2025年4月2日水曜日

大杉栄とその時代年表【年表INDEX ② (1903(明治36)年1月~ 更新中)】

【年表INDEX ①】

 大杉栄とその時代年表(1) 1885(明治18)年 1月 大学予備門に在学している紅葉、漱石、子規、熊楠(18歳) 武相困民党解散 大杉栄が丸亀市に生れる  附【年表INDEX ① (1885(明治18)年 1月~1902(明治35)年12月)】 

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【年表INDEX ②】

大杉栄とその時代年表(430) 1903(明治36)年1月 野口米次郎、ロンドンで私家版「FROM THE EASTERN SEA ; BY YONE NOGUCHI」出版、好評。「ホー、ホー、ホー! こは又何事ぞ、、雑誌アウトルック(Outlook)を見ずや。鳴呼余の文名終に成れり。何等の好ノーナスぞ。十六頁に対して殆んど二頁を費やして批評せり。何等の親切ぞ。余はバイロン卿の如く一朝にして有名なるものとなれりと思ふ」(1月17日)

大杉栄とその時代年表(431) 1903(明治36)年1月1日~18日 岡倉天心(41)、ロンドンのジョン・マレー書店より「The Ideals of 」the East」出版

大杉栄とその時代年表(432) 1903(明治36)年1月20日~25日 漱石、イギリスより帰国 「一月二十四日(土)、晴。鏡、中根重一と共に、国府津まで出迎える。午前九時三十分、新橋停車場に到着する。家族・親戚のほか寺田寅彦迎えに出ている。斎藤紀一や医者数人も一緒である。牛込区矢来町三番地中ノ丸(現・新宿区矢来町三番地)中根重一方に落着く。筆は脅えたように避け、恒子はおできだらけで、人見知りして泣く。(鏡、留守中休職給年額三百円月割二十五円で、製艦費一円五十銭その他を差し引かれて、二十二円足らずで暮す。鈴木禎次から百円を借りて、迎える準備をする。)」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(433) 1903(明治36)年1月27日~2月11日 漱石、「一月から二月にかけて、毎日のように借家を山の手方面に探す。 菅虎雄と一緒に歩くこと多い。 大塚保治から百円か百五十円借りる。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(434) 1903(明治36)年2月13日~27日 啄木(17)、文学で身を立てるべく上京するも、空しく帰郷 与謝野鉄幹・晶子の知遇を得た他に収穫なし

大杉栄とその時代年表(435) 1903(明治36)年3月1日~2日 「三月二日(月)、正午、英文科学生一同、二十番教室に集り、小泉八雲退職について協議する。その結果、井上哲次郎学長と交渉することになる。午後五時、再び本郷の基督教青年会館にほとんど全部の学生集る。小山内薫(一年)は、総退学の決意で留任運動を行うことを決意し、三年と一年は同意する。二年は反対する。三月八日(日)、安藤勝一郎・石川林四郎・落合貞三郎の三人の代表者たちは、小泉八雲邸(豊島郡大久保村西大久保、現・新宿区大久保)を訪ねる。留任運動は失敗に終る。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(436) 1903(明治36)年3月2日~3日 「勤務は四月からなので、その間の資金、生活費、転居費用、家具費用などは、熊本の退職金を当てにして、鏡子が妹の夫・鈴木禎次から借りた百円、大塚保治から借りた百円で賄った。転居したのは三月三日だが、・・・」(十川信介『夏目漱石』)

大杉栄とその時代年表(437) 1903(明治36)年3月5日~31日 元老会議の結論 ①満洲「最後ノ決心ヲ要スルモノトセパ、甚(はなはだ)危険ナリトス。此際ハ、成ルベク我行為ヲ英独意嚮ノ範囲ニ制限スルノ外ナシ」 ②韓国 「露国モ今遽(にはか)ニ日本卜之ヲ争フノ意ナシトセバ、現状ヲ維持スルヲ目的トシ、若シ時機アラバ露国卜協商ヲ試ミ、其ノ独立ヲ主持シ、日露両国衝突ノ種子タラザラシムルヲ努ムベシ」 ③清国 「列強協同若シ破綻ノ端ヲ啓(ひら)キ、清国分割ノ止ムヲ得ザルニ至ラバ、我ハ浙江、福建ニ地歩ヲ移スノ外ナシ」

大杉栄とその時代年表(438) 1903(明治36)年4月1日~9日 「社会主義は人類平等の主義である、人類同胞の主義である、相愛し相助くる共同生活の主義である。そこで此社会主義より見る時は、夫婦は平等にして、相愛し相助け、真の共同生活を為すのが家の理想である。家庭は即ち其理想を現はすべき場所である。(中略)此家庭の中よりして漸々社会主義を発達せしめて行かねばならぬ。是れが此雑誌を作るについての我輩の根本思想である。」(堺利彦「我輩の根本思想」)

大杉栄とその時代年表(439) 1903(明治36)年4月10日~20日 「彼は帰り新参なので、最初のうち一高は年俸七百円の講師、大学も年俸八百円の講師である。月百二十円強でも、東京の生活はかなり苦しかった。彼はその中でも欲しい書籍代は遠慮なく使った。鏡子も遣りくり上手とは言えず、翌年秋の学期から、彼は明治大学高等予科講師も兼ねなければならなかった。月給は週四時間で三十円である」(十川信介『夏目漱石』)

大杉栄とその時代年表(440) 1903(明治36)年4月20日 「小泉先生は毎年一般講義に、必ず、テニスンの詩を講じて居られたので、私達は悦んでこれを聴いてゐたのであるが、今度は夏目金之助とかいふ『ホトトギス』寄稿の田舎高等学校授あがりの先生が、高等学校あたりで用ひられてゐる女の小説家の作をテキストに使用するといふのだから、われわれを馬鹿にしてゐると憤つたのも當然だ。」(金子健二『人間漱石』)

大杉栄とその時代年表(441) 1903(明治36)年4月21日~25日 「「四月二十三日 木 晴 冷 … 夏目講師本日よりサイラス・マーナーを生徒に訳せしむ。通読の上、アクセントを正し、難句を問ふに過ぎず。っまらぬ授業と言ふ可し。…」(金子健二日記)

大杉栄とその時代年表(442) 1903(明治36)年4月26日~30日 「東京朝日」主筆池辺三山、開戦辞せずとして強硬論を唱える。「英国のアバーヂーン内閣は最も平和を愛好するの内閣と称せられたりき。殊にアバーヂーンは最も露国と親善なる交渉を維持せんことを希望したりき。而も内外の形勢は遂に此の平和的内閣を馳りてクリミヤの大戦を敢てするに至らしめぬ。日本は固より露国の条約履行(露清間の満州還付条約)を希望するの外他意なしと雖も、其利益を防衛し東洋の平和を維持するの必要に余儀なくせらるゝあらば、当年アバーヂーン内閣に倣はざらんと欲するも得じ」

大杉栄とその時代年表(443) 1903(明治36)年5月1日~8日 「夏目先生のあの批評的なそして又叡智的な目とあのカイザー型の気取つたお髭とはなんとなく私達書生にとりて、接し難いやうな畏ろしいやうな印象を與へたのである。」(金子健二『人間漱石』)

大杉栄とその時代年表(444) 1903(明治36)年5月9日~21日 漱石、「第一高等学校に初めて出講する。藤村操に指名すると昂然として、「やって来ません」と答える。〝何故やって来ない〞と聞き返すと、「やりたくないからやって来ないです」とか何とか答えるので、”此次やって来い”と言い渡す。」 / 「第一高等学校で、前回にも指名した藤村操に訳読を指名すると、また予習して来ない。”勉強する気がないなら、もう此教室へ出て来なくてよい”といい渡す。」(荒正人) 

大杉栄とその時代年表(445) 1903(明治36)年5月22日~31日 「藤村操の死はたしかに時代的意義を持つて居た。日本は明治以来欧米列強の圧迫に囲まれて、富国強兵の一途に進んで来た。一高の籠城主義だとか勤倹尚武だとかいふものも、結局は日本のその趨勢の一波に過ぎなかった。ところが朝鮮問題を中心として日清戦争があっけない勝利に終り、更に十年を経て日露戦争が起こる前後から、国家問題とそれを中心とする立身出世に余念のなかった昔年の間に、国家でなく自己を問題にする傾向が起って来た。」(安倍能成『我が生ひ立ち』)

大杉栄とその時代年表(446) 1903(明治36)年6月1日~8日 参謀本部部長会議 「朝鮮ニシテ一度彼ノ勢力範囲ニ帰スルトキハ(朝鮮海峡、日本海、黄海の制海権を奪われて)日本帝国ハ扶桑ノ一孤島ニ蟄伏セヲレ……対馬及北海道ノ如キ帝国主要ノ属島モ、彼ノ欲スル所ニ従ヒ其占領ニ委セザルベカヲザルノ悲運ニ際会スルナキヲ保セズ」 「彼我兵力ノ関係、西伯利鉄道ノ未完全、日英同盟ノ存立、清国民ノ敵愾心等今日ヲ以テ最好機トシテ、此好時機ハ今日ヲ逸シテハ決シテ再ビ得ベカラズ」

大杉栄とその時代年表(447) 1903(明治36)年6月9日~15日 7博士事件 「彼れ地歩を満洲に占むれば、次に朝鮮に臨むこと火を賭(ふ)るが如く、朝鮮己に其勢力に服すれば、次に臨まんとする所、問はずして明かなり。・・・溝韓交換又は之に類似の姑息退譲策に出でず、根本的に満洲還附の問題を解決し、最後の決心を以て大計画を策せざるべからず。・・・」

大杉栄とその時代年表(448) 1903(明治36)年6月16日~24日 「桂の奇襲」により桂内閣で日露戦争を乗切る合意成立。伊藤の棚上げ工作。伊藤元老の「二役」(元老で政友会総裁)解消についての「一案」(枢密院議長に就任させ、政党から「足を洗わせる」)決定

大杉栄とその時代年表(449) 1903(明治36)年6月28日~7月 「日本では君主政体を国体と称するようである。(中略)社会主義なるものは、(中略) いわゆる国体、すなわち、二千五百年一系の皇統が存在するということと、矛盾・衝突するのであろうか。この間題に対して、わたくしは、断じて否と答えねばならぬ。(中略)社会主義は、かならずしも君主を排斥しないのである。」(幸徳秋水『社会主義神髄』付録「社会主義と国家」)

大杉栄とその時代年表(450) 1903(明治36)年7月1日~10日 「さう言はれて改めてみるせゐか、どうもやることなすことが只事でありません。何が癪に障るのか女中を迫ひ出してしまひます。私にはいよいよつらく当ります。女中は居ず、その上私は病気でふらふらしてゐるのですが、こちらもさうさう面当てがましく振る舞はれるのではたまりませんし、またそのいらいらしてゐるのを見るのが実にたまりません。しきりに里へ帰れといふことを面と向かって申しますので、私も考へました。こんなことが続いて、一層頭をいらいらさせてしまつても悪いし、万一子供にどんな危害がふりかからないものでもない。或は私が一時子供たちを連れて身を引いてゐたら、その間それだけ眼の前から邪魔者がなくなるわけで、かへつて気が鎮まるかも知れない。一先づ身を引いて様子をみよう。さう考へまして父に相談しまして、ともかく病気に逆らはないやうにして、一時子供を連れてどいてみることにいたしました。さうして七月に一旦里の父母の許へかへりました。」(『漱石の思ひ出』一九「別居」)

大杉栄とその時代年表(452) 1903(明治36)年7月30日 「第2回党大会での分裂の際、『イスクラ』派は『硬派』と『軟派』に分かれた。・・・それは、両派を分かつ明確な路線上の分岐線はまだなかったが、問題へのアプローチの仕方、断固たる姿勢、最後までやり通す覚悟といった点で両者に違いがあることを示していた。」 「大会が進むにつれて、『イスクラ』の主要幹部の間の対立がしだいに露わになってきた。『硬派』と『軟派』への分化が表面化してきた。・・・両派とも、思いがけない事の成りゆきに深刻な打撃を受けた。レーニンは大会から数週間、神経性の病に苦しんだ。」(トロツキー『わが生涯』)

大杉栄とその時代年表(453) 1903(明治36)年8月1日~12日 この夏から、横須賀海軍造船廠では異常な労働強化 日清戦争当時のことを知っている老職工たちは、すぐにその意味をさとった。 政府は、民間の主戦論者に攻撃されても容易にロシアに対する態度を明らかにせず、桂内閣の軟弱外交と言って罵られていたが、この年の夏、軍部と内閣とが、いよいよ開戦の決定をした。 労働は強化されたが、職工の収入はそれだけ殖えた。労働者たちの多くは、大多数の新聞の主戦論に煽られて好戦的にもなっていたので、一種の熱狂的な空気が造船廠を満たしていた。

大杉栄とその時代年表(454) 1903(明治36)年8月15日~31日 東京初の路面電車 「新橋品川間の電車開通・・・昨日午前五時三十分愈々電車運転を開始せり。・・・是より先き会社にては、従来雇用したる鉄道馬車の馭者中より運転手を選抜し浜松町なる新設会社構内に於いて運転上の練習をなさしめ既に百名の卒業者を出したるのみか、今日に至るまで、数回新橋品川間の試運転を実行したることとて、昨日は開業第一日なりにも拘らず、更に少しの故障もなく、午前五時先づ会社長及び担当技師を始め重なる会社員一同数台の電車に乗って新橋及び品川の両方面に向ひ、何れも其終局点に下車したる後始めて、普通乗客の乗車を許し、・・・」(「時事新報」8月23日)

大杉栄とその時代年表(455) 1903(明治36)年9月1日~10日 「鏡子が帰宅したのは、夏休みも終わる九月初句である。実家の母が形式上謝罪に行き、漱石は簡単にそれを受け入れた。掛り付けの甘子医師が東大の呉秀三に紹介し、鏡子は「あゝいふ病気は一生なほり切るといふことがないものだ」、治ったと思うのは一時の沈静で、きっと再発すると宣告されたそうだ。・・・鏡子は彼の病気の性質を知り、虐待されでも決して離れない覚悟で漱石の許に戻った。」(十川信介『夏目漱石』)

大杉栄とその時代年表(456) 1903(明治36)年9月11日~22日 「彼(*漱石)が各科共通の一般講義として『マクベス』の評釈を開講したとき、文科大学で一番大きな二十番教室は聴講生で立錐の余地もないほどになった。・・・・・学生の反響は至極良好で、第二講のときには法科や理科の学生まで評判を聞きつけて聴きに来るようになった。金之助(*漱石)はこの一般講義で『英文学概説』の不評を一挙に挽回し、にわかに文科大学随一の人気者になったのである。」(江藤淳『夏目漱石とその次第2』)

大杉栄とその時代年表(457) 1903(明治36)年9月24日~10月4日 「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」、戦時報道体制を築く検討を始める。 通信網の整備、戦時通信任務規定、戦時通信員給与規程、戦時通信賞恤規程、特派記者の選定など

大杉栄とその時代年表(458) 1903(明治36)年10月5日~8日 「万朝報」も開戦論に転換 この日(10月8日)、夜勤の堺が夕刻に出社すると、地方版が刷り上がってきた。そこには、大きな見出しで『萬朝報』は開戦を主張するという短い宣言文が載っていて、明らかに社長の黒岩涙香が書いたものだった。昼間の編集の締め切り後で、涙香がそこだけを差し替えさせたのだ、と堺は直感する。、、、、、

大杉栄とその時代年表(459) 1903(明治36)年10月9日~13日 「この「退社の辞」は特に青年に大きな影響を及ぼし、当時まだ横須賀海軍造船工廠の少年見習工だった著者(*荒畑寒村)は、これを読んで感奮して社会主義者たる意を決した。また、かつて社会党委員長であった故河上丈太郎は、中学校在学中にこの一文から非常な感激をうけたといわれる。」(「寒村自伝」)

大杉栄とその時代年表(460) 1903(明治36)年10月14日~19日 「私は数箇月前迄日本の凡ゆるジャーナリズムが(戦争は文明に到達する楷梯なり)といふ一種の流行語をたゞしいものだと考へてゐた。しかし、現在に於て少なくとも私は此の合ひ言葉に疑義を挿んでゐる。自然科学に依りて教へられた万物進化の過程なるものは、さう簡単に此の合ひ言葉を合理化し得るものであるだらうか。私は此の事に就いて今後研究してみようと考へた。」(金子健二『人間漱石』)

大杉栄とその時代年表(461) 1903(明治36)年10月20日~29日 「十月二十八日(水)から三十日(金)の間(極めて不確かな推定)、中根重一来る。久し振りに逢う。金策のため保証人になって欲しいとのことであったが断る。(略)妹婿の「清水」という下町の病院長に依頼し、四、五日経って四百円を中根重一に融通する。以上は、『道草』七十四による推定である。」(荒正人)

大杉栄とその時代年表(462) 1903(明治36)年10月30日 「普通ならば医者から三月しか寿命のないのを申渡されて死後を覚悟すべき時である。聊かでも余財があれは家族のために残して置く乎、さらずば自分のための養生喰いをする乎、病気のために食慾の満足が得られないなら慰みになるものでも買うのが普通である。病気のためにも病床の慰みにも将(は)た又死後の計(はかりごと)の足しにもならないこういう高価の大辞典を瀕死の間際に間際に買うというは世間に余り聞かない咄(はなし)で、著述家としての尊い心持を最後の息を引取る瞬間までも忘れなかった紅葉の最後の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」 結びは、 「紅葉は真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。」(内田魯庵『思い出す人々』)

大杉栄とその時代年表(463) 1903(明治36)年11月1日~3日 「ハムレットの亡父が青山墓地に幽霊の姿よろしく現はれて来て、その昔シェークスピアー自身が其の役割りを勤めたといふ亡霊の、あの幽かなものすごい口調で、「怨めしや」「怨めしや」の言葉を吐くあたりは、誠に感傷的の気分をそゝるに十分なものがあった。(略)ちょうど、私達が夏目先生から『マクベス』の講義を聴いてゐる時に、ともかくシェークスピアー劇を川上一座が日本式に上演してくれたのは私達英文科の学生に大きな幸福であった。」(金子健二『人間漱石』)

大杉栄とその時代年表(464) 1903(明治36)年11月4日~15日 週刊「平民新聞」創刊① 「一、自由、平等、博愛は人類世に在る所以の三大要義也。 一、吾人は人類の自由を完(まつた)からしめんがために平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。 一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱道す。故に人種の区別、政体の異同を問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。 一、吾人既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす。故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を非認す。」

大杉栄とその時代年表(465) 1903(明治36)年11月15日~21日 週刊「平民新聞」創刊② 「堺さんの平民社こそは、武者小路氏の『新しい村』が九州の一角に試みられるより十幾年も以前に、帝都の中心、日比谷公園の近くに建設された一種の『新しい村』であったのだ。」(白柳秀湖の回想)

大杉栄とその時代年表(466) 1903(明治36)年11月22日~26日 「わが全社会よ。まずかの凄惨の声を聞け。しかして、この問題に答うるところを一考せよ。一考してえずんば、ただちに社会主義にきたれ。社会主義の旗幟は、分明に汝の進路を指示するあらん」(幸徳秋水「凄惨の声」ー「平民新聞」第2号)

大杉栄とその時代年表(467) 1903(明治36)年11月29日~12月 「僕は、海老名弾正が僕等に教えたように、宗教が国境を超越するコスモポリタニズムであり、地上の一切の権威を無視するリベルタリアニズムだと信じていた。そして当時思想界で流行しだしたトルストイの宗教論は、ますます僕等にこの信念を抱かせた。そしてまた僕は、海老名弾正の『基督伝』やなんとかいう仏教の博士の『釈迦牟尼伝』の、キリスト教及び仏教の起原のところを読んで、やはりトルストイのいうように、原始宗教すなわち本当の宗教は貧富の懸隔から来る社会的不安から脱け出ようとする一種の共産主義運動だと思った。」(大杉栄「自叙伝」)

大杉栄とその時代年表(468) 1903(明治36)年12月1日~10日 「日本国民が非常に興奮しており、対露交渉の遅々たる有様に不満であることは、疑う余地のない事実だ。閣僚もこれを弁(わきま)えている。この国民の要求を考慮しない時は、自己の生命すら毎日、毎時最大の危険にさらされるのを百も承知なのだ」(ベルツの日記)

大杉栄とその時代年表(469) 1903(明治36)年12月11日~16日 落合直文(43)没。落合直文は、多くの弟子たちの中で特に与謝野鉄幹の人柄と才能を愛した、明治26年11月、鉄幹を二六新報社に推薦し入社させる(鉄幹は編集整理兼学芸部主任となる)。明治29年3月、韓国から鉄幹を呼び戻し、明治書院に入社させる。鉄幹の第一詩歌集『東西南北』を明治書院から出させ、序文を書く。明治33年、鉄幹が雑誌「明星」を創刊すると、陰に陽にそれに力を添える。

大杉栄とその時代年表(470) 1903(明治36)年12月17日~20日 臨時閣議(18日)、戦争決意。桂・小村上奏。 桂「陛下、今此ノ事ニ允裁ヲ賜フ。而シテ異日恐ラクハ国家非常ノ難局ニ立タン。陛下予メ其ノ決心ヲ腸へ」と、戦争決意の要請を進言。 天皇は無言でうなずく。

大杉栄とその時代年表(471) 1903(明治36)年12月21日~31日 アルゼンチン巡洋艦2隻の売買契約成立(30日)。ロンドン。「日進」「春日」。駐フランス海軍武官竹内平太郎大佐、駐ドイツ海軍武官鈴木貫太郎中佐に、「日進」「春日」の回航責任者としてイタリアに急行すべき旨が、指示される。

大杉栄とその時代年表(472) 〈番外編 川上音二郎(1)〉 14歳で実家を出奔 流浪生活 政談演説 講談師 書生芝居というジャンルの旗頭として世間に名を知られる(27歳)

大杉栄とその時代年表(473) 〈番外編 川上音二郎(2)〉 音二郎一回目の海外 音二郎・貞奴の結婚 戦争劇が大好評 歌舞伎座公演 川上座完成(失敗) 選挙惨敗(二回) 二回目の海外 女優貞奴の誕生










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