当世媛鏡(ひめかがみ)』(『小日本』連載~7月15日)

6月16日

朝鮮、日本軍第1次派兵(一戸大隊)、仁川着。続く第2次(大島義昌少将指揮の大島混成旅団)と合せ1万余。開戦の口実なく手持ち無沙汰

6月16日

陸奥宗光外相、清国公使に東学反乱の共同討伐および朝鮮内政の共同改革を提議。汪公使は本国への伝達を拒否するが、翌日午前1時まで協議は続きようやく伝達を諒承。21日、清国拒絶。

6月16日

一葉の日記より

「十六日 早朝、禿木子来訪。天知君より文あり。「花ごもり」二度目の原稿料送りこさる。禿木君も学校のいそがしき比(ころ)とて、はやくかへる。われは小石川稽古にゆく。

此日、三宅龍子ぬしより使にて、『依緑軒漫録』かさる。坪内ぬしよりかりたる小説もろとも、今宵通読。一時に及ぶ。」(「水の上日記」)

* 「文学界』第十六号(明27・4刊)掲載の「其五」から「其七」までの原稿料。

* 磯野徳三郎著。明治26年9月18日刊。発行所日本新聞社。リットン、ディッケンズ、ユーゴーの伝記・解題を掲げ、本文を抄訳で紹介している。

* 坪内銑子。

(十六日。早朝、平田禿木氏来訪。星野天知氏から手紙が来る。「花ごもり」の二度目の原稿料を送って下さる。禿木氏も学校が忙しい頃で早く帰られる。私は萩の合の椿古指導に行く。(以下十行抹消)

この日、三宅龍子さんから使いの人が来て、「依緑軒漫録」を貸して下さる。坪内逍遥先生から借りたという小説もあり、二つを通読するのに夜一時までかかった。)

6月18日

新聞同盟事務所、加盟各社に「伊藤内閣選挙干渉の手段」と題する通信を発す。

25日には、朝鮮問題審議の臨時議会召集を求める社説・短評を掲載するよう内報。

7月7日、「自由党党報」の対外硬派批判に「駁撃」を加えるよう指示。

6月20日

李鴻章、ロシア公使に朝鮮問題で日清間の調停を要請。

6月20日

明治東京地震

この日14時4分、東京湾北部を震源として地震が発生(南関東直下地震)。地震の規模はマグニチュード 7.0、震度6。

帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)地震学教室によれば、余震が少なく、6月21日、22日には弱震が1回ずつ、微震が数回程度あっただけ。但し、10月7日に発生した東京湾の地震(M 6.7)は最大余震の可能性が指摘されている。

被害の中心は東京から横浜にかけての東京湾岸で、建物の全半壊130棟(東京府90棟、神奈川県40棟)、死者31人(東京市24人、横浜市4人、橘樹郡3人)、負傷者157人。建物の被害は洋風建築の煉瓦建造物の被害が多く、煙突の損壊が目立った事から、煙突地震の異名もある。華族会館(旧鹿鳴館)のバルコニー到壊。

6月20日

竹鶴政孝、誕生。ニッカウヰスキー

6月20日

一葉の日記より

「二十日 午後二時、俄然大震あり。我家は山かげのひくき処なればにや、さしたる震動もなく、そこなひたる処などもなかりしが、官省通勤の人々など、つとめを中止して戻り来たるもあり。新聞の号外を発したるなどによれは、さては強震成しとしる。被害の場処は、芝より糀丁(かうじまち)、丸之内、京橋、日本橋辺おも也。貴衆両院、宮内、大蔵、内務の諸省大破、死傷あり。三田小山町辺には、地の裂けたるもあり。泥水を吐出して、其さま恐ろしとぞ聞く。直に久保木より秀太郎見舞に来る。ついで芝の兄君来訪。我れも小石川の師君を訪ふ。師君は、此日、四谷の松平家にありて強震に逢たるよし。「床の間の壁落、土蔵のこしまきくずるゝなどにて、松平家は大事成し」とか。鍋島家にて新築の洋館害に達て、珍貴の物品どもあまたそこなひ給ひけるよし。師君のもとにはさしたる事もなかりき。此夜、「更に強震あるべきよし人々のいへば」とて、兄君一泊せらる。その夜十時過る頃、微震あり。

・・・」(「水の上日記」)

(二十日。午後二時、急に大地震がある。

私の家は山陰の低い所なので、それほど振動もなく損害もなかったが、役所勤めの人たちの中には、仕事をやめて帰って来た人もいた。新聞の号外によれば、成程強震だったということがわかった。被害の場所は芝から麹町、丸の内、京橋、日本橋あたりが主な所でした。貴衆両院、宮内、大蔵、内務の各省は大破し死傷者も出た。三田小山町辺には地が裂けた所もあり、泥水を噴き出し、その様子は恐ろしい程であったと聞く。すぐに久保木から秀太郎が見舞に来る。ついで芝の兄も来る。私も小石川の中島先生を見舞う。先生はこの日、四谷の松平家にいてこの強震に遭われたとのこと。床の間の壁が落ちたり土蔵の腰巻きの壁が崩れるなど、松平家では大事であったとのこと。鍋島家では新築の洋館に被害が出て、珍しい貴重な品物が沢山破壊したとのこと。先生のお宅は大したことはなかった。

「今夜再び強震があるだろうと人々が言っているから」

といって、兄は泊まっていく。夜十時過ぎ頃に微震があった。)


「この頃の事すべて書尽しがたし。朝鮮東学党の騒動、我国よりの出兵、清国との争端、これらは女子の得(え)よくしるべき事にもあらず、かつは此頃打つゞき心のせわしきに、その日の事をその日にしたゝめあへねば、やがては忘れて散うせぬるも多かり。又折をまちてかひつけてん。

北里、青山両医博士、黒死病しらべとて香港に渡りたるは、いみじき名誉なりしや。青山博士の、その病につかれてあやふげなる電音(でんおん)おぼつかなし。知らぬ人にもあらぬ仲なれば、殊に哀なり。」

(事件が多いので、この頃の事をすべて書き記すことは出来ない。朝鮮の東学党の騒乱、それに対する我国からの出兵、そして清国との争いの起こり、これらのことは女子の身ではその事情を充分知ることは出来ない。またこのところ何かと心慌しい日が続いて、その日のことをその日のうちに記録することが出来ないので、そのまま忘れてしまったものも多い。またそのうちに思い出して記録しよう。

北里柴三郎、青山胤通両医学博士がペスト菌調査のため香港に行かれたのは非常に名誉な事でした。青山博士がそのペストに感染され生命が危険であるという報道があったが、気がかりな事です。全然知らない間柄でもないので、特に悲しく思われるのです。)

青山胤通;

明治27年(1894)南清国各地にペストが流行し、その研究に派遣されるも罹病し、数日間の危篤の状態になる。明治34年(1901)日本の臨床医学を確立し、明治34年(1901)東京帝国大学医科大学長。明治36年(1903)ドイツ・オーストリア・フランス・スイス・ロシア・イギリス・アメリカを歴訪、明治37年(1904)4月に帰国。明治40年(1907)桂太郎を総裁に、渋沢栄一を副総裁に癌研究会を発足させる。明治45年(1912)明治天皇崩御に際して、その拝診を仰せつかる。

内科医師の立場からペスト・脚気などの治療に取り組み、明治・大正にわたって、日本医学界の発展と改革に努めた。しかし、「脚気」の原因について東大の威光を背に最後まで伝染病説を主張したが、やがてビタミンB1が発見され後輩である島薗順次郎にビタミン欠乏症であることを証明されるにいたり敗北するという東大権威主義の一面もあった。大正4年(1915)所轄が内務省から文部省に替わった折に北里柴三郎に代わって伝染病研究所所長となる。


つづく

裏金事件で逆風の自民「沈みかけた船」 補選に立ち向かう一体感なし(朝日) / 〇裏金問題での首相の対応を… 評価しない 78%(朝日世論調査4/22) / こんな数値を無視しながら「信頼回復の先頭に立つ」とか言う首相。先頭に立って何もしないという技。 裏金問題で派閥幹部「証人喚問すべきだ」80%  首相の処分対象除外「納得できぬ」70%  森元首相に「国会で説明求めるべきだ」84% — 武田砂鉄 / 岸田首相に元側近も失望「そういう人。本当に人ごとだと思っている」 三ツ矢憲生氏が語る裏金事件と自民党(東京);「普通の選挙はすべて表の金でやれるはず。それができないようなことをやるから、ああいう格好(還流)でやったんじゃないかと」 / 裏金事件 は「首相の処分必要」 「トップは責任を取るためにいる。潔さ、覚悟が感じられない」 / 「自分は米国に行って、国賓待遇で迎えられて、立派な首相だと思っているかもしれない。しかしこれで日本は紛争に巻き込まれる可能性が高まる」 

 

 

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2024年4月22日月曜日

大阪万博ハコモノに固執…  中野信子氏 「デジタルのものを、わざわざハコモノを作ってデジタルにしてるって言う、『ギャグ』でやってるのかな?って思う人いると思いますけどね。このキャラクターもちょっと、本当に見てる方このキャラクターいいと思います?、、、、、」   

「万博 むなしさ漂う現場 『私たちさえ税の無駄遣いと思ってしまう』工事関係者が本音」(信濃毎日新聞)   

 

大杉栄とその時代年表(108) 1894(明治27)年6月6日~11日 軍隊の進退、軍機軍略に関する記事を厳禁する陸海軍省令 論説「朝鮮は朝鮮の朝鮮にあらず」(自由新聞) 東西「朝日」は、対清国強硬意見 清国派遣隊、牙山湾上陸 日本軍第1次派兵、宇品出港  一葉に久佐賀から手紙(歌道成道まで面倒をみるので「妾になれ」と提案) 全州和議成立 大鳥公使は軍隊派遣見合わせを打電   

 

朝鮮で活躍していた頃の若き袁世凱

大杉栄とその時代年表(107) 1894(明治27)年6月1日~5日 臨時閣議、混成1個旅団(7千人前後)の朝鮮派兵決議 第6議会抜き打ち解散 李鴻章、朝鮮第1次援兵900派遣指令 北村透谷追悼会 北村透谷追悼会 戦時大本営条例により大本営を動員(参謀本部内) より続く

1894(明治27)年

6月6日

清国公使館付武官神尾光臣少佐、清国第1次派遣隊は6日山海関出発と伝える。大本営は混成旅団動員完成後の出兵予定を、一戸兵衛少佐指揮の歩兵大隊先遣とする。

6月6日

漱石、狩野亨吉を訪ねる。

6月7日

清国駐在代理公使小村寿太郎、清国政府に公使館保護のための日本軍出兵を通告

6月7日

清国軍朝鮮出兵を知らせる行文知照、日本に届く。朝鮮国王の要請に応じ属邦保護のため出兵する旨を通告。陸奥外相、朝鮮を清国の属邦と認めずと抗議。

6月7日

軍隊の進退、軍機軍略に関する記事の新聞雑誌掲載を厳禁する陸、海軍省令

6月7日

7日付の「東京日日」、「朝鮮へ兵員を派遣する旨、我が政府より清国政府へ昨夜通報せられたる由」との記事で発行停止

第2次伊藤博文内閣の言論抑圧は日清戦争に至って激しさを加え、「大阪朝日」によると、27年中、治安妨害を理由に発行停止された全国各新聞・雑誌社は140社。

6月7日

論説「朝鮮は朝鮮の朝鮮にあらず」(「自由新聞」)。「わが帝国は宜しくこの時に乗じて・・・亜細亜の覇権を掌握するの機をなさんこと、是れ今日失うべからざるの好機にあらずや」と煽動。

6月7日

「大阪朝日」号外の「仁川通信員発」電報は、「昨日(五日)清国軍艦二艘、某国軍艦一艘、米国軍艦一艘来れり。軍艦尚ほ追々来るべし。清国の兵千五百上陸の通知今日ある筈なり」と事態の緊迫を伝え、東西「朝日」は、対清国強硬意見を掲げ、「国論を帰一して勇往邁進あるのみ」と主張。

6月7日

ペスト患者発生の米船ペリュー号、長崎に入港、市民を不安に陥れる。

6月8日

朝鮮、清国派遣隊、2次と合せ2,400余、忠清道牙山湾上陸。忠清道一帯布陣(京城~公州~全州を結ぶ要衝)。

6月8日

日本軍第1次派兵(一戸少佐大隊)、宇品出港

第1回目の清国徴発。済物浦条約第5条・天津条約第3条に藉口しての出兵。済物浦条約第5条主文は「日本公使館ハ兵員若干ヲ置キ護衛スル事」である。「若干」は、当初日本側提案は1大隊で、実際に駐屯した最大兵力は平時編成の歩兵2中隊で、その後1中隊に減じる。従って混成1個旅団8千は、済物浦条約第5条で正当化はできない。

11日、大鳥公使は、大島旅団長に対し、「当地ニ我兵員ヲ派出スル事ハ、本ト条約ニ照準シテ我公使館ノ警備ニ充ツルニ過ギザレバ、其名義上ヨリ考案ヲ下ダスモ多数ノ兵員ヲ要セズ」と指摘し、駐兵の沿革を述べ「故ニ公使館警備ノ為メニハ、多クトモ一大隊以上ノ兵ヲ置ク事ハ前例ニ照シテ不穏当ニ相捗り」、清韓両国は無論のこと「其他各国卜雖モ必ズ之ヲ視テ、穏当ノ処為卜倣サザルべク存候」と力説。大鳥公使は、済物浦条約第5条を理由として「大兵ヲ京城ニ繰入レ候事ハ、本使ニ於テ到底是視致兼候」と強調

陸奥外相は、天津条約第3条について、「両国が朝鮮に対する均等の権力を示したる唯一の明文にして、之を除きては朝鮮に対する権力平均に就き、日清両国の間に何等の保障だも存することなし」(「録」24)と述べ、その後の研究者もそれを踏襲し、ここに出兵の法的根拠を求める。しかし、陸奥自身は、別のところで「天津条約は、単に日清両国が軍隊を朝鮮に派出するの手続を規定するの外、他に何等の約束あることなし」(同75)と述べ、またイギリス政府が「朝鮮の事に付ては、一切日清両国の間に平衡を保つを以て天津条約の精神と認め」でいるのは、「条約の正解としてほ、全く之を誤りたるもの」(同25)と指摘するように、天津条約それ自身は出兵を合法化するものではない。

陸奥・川上は、混成旅団派兵が条約上正当な根拠がない事を自認しつつ、壬午軍乱(1882)・甲申事変(1884)で清国の軍事力に圧倒された経験に鑑み、「牙山の精兵は多く積りで五千人位なるぺし」と予定し、「我出兵を聞けば、必ず彼より来撃すべし」と判断し、その機に開戦にもちこむために混成旅団(兵8千)を派遣

しかし、全州和約がなり、公使館保護の名目が立たなくなり、牙山の清軍が自重して「瞬息の間に衝突すべきの模様もあらず」(「録」35)、大鳥公使も日清共同撤兵交渉に巻き込まれ、第1回挑発は失敗

6月8日

駐日ロシア公使ヒトロヴォ、陸奥外相に出兵理由問う。陸奥は中国の行動牽制のためと回答。ヒトロヴォ公使は、日本艦隊が朝鮮沿岸に集中しつつある、イギリス艦隊は巨文島に在泊し3ヶ付の物資を蓄積、我国東部国境に紛糾が及ぶ可能性ありと本国に急電。

6月8日

愛知馬車鉄道、設立。資本金15万円。'96年6月名古屋電気鉄道。

6月9日

李鴻章、英公使に日本の朝鮮派兵阻止を要請

6月9日

朝鮮、清国援軍、牙山に到着

6月9日

漱石、小屋(大塚)保治と共に狩野亨吉を訪ねる。

6月9日

一葉に充てて久佐賀から手紙。

「君が歌道熱心のため苦労しているのが憐れであるから、成業の暁まで自分が面倒をみよう。その代り君が一身を我に委ねてもらいたい」という。「妾になれ」ということである。一葉は、「かのしれ物、わが本性を何と見たのか」と憤慨するが、表面上は、「我を大事をなすに足りると見るならば、扶助を与え給え。しかし我を女と見て怪しき筋を考えるなら、お断りする」と返事。


「九日成(なり)けん、久佐賀より書状来る。「君が歌道熱心の為に、しか困苦せさせ給ふさまの、我一身にもくらべられていと憐(あはれ)なれば、その成業(せいげふ)の暁(あかつき)までの事は、我れに於て、いかにも為して引受ペし。され共(ども)、唯一面の識(みしり)のみにて、かゝる事を、『たのまれぬ』とも、『たのみたり』ともいふは、君にしても心ぐるしかるべきに、いでや、その一身をこゝもとにゆだね給はらずや」と、厭ふべき文の来たりぬ。「そもや、かのしれ物、わが本性をいかに見けるにかあらん。世のくだれるをなげきて、こゝに一道の光をおとさんとこゝろざす我れにして、唯目の前の苦(くるしみ)をのがるゝが為に、婦女(おんな)の身として尤(もつと)も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや。あはれ笑ふにたえたるしれものかな。さもあらはあれ、かれも一派の投機師(やまし)なり。一言一語を解きざる人にもあらじ」とて、かへしをしたゝむ。「一道を持て世にたゞんとするは、君も我れも露ことなる所なし。我れが今日までの詞(ことば)、今日までの行(おこなひ)、もし大事をなすにたると見給はゞ、扶助を与へ給へ。われを女と見て、あやしき筋になど思し給はらは、むしろ一言にことはり給はんにはしかず。いかにぞや」とて、明らかに決心をあらはして、かなたよりの返事をまつ。」


(九日の日でしたか、久佐賀から手紙が来た。

「貴女が歌道に熱心に努力しておられるためにひどく困窮しておられることが、私自身の身にも考え合わせられて、大層お気の毒に思いますので、その成果が上がるまでの日々の生活のことは、私の方で何とかしてお引き受け致しましょう。しかしただの一面識の間柄で、このような事を頼まれることも、また頼むということも、貴女ご自身としても心苦しいことと思われますので、そこで、貴女のご一身をすっかり私にお任せ下さいませんか」

との、まことに嫌らしい文面でした。

一体あの不届き者はこの私の本性をどう見ているのだろうか。世の中が次第に衰え退廃して行くのを欺いて、それを救うために一筋の光をともそうと志しているこの私が、ただ目の前の困窮の苦しみから逃れるために、女の身にとって最も尊く最も大切なこの操を、どうして破ることが出来ようか。まことに笑おうにも笑えないほどの無礼な不届き者よ。そうは言っても、彼も一箇の相場師だとすれば、こちらが言う一言一の意味が全く分からない人でもあるまいと思って、返事を書く。

「それぞれに専門の道をもって世のために尽くそうとする点では、あなたも私も少しも違いはないのです。私の今日までの言葉や今日までの行いをご覧になればお分かりのことと存じますが、もし大事をなすに足るとお思いになりましたら経済的な援助をお与え下さい。私を単なる女とだけご覧になって、変な怪しからぬ事などをお考えなさるようでしたら、むしろきっぱりお断り下さった方がよいのです。どのようにお考えでしょうか」

と、はっきり私の決心を書いて、先方からの返事を待つことにした。)

「文(ふみ)を出すの夜、返事来る。おなじ筋にまつはりて、にくき言葉どもをつらねたる。「今は又かへしせじ」とて、そのまゝになす。

かの人丸も我家を訪ひたり。かゝる人に似合しからずと見ゆるは、かへすがへす我れを浮世の異人なるよしたゝえて、「長き交際(つきあひ)を結ばまほしき」よしなどいふ。おもしろからぬ者ども也。」

(手紙を出したその晩に返事が来る。同じことをごたごたと書き、不愉快な言葉を書き並べている。もう返事など出すものかと、そのままにする。

あの人丸も私の家へ訪ねて来た。どうも世捨て人らしくもないと思ったのは、何度も繰返し繰返し私を世にも珍しい立派な人だと褒めたたえて、長く交際を願いたいなどと言うのでした。全く面白くない人ばかりいることよ。)

6月10日

朝鮮、休暇帰国中の朝鮮駐在公使大鳥圭介、海軍陸戦隊420率い仁川上陸。漢城入京。

11日、各国外交団、大鳥公使に日本軍の出兵理由を質問。農民兵は解散し京城は平穏で、軍隊上陸は外交上の難問を惹起すると判断、軍隊派遣の見合わせを本国へ打電

6月11日

朝鮮、全州和議

招討使洪啓薫と交渉。平和を回復し、日清両国に出兵口実を与えないため。幣制改革(封建的身分の廃棄、貪官汚吏処罰、封建的収奪制限、土地の平均分作など)と農民軍全州撤退、解散。「大都所」-全羅道中50の農民軍「執綱所」。<国家機構の分裂・二重化>

6月11日

豊田喜一郎、誕生。


つづく


岸田首相が「私の責任で聞き取り調査を行いました。記録はございません」と答弁すると、委員会室から「うわー」という声があがった。(朝日4/22) / 裏金問題 森元首相に「国会で説明求めるべきだ」84% 世論調査 | 毎日新聞 / 下村博文「森会長の時にそういうスキームを作って」「もし国会で『その通りでしょう』みたいなことを言ったら…大騒ぎになる」 / こどものおつかい以下! 〈電話で事情聴取なんてありえない 森氏は「ご機嫌伺いのような話だった」と言ってる〉 → 岸田総理 森元総理への聴取は「やりとり明らかにしない前提」で実施 裏金事件への関与は確認できずと改めて強調(TBS) / 「内容を明らかにしない事情聴取というのは事情聴取ではない」 / 岸田首相の森喜朗「電話聴取」の一問一答がヤバすぎ《茶番劇「ご指導をお願いしたい」の一部始終》          

 

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幹事長のおひざ元で連敗、党内に衝撃広がる 大東市長選で維新が敗北(朝日) / 小池百合子知事、都内首長選の〝連勝〟ストップ 目黒で支援候補敗北 今後の戦略に影響か(産経) / 倉敷市議補選2人決まる 投票率11.84%(参政党議員がトップ、次点は恐喝未遂で起訴されて辞職した議員の娘)