2025年3月25日火曜日

自宅近くでもソメイヨシノ開花 コヒガンザクラ散り始め 陽光五分咲き 2025-03-25

 3月25日(火)晴れ

横浜市でもソメイヨシノが開花した。元町の気象台にある基準木の開花が公式開花となるのだが、自宅近くのソメイヨシノも驚くほど一斉に開花した。

20日頃から注意して見てたけど、ずっと蕾は固く(見えたので)、今年は天候不順(寒い日が多かった)なので、累計気温の法則は通じないのだろうと思ってたけど、なんのなんのバッチリ的中ではないだろうか。

しかも、開花した花を探すという感じではなく、あっちでもこっちでも、ドッと咲いている(感じがする)。

ソメイヨシノは一週間がイノチなので、天候の具合を見ながら、どこへ行くが決めないとね。






▼コヒガンザクラ そろそろ散り始め

▼最近、自宅近くでよく見かける桜、多分「陽光」だと勝手に判断している



トランプ氏、透ける独裁者への憧憬 プーチン氏に傾倒(日経);「トランプ氏は第1期目の在任中にナチス・ドイツの独裁者ヒトラーを挙げ「彼の周囲にいたような完全に忠実な将軍が必要だ」と漏らした。」 「1期目に同盟国や既存の国際秩序を重んじる高官らと対立した教訓から、忠臣を並べて「異論を挟ませない王朝を築こうとしている」(元民主党政権高官)。独裁者に傾倒するトランプ氏の振る舞いは、米国が盟主として守ろうとしてきた民主主義への挑戦にほかならない。」   

 



 


小池百合子知事、スマホの「東京アプリ」普及に税金799億円投入へ 「官製ポイ活」にお金をかけすぎでは?(東京) / その普及などのために、都は新年度当初予算案にポイント付与経費20億円を計上。今秋にも、アプリを導入した都民に7000円相当のポイントを配るキャンペーンに799億円を投じるという。お金をかけすぎでは?

 

大杉栄とその時代年表(445) 1903(明治36)年5月22日~31日 「藤村操の死はたしかに時代的意義を持つて居た。日本は明治以来欧米列強の圧迫に囲まれて、富国強兵の一途に進んで来た。一高の籠城主義だとか勤倹尚武だとかいふものも、結局は日本のその趨勢の一波に過ぎなかった。ところが朝鮮問題を中心として日清戦争があっけない勝利に終り、更に十年を経て日露戦争が起こる前後から、国家問題とそれを中心とする立身出世に余念のなかった昔年の間に、国家でなく自己を問題にする傾向が起って来た。」(安倍能成『我が生ひ立ち』)

 

木に彫られた巌頭之感

大杉栄とその時代年表(444) 1903(明治36)年5月9日~21日 漱石、「第一高等学校に初めて出講する。藤村操に指名すると昂然として、「やって来ません」と答える。〝何故やって来ない〞と聞き返すと、「やりたくないからやって来ないです」とか何とか答えるので、”此次やって来い”と言い渡す。」 / 「第一高等学校で、前回にも指名した藤村操に訳読を指名すると、また予習して来ない。”勉強する気がないなら、もう此教室へ出て来なくてよい”といい渡す。」(荒正人) より続く

1903(明治36)年

5月22日

千島海域を測量中の軍艦「操江」、根室沖で沈没、乗員全員が死亡。

5月22日

第一高等学校生徒の藤村操(18)、「巌頭之感」を残し、日光華厳の滝に投身自殺。以降4年間で、この滝の投身者185名(助かった者を含む)。

「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。ホレーンョの哲学竟に何等のオーソリチーを価するものぞ。万有の真相は唯だ一言にして悉す、日く「不可解」。我この恨を懐きて煩悶終に死を決するに至る。」(「巌頭之感」)

「約四ヶ年の今日までに、未遂、既遂を合はせて其無分別を真似たる者百八十五名と云ふ多数に及びたる由にて、其内に可惜生命を滝壷の泡にして了つた者四十余名有」(「時事新報」明治40年8月25日)

「藤村操は、明治三十六年五月二十二日(金)、華厳の滝の絶頂にある楢の大樹に「巌頭之感」と題する一文を彫りつけて投身自殺する。(十六歳十か月)

「悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからんとす。ホレーシヨの哲學竟に何等のオーソレチーを價するものぞ、萬有の眞相は唯一言にして悉す、曰く『不可解』。我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安無し。始めて知る大なる悲親は大なる樂観に一致するを」

この蒔件を積極的に取り上げたのは、黒岩周六(涙香)で、五月二十七日(水)の『万朝報』に『少年哲學者を弔す』の一文を掲げる。また、五月二十七日(水)の『万朗報』には、那珂通世(高等師範学校教授、東洋史)の一文も掲げられる。

藤村操は、那珂通世の甥であった。この文章は、驚きと悲しみの情が溢れていた。この事件は長く世間を騒がせた。また、流行となり、その後、十数名の学生が華厳の滝で自殺する。

藤村操の妹恭子と結婚した安倍能戌は、後年つざのように述べている。「これは他人には分らぬ謎ではあらうが、私は彼の少年らしい学問的大望の幻滅に加へて、失恋の跡が見られるやうな気がする。」「藤村操の死はたしかに時代的意義を持つて居た。日本は明治以来欧米列強の圧迫に囲まれて、富国強兵の一途に進んで来た。一高の籠城主義だとか勤倹尚武だとかいふものも、結局は日本のその趨勢の一波に過ぎなかった。ところが朝鮮問題を中心として日清戦争があっけない勝利に終り、更に十年を経て日露戦争が起こる前後から、国家問題とそれを中心とする立身出世に余念のなかった昔年の間に、国家でなく自己を問題にする傾向が起って来た。」(安倍能成『我が生ひ立ち』昭和四十一年十一月二十八日 岩波書店刊)」(荒正人、前掲書、段落を付加した)

「一高の学生の中に、藤村操という最年少の学生がいた。彼は何度指名しても「やって来ません」を繰り返し、立腹した漱石から、予習してこないのならもう授業に出るな、と叱られた。

藤村は東京生まれで、父の事業に従って札幌で育った。だが父親は銀行事業に失敗して自殺、母とともに上京して伯母の許から一高に通ったが、勉強にはまったく気が入らなかった。彼は無断で家を出、日光から「世界に益なき身の生きてかびなきを悟り」という意味の手紙を伯父伯母宛に出し、五月二十二日華厳の滝で投身自殺を遂げた。傍らの樹に、「万有の真相は唯一言にて悉す 曰く「不可解」などの辞世の文を遺したことは周知のとおりである。

漱石はそれを新聞で知った日、朝出会った学生に、藤村はどうしたんだろう、と尋ねたという。彼は自分が怒ったことが原因かと気にしていたのかもしれない。だが遺書の「巌頭の感」がひろく知れわたり、自分の責任ではなく生への煩悶であることを知ったとき、彼は多少の安堵感を持つとともに、あらためて自分の生の苦痛を深めたに違いない。特に「大なる悲観は大なる楽観に一致する」という末尾は、彼の考えと一致している。後述するように、彼は後に新体詩「水底の感」を「藤村操女子」の名で作った。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

この年9月から始める「文学論」の講義で、漱石は、藤村の死をエトナ山に投身自殺したギリシャの哲学者エムペドクレスと較べて語る。

27日の「万朝報」には、社長兼主筆黒岩涙香(周六)が「天人論の著者」という筆名で、改めて藤村操の「巌頭之感」を全文引用し、「少年哲学者を弔す」という文章を掲載。


「我国に哲学者無し、この少年に於て初めて哲学者を見る。否、哲学者無きに非ず、哲学の為に抵死する者無きなり。

独のシヨツペンハウエル、悲観の極に楽観ありと為す。而も自死するに抵らず。然らば哲学の極致は自死に在るか。日く、何ぞ然らん、唯だ信仰の伴はざる哲学は、茲に窮極するなり。」(「万朝報」明治36年5月27日)」


藤村と同級であった安倍能成による、この時期の青年たちの心理。


「三十四五年頃から日露戦役の頃までの間は、人生問題が青年の関心事になり、所謂青年の煩悶と青年の自殺との問題が頻に教育者の頭を悩ますに至った。その内生活に於て国家的公共的生活と離れんとし、その潔癖と感情とによつて世俗的事功と好尚とを卑まんとした彼等青年にとつての人生問題は、結局自己の問題に帰した。」(「明治思想界の潮流 - 文芸評論を中心として」昭和7年10月)

5月23日

サトウ・ハチロー、誕生。

5月23日

パリ-マドリード間の自動車レース(参加車250台)、死亡事故続発のため中止。

5月23日

米ウィスコンシン州、初の予備選挙制採用。

5月24日

政府・政友会妥協。政友会議員総会で、地租増徴案に関する妥協案承認。尾崎行雄らは反発して脱党。

25日政府、地租増徴継続案撤回。

5月24日

日本初のゴルフクラブ、神戸ゴルフ倶楽部が開場

5月24日

ムウェジ2世ブルンジ国王と独に、保護条約締結(キガンダ協定)。

5月25日

横川省三、安東に渡りロシアの馬賊工作を知る。龍岩里を統括する参謀マトリトフ中佐は、馬賊頭目林七・李大本を利用。彼らの雇った馬賊の乱暴狼藉を働いたため、清国討伐隊が制裁、処刑。マトリトフは討伐隊指揮官を連行するが、清国市民との間で一触即発の状況となり釈放。

5月25日

東大で講義する漱石


「五月二十五日(月)、晴。東京帝国大学文科大学で午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。三年生の石川林四郎から英誌の「スカンション」(詩行の韻律調べ)の誤りを指摘され、質問に応じたので、講義は進まない。」(荒正人、前掲書)


「五月二十五日 月 晴 暖

午前エリオットのサイラス・マーナーを復修す。一時より三時迄夏目氏の(英)文学概論に出席す。休みなく引続けらるゝには閉口す。講義中三年生の秀才石川林四郎氏、先生の誤解せる点を上げて質問す。(石川)氏はなかなか博覧なり。講義終にうやむやにもみけす。能き気味なりき。夏目氏の散文的なるは,余の最も好まざる所なり。俳句などに時々筆を染む,と聞きてはあきれざるを得ず。苟も英文学を修めし身が、此(かか)る不具的小詩形に依(り)て想を写さんとするに至りては、実にはつかしき事に非ずや。… 夜サイラス・マーナーを読みしが心に入らず。」(金子健二日記)

5月26日

東大で講義する漱石


「五月二十六日(火)、曇り。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。午後二時から四時まで「英文学概説」を講義する。

五月二十七日(水)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。「先日第一高等學校文科の一生徒藤村操が日光華厳の瀑に投じて自殺した事が今日英文科の各クラスの大きな話題となった。」(金子健二『人間漱石』)藤村操の自殺を新聞で知り驚く。第一高等学校の授業時間に、最前列の生徒に”藤村はどうして死んだのだ”と聞くと、「先生心配ありません、大丈夫です」というので、”心配ないことがあるものか、死んだんじゃないか”と云う。(野上豊一郎)」


「漱石は、教壇に立って一か月めであったこともあり、藤村操が訳読の下読みをして来ない理由で二度注意した、そのため自殺したのではないかと心配する。『吾輩は猫である』(第十)や『文學論』(第二編第三章)でも触れる。なお、藤村操の自殺は、東京帝国大学でも大きな話題となる。」(荒正人、前掲書)

5月27日

鄒容、『革命軍』発表(「蘇報」)。

5月27日

衆議院、憲政本党の内閣弾劾上奏案を、228対123で否決。

5月27日

ペルシア、英との新関税協定締結。

5月28日

駐韓公使林権助の小村寿太郎宛意見具申電報。韓国王室は事大的で、このままではロシアに屈服する。ロシアを森林事業だけに制限させるため、ロシアの満州での「僭越ヲ抑止」するため、態度を強固にすべき。

5月28日


「五月二十八日(木)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。(第三学期最終講義)試験の結果で、新学年度の講義は文学を重んじるか、語学を重んじるかどちらかに決めると学生に話す。

五月三十日(土)、曇。午後、寺田寅彦来る。」


「「こんなくだらない話があるものか、われわれが英文科に入學したのは英文學に親しまんが為なのでめって、語學をけいこする考へならば初めから大學になどわざわざ入學する理由はないのだ」と不平を洩らす。(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)

5月28日

イスタンブールで地震。死亡2千人。

5月29日

外務省政務局長山座円次郎・陸海軍省の中堅幹部、料亭「湖月」集合。対露強硬意見、決議(「戦争ヲ賭シテ露国ノ横暴ヲ抑制スル・・・」)。

他に、外務省官房電信課長石井菊次郎、大臣秘書官本田熊太郎ら。陸軍は参謀本部総務部長井口省吾少将、同第1部長松川敏胤大佐、同参謀田中義一少佐、陸軍大学校福田雅太郎少佐ら。海軍は軍令部第1局長富岡定恭大佐、「和泉」艦長八代六郎大佐、海軍大学校教官秋山真之少佐ら。

決議

「帝国ハ今時ヲ以テ一大決心ヲ為シ、戦争ヲ賭シテ露国ノ横暴ヲ抑制スルニ非レバ、帝国ノ前途憂慮スベキモノアリ。而シテ、今日ノ機会ヲ失シテハ、将来決シテ国運回復ノ機ニ会セザルベシ」

但し書

「但シ、此ノ決議ハ唯各自一身ノ覚悟ヲ決スル為ノ研究ニ止ラシメ、政治運動ヲナスベキ為ニ非ズ」

5月29日

衆議院、高田早苗提出の「教科書疑獄につき大臣が責任を負うべし」との決議案を可決。結果、菊池大麓文相、辞職。

5月30日

衆議院、海軍拡張案可決(六六艦隊)。政友会から脱党者続出。

6月2日、貴族院も可決。

5月31日

啄木(17)、石川白蘋の筆名で評論「ワグネルの思想」(『岩手日報』、~6月10日、7回連載)発表、反響なし。


つづく


2025年3月24日月曜日

「不安しかない」議員から商店主まであきらめムード…万博開幕直前の大阪で流れる「不穏すぎる空気」(FRIDAY) / 万博に行きたいとは思わない74%(共同) / 大阪万博「ガス引火」の懸念は消えず 西ゲート付近喫煙所は設置断念も、たばこポイ捨てで…専門家が警鐘(日刊ゲンダイ) / 大地震発生なら夢洲は孤立の恐れ 来場者の安全どう守る?(毎日) / 生体情報に結婚歴まで…万博の前売り入場券、個人情報に懸念 販売目標未達で焦点は開幕後(産経) / 4万人招待「万博リハーサル」複数の海外パビリオン「開幕までに完成しない」と参加せず 海外パビリオン42館のうち「使用許可」でているのは3月19日現在『2館』のみ(FNN)      



 

大杉栄とその時代年表(444) 1903(明治36)年5月9日~21日 漱石、「第一高等学校に初めて出講する。藤村操に指名すると昂然として、「やって来ません」と答える。〝何故やって来ない〞と聞き返すと、「やりたくないからやって来ないです」とか何とか答えるので、”此次やって来い”と言い渡す。」 / 「第一高等学校で、前回にも指名した藤村操に訳読を指名すると、また予習して来ない。”勉強する気がないなら、もう此教室へ出て来なくてよい”といい渡す。」(荒正人) 

 

藤村操

大杉栄とその時代年表(443) 1903(明治36)年5月1日~8日 「夏目先生のあの批評的なそして又叡智的な目とあのカイザー型の気取つたお髭とはなんとなく私達書生にとりて、接し難いやうな畏ろしいやうな印象を與へたのである。」(金子健二『人間漱石』) より続く

1903(明治36)年

5月9日

米、ヘイ国務長官、高平小五郎駐米公使に対露交渉に関して日英米連合運動の必要を認めずと言明。

5月10日

参謀本部各部長(主務者第1部長松川敏胤大佐)、軍備整頓の意見書を総長大山元帥へ提出。

12日、大山元帥、上奏。後、写しを首相桂太郎大将・陸相寺内正毅中将・軍令部長伊東祐亨大将に送る。

参謀本部では、これまでにも総務部長井口省吾少将、第一部長松川敏胤大佐、第二部長福島安正少将らが、次長田村怡与造少将に戦備促進の意見を具申。

海軍も「事態ノ急迫」を感得し、5月9日、軍令部参謀小田喜代蔵中佐が参謀本部総務部長井口少将を訪ねる。井口少将は、参謀本部の意見は未確定だが「余一個ノ意見」として、「露国ノ横暴ハ、口舌ヲ以テシテ之ヲ抑止スべキニアラズ。帝国タルモノ断然タル決心ヲ採ルハ巳ムヲ得ザル所ニシテ、又最モ時宜ニ適スルモノナリ」と延べ、小田中佐も、海軍側の観察として「我ガ帝国ノ決心一日遅ルルハ一日ノ不利ナリ」と述べる。

参謀総長大山巌元帥の上奏:

「……今後ニ於ケル露国ノ行動ハ、其慣用手段タル脅喝ヲ以テ帝国ヲ威喝シ其態度ノ硬軟ヲ見テ多少ノ利ヲ占メソトスルカ、若クハ飽ク迄モ兵力ニ訴へ勝敗ヲ決セントスルカニアルベク、目下ノ戦略関係ハ我ニ有利ナルモ、年月ヲ累ヌルニ従ヒ彼是其情勢ヲ転ズルニ至ルベク、且韓国ニシテ彼ノ勢力下ニ置カルルニ至ラバ、帝国ノ国防亦安全ナラザルベシ。

宜シク速ニ帝国軍備ノ充実整頓ヲ図ルベシ」


この日は、第18特別議会開会日。意見書は、前議会から難航している軍備拡充予算通過に対する、政府の一層の奮発を促す狙いもある。

5月11日

留日学生黄興ら、軍国民教育会設立。

5月11日

全国慈善大会、大阪で開催。日本慈善同盟会(のち中央慈善協会を経て中央社会事業協会)の設立可決。

5月12日

草野心平、誕生。

5月13日

ロシア兵、義州付近に侵入。

5月13日

漱石、第一高等学校に初めて出講

第一高等学校に前年9月に入学し、このとき1年級にいた生徒には、野上豊一郎(20)、茅野儀太郎、安倍能成(20)、青木得三、中勘助、有田八郎、前田多門、堀切善次郎、藤村操(17、東京高等師範学校の歴史学の教授那珂通世の甥)などがいた。

臼杵中学から来た野上豊一郎は、五高の雑誌に夏目が俳句を書いていたことを知っており、松山中学から来た安倍能成は、小学生のとき松山中学の先生だった夏目の後をつけて歩いたこともあり、夏目が子規の友人であり、俳句を作っていることを知っていた。

「五月十三日(水)、曇。東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。第一高等学校に初めて出講する。藤村操に指名すると昂然として、「やって来ません」と答える。〝何故やって来ない〞と聞き返すと、「やりたくないからやって来ないです」とか何とか答えるので、”此次やって来い”と言い渡す。(野上豊一郎)

五月十四日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。

五月十八日(月)、雨。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

五月十九日(火)、曇。東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

夜、寺田寛彦・高浜虚子・坂本四方太・帝国大学文科大学学生某(氏名不詳)など来る。みやげに団子持参する。能・文章・故正岡子規・中村不折などについて話す。 Water Color (水彩画)をみる。苺を出す。(「寺田寅彦日記」)」(荒正人、前掲書)

5月14日

長崎三菱造船所鉄工部900名賃上要求スト。~19日。

5月15日

英、ランズダウン外相、露の鉄道敷設計画に警告し、ペルシア湾の英権益擁護を声明。

5月15日

英、関税改革運動開始。ジョゼフ・チェンバレン植民相、保護関税を提唱。反対論多数。

5月16日

朝鮮、駐清公使内田康哉が派遣した「東文学社」教習横川省三・義州の材木商宮崎某、ロシアが進出した龍岩里部落入り。怪しまれ退去し、別に清国人張発を派遣。全てが参謀マトリトフ中佐が管轄し、「東亜木材会社」も政府事業と見る。

5月17日

幸徳秋水「日本の東洋政策」(「万朝報」)。この時点では、秋水はまだ朝鮮領有化を主張している。


「日本今日の急は朝鮮の経営に在り、……、人口過剰に苦しめる日本は、彼の茫漠たる朝鮮の沃野を以て、何ぞ直に日本農民の鋤犁(すき)の下に置かざるや、若し多数の人口にして朝鮮の地に住し、其富源は、其農工は、全く日本人の手に落つるに至らば、是れ朝鮮を以て事実上、日本のプロテクトレート(保護領)と為す者に非ずや」


5月19日

衆議院委員会、地租増徴案否決。

20日、桂首相、政友会総務と正式の妥協交渉開始。

21日から3日間停会。

24日、政友会議員総会で妥協案承認。尾崎行雄・片岡健吉・林有造らは反発して脱党。政友会からの除名・脱党者、政友倶楽部結成。)

25日 政府、地租増徴継続案撤回。

5月20

漱石、一高の講義で予習をしてこない藤村操を叱る


「五月二十日(水)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Silas Maner (『サイラス・マーナー』)を講義する。第一高等学校で、前回にも指名した藤村操に訳読を指名すると、また予習して来ない。”勉強する気がないなら、もう此教室へ出て来なくてよい”といい渡す。(野上豊一郎)

五月二十日(木)、雨。東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。訳読の指名を避けるために、入口近くに坐っていた学生に指名してみると、出来がよくないので、絞る。(最近は、前の席はがら空きである。指名を避けるためである)

菅虎雄宛手紙に、東京帝国大学文科大学の講義の評判が悪いこと、大塚保治の三女が死去したので、漱石が借用していた金を返却して欲しいといわれ、山川信次郎から融通して貰い、返却に応じたこと、その時自転車の稽古をしてみたことなど伝える。」(荒正人、前掲書)

5月21

清国の皇族貝子載振参内謁見。

5月21

英、帝国関税組合設立を求めるジョゼフ・チェンバレンのキャンペーンにより関税同盟が創設。大英帝国内の特恵貿易を促進。

5月21

大審院、盗電有罪判決。電気は有体物ではないが、可動性・管理可能性を有するため窃盗罪の対象となりうるとする。

5月21

清国の皇族貝子載振参内謁見。



つづく


2025年3月23日日曜日

トランプ氏、法律事務所も報復の標的に 「私を攻撃」(日経);「トランプ氏は21日、こうした措置は法律事務所への威圧ではないかとの記者の質問に対し「それらの法律事務所は悪事を働き、私を何年にもわたって攻撃した」と反論し「法律事務所は皆、取引をしたがっている」と強調した。」

大杉栄とその時代年表(443) 1903(明治36)年5月1日~8日 「夏目先生のあの批評的なそして又叡智的な目とあのカイザー型の気取つたお髭とはなんとなく私達書生にとりて、接し難いやうな畏ろしいやうな印象を與へたのである。」(金子健二『人間漱石』)

 

漱石のカイザー髭

大杉栄とその時代年表(442) 1903(明治36)年4月26日~30日 「東京朝日」主筆池辺三山、開戦辞せずとして強硬論を唱える。「英国のアバーヂーン内閣は最も平和を愛好するの内閣と称せられたりき。殊にアバーヂーンは最も露国と親善なる交渉を維持せんことを希望したりき。而も内外の形勢は遂に此の平和的内閣を馳りてクリミヤの大戦を敢てするに至らしめぬ。日本は固より露国の条約履行(露清間の満州還付条約)を希望するの外他意なしと雖も、其利益を防衛し東洋の平和を維持するの必要に余儀なくせらるゝあらば、当年アバーヂーン内閣に倣はざらんと欲するも得じ」 より続く

1903(明治36)年

5月

ロシア軍、鴨緑江を越えて韓国領内の龍嚴浦に至り軍事根拠地の建設開始。韓国支配を狙う。

5月

章士釗、「蘇報」編集に加わる。

章士釗:

南京陸師学堂でストをおこし、学生3~40人率いて退学。愛国学社に参加。後、黄興らと革興会を組織。第2革命時は討袁の檄文を起草。1920代中頃、段祺瑞政府の司法総長兼教育総長。北京女子師範大学の学生運動との関連で魯迅を罷免。

5月

若山牧水(18)、校友会雑誌部部長となる。新任の英語教師柳田友磨は牧水の詩才を認め文学に専念することを勧める。この秋頃から牧水の号を使い始める。

5月

この春、与謝野晶子(26)、『みだれ髪』の歌人という名誉と初孫とを家苞(いえつと)に、いつも苦しく夢でみている母を堺に訪れる。母は、晶子の帰郷を心まちにしていた。

鉄幹は高村光太郎と松永周二とを供につれて京都を経て高野山に遊び、帰省中の晶子をつれて、5月に帰京する。

5月

広島市、大井憲太郎らの指導で小作共済会結成。

5月

日本と清国の郵便条約なる。

5月

ベルギーのサー・ロジャーケイスメント、コンゴ自由国での残虐行為を報告(コンゴ・スキャンダル)。

5月

レーニン、トロツキーを『イスクラ』編集部に補充することを提案。

5月1日

幸徳秋水「非開戦論」(「万朝報」)

5月1日

斉藤緑雨、本郷千駄木町230番地、団子坂近くに引っ越す。前年12月に小田原から浅草に転居していた。

緑雨はこの年5月、随筆類をまとめた「みだれ箱」を博文館から出版。

5月1日

英エドワード7世、フランス公式訪問(~4日)。

5月2日

漱石 5月2,4,5日。


「五月二日(土)、晴。午後、寺田寅彦・湯浅廉孫来る。

五月四日(月)、東京帝国大学文科大学で午後一時から四時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)


「「ヘルン先生の留任運動の余燼が夏目先生に祟つたのはお気の毒だと思つた。同じクラスの天才組の筆頭小山内君や川田順君は近頃もう棄鉢となったものと見え講義を聴きに来たことはない。三年生はそろそろ卒業に近づいたので神妙に出席してゐる。二年生は厨川君だけが熱心に講義を聴いてゐるやうに見えたが、他の諸君は出席だけはしてゐるが、心の中ではさう興味を寄せてゐないのだと森巻吉君が私に話してゐた。」(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)


「五月四日(月)または五月十八日(月)(極めて不確かな推定)、自宅に近い人力車業を営む家の前を通りすぎてまもなく、塩原昌之助に突然出逢う。お互いに挨拶しないで通りすぎる。」


「『道草』の冒頭の記述に、「ある日小雨が降った。」とあることと六日めの朝また逢ったという箇所から、月曜で小雨の降る日と推定する。六月には該当の日がない。十月、十一月、十二月にもない。「其時彼は外套も雨具も着けずに、」という箇所からは、秋のことかとも思われる。だが、小雨が降っていたことと六日めに再び逢ったことを重くみるかぎり、秋ではなくて春と思われる。


五月五日(火)、晴。東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義、指名した学生をやりこめる。午後一時から四時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)


「五月五日 火 曇 暖

… 夏目氏のサイラス・マーナーは出席して聞くほどの価値なし。… 夏目氏のレクチュア余り称すべきものにあらず。語尾を呑むくせありて筆記し難し。森(巻吉)氏其(の)まねをなし衆を笑はす。…」(金子健二日記)

5月6日

韓国龍岩里にロシア兵が進出し工事をしているとの日野大尉電が着く。


「露国六十、韓国八十、清国四十人、韓国龍岩里ニ工事ヲ始ムルヲ見ル。

右ハ、露人ノ声言セル鴨緑江口ニ兵站部ヲ設ケ、朝鮮内地ニ人ルノ基礎ヲ作り、及日本ノ妨害ヲ予防スル云々ヲ硬メタルナリ」


5月6日

漱石、5月6日~12日


「五月六日(水)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。

五月七日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。

五月九日(土)、雷雨。井上勝太郎(微笑)(熊本県球磨郡湯前村、現・湯前町)から俳句の選者を依頼されたが、多忙であり、俳句に緑なくなったからと遠慮する。

五月十日(日)、晴。午後、寺田寅彦と上野で写友会写真展、博物館特別展で古銅器を見る。氷月(下谷区上野元黒門町(公園前、現・台東区上野))で汁粉を食べる。

五月十一日(月)、晴。東京帝国大学文科大学で午後一時から三時まで、「英文学概説」を講義する。(「午後夏目講師の時間に出席す。いつも二時間乃至三時間もぶつ通しに筆記がつゞくので英文科生は皆夏目先生の授業に辟易してゐる。」(金子健二『人間漱石』))

五月十二日(火)、晴。東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで、 Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。午後二時から四時まで(金子健二)、「英文学概説」を講義する。五時三十分、山上御殿で上田敏・ロイドとともに、新任講師の歓迎会開かれる。一言も話さない。」


「夏目先生のあの批評的なそして又叡智的な目とあのカイザー型の気取つたお髭とはなんとなく私達書生にとりて、接し難いやうな畏ろしいやうな印象を與へたのである。」(金子健二『人間漱石』)」(荒正人、前掲書)

5月8日

第18特別議会召集。12日開会、6月4日閉会。

5月8日

永井荷風「夢の女」(新声社)

後年の散策記『元八まん』には、「三十幾年のむかし、洲崎の遊里に留連したころ」後年の東陽公園のあたりまで歩いたと記した一節がある。それは前年(明治35年)出版された『地獄の花』で原稿料75円を得た頃と推測できる。この月に出版された『夢の女』の主要部分はこの洲崎遊郭に留連することで得た見聞の所産であろう。

荷風は『濹東綺譚』のなかで『夢の女』に言及している。


「曾て、(明治三十五六年の頃)わたくしは深川洲崎遊廓の娼妓を主題にして小説をつくった事があるが、その時これを読んだ友人から、「洲崎遊廓の生活を描写するのに、八九月頃の暴風雨や海嘯(ツナミ)のことを写さないのは杜撰の甚しいものだ。作者先生のお通ひなすつた甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなからう。」と言はれた。背景の描写を精細にするには季節と天候とにも注意しなければならない。例へばラフカヂオ、ハーン先生の名著チタ或はユーマの如くに。」


洲崎遊廓は、本郷根津にあった遊廓が深川区弁天町(現、東陽一丁目)の埋立地(深川の海辺を埋め立てて造成)へ明治21年に移転したもので、「甲子楼の時計台が吹倒されたのも一度や二度のことではなか」ったような、劣悪な立地条件であった。

吉原のような内陸の田圃の中と違って、すぐそばに海が広がっている。闇に閉ざされた夜の海は、遊廓の不浄な弦歌紅灯をことさら切なくはかないものに感じさせたであろう。よほどその情緒が創作欲をそそったものと見えて、茶屋で働く若い女(半玉)と深い仲になったりしながら取材を重ねた。

『冷笑』にでてくる「おきみさん」がその半玉をモデルにしているとされるが、山の手育ちの荷風が下町・深川の若い女をいかにも珍しそうに見ている。女性と風景をがっちり結びつけたところが荷風の腕前でもある。


「私はおきみさんをば斯(カ)う云ふ種類の女としては、その模範だと信ずるほど美しいと思つて居たが、然し別に恋してゐる訳ではなかった。私は唯水の多い、私の好きな深川の景色がこの女性を得て更に美しく、或時は堪へがたいまでに私の詩興を誘(イザナ)つてくれるのを非常なる賜物として喜んで居たのである」


「富岡門前まで生花の稽古に行くからと云ふので、朝帰りの吾々と早船を共にして、堀割の水に浮かべた材木の脂(ヤニ)の匂が冷い朝風に立迷ふ間を通つて行く時、私はおきみさんが胴の間の薄べりの上に横坐りして、舷(フナベリ)に頬杖をついた其の横顔を斜めに眺め、いかに麗しい空想に酔ふ事が出来たであらう。おきみさんは土地のものだけに早船の船頭とは大概知り合つてゐて、随分卑陋(ビロウ)な冗談をも平気で聞いて居るが、其代り時としては金歯を暼見(ホノミ)せて笑ひながら、荒くれた船頭を鋭く頭から叱りつける事もあつた。花を片手に舟から上つて朝日を受けた美白な倉庫の壁を後にして岸に佇立(タタズ)む若いおきみさんの姿をば、私は滑(ナメラカ)な朝汐の水面に流れる其倒影(カゲ)と共に眺めた時の心持を、今もつて夢のやうに思ひ出す事がある」(『冷笑』)


5月8日

ゴーギャン(55)、マルケサス諸島ヒヴァ・オアで没。心臓発作


つづく

2025年3月22日土曜日

トランプ大統領は今後破綻して、株価は暴落する そしてアメリカは世界の覇権国ではなくなる(小幡績 東洋経済)

BBCニュース - トランプ米政権、中南米出身53万人の合法滞在資格を取り消しへ ;「トランプ大統領はまた、ロシアによる全面侵攻を機にアメリカに逃れたウクライナ人約24万人についても、暫定的な法的地位を取り消すかどうかも検討している。」 

米国人の英市民権申請ラッシュ、トランプ氏と「明らかに関係」 英ロンドン市長(CNN)

大杉栄とその時代年表(442) 1903(明治36)年4月26日~30日 「東京朝日」主筆池辺三山、開戦辞せずとして強硬論を唱える。「英国のアバーヂーン内閣は最も平和を愛好するの内閣と称せられたりき。殊にアバーヂーンは最も露国と親善なる交渉を維持せんことを希望したりき。而も内外の形勢は遂に此の平和的内閣を馳りてクリミヤの大戦を敢てするに至らしめぬ。日本は固より露国の条約履行(露清間の満州還付条約)を希望するの外他意なしと雖も、其利益を防衛し東洋の平和を維持するの必要に余儀なくせらるゝあらば、当年アバーヂーン内閣に倣はざらんと欲するも得じ」

 


大杉栄とその時代年表(441) 1903(明治36)年4月21日~25日 「「四月二十三日 木 晴 冷 … 夏目講師本日よりサイラス・マーナーを生徒に訳せしむ。通読の上、アクセントを正し、難句を問ふに過ぎず。っまらぬ授業と言ふ可し。…」(金子健二日記) より続く

1903(明治36)年

4月26日

池辺三山、露清新密約の情報を得て、元老伊藤博文に面談、見解をただす。また、自身の開戦論を展開。伊藤も三山とほぼ同意見の様子だったが、戦争については明言を避ける。

4月27日

清、ロシアの新要求7項拒絶。1902年4月8日還付条約の履行要請。

4月27日

天津の中西学堂を北洋大学に。

4月27日

東大で講義する漱石


「四月二十七日(月)、曇。東京帝国大学文科大学で、午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

四月二十八日(火)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。学生の発音を厳しく訂正する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)


「四月二十八日 火 晴 、

仏(蘭)西語及(び)ラテン語に出席し終りて、夏目氏のサイラス・マーナーに出席す。アクセントを直すは先生の得意なり。蓋し自ら得たる所あればなるべし。帰後、筆記訂正す。… 夏目氏の講義は実にアンビギャス (ambiguous) にて筆記し難し(漱石の「英文学概論」講義を指す)。三時より四時まで上田敏氏の科外講義に出席す。氏は講義に慣れたり。…」(金子健二日記)"


4月27日

米連邦最高裁判所,黒人の投票権を認めないアラバマ州法を支持する判決.

4月28日

桂太郎首相、貴族院6派に地租増徴継続問題について、政友会との妥協条件を発表。

①地租条例改正案は形式的に議会に提出し、後に撤回する。

②海軍拡張費は、行政整理・公債募集などによる。

4月29日

東京の中国留学生、拒俄(抗露)義勇隊組織。

4月29日

国定教科書制公布

4月29日

三井物産(名)、福岡県門司に船舶部開設。三井船舶(株)の前身。

4月30日

「東京朝日」主筆池辺三山、この日の社説で開戦辞せずとして強硬論を唱える。


「英国のアバーヂーン内閣は最も平和を愛好するの内閣と称せられたりき。殊にアバーヂーンは最も露国と親善なる交渉を維持せんことを希望したりき。而も内外の形勢は遂に此の平和的内閣を馳りてクリミヤの大戦を敢てするに至らしめぬ。日本は固より露国の条約履行(露清間の満州還付条約)を希望するの外他意なしと雖も、其利益を防衛し東洋の平和を維持するの必要に余儀なくせらるゝあらば、当年アバーヂーン内閣に倣はざらんと欲するも得じ」


アバーヂーンはクリミア戦争でロシアと戦った当時の英国の首相で、三山は英国政府を引き合いに出して、日本政府に「決意」を迫る

三山が開戦論に踏み込んだ背景には、秘かにロシアが清国に新たな要求をしているとの情報があった。ロシア側の要求内容は機密事項に属したが、「朝日」では3月下旬頃から、北京、天津、牛荘(営口)、漢城方面などの特派員から、続々とロシアの動向を知らせる特電が届いていた。特に北京特派員の牧放浪の地道な努力によって、ほぼその全容が明らかになった。条約は7ヶ条から成っており、事実上、満州をロシアの従属地域とする内容だった。清国政府は要求を拒絶したが、これを伝える北京特電には「満州問題に就き慶親王は日英両国公使の忠告に随ひ露国の要求を拒絶する時、露公使と頗る激論に及びたり」とあった。

ロシアは満州還付条約に基づく36年4月2日の第2期撤兵期日を無視し、鴨緑江沿岸に兵力を集中し、河口の韓国領側に軍事施設を構築し、清国に新しい密約を迫る。

三山は、「ロシアが清国に返した領土は、どんな形式でも他国に譲与してはならない」「ロシア人が満州占領中に獲得した各種の権利は撤兵後も有効である」との清露の新密約を知り、4月23日、桂太郎首相を訪ね決意を質す。

池辺三山:

池辺吉太郎。父吉十郎は熊本の細川家譜代の藩士、維新後、私塾を開く。西南の役で西郷隆盛軍の熊本隊隊長となり、熊本城攻めで負傷、官軍に捕えられ斬られる。この時三山14歳。18歳で上京、慶応義塾に学び、21歳で熊本県出身者の奨学機関の有斐学舎舎監となる。条約改正反対運動に奔走、「山梨日日新聞」論説を書き、言論界に乗り出す中で、明治18年大ベストセラー小説「佳人之奇遇」を書いた国際人東海散士(柴四郎)の知遇を得て、21年12月、主筆柴・編集長三山の「経世評論」(月2回発行)を大阪で創刊。1年半程で雑誌は経済的に行き詰まるが、三宅雪嶺、志賀重昂、陸羯南、柴四朗とら一流言論人に伍して、若い三山も書く。

当時「東雲新聞」主筆中江兆民は、同紙上で「流麗の中自ら一種峭葛の気あるを覚ふ」と、三山の文章に期待。

帰京し陸羯南の新聞「日本」の客員寄稿家となり、不平等条約改正論を軸とする「日本外政論」を社説欄に連載。

25年5月、旧藩主細川護久にパリ留学中の世子護成の補導役を依頼されて渡仏、28年6月帰国までパリのカルチェラタンの下宿を本拠としてヨーロッパの動静に耳目を働かせる。カルチェラタンのカフェには、「ルマタン」などパリの新聞、「タイムズ」などの英国の新聞、ローマの仏字新聞、アメリカの新聞などが置いてあり、それらを精読するのが三山の日課。滞仏2年で、仏字新聞が自由に読みこなせるようになった頃、「日本」に送稿始める。

27年7月、細川護成の従者としてドイツ、北欧諸国、ロシア、中近東へ大旅行。パリに帰る前から、日清戦争に対するヨーロッパの反応を「巴里通信」として「日本」に送る。第1回は、「干渉将に来らんとす」(同年11月18日掲載)で新聞記事から分析した英仏の「東洋の戦い」への介入の動きを伝える。「巴里通信」は20数回に及び、「日本」は三山が普通郵便で送る1ヶ月遅れの通信を「社説」として掲載。東洋艦隊の根拠地を中国に求める英国、中国での鉄道敷設権を得たい仏独、米華銀行を創立したい米国、かつて英仏が同盟して中国を陥入れた時、仲裁役を引受けて黒竜江以北幾千里の地を得たロシアは、シベリア鉄道の工事が進むに従い、ウラジオストクへの大迂回を避けるため満州の地を得たくなるのは当然である、と三山は書く。

帰国した三山は東海散士から「朝日新聞」を紹介、内閣書記官長になる高橋健三が、「巴里通信」の三山を「大阪朝日」主筆の後任に推薦。東海散士はT鉄崑崙兄」として三山に手紙を書く。「一、朝日社主は三山の大阪に来るのを待っている、一、東京に住むのは村山(龍平)と相談、一、報酬は120円位、一、村山は俗才だが上野(理一)は正直な君子だから、折合が難しいということはない」などで、三山は全てを了承。当時月給は村山龍平150円、共同経営者上野理一110、「東京朝日」主筆格西村天囚65円、探訪記者平均23円。尋常小学校正教員平均給12円1銭5厘の時代。29年12月三山(32)「大阪朝日」入社。

30年12月、三山は西村天囚が長期中国出張をするため「東京朝日」主筆を兼ね、「大阪朝日」論説は、後輩の鳥居素川に委ねて上京、やがて仕事を「東京朝日」主筆に絞る。31年1月17回、2月14回、3月17回の「東朝」社説を書く。三山社説の主題を構成する第一の要素はナショナリズムの高揚。「国粋派」と云われる言論を陸羯南の新聞「日本」と三宅雪嶺の雑誌「日本人」が組織し、三山はこの「国粋派」論客の流れの中にある。第二の要素は、帝国主義列強の対アジア攻勢への対処。日本が清国に遼東半島を還付した3年後(1898年)には、ドイツの膠州湾租借、ロシアの旅順・大連租借、イギリスの九竜半島・威海衛租借、フランスの広州湾租借と相次ぎ、中国の要衝は次々に侵蝕されゆく。

4月30日

東大で講義する漱石


「四月三十日(木)、曇。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Silas Marner (『サイラス・マーナー』)を講義する。在官六年以上(第五高等学校)で退官したので、年俸(三百円)の三か月分一時賜金として下賜の辞令を貰う。イギリス留学中と新居移転の際の借金の返却にあてる。」(荒正人、前掲書)


つづく



2025年3月21日金曜日

自宅近くの公園の「春めき(桜)」(足柄桜)が満開 乙女椿 コブシも満開(少し散り始め) 2025-03-21

 3月21日(金)晴れ

ようやく暖かくなってきて、晴天が続いている。

昨日から次男が泊りに来ていて、酒盛りが始まっている。すぐに、長男家族も合流することになる。

今日、自宅から徒歩圏内の桜(染井吉野)の状況を見に行ったけど、個人的な経験値で一番早く咲くだろうと思ってるところ、二番目だと思ってるところ、双方ともに蕾はまだ固いままだった。発表されている開花予想、ちょっと遅れるかも。

早い年だと、開花予想よりも早く咲く年もあるくらいなんだけどね。

▼自宅近くの公園の「春めき(桜)」(足柄桜)が満開

葉っぱが目立つ河津桜の横で春めきがいま満開(まだ蕾もある)。

下の写真は、右端の河津桜とツーショット。

実は、中央にメジロ(サクジロー)がいる。






▼近くに乙女椿が

▼コブシも満開
少し散り始めた。