1912年9月13日(明治天皇の大喪の礼の日)の夏目漱石
大杉栄とその時代年表(305) 1900(明治33)年10月25日~28日 漱石、パリ(午前8時頃)~ディエップ~(ドーバー海峡)~ニューヘヴン~ロンドン着(午後7時頃) 大塚保治が紹介してくれたガワー街の宿に宿泊 「自分はのそのそ歩きながら、何となくこの都にいづらい感じがした。」 より続く
1900(明治33)年
10月28日
〈漱石『文学論』(序)にみる漱石「英国留学時代」の研究の変遷〉
漱石『文学論』(序)(青空文庫)
明治33年(1900)5月、漱石は第五高等学校在任中に、文部省から2年間の英国留学の命令を受けた。
「余が英国に留学を命ぜられたるは明治三十三年にて余が第五高等学校教授たるの時なり。当時余は特に洋行の希望を抱かず、且つ他に余よりも適当なる人あるべきを信じたれば、一応その旨を時の校長及び教頭に申し出でたり。校長及び教頭は云ふ、他に適当の人あるや否やは足下の議論すべき所にあらず、本校はただ足下を文部省に推薦して、文部省はその推薦を容れて、足下を留学生に指定したるに過ぎず、足下にして異議あらば格別、さもなくば命のごとくせらるるを穏当とすと。余は特に洋行の希望を抱かずと云ふ迄にて、固より他に固辞すべき理由あるなきを以て承諾の旨を答へて退けり。」(『文学論』序)(*1)
明治33年9月、漱石は横浜港より出発しパリを経て、10月28日に英国に到着した。
漱石は、ロンドン大学へ通い講義を聴講するとともに、シェイクスピア学者であるクレイグ先生の個人授業を受けている。しかし大学の聴講は数ヶ月でやめてしまう。
「余は先づ走つて大学に赴き、現代文学史の講義を聞きたり。又個人として、私に教師を探り得て随意に不審を質すの便を開けり。
大学の聴講は三四ケ月にして已めたり。予期の興味も智識をも得る能はざりしが為めなり。私宅教師の方へは約一年間通ひたりと記憶す。」
漱石は留学の機会に、有名な作品、題名だけは知っているがまだ読んだことのない作品を読破しようと決心する。しかし1年後、読み終えた本のあまりの少なさに愕然とする。
「擅(ほしいま)まに読書に耽るの機会なかりしが故、有名にして人口に膾炙せる典籍も大方は名のみ聞きて、眼を通さゞるもの十中六七を占めたるを平常遺憾に思ひたれば、此機を利用して一冊も余計に読み終らんとの目的以外には何等の方針も立つる能はざりしなり。かくして一年余を経過したる後、余が読了せる書物の数を点検するに、吾が未だ読了せざる書物の数に比例して、其甚だ僅少なるに驚ろき、残る一年を挙げて、同じき意味に費やすの頗る迂闊なるを悟れり。」
漱石は、幼いころから親しんできた漢文でいうところの文学と、現在彼が学んでいる英語でいうところの文学とが、まったく異なっていることに深く懊悩する。
「余は少時好んで漢籍を学びたり。之を学ぶ事短きにも関らず、文学は斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々裏(めいめいり)に左国史漢(さこくしかん)より得たり。ひそかに思ふに英文学も亦かくの如きものなるべし。斯の如きものならば生涯を挙げて之を学ぶも、あながちに悔ゆることなかるべしと。余が単身流行せざる英文学科に入りたるは、全く此幼稚にして単純なる理由に支配せられたるなり。(略)
卒業せる余の脳裏には何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり。(略)
翻つて思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあらず、然も余は之を充分味ひ得るものと自信す。余が英語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく迄に岐かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず。
大学を卒業して数年の後、遠き倫敦の孤燈の下に、余が思想は始めて此局所に出会(しゆつかい)せり。(略)余はこゝに於て根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。」
「根本的に文学とは如何なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心」した漱石はロンドンの下宿に籠り、蝿の頭ほどの小さな文字で膨大なノートを作るという作業に没頭する。
「余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが如き手段たるを信じたればなり。(中略)
余が使用する一切の時を挙げて、あらゆる方面の材料を蒐集するに力め、余が消費し得る凡ての費用を割いて参考書を購へり。此一念を起してより六七ケ月の間は余が生涯のうちに於て尤も鋭意に尤も誠実に研究を持続せる時期なり。(中略)
余は余の有する限りの精力を挙げて、購へる書を片端より読み、読みたる箇所に傍註を施こし、必要に逢ふ毎にノートを取れり。始めは茫乎(ぼうこ)として際涯のなかりしものゝうちに何となくある正体のある様に感ぜられる程になりたるは五六ケ月の後なり。(中略)
留学中に余が蒐めたるノートは蠅頭の細字にて五六寸の高さに達したり。余は此のノートを唯一の財産として帰朝したり。」
『文学論』序の末尾で漱石は英国留学について次のように語っている。
「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。(中略)
英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由。(中略)
帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼(けん)狂人のよしなり。親戚のものすら、之を是認するに似たり。親戚のものすら、之を是認する以上は本人たる余の弁解を費やす余地なきを知る。たゞ神経衰弱にして狂人なるが為め、「猫」を草し「漾虚集(ようきょしゅう)」を出し、又「鶉籠(うずらかご)」を公けにするを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気に対して深く感謝の意を表するのは至当なるを信ず。」
"(*1)
「洋行の希望を抱かず」とあるが、これは大いに疑問。当時の漱石は、英語教師の仕事に飽き飽きしていた。
教師なって以来の精神状況について、漱石は大正3年11月25日に学習院で行われた講演『私の個人主義』で次のように語っている。
「私はそんなあやふやな態度で世の中へ出てとうとう教師になったというより教師にさせられてしまったのです。幸に語学の方は怪しいにせよ、どうかこうかお茶を濁して行かれるから、その日その日はまあ無事に済んでいましたが、腹の中は常に空虚でした。空虚ならいっそ思い切りがよかったかも知れませんが、何だか不愉快な煮え切らない漠然たるものが、至る所に潜んでいるようで堪らないのです。しかも一方では自分の職業としている教師というものに少しの興味ももち得ないのです。教育者であるという素因の私に欠乏している事は始めから知っていましたが、ただ教場で英語を教える事がすでに面倒なのだから仕方がありません。私は始終中腰で隙があったら、自分の本領へ飛び移ろう飛び移ろうとのみ思っていたのですが、さてその本領というのがあるようで、無いようで、どこを向いても、思い切ってやっと飛び移れないのです。
私はこの世に生まれた以上何かしなければならん、といって何をしてよいか少しも見当がつかない。私はちょうど霧に中に閉じ込められた孤独の人間のように立ちすくんでしまったのです。そしてどこからか一筋の日光が射して来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条(ひとすじ)でよいから先まで見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかも嚢(ふくろ)の中に詰められて出ることのできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本の錐さえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥(あせ)り抜いたのですが、あいにくその錐は人から与えられることもなく、また自分で発見するわけにも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるんだろうと思って、人知れず陰鬱な日を送ったのです。 私はこうした不安を抱いて大学を卒業し、同じ不安を連れて松山から熊本へ引越し、また同様の不安を胸の底に畳んでついに外国まで渡ったのであります。」
漱石は、「嚢の中に詰められて出ることのできない人のような気持」に囚われ、嚢を突き破る錐を懸命に探し求めてきた。留学することによってそのような閉塞状況を突破しようとしていたのだと思われる。
つづく