【年表INDEX ①】
大杉栄とその時代年表(1) 1885(明治18)年 1月 大学予備門に在学している紅葉、漱石、子規、熊楠(18歳) 武相困民党解散 大杉栄が丸亀市に生れる 附【年表INDEX ① (1885(明治18)年 1月~1902(明治35)年12月)】
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【年表INDEX ②】
大杉栄とその時代年表(430) 1903(明治36)年1月 野口米次郎、ロンドンで私家版「FROM THE EASTERN SEA ; BY YONE NOGUCHI」出版、好評。「ホー、ホー、ホー! こは又何事ぞ、、雑誌アウトルック(Outlook)を見ずや。鳴呼余の文名終に成れり。何等の好ノーナスぞ。十六頁に対して殆んど二頁を費やして批評せり。何等の親切ぞ。余はバイロン卿の如く一朝にして有名なるものとなれりと思ふ」(1月17日)
大杉栄とその時代年表(431) 1903(明治36)年1月1日~18日 岡倉天心(41)、ロンドンのジョン・マレー書店より「The Ideals of 」the East」出版
大杉栄とその時代年表(432) 1903(明治36)年1月20日~25日 漱石、イギリスより帰国 「一月二十四日(土)、晴。鏡、中根重一と共に、国府津まで出迎える。午前九時三十分、新橋停車場に到着する。家族・親戚のほか寺田寅彦迎えに出ている。斎藤紀一や医者数人も一緒である。牛込区矢来町三番地中ノ丸(現・新宿区矢来町三番地)中根重一方に落着く。筆は脅えたように避け、恒子はおできだらけで、人見知りして泣く。(鏡、留守中休職給年額三百円月割二十五円で、製艦費一円五十銭その他を差し引かれて、二十二円足らずで暮す。鈴木禎次から百円を借りて、迎える準備をする。)」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(433) 1903(明治36)年1月27日~2月11日 漱石、「一月から二月にかけて、毎日のように借家を山の手方面に探す。 菅虎雄と一緒に歩くこと多い。 大塚保治から百円か百五十円借りる。」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(434) 1903(明治36)年2月13日~27日 啄木(17)、文学で身を立てるべく上京するも、空しく帰郷 与謝野鉄幹・晶子の知遇を得た他に収穫なし
大杉栄とその時代年表(435) 1903(明治36)年3月1日~2日 「三月二日(月)、正午、英文科学生一同、二十番教室に集り、小泉八雲退職について協議する。その結果、井上哲次郎学長と交渉することになる。午後五時、再び本郷の基督教青年会館にほとんど全部の学生集る。小山内薫(一年)は、総退学の決意で留任運動を行うことを決意し、三年と一年は同意する。二年は反対する。三月八日(日)、安藤勝一郎・石川林四郎・落合貞三郎の三人の代表者たちは、小泉八雲邸(豊島郡大久保村西大久保、現・新宿区大久保)を訪ねる。留任運動は失敗に終る。」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(436) 1903(明治36)年3月2日~3日 「勤務は四月からなので、その間の資金、生活費、転居費用、家具費用などは、熊本の退職金を当てにして、鏡子が妹の夫・鈴木禎次から借りた百円、大塚保治から借りた百円で賄った。転居したのは三月三日だが、・・・」(十川信介『夏目漱石』)
大杉栄とその時代年表(437) 1903(明治36)年3月5日~31日 元老会議の結論 ①満洲「最後ノ決心ヲ要スルモノトセパ、甚(はなはだ)危険ナリトス。此際ハ、成ルベク我行為ヲ英独意嚮ノ範囲ニ制限スルノ外ナシ」 ②韓国 「露国モ今遽(にはか)ニ日本卜之ヲ争フノ意ナシトセバ、現状ヲ維持スルヲ目的トシ、若シ時機アラバ露国卜協商ヲ試ミ、其ノ独立ヲ主持シ、日露両国衝突ノ種子タラザラシムルヲ努ムベシ」 ③清国 「列強協同若シ破綻ノ端ヲ啓(ひら)キ、清国分割ノ止ムヲ得ザルニ至ラバ、我ハ浙江、福建ニ地歩ヲ移スノ外ナシ」
大杉栄とその時代年表(438) 1903(明治36)年4月1日~9日 「社会主義は人類平等の主義である、人類同胞の主義である、相愛し相助くる共同生活の主義である。そこで此社会主義より見る時は、夫婦は平等にして、相愛し相助け、真の共同生活を為すのが家の理想である。家庭は即ち其理想を現はすべき場所である。(中略)此家庭の中よりして漸々社会主義を発達せしめて行かねばならぬ。是れが此雑誌を作るについての我輩の根本思想である。」(堺利彦「我輩の根本思想」)
大杉栄とその時代年表(439) 1903(明治36)年4月10日~20日 「彼は帰り新参なので、最初のうち一高は年俸七百円の講師、大学も年俸八百円の講師である。月百二十円強でも、東京の生活はかなり苦しかった。彼はその中でも欲しい書籍代は遠慮なく使った。鏡子も遣りくり上手とは言えず、翌年秋の学期から、彼は明治大学高等予科講師も兼ねなければならなかった。月給は週四時間で三十円である」(十川信介『夏目漱石』)
大杉栄とその時代年表(440) 1903(明治36)年4月20日 「小泉先生は毎年一般講義に、必ず、テニスンの詩を講じて居られたので、私達は悦んでこれを聴いてゐたのであるが、今度は夏目金之助とかいふ『ホトトギス』寄稿の田舎高等学校授あがりの先生が、高等学校あたりで用ひられてゐる女の小説家の作をテキストに使用するといふのだから、われわれを馬鹿にしてゐると憤つたのも當然だ。」(金子健二『人間漱石』)
大杉栄とその時代年表(441) 1903(明治36)年4月21日~25日 「「四月二十三日 木 晴 冷 … 夏目講師本日よりサイラス・マーナーを生徒に訳せしむ。通読の上、アクセントを正し、難句を問ふに過ぎず。っまらぬ授業と言ふ可し。…」(金子健二日記)
大杉栄とその時代年表(442) 1903(明治36)年4月26日~30日 「東京朝日」主筆池辺三山、開戦辞せずとして強硬論を唱える。「英国のアバーヂーン内閣は最も平和を愛好するの内閣と称せられたりき。殊にアバーヂーンは最も露国と親善なる交渉を維持せんことを希望したりき。而も内外の形勢は遂に此の平和的内閣を馳りてクリミヤの大戦を敢てするに至らしめぬ。日本は固より露国の条約履行(露清間の満州還付条約)を希望するの外他意なしと雖も、其利益を防衛し東洋の平和を維持するの必要に余儀なくせらるゝあらば、当年アバーヂーン内閣に倣はざらんと欲するも得じ」
大杉栄とその時代年表(443) 1903(明治36)年5月1日~8日 「夏目先生のあの批評的なそして又叡智的な目とあのカイザー型の気取つたお髭とはなんとなく私達書生にとりて、接し難いやうな畏ろしいやうな印象を與へたのである。」(金子健二『人間漱石』)
大杉栄とその時代年表(444) 1903(明治36)年5月9日~21日 漱石、「第一高等学校に初めて出講する。藤村操に指名すると昂然として、「やって来ません」と答える。〝何故やって来ない〞と聞き返すと、「やりたくないからやって来ないです」とか何とか答えるので、”此次やって来い”と言い渡す。」 / 「第一高等学校で、前回にも指名した藤村操に訳読を指名すると、また予習して来ない。”勉強する気がないなら、もう此教室へ出て来なくてよい”といい渡す。」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(445) 1903(明治36)年5月22日~31日 「藤村操の死はたしかに時代的意義を持つて居た。日本は明治以来欧米列強の圧迫に囲まれて、富国強兵の一途に進んで来た。一高の籠城主義だとか勤倹尚武だとかいふものも、結局は日本のその趨勢の一波に過ぎなかった。ところが朝鮮問題を中心として日清戦争があっけない勝利に終り、更に十年を経て日露戦争が起こる前後から、国家問題とそれを中心とする立身出世に余念のなかった昔年の間に、国家でなく自己を問題にする傾向が起って来た。」(安倍能成『我が生ひ立ち』)
大杉栄とその時代年表(446) 1903(明治36)年6月1日~8日 参謀本部部長会議 「朝鮮ニシテ一度彼ノ勢力範囲ニ帰スルトキハ(朝鮮海峡、日本海、黄海の制海権を奪われて)日本帝国ハ扶桑ノ一孤島ニ蟄伏セヲレ……対馬及北海道ノ如キ帝国主要ノ属島モ、彼ノ欲スル所ニ従ヒ其占領ニ委セザルベカヲザルノ悲運ニ際会スルナキヲ保セズ」 「彼我兵力ノ関係、西伯利鉄道ノ未完全、日英同盟ノ存立、清国民ノ敵愾心等今日ヲ以テ最好機トシテ、此好時機ハ今日ヲ逸シテハ決シテ再ビ得ベカラズ」
大杉栄とその時代年表(447) 1903(明治36)年6月9日~15日 7博士事件 「彼れ地歩を満洲に占むれば、次に朝鮮に臨むこと火を賭(ふ)るが如く、朝鮮己に其勢力に服すれば、次に臨まんとする所、問はずして明かなり。・・・溝韓交換又は之に類似の姑息退譲策に出でず、根本的に満洲還附の問題を解決し、最後の決心を以て大計画を策せざるべからず。・・・」
大杉栄とその時代年表(448) 1903(明治36)年6月16日~24日 「桂の奇襲」により桂内閣で日露戦争を乗切る合意成立。伊藤の棚上げ工作。伊藤元老の「二役」(元老で政友会総裁)解消についての「一案」(枢密院議長に就任させ、政党から「足を洗わせる」)決定
大杉栄とその時代年表(449) 1903(明治36)年6月28日~7月 「日本では君主政体を国体と称するようである。(中略)社会主義なるものは、(中略) いわゆる国体、すなわち、二千五百年一系の皇統が存在するということと、矛盾・衝突するのであろうか。この間題に対して、わたくしは、断じて否と答えねばならぬ。(中略)社会主義は、かならずしも君主を排斥しないのである。」(幸徳秋水『社会主義神髄』付録「社会主義と国家」)
大杉栄とその時代年表(450) 1903(明治36)年7月1日~10日 「さう言はれて改めてみるせゐか、どうもやることなすことが只事でありません。何が癪に障るのか女中を迫ひ出してしまひます。私にはいよいよつらく当ります。女中は居ず、その上私は病気でふらふらしてゐるのですが、こちらもさうさう面当てがましく振る舞はれるのではたまりませんし、またそのいらいらしてゐるのを見るのが実にたまりません。しきりに里へ帰れといふことを面と向かって申しますので、私も考へました。こんなことが続いて、一層頭をいらいらさせてしまつても悪いし、万一子供にどんな危害がふりかからないものでもない。或は私が一時子供たちを連れて身を引いてゐたら、その間それだけ眼の前から邪魔者がなくなるわけで、かへつて気が鎮まるかも知れない。一先づ身を引いて様子をみよう。さう考へまして父に相談しまして、ともかく病気に逆らはないやうにして、一時子供を連れてどいてみることにいたしました。さうして七月に一旦里の父母の許へかへりました。」(『漱石の思ひ出』一九「別居」)
大杉栄とその時代年表(452) 1903(明治36)年7月30日 「第2回党大会での分裂の際、『イスクラ』派は『硬派』と『軟派』に分かれた。・・・それは、両派を分かつ明確な路線上の分岐線はまだなかったが、問題へのアプローチの仕方、断固たる姿勢、最後までやり通す覚悟といった点で両者に違いがあることを示していた。」 「大会が進むにつれて、『イスクラ』の主要幹部の間の対立がしだいに露わになってきた。『硬派』と『軟派』への分化が表面化してきた。・・・両派とも、思いがけない事の成りゆきに深刻な打撃を受けた。レーニンは大会から数週間、神経性の病に苦しんだ。」(トロツキー『わが生涯』)
大杉栄とその時代年表(453) 1903(明治36)年8月1日~12日 この夏から、横須賀海軍造船廠では異常な労働強化 日清戦争当時のことを知っている老職工たちは、すぐにその意味をさとった。 政府は、民間の主戦論者に攻撃されても容易にロシアに対する態度を明らかにせず、桂内閣の軟弱外交と言って罵られていたが、この年の夏、軍部と内閣とが、いよいよ開戦の決定をした。 労働は強化されたが、職工の収入はそれだけ殖えた。労働者たちの多くは、大多数の新聞の主戦論に煽られて好戦的にもなっていたので、一種の熱狂的な空気が造船廠を満たしていた。
大杉栄とその時代年表(454) 1903(明治36)年8月15日~31日 東京初の路面電車 「新橋品川間の電車開通・・・昨日午前五時三十分愈々電車運転を開始せり。・・・是より先き会社にては、従来雇用したる鉄道馬車の馭者中より運転手を選抜し浜松町なる新設会社構内に於いて運転上の練習をなさしめ既に百名の卒業者を出したるのみか、今日に至るまで、数回新橋品川間の試運転を実行したることとて、昨日は開業第一日なりにも拘らず、更に少しの故障もなく、午前五時先づ会社長及び担当技師を始め重なる会社員一同数台の電車に乗って新橋及び品川の両方面に向ひ、何れも其終局点に下車したる後始めて、普通乗客の乗車を許し、・・・」(「時事新報」8月23日)
大杉栄とその時代年表(455) 1903(明治36)年9月1日~10日 「鏡子が帰宅したのは、夏休みも終わる九月初句である。実家の母が形式上謝罪に行き、漱石は簡単にそれを受け入れた。掛り付けの甘子医師が東大の呉秀三に紹介し、鏡子は「あゝいふ病気は一生なほり切るといふことがないものだ」、治ったと思うのは一時の沈静で、きっと再発すると宣告されたそうだ。・・・鏡子は彼の病気の性質を知り、虐待されでも決して離れない覚悟で漱石の許に戻った。」(十川信介『夏目漱石』)
大杉栄とその時代年表(456) 1903(明治36)年9月11日~22日 「彼(*漱石)が各科共通の一般講義として『マクベス』の評釈を開講したとき、文科大学で一番大きな二十番教室は聴講生で立錐の余地もないほどになった。・・・・・学生の反響は至極良好で、第二講のときには法科や理科の学生まで評判を聞きつけて聴きに来るようになった。金之助(*漱石)はこの一般講義で『英文学概説』の不評を一挙に挽回し、にわかに文科大学随一の人気者になったのである。」(江藤淳『夏目漱石とその次第2』)
大杉栄とその時代年表(457) 1903(明治36)年9月24日~10月4日 「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」、戦時報道体制を築く検討を始める。 通信網の整備、戦時通信任務規定、戦時通信員給与規程、戦時通信賞恤規程、特派記者の選定など
大杉栄とその時代年表(458) 1903(明治36)年10月5日~8日 「万朝報」も開戦論に転換 この日(10月8日)、夜勤の堺が夕刻に出社すると、地方版が刷り上がってきた。そこには、大きな見出しで『萬朝報』は開戦を主張するという短い宣言文が載っていて、明らかに社長の黒岩涙香が書いたものだった。昼間の編集の締め切り後で、涙香がそこだけを差し替えさせたのだ、と堺は直感する。、、、、、
大杉栄とその時代年表(459) 1903(明治36)年10月9日~13日 「この「退社の辞」は特に青年に大きな影響を及ぼし、当時まだ横須賀海軍造船工廠の少年見習工だった著者(*荒畑寒村)は、これを読んで感奮して社会主義者たる意を決した。また、かつて社会党委員長であった故河上丈太郎は、中学校在学中にこの一文から非常な感激をうけたといわれる。」(「寒村自伝」)
大杉栄とその時代年表(460) 1903(明治36)年10月14日~19日 「私は数箇月前迄日本の凡ゆるジャーナリズムが(戦争は文明に到達する楷梯なり)といふ一種の流行語をたゞしいものだと考へてゐた。しかし、現在に於て少なくとも私は此の合ひ言葉に疑義を挿んでゐる。自然科学に依りて教へられた万物進化の過程なるものは、さう簡単に此の合ひ言葉を合理化し得るものであるだらうか。私は此の事に就いて今後研究してみようと考へた。」(金子健二『人間漱石』)
大杉栄とその時代年表(461) 1903(明治36)年10月20日~29日 「十月二十八日(水)から三十日(金)の間(極めて不確かな推定)、中根重一来る。久し振りに逢う。金策のため保証人になって欲しいとのことであったが断る。(略)妹婿の「清水」という下町の病院長に依頼し、四、五日経って四百円を中根重一に融通する。以上は、『道草』七十四による推定である。」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(462) 1903(明治36)年10月30日 「普通ならば医者から三月しか寿命のないのを申渡されて死後を覚悟すべき時である。聊かでも余財があれは家族のために残して置く乎、さらずば自分のための養生喰いをする乎、病気のために食慾の満足が得られないなら慰みになるものでも買うのが普通である。病気のためにも病床の慰みにも将(は)た又死後の計(はかりごと)の足しにもならないこういう高価の大辞典を瀕死の間際に間際に買うというは世間に余り聞かない咄(はなし)で、著述家としての尊い心持を最後の息を引取る瞬間までも忘れなかった紅葉の最後の逸事として後世に伝うるを値いしておる。」 結びは、 「紅葉は真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。」(内田魯庵『思い出す人々』)
大杉栄とその時代年表(463) 1903(明治36)年11月1日~3日 「ハムレットの亡父が青山墓地に幽霊の姿よろしく現はれて来て、その昔シェークスピアー自身が其の役割りを勤めたといふ亡霊の、あの幽かなものすごい口調で、「怨めしや」「怨めしや」の言葉を吐くあたりは、誠に感傷的の気分をそゝるに十分なものがあった。(略)ちょうど、私達が夏目先生から『マクベス』の講義を聴いてゐる時に、ともかくシェークスピアー劇を川上一座が日本式に上演してくれたのは私達英文科の学生に大きな幸福であった。」(金子健二『人間漱石』)
大杉栄とその時代年表(464) 1903(明治36)年11月4日~15日 週刊「平民新聞」創刊① 「一、自由、平等、博愛は人類世に在る所以の三大要義也。 一、吾人は人類の自由を完(まつた)からしめんがために平民主義を奉持す、故に門閥の高下、財産の多寡、男女の別より生ずる階級を打破し、一切の圧制束縛を除去せんことを欲す。 一、吾人は人類をして博愛の道を尽さしめんが為めに平和主義を唱道す。故に人種の区別、政体の異同を問わず、世界を挙げて軍備を撤去し、戦争を禁絶せんことを期す。 一、吾人既に多数人類の完全なる自由、平等、博愛を以て理想とす。故に之を実現するの手段も、亦た国法の許す範囲に於て多数人類の一致協同を得るに在らざる可らず、夫の暴力に訴へて快を一時に取るが如きは、吾人絶対に之を非認す。」
大杉栄とその時代年表(465) 1903(明治36)年11月15日~21日 週刊「平民新聞」創刊② 「堺さんの平民社こそは、武者小路氏の『新しい村』が九州の一角に試みられるより十幾年も以前に、帝都の中心、日比谷公園の近くに建設された一種の『新しい村』であったのだ。」(白柳秀湖の回想)
大杉栄とその時代年表(466) 1903(明治36)年11月22日~26日 「わが全社会よ。まずかの凄惨の声を聞け。しかして、この問題に答うるところを一考せよ。一考してえずんば、ただちに社会主義にきたれ。社会主義の旗幟は、分明に汝の進路を指示するあらん」(幸徳秋水「凄惨の声」ー「平民新聞」第2号)
大杉栄とその時代年表(467) 1903(明治36)年11月29日~12月 「僕は、海老名弾正が僕等に教えたように、宗教が国境を超越するコスモポリタニズムであり、地上の一切の権威を無視するリベルタリアニズムだと信じていた。そして当時思想界で流行しだしたトルストイの宗教論は、ますます僕等にこの信念を抱かせた。そしてまた僕は、海老名弾正の『基督伝』やなんとかいう仏教の博士の『釈迦牟尼伝』の、キリスト教及び仏教の起原のところを読んで、やはりトルストイのいうように、原始宗教すなわち本当の宗教は貧富の懸隔から来る社会的不安から脱け出ようとする一種の共産主義運動だと思った。」(大杉栄「自叙伝」)
大杉栄とその時代年表(468) 1903(明治36)年12月1日~10日 「日本国民が非常に興奮しており、対露交渉の遅々たる有様に不満であることは、疑う余地のない事実だ。閣僚もこれを弁(わきま)えている。この国民の要求を考慮しない時は、自己の生命すら毎日、毎時最大の危険にさらされるのを百も承知なのだ」(ベルツの日記)
大杉栄とその時代年表(469) 1903(明治36)年12月11日~16日 落合直文(43)没。落合直文は、多くの弟子たちの中で特に与謝野鉄幹の人柄と才能を愛した、明治26年11月、鉄幹を二六新報社に推薦し入社させる(鉄幹は編集整理兼学芸部主任となる)。明治29年3月、韓国から鉄幹を呼び戻し、明治書院に入社させる。鉄幹の第一詩歌集『東西南北』を明治書院から出させ、序文を書く。明治33年、鉄幹が雑誌「明星」を創刊すると、陰に陽にそれに力を添える。
大杉栄とその時代年表(470) 1903(明治36)年12月17日~20日 臨時閣議(18日)、戦争決意。桂・小村上奏。 桂「陛下、今此ノ事ニ允裁ヲ賜フ。而シテ異日恐ラクハ国家非常ノ難局ニ立タン。陛下予メ其ノ決心ヲ腸へ」と、戦争決意の要請を進言。 天皇は無言でうなずく。
大杉栄とその時代年表(471) 1903(明治36)年12月21日~31日 アルゼンチン巡洋艦2隻の売買契約成立(30日)。ロンドン。「日進」「春日」。駐フランス海軍武官竹内平太郎大佐、駐ドイツ海軍武官鈴木貫太郎中佐に、「日進」「春日」の回航責任者としてイタリアに急行すべき旨が、指示される。
大杉栄とその時代年表(472) 〈番外編 川上音二郎(1)〉 14歳で実家を出奔 流浪生活 政談演説 講談師 書生芝居というジャンルの旗頭として世間に名を知られる(27歳)
大杉栄とその時代年表(473) 〈番外編 川上音二郎(2)〉 音二郎一回目の海外 音二郎・貞奴の結婚 戦争劇が大好評 歌舞伎座公演 川上座完成(失敗) 選挙惨敗(二回) 二回目の海外 女優貞奴の誕生
大杉栄とその時代年表(474) 〈番外編 川上音二郎(3)〉 ボストンでアーヴィングの『ヴェニスの商人』に感銘を受ける 英国王に招かれる パリ万博で公演 次いで第三回目の海外公演 フランスでオフシェー・ド・アカデミー三等勲章叙勲 明治座で「オセロ」上演 貞奴の日本初舞台 逍遥も評価する
大杉栄とその時代年表(475) 〈番外編 川上音二郎(4)〉 「オセロ」「ヴェニスの商人」に続いて「ハムレット」上演、好評 「入場客は大半、大学生、女学生の新人、教員、学者、ジャーナリスト、金持ちの若旦那夫婦といった風の人々であって、老人株の者は殆ど一名も居らなかった。(略)ちょうど、私達が夏目先生から『マクベス』の講義を聴いてゐる時に、ともかくシェークスピアー劇を川上一座が日本式に上演してくれたのは私達英文科の学生に大きな幸福であった。私のクラスの者は沢山見物に来てゐた。」(金子健二『人間漱石』)
大杉栄とその時代年表(476) 〈番外編 川上音二郎(5)〉 「この明治36年という年は、日本におけるシェークスピヤ上演史上、画期的な年だったと。… … こんな冒険に類することは、この後とても、あまりないのである。この壮挙に押されて、37、38、39とシェークスピヤの上演は、なかなか盛んで、ついに坪内逍遙の指導する文芸協会の実際運動となり、それがひいて、新劇運動への火蓋を切ることともなるのであ る」(河竹繁俊)
大杉栄とその時代年表(477) 1904(明治37)年1月1日~3日 「三十七年一月三日の第八号からは堺の軽妙な筆致で抄訳された英国の詩人ウィリアム・モリスの「ニュース・フロム・ノウホエア」(「無何有郷通信」の意)が「理想郷」と題して掲載され、二十七回も続いて好評を博した。この新社会を描いた小説は堺が既往に訳したエドワード・ベラミーの「ルッキング・バックワード」(「回顧」の意、「平民文庫」の一冊『百年後の新社会』と同じく、もとより架空のユートピア物語に過ぎないが、その無政府主義的な理想社会の描写がまるで詩のように美しく、読む者を魅了せずにはおかなかった。堺がこれを訳したのは、初めこれを読んで深く感動した安部の慫慂(しょうよう)によったといわれる。」(荒畑「平民社時代」)
大杉栄とその時代年表(478) 1904(明治37)年1月4日~16日 「田村姉より来書あり。余がせつ子と結婚の一件また確定の由報じ来る。待ちにまちたる吉報にして、しかも亦忽然の思あり。ほゝゑみ自ら禁ぜず。友と二人して希望の年は来りぬと絶叫す。」(「啄木日記」)
大杉栄とその時代年表(479) 1904(明治37)年1月17日 「そしてこの戦争は勝敗の如何にかかわらず、恐るべき惨害を人類に及ぼすべきを確信する。それは貧民の犠牲において貪婪(どんらん)な資本家を富ませ、兵士の費用で将軍に多大の栄誉をもたらすが、しかし、何よりも国家にとって最悪なのは戦争が、ほとんど絶望的な窮乏と苦悩の生活に沈淪(ちんりん)している多数無辜(むこ)の寡婦孤児をつくることである。」(「戦争と兵士の家族」(『平民新聞』第10号))
大杉栄とその時代年表(480) 1904(明治37)年1月20日~29日 「我邦は実に人口の繁殖の為に土地の必要あり。而して工業生産物の排泄の為に新市場の必要あり。・・・この大なる要求を満足せしめ、永く他国の圧迫より脱するは戦争の結末による外なし」(長編社説「和戦の決と其得失」(内藤湖南)(「大阪朝日」))
大杉栄とその時代年表(481) 1904(明治37)年1月30日~31日 「……平戦何(いづ)レニカ決セラルルハ、今ヤ数日ノ中ニアルモノト認ム。 干戈相見(あひまみ)ユルニ至ラバ、第一著ニ敵ニ接スルハ我ガ海軍ノ任務ナルベキヲ以テ……我ガ軍隊ノ行動ハ、恒(つね)ニ人道ヲ逸スルガ如キコトナク、終始光輝アル文明ノ代表者トシテ恥ヅル所ナキヲ期セラレムコト、本大臣ノ切ニ望ム所ナリ」(山本海軍大臣訓示)
大杉栄とその時代年表(482) 1904(明治37)年2月1日~5日 対露開戦決定(閣議、御前会議) 「大海令第一号」裁可 「露国ノ行動ハ我ニ敵意ヲ表スルモノト認メ、帝国艦隊ヲシテ左ノ行動ヲ収(と)ラシメラル。 一、聯合艦隊司令長官並ニ第三艦隊司令長官ハ、東洋ニ在ル露国艦隊ノ全滅ヲ計ルベシ。 二、聯合艦隊司令長官ハ速ニ発進シ、先ヅ黄海方面ニ在ル露国艦隊ヲ撃破スベシ……。 三、第三艦隊司令長官ハ、速ニ鎮海湾ヲ占領シ、先ヅ朝鮮海峡ヲ警戒スベシ」
大杉栄とその時代年表(482訂) 1904(明治37)年2月1日~4日 日露開戦決定御前会議 外務大臣小村寿太郎の意見開陳「・・・事是(ことここ)に至りては実に巳むを得ぬから、我方はこの上談判を継続するも妥協に至るの望なき故に之を断絶し、自衛のため並に我が既得権及び正当利益を擁護するため必要と認むる独立の行動を取るべきことを露国政府に通告し、併せて軍事行動を執ることを緊要なりと思考する。」
大杉栄とその時代年表(483) 1904(明治37)年2月5日~6日 「大海令第一号」裁可 「露国ノ行動ハ我ニ敵意ヲ表スルモノト認メ、帝国艦隊ヲシテ左ノ行動ヲ収(と)ラシメラル。 一、聯合艦隊司令長官並ニ第三艦隊司令長官ハ、東洋ニ在ル露国艦隊ノ全滅ヲ計ルベシ。 二、聯合艦隊司令長官ハ速ニ発進シ、先ヅ黄海方面ニ在ル露国艦隊ヲ撃破スベシ……。 三、第三艦隊司令長官ハ、速ニ鎮海湾ヲ占領シ、先ヅ朝鮮海峡ヲ警戒スベシ」
大杉栄とその時代年表(484) 1904(明治37)年2月7日~8日 日本の憲法は、宣戦媾和の大事が天皇の大権によって決せられるべきことを規定す。然れども大権の未だ発動せざるの間、先づ之を決する者あるに似たり」、幸徳は、「誰か之を決する者ぞ」と問い、国民の與論か、立法部の議員か、行政部の官吏か、国務大臣かと問うて、「皆あらず」と答え、それは「銀行者と名づくる金貸業者」である。(社説「和戦を決する者」(『平民新聞第13号』))
大杉栄とその時代年表(485) 1904(明治37)年2月8日~9日 「彼の中に同居する異常性と正常性とはたえず綱引きを続けながら、それを文字化するときには異常を感じさせない表現を可能にするのである。菅や狩野ら親友は彼の病む心を感じることがあっても、彼がそれを露わに示すのは、鏡子や筆子ら妻子に対してだけだった。」(十川信介『夏目漱石』)
大杉栄とその時代年表(486) 1904(明治37)年2月10日~12日 日露戦争は満州と朝鮮をめぐって勃発したが、それは今や東アジアにおけるヘゲモニーをめぐる争いになった。そしてこの戦争は、専制ロシアの世界的地位をめぐる問題にまで拡大し、最後には、全世界の政治的均衡を変えるにいたるだろう。 その最初の結果は、ロシア専制の倒壊であろう。」(パルヴス「資本主義と戦争」)
大杉栄とその時代年表(487) 1904(明治37)年2月13日~14日 「鳴呼従軍の兵士、諸君の田畝は荒れん、諸君の業務は廃せられん、諸君の老親は独り門に倚(よ)り、諸君の妻児は空しく飢に泣く。而して諸君の生還はもとより期すべからざるなり。しかも諸君は行かざるべからず、行け、行(ゆい)て……一個の自動機械となって動け。然れども露国の兵士もまた人の子なり、人の夫なり……諸君の同胞なる人類なり、これを思うて慎しんで彼等に対して残暴の行いあることなかれ。」(「兵士を送る」平民新聞2月14日)
大杉栄とその時代年表(488) 1904(明治37)年2月15日~19日 社会主義大演説会 「当夜は日比谷公園に、日本がアルゼンチン政府から買入れた新造の軍艦日進、春日の歓迎会が東京市主催で開かれて、YMCAの門前に立てた演説会の看板の寒冷紗(かんれいしや)は破られ、主催者は「今夜は定めし聴衆の数が少なくて妨害と反対が多からう」と予期せざるを得なかった。「ところが来る、来る、そして定刻には聴衆三百余名に達した」と、第十六号には記されている。」(荒畑寒村『平民社時代』)
大杉栄とその時代年表(489) 1904(明治37)年2月20日~22日 「夏目先生の『リア王』の講義が今日から始った。第二十番の大教室は押すな押すなの人波のはんらんであった。『マクベス』以上の大入繁昌札止め景気であった。文科大學は夏目先生たゞ一人で持つて居らるゝやうに感じた。すばらし景気だ。」(金子健二『人間漱石』)」
大杉栄とその時代年表(490) 1904(明治37)年2月23日 日韓議定書調印 第一条、「大韓帝国政府ハ大日本帝国政府ヲ確信シ、施設ノ改善ニ関シ其忠告ヲ容ルル事」。第四条、第三国の侵害や内乱で大韓帝国の安寧や領土の保全に危険のある場合は、大日本帝国が臨機に必要な措置を取り、大韓帝国は「十分便宜ヲ与フル事」
大杉栄とその時代年表(491) 1904(明治37)年2月24日 第1次旅順口閉塞作戦(失敗) 「一旦文明の進歩と共に、復た然く無鉄砲のことをなすものなからむと欲したりしも、日清戦役に黄海の勇将樺山華山あり、旅順の猛将山地独眼竜あり。又平壌の佐藤鬼大佐ありて、我が固有的勇気を発揮したりし以来、日本の古武士的元気は著しく復活し来りたるものゝ如し。今日帝国海軍の決死隊七十七士が、運送船五艘を以て旅順口の閉塞を企てたる如き、実に其一例に非ずや。」(『日露戦争実記』(育英舎版)第3号)
大杉栄とその時代年表(492) 1904(明治37)年2月24日~28日 外国人を見たら英国人であろうと米国人であろうとロシア人であろうと、胡散臭い者と見なし、恰もスパイのように扱う愚を戒め、防諜活動とは他人を疑うことではなく、常日頃の自身の言動を慎むことだ。(村井弦斎「国民の外交」(「報知新聞」明治37年2月28日))
大杉栄とその時代年表(493) 1904(明治37)年3月1日~6日 「医科学を学ぶため多年にわたり米国に住み、英領インドにおいて伝染病調査のため二年間暮らした大石誠之助医師は、日本本州最南端の故郷で、人々に社会主義を鼓吹すべく熱心に活動中である。彼はよきキリスト教徒であり、私の心優しい友である」(雑誌『社会主義』3月号「渡米案内」欄)
大杉栄とその時代年表(494) 1904(明治37)年3月6日~11日 「事務の分担といへば、編集の雑務は枯川が引受け、秋水と西川君とが主なる文章を作る。それから、いささか諸君を驚かすべきは秋水が会計主任として、覚束なき手付に算盤をいじくつてゐる事である。石川君もまた、その不似合なる態度を以て売捌き等の事務に当り、兼ねて編集の雑務を手伝ふ。」(「平民社籠城の記」『平民新聞』第17号)
大杉栄とその時代年表(495) 1904(明治37)年3月11日~16日 「「諸君よ、今や日露両国の政府は各其帝国的欲望を達せんが為めに、漫(みだり)に兵火の端を開けり、然れども社会主義者の眼中には人種の別なく地域の別なく国籍の別なし、諸君と我等とは同志なり兄弟なり姉妹なり、断じて戦ふべきの理あるなし。諸君の敵は日本人にあらず、実に今のいはゆる愛国主義なり、軍国主義なり、我等の敵は露国人にあらず、而してまた実に今のいはゆる愛国主義なり、軍国主義なり。然り愛国主義と軍国主義とは諸君と我等と共通の敵なり、世界万国の社会主義者が共通の敵なり。」」(幸徳秋水「与露国社会党書(露国社会党に与うる書)」)
大杉栄とその時代年表(496) 1904(明治37)年3月17日~25日 「戦争は軍隊と軍隊との争ひなり、武装したる兵士が互に勝敗を決するなり、武装せざる人民と人民とは常にその善隣たり朋友たるを忘るべからず、(中略)戦争局を終へなば露国は我邦の善隣なり、共に通商上の利益を受くべき朋友的の人類なり」(社説(村井弦斎)「敵人の捕虜」(「報知新聞」))
大杉栄とその時代年表(497) 1904(明治37)年3月26日~28日 「彼等議会政党は今や尽(ことごと)く『戦争の為め』てふ一語に麻酔して、其常識を棄て、其理性を抛(なげう)ち、而して全く其議会政党たる所以の精神能力を遺却して、単に一個の器械となり了(をは)れるを見る也、何の器械ぞや、曰く増税の器械是(こ)れ也、而して政府者は、巧みに這箇(しやこ)の便利なる日動器械を使用せり、而して六千余万円の苛税は忽ち吾人の頭上に課せらる」(幸徳秋水「鳴呼増税!」)
大杉栄とその時代年表(498) 1904(明治37)年3月29日~4月 「廣瀬中佐は乗員を端舟(たんしゆう)に乗移らしめ、杉野兵曹長の見当らざる為め自ら三度び船内を捜索したるも、船体漸次に沈没海水上甲板に達せるを以て止むを得ず端舟に下り、本船を離れ敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部を撃ち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり、中佐は平時に於ても常に軍人の亀鑑(きかん)たるのみならず、其最後に於ても万世不滅の好鑑を残せるものと謂ふべし。」(東郷司令長官報告)
大杉栄とその時代年表(499) 1904(明治37)年4月1日~5日 「八幡といへる一小駅に到りし際の如き、折柄降りしきる春雨に濡れつゝ一列の小学生徒出で迎へて悲壮なる唱歌を唄ひ、果ては教員を始めとして其四辺に群がる人々も感極って涕泣せるの状、流石勇士として知られたる斎藤(七五郎、閉塞作戦参加者を代表して霊柩に同行した)大尉の如きも覚えず感涙止め敢えざりし」(『東日』4月6日)
大杉栄とその時代年表(500) 1904(明治37)年4月7日~13日 「特に黒紋付の婦人連の間に、襟のつきたる綿服着て一種の異彩を放ちたる杉野兵曹長の北堂(ほくどう、母堂)の如きは、小笠原(長生)少佐夫人に向ひ、今日の御仏は妾が倅孫七郎の姿が見えざるとて三度迄も御捜しくだされたはつかりにかう云ふ事になりました、其の優しき御心ばせは何と申しても御礼の申しやうが御坐りませんと、感極つて号泣せしは慰めんかたなく気の毒なりけり」(『萬朝報』4月14日)。
大杉栄とその時代年表(501) 1904(明治37)年4月13日~21日 斎藤緑雨没 直前、見舞いに来た馬場孤蝶に対し、いずれ機会を見て君の手で何とか出してやってくれと、預かってた一葉日記を孤蝶に託す。
大杉栄とその時代年表(502) 1904(明治37)年4月21日~30日 「邦人の他に対して誇称するに足たものと云へば、唯だ明媚の山水と、忠君愛国の為めには何物をも犠牲として顧みざるの赤心か、之を外にし特許発明の世界人心を動かすべきものは殆んど絶無と謂ふべし」(『萬朝報』4月27日)
大杉栄とその時代年表(503) 1904(明治37)年5月1日~9日 第1軍(黒木為禎大将)、九連城占領 ▼両軍兵力:ロシア満州軍東部兵団29,245、日本軍第1軍42,500。 ▼損害:ロシア側戦死614、負傷1,144、行方不明526。日本側戦死172、負傷761。
大杉栄とその時代年表(504) 1904(明治37)年5月10日 漱石の新体詩「従軍行」(『帝国文学』5月10日発行) 『帝国文学』4月号は4編の戦争詩を掲載 「征露進軍歌」坪井九馬三 「 我兵見よやロシア国」上田万年 「 祝捷行軍歌」芳賀矢一 「征夷歌三章」土井晩翠
大杉栄とその時代年表(505) 1904(明治37)年5月10日 漱石「従軍行」について(その2) 「英文科の某君は”こんな拙いものを書かれては我等英文科の名誉を汚がす”と酷評した。純然たる時代思想に便乗した平凡な客観詩である。夏目先生に不むきな題材だと思った。」(金子健二『人間漱石』)
大杉栄とその時代年表(506) 1904(明治37)年5月10日 漱石「従軍行」について(その3) 「固より国家の為めに人間を教育するといふ事は理屈上感心すべき議論にあらず。既に(国家の為めに)といふ目的ある以上は、金を得る為めにと云ふも名誉を買ふ為めにといふも或は慾を遂げ情を慈まにする為に教育すといふも、高下の差別こそあれ其の教育外に目的を有するに至っては竜も異なる所なし、理論上より言へば教育は只教育を受くる当人の為めにするのみにて其固有の才力を啓発し其天賦の徳性を洒養するに過ぎず。つまり人間として当人の資格を上等にしてやるに過ぎず」(「中学改良策」)
大杉栄とその時代年表(507) 1904(明治37)年5月10日 漱石「従軍行」について(その4終) 「日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。仮令(タトヘ)然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ。少シハ考へテ見ルガヨカラウ。西洋人ハヤゝトモスルト御世辞ニ、支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好ダト云フ。之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ツテ自分方ガ景気ガヨイト云フ、御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ」(漱石の日記(1901(明治34)3月15日))
大杉栄とその時代年表(508) 1904(明治37)年5月10日~15日 5月15日 午前1時40分、南三山島沖。第3戦隊「春日」、「吉野」に衝突。「吉野」沈没。吉野艦長佐伯大佐以下死者318人。 午前11時38分、第1戦隊「初瀬」、旅順港外で触雷、曳航中更に触雷。副長森中佐以下死者496人。 「初瀬」救援作業中の「八島」も触雷。曳航中沈没。死者なし。政府は5日間これを公表せず。
大杉栄とその時代年表(509) 1904(明治37)年5月15日 ロシアの画家ヴェレシチャーギン(1) 1877~78年、露土戦争に従軍。司令官副官の地位と軍内で自由に行動する権利を与えられ、シプカ峠の戦いを目撃。プレヴェン攻略戦では自身の兄弟が戦死、また自身も重傷を負う。この悲惨な戦いは彼の世界観を変えるものだった。
大杉栄とその時代年表(510) 1904(明治37)年5月15日 ロシアの画家ヴェレシチャーギン(2終) 「広瀬中佐の戦死、マカロフ提督の溺死、各々其国の主戦論者をして賛美せしめよ、吾人平和主義者は茲に満腔の悲痛を以て平和画家ヴェレスチャギンの死を弔せずんばあらず」「戦争の悲惨、愚劣を教えんとして、而して戦争の犠牲となる。芸術家としての彼は其天職に殉じたる絶高の人格なり」(中里介山「嗚呼ヴェレスチャギン」)
大杉栄とその時代年表(511) 1904(明治37)年5月16日~26日 「日露の交戦は日本帝国の安全と東洋永遠の平和とを図り、世界の文明、正義、人道のために起れるものにして毫(ごう)も宗教の別、人種の異同・に関する所なし。……ここに相会し各自公正の信念を訴え、相ともに奮ってこの交戦の真相を宇内に表明し、以て速かに光栄ある平和の克復を見んことを望む。」(大日本宗教家大会)
大杉栄とその時代年表(512) 1904(明治37)年5月26日 南山攻略作戦(1) ロシア側死傷1,336(4,100中)。日本側死傷4,387(36,400中)。日本側の損害大。 南山の1日の戦闘で、日清戦争と同量の砲弾、1.6倍以上の小銃弾を消費。大本営は、一報時点の死傷者3千に対して、「三千は三百の間違いだろう」と、にわかには信じなかったという。
大杉栄とその時代年表(513) 1904(明治37)年5月26日 南山攻略作戦(2) 「振古未曾有なる征露の役に、自分が従軍したのは、実に此上も無い好運である。砲烟弾雨、それが自分の稚い思想に大なる影響を及ぼしたのは無論のことで、自分は人間最大の悲劇、人間最大の事業を見たとすら思ったのである」(田山花袋『第二軍従征日記』緒言(明治38年))
大杉栄とその時代年表(514) 1904(明治37)年5月26日 南山攻略作戦(3)(田山花袋出征の経緯、藤村の苦闘、鴎外の事情) 「「千駄木から茉莉の夏ものゝ切れが行った筈だから最うこしらへてやつたらうね。茉莉の写真はをりをり出して見るとなぐさみになるよ。博文館からこちらへ来て居る人が先頃顔も洗はない髪だらけのところを写真に写したから其内戦争実記とかに出すだらう。丸で熊のやうになってゐるよ」」(鴎外の妻への手紙)
大杉栄とその時代年表(515) 1904(明治37)年5月26日~31日 陥落の直後の金洲の惨状(27日) 「一間二間と隔てず、数多の死屍(しがい)は或は伏し或いは仰向けになりつゝ横つて居るのを見ては、戦争其のものゝの罪悪を認識せずには何(ど)うしても居られぬ。殊に、砲弾に斃(たほ)れたるものゝ惨状は一層見るに忍びんので、或は頭脳骨を粉砕せられ、或は頷骨(くわんこつ)を奪ひ去られ、或は腸(はらわた)を潰裂(くわいれつ)せしめ、或は胸部を貫通する等、一つとして悲惨の極を呈して居らぬは無い。」(田山花袋「第二軍従征記」)
大杉栄とその時代年表(516) 1904(明治37)年6月 「「六月または七月(月日不詳)、黒い猫が迷い込んできて、いくら追い出しても入ってくる。(鏡)」 「漱石は、”この猫はどうしたんだい”と聞き、”そんなに入って来るんなら置いてやったらいいじゃないか”と同情する。鏡は猫嫌いだったので、追い出したく思っていたところ、老婆の按摩から、爪の先まで黒い福猫だから、飼っておくと家が繁昌するといわれ、飼う気になる。(鏡)」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(517) 1904(明治37)年6月1日~5日 『平民新聞』第30号発行 「龍城後の平民社」(「平民社龍城の記」爾来「春光夢の如く今や指折れば早や三ヵ月の日子を過ぎて」、・・・ 営業面では、「今日までに殆んど何等の進歩も無い」。、、、減収は相当の痛手、、、応急策として3月以降全社員の給料の2割削減、ついで5月以後は社員一切無給とした。、、、
大杉栄とその時代年表(518) 1904(明治37)年6月6日~12日 「然り、諸君の人道の主義と諸君の利害とは、今や諸君に向つて速かに平和快復の方法を講ぜんことを要求す。……戦争に干渉して以て速かに平和の快復に尽力するは、これ実に諸君の政府が当然なすべきの所にあらずや。而して諸君の政府にしてその連合の力を以てよく日露両国民に慫慂(しようよう)し、紛争葛藤の問題をへーグ仲裁裁判に委托せしむることを得んか、戦争は直ちに休止することを得べきなり。 吾人今や旦夕平和の福音を説くにおいて、……これをして効果あらしむるには一に欧米同志の……諸君がおのおの諸君の政府に迫りて、日露戦争休止のために適当の手段をとらしむるにあり。」(「欧米の同志に次ぐ」『平民新聞』第31号)
大杉栄とその時代年表(519) 1904(明治37)年6月12日~20日 「もし文明国が平和的な手段によって国際問題を解決し得なかったならば、彼等にとって大いなる恥辱である。(略)もし武力に訴えることが日露両国にとって恥辱であるならば、ただの傍観者として佇立していることは列国にとって更に大きな恥辱である。今こそ文明国にとって、極東アジアに平和をもたらすために何事かをなすべき時である。故にこの瞬間において、社会主義者は彼等のみが勇敢大胆に軍国主義に抵抗し得るが故に、その責任の特別な重要性を感じなければならぬ。吾人をしてアムステルダムに会同するわれらの同志が、日露戦争に関して適正な決議を通過すべきことを望ましめよ。」(第2インターナショナル大会に対する決議 『平民新聞』第32号)
大杉栄とその時代年表(520) 1904(明治37)年6月23日~30日 「戦争俄[にわ]かに起るに及んでや、彼等は直ちに之を忘却し尽して、昨日戦争の猛悪、無用、無意味を説けるの同一人[にん]にして、今は可及的多数の人類を殺戮し、可及的多額なる人間労働の生産物を暴殄[ぼうてん]し破壊し、而して平和、無害、勤勉なる人民の間[あいだ]に可及的甚[はなはだ]しき憎悪[そうあく]の念を煽起[せんき]せんことをのみ思考し、口にし、筆にするなり、然り此等[これら]曲学の識者は、実に人民の労働に依りて其衣食を得、生活を支えながら、却って彼等人民を強[しい]て、其良心、安寧、若くば信仰に背きて、這箇[しゅこ]の暴挙を敢てせしむる者也」(秋水「トルストイ翁の日露戦争論」)
大杉栄とその時代年表(521) 1904(明治37)年7月1日~5日 「みいくさにこよひ誰が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる」(石上露子(いそのかみつゆこ、筆名ゆふちどり) 『明星』7月号)
大杉栄とその時代年表(522) 1904(明治37)年7月6日~13日 「★然らば即ち、韓国の領土を保全するにはただわが実力を以てするあるのみ。実力の二字をいま一層手緊(きび)しく言へば兵力のみ。 ★故に吾人は韓国の要所に兵営を建築し、わが軍隊をして恒久に韓国に駐屯……せしめんことを望む。 ★されど韓国の領土は単に韓人のためのみに保全するに非ず、又わが国のために保全する也。即ち韓人の欲するにせよ、欲せざるにせよ、韓国の領土は是非とも他国の侵略より保全せざるべからず。 ★故に吾人は韓国経営の第一着手として、まず軍事的経営を勧告す。(『国民新聞』(徳富蘇峰)社説「韓国経営の実力」」
大杉栄とその時代年表(523) 1904(明治37)年7月14日~17日 「吾人の見る所を以てすれば、日本民族が如何に異民族に悪感を懐き居るかは、彼れが識ゆる新平民に対することにでも明白也、日本人が如何に韓人を軽蔑し虐待せるかは、心ある者の常に憤慨せる所に非ずや、韓人が日本人と合同せんとする事あらば、そは合同に非ずして併呑也、韓人は到底使役せられんのみ、・・・」 「見よ、領土保全と称するも、合同と称するも、其結果は只ヨリ大なる日本帝国を作るに過ぎざることを、又見よ、今の合同を説く者も、領土保全を説く者も、同じく曾て韓国の独立扶殖を説きたる者なることを、然らば則ち将来の事亦知るべきに非ずや、要は只其時の都合次第に在り」(「朝鮮併呑論を評す」)
大杉栄とその時代年表(524) 1904(明治37)年7月18日~24日 「吾人は之を読んで深く露国社会党の意気を敬愛す。然れども吾人がさきに、暴力を用ゐることに就て彼等に忠告したるに対し、彼等が猶終に暴力の止むを得ざる場合あると言ふを見て、深く露国の現情を憎み、深く彼等の境遇の非なるを悲まざるを得ず」(「露国社会党より」)
大杉栄とその時代年表(525) 1904(明治37)年7月25日~31日 「・・・今回はすこしく長き作(『破戒』)にとりかヽり、来年の春、小諸を去る迄に完結すべき見込にて、日々精励執筆致居候。 「頃日、沿岸の航路殆と断絶、津軽海峡のみ僅かに滊船を通し居候。浦汐艦隊は先の日津軽海峡を通過して太平洋方面に出で、この二三日は房州附近に遊戈しつつありとの報あり。その目的は商船撃沈にありとか聞く。 「文界の事別に報ずべきなし。戦争に関する小説類は数多く出づる有様なれど、傑出せるものあるを聞かず。戦争劇とても亦同様の状態に御座候。但、新聞紙に於る科学的記述体の戦報、戦評等を争つて読むの今日の習慣は、今後の著述界に注目すべき事象と思はれ候。」(藤村から花袋へ)
大杉栄とその時代年表(526) 1904(明治37)年8月1日~7日 「汝、心なきロシア皇帝、日本皇帝、大臣、牧師、僧侶、将軍、新聞記者、投機師、その他よ、汝等みずから砲弾の前に立て。我等はもはや行かぬであろう。行け汝等、この戦争を起した人々よ。汝等よろしく自ら行きて、日本の砲弾および地雷火に立ち向うべし。我等はこの戦争を欲せず、またこの戦争がいかにして誰のために必要なるかを解せざるが故に、我等は決して行かぬであろう。」(幸徳秋水「トルストイ翁の日露戦争論」)
大杉栄とその時代年表(528) 1904(明治37)年8月14日~16日 「万国の労働者と社会主義者の合意と連帯活動は国際平和の本質的な保証であることに注目しつつ、ツァーリズムを戦争と革命が同時に脅かしつつあるまさにこのときにあたり、大会は、資本主義と自国政府の犯罪により殺戮されている日本とロシアのプロレタリアに兄弟の挨拶を送る。大会は国際平和の守り手、万国の社会主義者と労働者に一切の戦争拡大に全力をあげて抵抗するようよびかけるものである。」(第2インターナショナル第6回大会)
大杉栄とその時代年表(529) 1904(明治37)年8月17日~20日 「勝たば黄禍/負けば野蛮/白人ばらの/えせ批判/褒(ほ)むとも誰か/よろこばん/謗(そし)るを誰か/うれふべき/(中略)/見よや黄禍/見よや野蛮/誰かささへん/そのあらび/驕者(けうしや)に酔へる/白人は/蝗(いなむし)襲う/たなつもの」」(森鴎外「黄禍」)
大杉栄とその時代年表(530) 1904(明治37)年8月21日~23日 「鳴呼、何等の惨ぞ! その死骸は二重三重と重なり、四重五重と積み、或者は手を敵の銃台に掛けて斃れ、或者は既に乗越えて、敵の砲架を握れるまゝに死したるあり、さも苦しさうな呻き声の深き地の底より起るが如く聞えるのは、畳み重なった下に在る負傷者が発したのである。勇壮なる此の突撃隊が、味方の死屍を乗り越え踏み越え、近く敵塁に肉迫して、魚鱗掛りに突き入ると、忽ち敵の機関銃で、攻め寄る者毎に一々撃殺された為、死屍は数層の傾(なだれ)を打つて、敵塁直下に斯くは悲惨なる死骸を積んだのである。」(桜井忠温)
大杉栄とその時代年表(531) 1904(明治37)年8月23日~29日 〈砲弾の補給に苦しむ日本軍〉 砲弾は、5月の南山の闘いで開戦時の備蓄が食いつぶされるおそれが出てきた。しかも6月になると、砲弾を製造するはずだった工場は、旅順要塞を攻撃するための「所要兵器」(大型の大砲用の弾薬と各種車両)を「新造若は改造」するせいで「其作業力の大半を奪はれたり」という状況になり、「野戦砲弾」生産の業務までは手が廻らない事態となる。 その後も相次ぐ戦いで弾薬を消耗しつづける日本軍は、「八月二十一日旅順要塞第一回の総攻撃失敗の結果第三軍は其の携行弾薬の約四分の三を消費し而して未だ明かならざる」という苦境に陥り、とうとうドイツのクルップ社・イギリスのアームストロング社といった外国の兵器会社に対し砲弾を注文して弾薬不足を補う事になった。
大杉栄とその時代年表(532) 1904(明治37)年8月30日~9月 遼陽会戦中の南部での戦闘 日本側2ヶ日間の戦傷11,891(旅順口第1回攻撃の被害に匹敵) 橘周太少佐(陸の軍神)戦死
大杉栄とその時代年表(535) 1904(明治37)年9月6日~18日 橘周太少佐を称賛する記事 「彼の軍神と称へらるゝ廣瀬海軍中佐は、其の最後の勇壮なりしが為のみにあらで、其の平素に在つて敬仰すべき事の多かりしを以て人の欣慕を受くること探し、この橘少佐も亦其の平生の性行洵に嘆美すべきもの多く、恰も陸軍に於ける鹿瀬中佐ならんと思考せらる」(教育総監部参謀柚原完蔵少佐)
大杉栄とその時代年表(536) 1904(明治37)年9月19日~25日 第2次旅順総攻撃(9月期)終結。 死傷4,849(内死者924)。4目標中3つを占領。 203高地撤退。死者274、傷者947。
大杉栄とその時代年表(537) 1904(明治37)年9月26日~30日 「これまで日本を最もよく知ってゐる外国人でも日本の底力はよく分ってゐない。攻撃に反抗する力よりも攻撃に耐へ忍ぶ力が遥かに勝つてゐるかも知れない」(ラフカディオ・ハーン「日本からの手紙」(「アトランティック・マンスリイ))」)
大杉栄とその時代年表(538) 1904(明治37)年10月1日~6日 「先に政権の独占を憤ふおれる民権自由の叫びに狂せし妾は、今は赤心資本の独占に抗して、不幸なる貧者の救済に傾けるなり。妾が烏滸の譏りを忘れて、敢て半生の経歴を極めて率直に少しく隠す所なく叙せんとするは、強ちに罪滅ぼしの懺悔に代えんとには非ずして、新たに世と己れとに対して、妾のいわゆる戦いを宣言せんがためなり。」(福田英子『妾の半生涯』)
大杉栄とその時代年表(539) 1904(明治37)年10月7日~15日 沙河会戦の損害:ロシア41,346(うち戦死5,084)、日本24,497(4,099)
大杉栄とその時代年表(540) 1904(明治37)年10月16日~26日 第2次10月期旅順口総攻撃 28センチ砲による激しい砲撃。ロシア軍砲台の崩壊、火薬庫の爆発などの被害が出る
大杉栄とその時代年表(541) 1904(明治37)年10月27日~11月 第2次10月期旅順口総攻撃作戦中止 松樹山砲台、二龍山砲台、東鶏冠山北砲台の攻略ならず(戦果はP砲台占領のみ) 日本側死傷3,830(内戦死1,092)。ロシア死傷4,453(内戦死616)・不明79
大杉栄とその時代年表(542) 1904(明治37)年11月1日~12日 ロシア・バルチック艦隊、モロッコ領タンジールで石炭補給後、スエズ運河通航の独立支隊と希望峰迂回の本隊に分かれ、本体はダカールを目指す
大杉栄とその時代年表(543) 1904(明治37)年11月13日~14日 「一個の怪物がヨーロッパを徘徊してゐる。すなはち共産主義の怪物である。古いヨーロッパのあらゆる權力は、この怪物を退治するために、神聖同盟を結んでゐる。ローマ法皇もツァールも、メッテルニヒもギゾウも、フランスの急進黨もドイツの探偵も。」(共産黨宣言 (堺利彦、幸徳秋水)共譯)
大杉栄とその時代年表(544) 1904(明治37)年11月15日~20日 『平民新聞』第52号事件(「小学教師に告ぐ」)公判 1審判決 『平民新聞』発禁 幸徳・西川禁固5ヶ月 罰金50円 別に西川禁固2ヶ月 控訴 / 社会主義協会、結社禁止
大杉栄とその時代年表(545) 1904(明治37)年11月21日~26日 第3回旅順総攻撃 1日目(11月26日) 攻撃目標;松樹山、二龍山、東鶏冠山 午前8時、砲撃開始。午後1時、総攻撃。正面攻撃失敗。決死隊「白襷隊」3千余進撃。大半死傷。
大杉栄とその時代年表(546) 1904(明治37)年11月27日~29日 「「西川はまた十一月二十八日、足尾銅山に労働同志会を作る運動をしている永岡鶴造の請を容れて、松崎源吉とともに遊説におもむいた。(略)会は聴衆一千余を超ゆる盛会で、松崎の演説中、一人の壮士が演壇に登って妨害したため聴衆から袋叩きに会ったほかは、予想された騒動もなく終了した。二十九日の夜は本山のいろは座に演説会を開き、前夜と同じく満場立錐の余地もない盛況を呈した。」(荒畑寒村『平民社時代』)
大杉栄とその時代年表(547) 1904(明治37)年11月30日~12月3日 「十一月末から十二月初旬の間(日不詳)、高浜虚子、「山会」に提出することを約束した原稿を受け取りに来る。家にあがり、朗読して貰う。聞きながら笑い興じる。気のついた欠点を云って欲しいというと、数か所を指摘するので改める。原稿紙二枚分を除いた箇所もある。高浜虚子、「山会」の時刻に大分遅れて出席する。」 「『ホトゝギス』第八巻第三号(明治三十七年十二月十日刊)には、『吾輩は猫である』(漱石)の次号予告として、と掲げられている。『吾輩は猫である』と題名が決定したのは、十二月十日(土)より一週間前後のことであり、それより数日溯った時に、「山会」が開かれたものと推定される。」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(548) 1904(明治37)年12月4日~10日 12月6日午前7時30分、203高地占領確認。 日本側戦傷16,936(内戦死5,052)。ロシア側戦傷4,576。第3軍累計戦傷48,788。
大杉栄とその時代年表(549) 1904(明治37)年12月11日~15日 「政治上の平等は得られたが経済上の平等はまだ一歩も認むるを得ず、この状態より見る時はマルクスの思想は拒むべからざる大勢である。然るに、人類に進歩の道を示したその思想に感謝しないで、その文字の頒布を禁ずるのは甚だしき謬見ではないか」 「この宣言は五十年前に公表された歴史的文献であって、これを以て直ちに日本の社会秩序を壊乱するものとなすは不当も甚だしい。被告等の処罰と否とはむしろ些事に過ぎず、本弁護人は実にわが国裁判史上の一大事なるが故に、学問の独立のために無罪を主張する」(平民新聞第53号事件(「共産党宣言」掲載)第1審第2回公判における今村力三郎の弁護)
大杉栄とその時代年表(550) 1904(明治37)年12月17日~21日 「然れども吾人は断じて非戦論を止めじ、吾人は之が為めに如何の憎悪、如何の嘲罵、如何の攻撃、如何の迫害を受くると雖も、断じて吾人の非戦論を止めじ。彼の満洲の野における数十万の兵士および其家族が現に受けつつある無限の疾苦、悲痛の惨状に比し来れば、吾人に対する紛々たる憎悪、嘲罵、攻撃、迫害の如きは寧ろ一発の屁のみ。」(幸徳秋水「非戦論を止めず」)
大杉栄とその時代年表(551) 1904(明治37)年12月22日~31日 203高地占領後、当初の計画どおりにロシア海軍第1太平洋艦隊(旅順艦隊)への砲撃が強化され、戦艦ペレスヴェート、戦艦レトウィザン、戦艦ポベーダ、巡洋艦パルラーダなどが次々に沈没、自沈、航行不能。 一方、翌1905(明治38)年元旦が明ける頃には、東鶏冠山、二龍山、松樹山の砲台の占領が完了
大杉栄とその時代年表(552) 1905(明治38)年1月 「ひとあし踏みて夫(つま)思ひ ふたあし国を恩へども 三足ふたたび夫おもふ 女心に咎(とが)ありや 朝日に匂ふ日の本の 国は世界に只一つ 妻と呼ばれて契りてし 人も此世に只ひとり かくて御国(みくに)と我夫(わがつま)と いづれ重しととはれなば ただ答へずに泣かんのみ お百度詣ああ咎ありや」(大塚楠緒子「お百度詣で」(『太陽』))
大杉栄とその時代年表(553) 1905(明治38)年1月 「『今回の事件はこの論文の予測を完全に裏づけた。今や、ゼネラル・ストライキが闘争の主要な方法であることを否定するものは誰もいまい。1月9日の行進は、いかに坊主の法衣に隠れていようとも、最初の政治的ストライキだ。これだけは言っておかなければならないが、ロシアの革命は、民主主義的労働者政府の権力をもたらすだろう』――パルヴスは、こうした趣旨のことを、私の小冊子の序文に書いてくれた。」(トロツキー『わが生涯』)
大杉栄とその時代年表(554) 1905(明治38)年1月1日 漱石 「一月一日(日)、晴。元日。旅順開城の号外鳴り響く。『吾輩は猫である』、『ホトゝギス』第八巻第四号(明治三十八年一月一日刊 一月号)に発表され、文名あがる。『倫敦塔』を『帝国文学』一月号に発表する。年賀状には、自筆の猫の絵葉書を送ってきた者もいる。野間真綱来る。(推定) 夕刻、野村伝四と共に雑煮を食べる。野間真綱から貰った猪肉入れる。野間真綱宛手紙に、「今日は何だかシルクハットが被つて見たいから一つ往来を驚かしてやらうかと思ふ」と書く。」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(555) 1905(明治38)年1月1日 与謝野晶子・山川登美子・増田雅子、「恋衣」(本郷書院)刊行。 評判が良く、2月に再版、10月に3版
大杉栄とその時代年表(556) 1905(明治38)年1月1日 「山川登美子、増田雅子、与謝野晶子の三女史は、多年、新詩社の閏秀作家として、詩名夙(と)く『明星』紙上に顕れぬ。近時我国短詩壇の潮流いと新しきものあるは、実に女史等首唱の力多きに由れり。わが書院曩(さき)に『毒草』を出だししか、今また切に三女史に乞ひて此集を得たり。与謝野女史は既に二三の著あり。山川・増田二女史に至りては、この集を以て初めてその詩才を窺ふべし。 世を挙げて功利に趨り、未だ文芸の真価を知らず、書を読めりと称する者、往々猶偽善者道学者の口吻を以て詩歌美術を律せむとする時に当り、明峰繊指の人、熱意かばかり自家を語るを見るは、詩界の偉観なるのみならず、人間の栄誉、生命、まことに此に在るを悟るべきなり。」(『恋衣』広告文)
大杉栄とその時代年表(557) 1905(明治38)年1月1日~5日 水師営会談。海外の新聞報道員がロシア軍使節団の写真撮影を申し入れたが、乃木は「後世にまで残る写真に、降伏時の姿を撮らせるのは、日本の武士道が許さない」と拒否。その代わり「会見が終わり、友人として同列に並んだ姿なら撮ってもよい」とした。約束通り、乃木は会見後の写真撮影に応じたが、そこにはまるで友軍のように並ぶ日露両軍の将軍たちの姿があった。
大杉栄とその時代年表(558) 1905(明治38)年1月6日~10日 「爾来、条約は改正せられ内地雑居は許され内外の事情急速の進歩をとげたるにかかはらず、教育界の思想は依然たる旧態なり。サスガに文部省においても漸次その陋見を棄てんと苦慮しつゝあり、而して枢密顧問官の連署を以て文部省編纂の修身書を弾劾せる建議書出づ、如何に国家偶像の旧思想が牢乎として抜く可らざるかは・・・該建議書によって明白なり。 平民新聞の議論は、この『国家』の陋見より教育界を救はんと欲せる也。・・・何の朝憲紊乱か是れあらん。」(木下尚江「朝憲紊乱とは何ぞ」)
大杉栄とその時代年表(559) 1905(明治38)年1月11日~17日 1月16日 (露暦1/3)プチーロフ工場全員1万2800人スト 2日目(17日)機械造船フランス=ロシア工場2千、連帯スト 3日目(18日)。大企業ネヴァ造船6千人含む4工場が連帯スト リベラル派は資金、エスエルは爆弾の提供をガボンに約束
大杉栄とその時代年表(560) 1905(明治38)年1月18日~22日 「陛下、もし私たちの祈りを許容されず、それにお答えなられなかったら、私たちはここで、この広場で、陛下の宮殿の前で死ぬつもりです。他に私たちの行くべきところなどありません。行く必要もありません。私たちにはただ二つの道――自由と幸福への道か、墓場への道しかありません。陛下、おっしゃってください。そのどちらでも、たとえ死の道であろうとも、私たちは絶対に服従し、その道を進みましょう。私たちの命を、苦悩するロシアのいけにえとなしてください。私たちはこの犠牲をいといません。私たちは喜んで命を捧げましょう」(冬宮に行進したペテルブルク労働者の嘆願書より)
大杉栄とその時代年表(561) 1905(明治38)年1月23日~26日 「1905年の1月23日[旧暦の1月10日]早朝、私は、汽車の中で一睡もできないまま疲れはてて講演旅行からジュネーブに帰ってきた。売り子の少年が前日の新聞を売ってきた。そこには、冬宮への労働者の行進が行なわれるだろう、と未来形で書かれていた。私はたぶん行なわれなかったのだろうと判断した。1、2時間ほど後、『イスクラ』の編集部に立ち寄った。マルトフは極度に興奮していた。 『行進は行なわれなかったんでしょう?』、私は尋ねた。 『行なわれなかっただって?』、彼は飛びかからんばかりに言った――『僕たちは夜通しカフェに座って、最新の外電を読んでいたんだ。君は何も知らないのか? ほら、これを見てみろ、これを!』、そう言って彼は新聞を差し出した。私は、血の日曜日事件に関する外電記事の最初の10行に視線を走らせた。頭を殴られたような鈍い衝撃と焼けつくような感情の高まりに襲われた。」(トロツキー『わが生涯』)
大杉栄とその時代年表(562) 1905(明治38)年1月27日~29日 黒溝台占領。ロシア軍退却、終結。 日本側戦死1,848、負傷7,249,捕虜227(全損害の56%が第8師団で、第8師団の4個連隊(5・31・17・32)は損傷率50%前後)。ロシア側戦死641、負傷8,989、失踪1,113。
大杉栄とその時代年表(563) 1905(明治38)年1月29日 『平民新聞』廃刊① 「アゝ我児(こ)『平民新聞』明日よりは、汝、全く歴史の物なり、- 去れど汝は死せるに非ず、否な、死することを得るものに非ず、汝は紙に非ず、墨に非ず、文字に非ずして、生命なれば也、太初より太終に向て時と共に発展する活動なれば也。・・・汝は既に人の心の奥に在り、血管の中に在り、汝の目より之を見れば、爰(ここ)に汝を葬むるもの、却て汝が活動の一端なるやも知るべからず」(木下尚江「平民新聞を弔ふ」)
大杉栄とその時代年表(564) 1905(明治38)年1月29日~31日 『平民新聞』廃刊② 「露国革命の火」;「露国革命の火の手は終(つい)に炎々として燃え上れり、吾人は諸種の電報を綜合して左の記事を作る」として、1月19日(新暦)以降の諸事件の経過推移を記述。 / 「之を日本の事として想像せよ」;『萬朝報』1月25日号「言論」を抄録して批判
大杉栄とその時代年表(565) 1905(明治38)年2月 「一国の気勢悉く戦争に趁(はし)り、戦争より云へば閑事業たる文芸の如きは漸く度外視され、加ふるに財界の緊縮論は心霊上の作物を冷遇するの状況を呈し、陸に海に、戦は連勝連勝の好果を収めたれども、文芸上の産物は絶無とも云ふべき姿にて又一年を終りぬ。」(平出修「昨年の文芸界」)
大杉栄とその時代年表(566) 1905(明治38)年2月1日~6日 「或夜加藤氏は僕と社会主義論に夜を更かして、談偶々(たまたま)『直言』の事に及ぶや日く、今こそ反古同様の雑誌だが、必ず一度は大活動する時が来るよ、否大に為さねはならぬ時が来るよ、ソレを楽みにお互に苦労しやう、家の費用をどんなに節約しても、此雑誌の維持金ぐらゐ出して行くよ、但し今は活動の時でないから、筆も極めて柔かく行くのが後日『直言』を役に立たせる為に必要だ。同志は何んと誤解しても必ず成程サウであったかと首肯させる時が来る。当分は社会改良主義ぐらいに止めやう。 果然『直言』活動の時は来った。あゝ昨日までは同志の間にすら辛うじて其存在を認められた、微々たる一小雑誌『直言』は、此処に社会改良主義の仮面を去って、快なる故、日本社会主義の中央機関となったのだ。」(原霞外「『直言』活動の時」)
大杉栄とその時代年表(567) 1905(明治38)年2月7日~13日 「二月十日(金)、『吾輩は猫である』(続編)を掲載した『ホトゝギス』(第八巻第五号)発行される。高浜虚子は「消息」に、「『吾輩は猫である』續篇は獨り量に於いて長篇たるのみならず、亦た質に於て大篇たり。文飾無きが如くにして而も句々洗練を経、平々の敍寫に似て而も薀藉する處深遠、這般の諷刺文は我文壇獨り評者を俟て之あるものといふべし。」と述べる。」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(568) 1905(明治38)年2月14日~23日 平民新聞第52号(「小学教師に告ぐ」)大審院判決、上告棄却。 28日、西川光次郎・幸徳秋水、入獄。師岡千代子『風々雨々』には、その記念撮影後に秋水が着ていた二重廻し(男子用の袖のない外套)を脱ぎ、「僕には当分不要だから、君が代わりに着てくれ給え」といってそっと堺の肩に掛けた、という記述がある。秋水没後、堺は千代子に「あの時は何んだか泣きたいやうな気がして、妙に鼻が詰まって困った」と語ったという。
大杉栄とその時代年表(569) 1905(明治38)年2月24日~28日 「一体、政府は社会主義者をどうする積りなのか。社会主義者に主義を捨てさせようと欲するのか、よもやそんなことは出来まい。社会主義者のロを閉じ舌を抜かんと欲するのか、そんな事も出来まい。苟(いやし)くもこの主義を持する者を法律で処罰することは出来ても、これを排除することは不可能であってそれを敢て企つるのは昔の暴君の為す所である。わが憲法第二十八条には信教の自由が保証されている。其々はこれこれの主義を持するから新聞雑誌の発行を許さないというのは、明治七、八年頃のことであって二十世紀の政治家の態度とはいわれない。」(立川雲平)
大杉栄とその時代年表(570) 1905(明治38)年3月 大阪朝日新聞社主村山龍平、東京出張員の二葉亭四迷の動きが悪いとして、首を切ると言い出す。上野理一社長は東京朝日主筆池辺三山に相談。二葉亭の記事はたびたび没になり、明治37年は合計3本しか紙面に出ず。 池辺三山は「東京朝日」からも彼に仕事をさせる条件で解雇撤回させる。三山の狙いは彼に小説を書かせること。「露国革命党」(8月)以降、四迷の記事は「東京朝日」だけに発表されるようになる。
大杉栄とその時代年表(571) 1905(明治38)年3月2日~6日 「万朝報」、「毎日新聞」と共に塩専売・米籾輸入税・織物消費税・市内通行税の4悪法廃止を主張し、国庫による百三十銀行救済、特に北海道上川兵営建築費不当支出を取上げ、政府の無責任を追及。 「政府の横暴放恣斯くの如くにして已まずんば、一旦、外難去りて常時に復するの瞬間、我が国民は彼等を以て露軍に次ぐの仇敵なりと為し、多年の鬱憤積怨忽ち彼等の頭上に爆発」するであろう。
大杉栄とその時代年表(572) 1905(明治38)年3月7日~10日 奉天占領。ロシア軍退却。大山総司令官が戦闘の終結を宣言。 日本死傷70,028。ロシア側死傷60,093、捕虜21,792、失踪7,638。開戦以来の日本軍動員数2,084,178(明治38年男性人口23,421,000で、兵役人口は8,000,000と想定)
大杉栄とその時代年表(573) 1905(明治38)年3月11日~19日 「御承知の通り鶏の蹴合の運命にも余程消長がありまして、或時は非常に流行り、或時は非常に流行らなかったと言ひまする、彼(か)の「クロムエル」などといふ先生が出た時は鶏を蹴合はせるは怪しからぬ、止めて仕舞へと云って鶏を一羽も蹴合せなかったといふ、(此時校外へ号外売来る)、所へ号外が来た、(笑声起る)、どうもアンなものが来るといふと、奉天の方が面白いですからな、鶏の蹴合より日本と露西亜の蹴合ってる方が余程面白いです、(笑声起る)、何処をやってるんだか一向分らない、鶏の蹴合ですな、」(漱石講演「倫敦のアミューズメント」)
大杉栄とその時代年表(574) 1905(明治38)年3月21日~31日 「過去一切社会の歴史は階級闘争の歴史なり。之を欧洲に見るに、希臘(ギリシヤ)の自由民(フリーマン)と隷奴(スレーブ)、羅馬の貴族(パトリシアン)と平民(プレビアン)、中世の領主(ロード)と農奴(サーフ)、同業組合員(ギルドマスター)と被雇職人(ジャーネーマン)、一言以て之を掩(おほ)へば圧制者と被圧制者、此両者は古来常に相反目して、或は公然、或は隠然、其戦争を継続したりき。 然れども此階級闘争が極めて単純なるに至れるは、現時代即ち紳士閥の時代が有する特徴なりとす。然り、今の社会は全体に於て、刻一刻に割裂して、両個の相敵視する大陣営、直接に相対立する二大階級を現じつゝあるなり。其階級とは何ぞや。曰く紳士(ブールジヨアー)、曰く平民(プロールタリアツト)。」(「日本紳士閥の解剖」)
大杉栄とその時代年表(575) 1905(明治38)年4月1日~2日 「東京朝日」「大阪朝日」の戦争継続論。「東京朝日」社説「昨今の講和沙汰」、アメリカ大統領の調停説をウソと断定、ロシアの弱り目に乗じてさらに躍進せよ、と主張。 「大阪朝日」社説「激励の機会」、ロシアが旅順・奉天の大敗にもこりないなら、ハルビン・黒竜江・沿海州までも進撃するのみ、と主張。
大杉栄とその時代年表(576) 1905(明治38)年4月3日~10日 「・・・看よ、拒むべからざるの事実は是れ也、戦死の犠牲は是れ皆な貧民、労働者と其の子弟也、軍費の最後の負担者は是れ皆な貧民と労働者と也、--然れ共戦勝の鴻益に就て彼等は直接に何物の分配を享受せんと欲する乎、吾人は之を各国の歴史と近く之を日清戦役の実験とに徴して「生活難」の外殆ど何物も是れあらざるべきを悲痛せずんばあらざる也」(1905年4月9日付け『直言』)
大杉栄とその時代年表(577) 1905(明治38)年4月12日~21日 「火鞭会は文学研究会也」「火鞭会は科学万能主義に抗して、人類の迷妄を打破し、現代の文明を批評して、黙移暗遷する時代の黒潮に棹(さおさ)す」など4項目が掲げられている。 発起人は、児玉花外(本名・伝八)、小野有香、山田滴海、山口孤剣、中里介山、白柳秀湖、原霞外(本名・真一郎)で、児玉花外以外は、『直言』の執筆および編集に携わっていた青年社会主義者。
大杉栄とその時代年表(578) 1905(明治38)年4月22日~31日 『直言』第12号「婦人号」 木下尚江「醒めよ婦人」(社説)、堺利彦「婦人問題概観」、石川三四郎「独逸軍人の結婚」、英文欄「婦人の状態」、世界之新聞欄「英国婦人選挙権獲得運動の小歴史」、荒畑寒村「東北伝道行商日記」、小田頼造「九州日記」、「如何にして社会主義者となりし乎」など
大杉栄とその時代年表(579) 1905(明治38)年5月 小山内薫は「七人」を発行するとともに、「帝国文学」の編纂委員と庶務委員とを兼ねていた。彼は、夏目漱石の原稿を「帝国文学」にもらって載せたが、「七人」にも載せたいと思った。小山内は漱石に「七人」に小説を書くように依頼し、漱石は5月の「七人」に「琴のそら音」という50枚ほどの小説を書いた。
大杉栄とその時代年表(580) 1905(明治38)年5月1日~3日 石川啄木(19)処女詩集「あこがれ」出版。全77篇、定価50銭、序文与謝野鉄幹、序詩上田敏。装幀は同郷の友人石掛友道、詩集の扉には「此書を尾崎行雄氏に献じ併て遥に故郷の山河に捧ぐ」との献辞。高等小学校時代の級友小田島真平の兄尚三の出征記念として、その経営する小田島書房から発行。
大杉栄とその時代年表(581) 1905(明治38)年5月4日~11日 「小生は教師なれど教師として成功するよりはへボ文学者として世に立つ方が性に合ふかと存候につき是からは此方面にて一奮発仕る積に候然し何しろ本職の余暇にやる事故大したものも不出来只お笑ひ草のみに候」(5月8日付け漱石の村上霽月宛手紙) 「僕は今大学の講義を作つて居る。いやでたまらない。学校を辞職したくなつた。学校の講義より猫でもかいて居る方がいゝ」(4月7日付け大塚保治宛手紙)
大杉栄とその時代年表(582) 1905(明治38)年5月12日~18日 社会主義伝道行商(東北)から帰京した荒畑寒村は、雑司ケ谷鬼子母神の傍の農家で自炊していた武久夢二(早稲田実業)・岡栄一郎(早稲田大学)と三人の共同生活をおくる。三人は、「水とパンだけで過す日の多い生活をも意に介せず、社会主義実現の空想に耽って奔放な議論をたたかわせていた」(『寒村自伝』)
大杉栄とその時代年表(584) 1905(明治38)年5月26日~27日 日本海海戦① 26日午前0時5分、三井物産上海支店長より大本営海軍部に情報。「25日夕刻、ロシア巡洋艦・運搬船が出現し運搬船のみ上海入港」 この情報により、バルチック艦隊が東シナ海にあり、津軽海峡周りでウラジオに向うとの説を否定させる。輸送船が本隊と離れたということは、以後、艦隊は給炭ができないので、敵は最短の日本海を抜ける対馬ルートを行くことを物語っている。
大杉栄とその時代年表(585) 1905(明治38)年5月27日 日本海海戦② 午後2時20分、旗艦「スヴォーロフ」のマストは折れ煙突は砕かれ火につつまれる。「オスラービャ」は蜂の巣の状況、左舷12度に傾く。 2時24分、「スヴォーロフ」司令塔塔蓋下に1弾命中。司令長官ロジェストヴェンスキー中将・参謀長クロング大佐ら負傷。甲板は火に覆われ戦闘行動の自由を奪われる。時刻は2時26分(戦闘開始後18分)。
大杉栄とその時代年表(586) 1905(明治38)年5月27日 日本海海戦③ 「アレクサンドル3世」沈没。全員867死亡 「ボロジノ」沈没。866中生存1人。「スヴォーロフ」沈没。死者925人。「ナワリン」沈没。乗員703中3のみ生存
大杉栄とその時代年表(587) 1905(明治38)年5月28日 日本海海戦④ バルチック艦隊の損害は沈没21隻(戦艦6隻、他15隻。自沈を含む)、被拿捕6隻、中立国に抑留6隻(ウラジオ着3隻)。兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名。 連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名。大艦隊同士の艦隊決戦としては史上稀に見る一方的勝利。
大杉栄とその時代年表(588) 1905(明治38)年5月28日~31日 「朝鮮海峡における海戦は、全世界の政治新聞の注意を引きつけた。ツァーリ政府は、最初、自分の忠良な臣民から苦い真実をかくそうと試みたが、すぐにこのような試みをしてもむだであることを納得した」 「戦争は、専制のあらゆる腫物をあばき、その腐敗をあますところなく明るみにだし、それが人民から完全に遊離していることをしめし、カエサル的支配の唯一の支柱を撃破した。戦争は、恐ろしい審判となった。人民は、すでにこの強盗政府にたいする自分の判決をくだしている。革命はこの判決を執行するだろう」(レーニン「壊滅」)
大杉栄とその時代年表(589) 1905(明治38)年6月1日~8日 高平小五郎駐米公使、小村寿太郎外相の訓令によりセオドア・ルーズベルト米大統領に日本政府の意思を伝え日露講和の友誼的斡旋を依頼
大杉栄とその時代年表(590) 1905(明治38)年6月9日~14日 「理は此方にあるが権力は向ふにあると云ふ場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、又は権力の目を掠(かす)めて我理(わがり)を貫くかと云へば、吾輩は無論後者を択(えら)ぶのである」(漱石「吾輩は猫である」(四))
大杉栄とその時代年表(591) 1905(明治38)年6月17日~20日 「対露硬同志会の豪傑連と、彼の英雄的博士組との気焔の凄まじさ想ふべし。戦争の当初、野蛮なる敵愾心を煽動せんがためには、是等の英雄豪傑も亦甚だ必要なる道具なりしが、今や外交の舞台となりては、さすが政府も少々持余しの気味に見受けらるゝこそ笑止なれ」(『直言』第20号社説「平和に急げ」)
大杉栄とその時代年表(593) 1905(明治38)年7月1日~7日 7日7月7日 午後3時、第13師団第25旅団、南樺太コルサコフ東方メレイに上陸、午後10時15分、コルサコフ占領。ロシア軍は焦土後退作戦。 コルサコフから逃れてきたロシア人によれば、コルサコフ付近の守備兵は、約1,200人で、そのうちの400人は現役兵で、その他に外国人より徴募した義勇兵もいたという。また、コルサコフには重砲2門と軽砲が7、8門配置されていただけであった。
大杉栄とその時代年表(594) 1905(明治38)年7月8日~11日 荒畑寒村(18)、第2次伝道行商出発。 この日草加。11日大相模村。12日西方村。14日上都賀郡谷中村で田中正造と面会。通信文「忘れられた谷中村」。 16日佐野町。17日栃木村。18日鹿沼で車を預け西大葦村。巡査2人尾行。 19日足尾銅山に向う。午後3時、労働至誠会(長岡鶴造)入り。4日間滞在。 24日足尾~中善寺~日光。25日鹿沼に戻り、車を持って宇都宮。 26日市内小幡町の有限責任購買組合を訪問(会員160余、石川三四郎「消費組合の話」(平民文庫)が設立の契機)。27日氏家町。28日錫掛村。29日芦座町で鈴木秀男戦死を知る。 30日午後鈴木秀男葬儀通知を受取り横浜に戻る(葬儀には間に合わず)。第2次伝道行商は3週間で47冊のみ。
大杉栄とその時代年表(595) 1905(明治38)年7月12日~27日 (漱石)「「七月中旬(推定)、『神泉』の小沢平吾に招待され、本郷座の『金色夜叉』を見る。・・・この後で、小沢平吾は漱石に手紙を出し、『金色夜叉』について批評を求めるため伺いたいと云う。漱石は、二言三言ですむから雑誌に載せる必要もあるまいと、断りの手紙を出したところ「飯を食ふから來いと云ふことで、さうして今来たら捉まつてしまつた」という。・・・「本郷座金色夜叉」として発表されているのは、漱石の発言を中心にした座談会で、発言者は、ロ○△Xである。口は漱石、Xは小沢平吾と推定される。○△は誰か分らぬ。・・・「本郷座金色夜叉」は、『神泉』八月号(創刊号 八月一日発行) に掲載されている。」(荒正人)
大杉栄とその時代年表(596) 1905(明治38)年7月28日~30日 幸徳秋水出獄。幸徳は出獄直前から無政府主義に関心を惹かれはじめた。獄中から在桑港の友人アルバート・ジョンソンに宛てた書翰にも、「私は所謂『罪悪』ということについて深く考えるところがあり、結局現在の政府の組織、裁判所、法律、監獄が、実際、貧窮と罪悪とを誘導するものであると確く信じるようになりました……事実を申せば小生ははじめマルクス派の社会主義者として監獄に参りましたが出獄に際しては急進的なアナーキストとして立ち戻りました」と述べ、入獄という体験が、幸徳の国家権力の否定、無政府主義への思想的傾斜の原因になったことを語っている。
大杉栄とその時代年表(597) 1905(明治38)年8月 「兎に角日本は今日に於ては連戦連捷 - 平和克復後に於ても千古空前の大戦勝国の名誉を荷ひ得る事は争ふべからずだ、こゝに於てか啻(たゞ)に力の上の戦争に勝ったといふばかりでなく、日本国民の精神上にも大なる影響が生じ得るであらう。」(漱石の談話「戦後文界の趨勢」)
大杉栄とその時代年表(598) 1905(明治38)年8月2日~10日 「事実を申せば、私は初め『マルクス』派の社会主義者として監獄に参りましたが、出獄するに際しては、過激なる無政府主義者となって娑婆に立戻りました。ところが此の国に於て無政府主義を宣伝することは、死刑又は無期徒刑若くは有期徒刑を求めることに外ならず、危険千万でありますから、右無政府主義の拡張運動は、全然秘密に之を取運ばざるを得ません。(略)私は次の目的から欧米漫遊をし度いと思って居ります。(略)若し私の健康が許し、費用等も親戚や友人達から借り集めてこれを調達することが出来ましたら、私はこの冬か来春のうちには出発したい考で居ります。(略)」(幸徳秋水のアルバート・ジョンソンへの手紙)
大杉栄とその時代年表(599) 1905(明治38)年8月11日~16日 桂・原第3回秘密交渉。 原は西園寺と相談した上で講和には反対しないと言明。政権移譲時期は西園寺の都合次第。但し、政友会一党の政党内閣にしない、憲政本党と連立しない、を条件とする。原は了解。
大杉栄とその時代年表(600) 1905(明治38)年8月17日~20日 「留学生は挙って反対運動を起こし、秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味ではないことを知っていたから、賛成しない人が多かつたが、それでこの人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳(魯迅の親友)もその中に入っていた。魯迅は彼女が一口の短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している。」(周作人)
大杉栄とその時代年表(601) 1905(明治38)年8月20日~26日 戸水事件。 東京帝国大学教授戸水寛人(対露強硬論7博士の1人)、対露強硬論を主張して「文官分限令」により休職処分。 9月下旬~、東京・京都帝国大学教授ら、大学の自治を掲げ、抗議運動。法科大学機関誌「国家学会雑誌」(編集主任美濃部達吉)10月号は全巻で各教授の政府攻撃文(美濃部は「権力ノ濫用ヨリ生ズベキ弊害」掲載)。河上肇は発表中の「社会主義評論」でこの事件に言及、「学者言論の自由」を主張し教授会を支持。 翌年1月29日戸水は復職。文相久保田護は辞職。
大杉栄とその時代年表(602) 1905(明治38)年8月27日~31日 池辺三山(41、東京朝日新聞の主筆)、ポーツマス講和談判で賠償・領地での大幅譲歩を知り「桂を見限る決心。翌三十一日より筆鋒を桂内閣に差向くる」(日記)と書く。
大杉栄とその時代年表(603) 1905(明治38)年9月 夏目漱石『一夜』(「中央公論」) この小説を夏目に書かせるために毎週のように通って来ていたのは、「中央公論」の編輯者で東京帝大法科に籍を置いていた滝田哲太郎(23歳、秋田出身、仙台・第二高等学校から東大文科、明治37年法科に転じる)。 滝田は漱石に心酔し、次作をもとめて夏目家に通いつづけた。
大杉栄とその時代年表(604) 1905(明治38)年9月1日 各新聞、一斉に日露講和条約反対の論陣 「大阪朝日新聞」 第1面真ん中に黒枠。中に「請和条件」と見出し。「…一切日本の譲歩のみにして、吾人はこれを急報するを恥ず。今御用紙国民新聞の報じたる講和否請和条件なる者を左に掲ぐ」と記し、「国民新聞」記事を転載。その下、紙面の1/4の大きさで折れたサーベルを前に草むらに転がるしゃれこうべ、その目から涙。 社説「天皇陛下に和議の破棄を命じ給はんことを請い奉る」は、未調印の講和条約破棄を天皇に願い、「重ねて軍人に命ずるに進戦を以てしたまわんことを」と、戦争継続を要望。
大杉栄とその時代年表(605) 1905(明治38)年9月2日~4日 台湾総督民政長官後藤新平、奉天着。 満州軍総参謀長(兼台湾総督)児玉源太郎に「満州経営策梗概」を説明、賛意を得る。児玉・後藤の台湾統治コンビが日露戦争後の満州経営方策を立案。協議後、後藤は視察旅行に出る。鉄嶺~昌図~前線、営口・天津・北京、大連・旅順、安奉軽便鉄道で韓国へ。 9月27日釜山発、28日門司着。
大杉栄とその時代年表(606) 1905(明治38)年9月5日 日比谷焼打事件① 〈日比谷焼打事件の概要〉 藤野裕子『民衆暴力 ― 一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書)による
大杉栄とその時代年表(607) 1905(明治38)年9月5日 日比谷焼打事件② 「警官憲兵ハ必死解散を命ずるも応ずれバこそ益々会衆を増加し爰にも警官憲兵と会衆との間に衝突起り交通ハ杜絶し附近の住家ハ悉く門戸を閉し会衆ハ鯨波を作り何時散ずべき模様もな」い。開催前から「山下門々前の光景ハ正に之れ石の雨、丸太の雨」という状態になり、群衆は丸太を交差点に積み上げ、電車を止めた。
大杉栄とその時代年表(608) 1905(明治38)年9月5日 日比谷焼打事件③ 「三百余人潮の寄するが如く署内に闖入し来りたれバ衆寡敵せざるハ素よりなるまゝ署員ハ抜剣して防がんとすれども、・・・何時か群集ハ署内へ入込み三回まで石油を灌いで爆発せしめ電信係の一室を破壊し署内ハ乍ら一面の火となる(下谷署)」
大杉栄とその時代年表(609) 1905(明治38)年9月6日 日比谷焼打事件④ 午後9時10分、日比谷公園前に停車中の電車放火。計11両。10時、「街鉄」事務所・工夫事務所焼討ち。この日夜、電車15台が焼討ち。1903年市街電車開通により人力車夫5千(1903⇒1904年比較)が失業。
大杉栄とその時代年表(610) 1905(明治38)年9月7日 日比谷焼打事件⓺ 事件は収束 負傷者:官吏側502、民衆側528(死者17)。警察に引致された者1,700余、起訴308、有罪判決87名。 〈暴動参加者の相貌〉(藤野裕子『民衆暴力』より)
大杉栄とその時代年表(611) 1905(明治38)年9月7日 日比谷焼打事件⑦ 「このように、男性労働者のマグマのようなエネルギーは、目の前の権力である雇い主や富裕者、そして警察権力に対して向けられた。」(藤野裕子『民衆暴力』より)
大杉栄とその時代年表(612) 1905(明治38)年9月7日~9日 日比谷焼打事件⑧ 「商業的売出候小新聞、又は・・・旧対露同志会之変体、講和談判同志会なる、対露同志会員と、進歩党関係の新聞記者達、之れに渡辺国武一派の連中、入雑候団体より、種々雑多の手段方法を以て、下層の人民の人心を動揺せしめ候故、政事と社会と混同いたし、目下の処、車夫馬丁の輩より、償金が取れぬと云ふより、小商人等の中間に迄、何となく其事柄の是非を弁せず、騒々敷有様にて、此辺は余り不宜情況に付、此際は可成此問題をして、政事問題にのみ引込候手段緊要と存候而、夫々手段を尽し申候。」(桂から山縣への手紙『公爵桂太郎伝』)
大杉栄とその時代年表(613) 1905(明治38)年9月10日~12日 「伊藤は妓を大阪に購ひて妾とし、井上は妓を携へて叡山に遊び、松方は赤十字事業視察の途次いたるところに淫蕩を恣(ほしいまま)にせり。それ出征者の家族、戦死者の遺族は飢うれども食なく、寒けれども衣なし。而して皆、『国家のため』の故を以て泣くことだに能はざりき。戦争に伴なふ社会的現象たる失業、貧困、犯罪の悲惨の如きは一顧さへも与へられざりし也。政府当局者よ、この泣く能はず言ふ能はざる悲惨の国民が、果して何等の情念を以て伊藤、井上、松方等の倣慢無礼を見つつありしと思ふや。」 「啻(ただ)これのみならず、内務大臣芳川顕正は淫蕩いたらざるなく、総理大臣桂太郎は万金を抛つて新たに妾宅を構へたり。」(『直言』第32号(終刊号)社説「政府の猛省を促す」)
大杉栄とその時代年表(614) 1905(明治38)年9月13日~22日 「新聞紙が大活字を羅列して諸君を讃美謳歌しつつありし戦勝泰平の時期において、彼等国民の間には無限悲憤の熱涙を諸君のために拭いつつありし也。彼らの諸君に対する怨恨は、講和の条件によって醸成せられたるものにあらずして、その強いて抑え来れるの怨恨の、戦争終結をまって爆発したりしのみ」(『直言』社説「政府に猛省を促す」) 無期限発行停止 廃刊を決意する
大杉栄とその時代年表(615) 1905(明治38)年9月23日~29日 西川光二郎出獄 『直言』が無期限発行停止となり、合議により平民社解散・『直言』廃刊決定。 財政上の問題、同志間の思想的相違、感情の齟齬の表面化 堺利彦・延岡為子、西川光二郎・松岡荒村未亡人の文子との恋愛結婚問題、キリスト教系の安部磯雄周辺はそれを非難
大杉栄とその時代年表(616) 1905(明治38)年10月 「島村抱月氏帰朝す、我文壇は氏に向つて多大の望を嘱しつつあり、而も氏の活動せんとするは文芸のいづれに於てなりや、主に作家としてなりや、又批評家としてなりや、将又、早稲田大学の教授としてなりや、吾人樗牛以後批評の如何にも寂蓼なるを嘆くもの、願はくば批評家として抱月を迎へしめよ。」 「島崎藤村氏は小説破戒を起稿中なりしか今やその八九分を書き了りたれば、多分明春発兌の運びに至るべしと。こは非常に大作の由なり」(「文壇消息」(「中央公論」10月号))
大杉栄とその時代年表(617) 1905(明治38)年10月1日 「明星といふ小雑誌あり、ホトトギスといふ小雑誌あり、一つは醴酒(あまざけ)の如く一つはラムネの如し、どうせ滋養にはならねど、いづれも特色のありて、小範囲の読者に珍重せらる。この二者は全然相容れざる性質を有し、寄稿家も読者も類を異にし、明星の後援者に上田敏先生あり、ホトトギスの客将に夏日金之助先生あり。自(おのず)から相対立し、大学の講堂外に自己の面目を発揮させるは面白し、而して世柳村先生の厚化粧の美文を知る者多けれど、漱石先生の粉飾なき散文を知る者少く、学士敏の新体詩を喋々する者あれど、学士金之助の俳句或は俳体詩は、文壇の批判に上らず。」(『文科大學學生々活』)
大杉栄とその時代年表(618) 1905(明治38)年10月1日~5日 河上肇『社会主義評論』(「読売新聞」連載) 「読売新聞」主筆足立北鴎は同郷の山口県人で、その縁で明治38年、千山万水楼主人という筆名で、「社会主義評論」を「読売」に連載した。それは伝統的な経済学の立場から当時の社会主義者たちの思想や人となりを論じたものであった。この評論は大変好評で、そのために「読売新聞」の部数が増えたとも言たれた。
大杉栄とその時代年表(619) 1905(明治38)年10月6日~10日 「大和魂! と叫んで日本人が肺病やみの様な咳をした」(略) 「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」(略) 「東郷大将が大和魂を有(も)って居る。肴屋(さかなや)の銀さんも大和魂を有って居る。詐偽師、山師、人殺しも大和魂を有って居る」(略) 「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行ってからエへンと云ふ声が聞こえた」(略) 「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る」(略) 「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。(略)大和魂はそれ天狗の類か」(『吾輩は猫である』(第六回))
大杉栄とその時代年表(620) 1905(明治38)年10月10日~14日 1905年ロシア第一革命① 「偶発的に起こったストライキは、いったんはおさまったものの、思いがけず鉄道に飛び火し、全力疾走しはじめた。10月10日に始まったストライキは、すでに政治的スローガンを掲げており、モスクワからたちまち全国に広がった。このようなゼネラル・ストライキは世界でも例を見ないものだった。多くの都市の街頭では、軍隊との間で衝突が繰り広げられた。」(トロツキー『わが生涯』)
大杉栄とその時代年表(621) 1905(明治38)年10月14日~17日 1905年ロシア第一革命② 「各工場ないし地域の500人の労働者につき1人の代表が選ばれた。この選挙された代表者はソヴィエトを形成し、この組織がペテルブルクの主人となった。トレポフは狼狽し、ヴィッテは人民の前に姿を現わすことができなくなった。国家機構はボイコットを宣言された。ソヴィエトは事実上その手中に国家権力を収めた。」(トロツキー「ロシア革命(ソフィア演説)」)
大杉栄とその時代年表(622) 1905(明治38)年10月17日~23日 1905年ロシア第一革命③ 「『われわれは、この飽くことなき、王冠を戴いた死刑執行人に自由の約束をさせたのだ。なんという偉大な勝利だろうか。だが、勝利を祝うのはまだ早い。勝利はまだ不完全なのだ。(略)市民諸君! われわれの要求はこうだ。軍隊はペテルブルクから撤退せよ! 首都の周囲25ヴェルスタ以内にひとりの兵隊も残すな。自由な市民自身が秩序を維持するのだ。勝手な振舞いや暴行は誰も我慢しないだろう。人民はあらゆる手段で自衛するのだ』。」(トロツキー『1905年』「10月18日」)
大杉栄とその時代年表(623) 1905(明治38)年10月11日~20日 「大阪朝日」(10月18日)第1社説「国民は泣いて大詔に従うのみ」、第2社説「閣臣にして良心あらば自ら処決の機を発見せよ」。22日の短評欄に「今は各人各個、手紙なり葉書なりにて桂総理に辞職を勧告するも亦国家に対する忠義の一である」と評し、10月25日~11月7日発行停止。村山龍平社長は「社はつぶれぬとも限るまいがつぶれてもよかろう、主張だけは通そう」と漏らす。
大杉栄とその時代年表(624) 1905(明治38)年10月21日~30日 講和問題同志連合会、国民倶楽部に改組。 「内立憲主義を取り外帝国主義を行ひ、表裏相依り相須ちて始めて方今の大勢に応ずべし。・・・此二主義は国民的自覚に発して国民的自信に立ち国民的活動に依りて大成するものなり」(=「立憲主義的帝国主義」)
大杉栄とその時代年表(625) 1905(明治38)年10月17日~31日 1905年ロシア第一革命④ 政府は労働者らを直接攻撃することを避け、これをもっぱら黒百人組に委ねた。黒百人組の蛮行(ポグロム)は、ユダヤ人のみならず多少とも反政府的な人々にも向けられた。10月18日~24日、黒百人組によるポグロム。ロシア全土の都市101で死者3千人以上、負傷者1万人以上となった。
大杉栄とその時代年表(627) 1905(明治38)年11月10日~13日 「11月13日、われわれはメンシェヴィキと協力して、大規模な政治機関紙『ナチャーロ(出発)』を創刊した。発行部数は、日をおってどころか、時間をおって拡大した。レーニンのいないボリシェヴィキの『ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)』はぱっとしなかった。それにひきかえ『ナチャーロ』は巨大な成功をおさめた。」(トロツキー『わが生涯』)
大杉栄とその時代年表(628) 1905(明治38)年11月14日~20日 幸徳秋水(34)、横浜港から伊予丸で出航、アメリカに向かう。「多くの洋行者は、洋行に依て名を得んとせり、利を射んとせり、富貴功名の手段となせり、此如き洋行者は洋行を以て名誉となせり、愉快となせり、所謂壮遊なるものとせり、我れに於ては然らず、我れの去るは去らんと欲するが故に非ず、止まらんとして、止まる能はざれば也。」
大杉栄とその時代年表(629) 1905(明治38)年11月21日~30日 この頃、河上肇(27歳)は、道を求めて街上を歩きまわっていたが、この日、専修学校への途中、神田の古本屋でトルストイ「我が宗教」の翻訳を見つけて買った。この日、学校から帰って下宿でそれを読み、彼はトルストイの熱烈な信仰に魅入られた。 更にその数日後、彼は「無我愛」という題の、伊藤証信の発行する薄っぺらな雑誌を読んだ。彼は、伊藤証信は、トルストイと同じ宗教思想を実践している日本人だと思った。無我愛という思想は、彼の考えていた絶対的非利己主義と同じものだと感じた。
大杉栄とその時代年表(630) 1905(明治38)年12月 「拝啓本日書店より『芸苑』の寄贈をうけて、君の『病薬』を拝見しました。よく出来てゐます。文章などは随分骨を折ったものでせう。趣向も面白い。而し美しい愉快な感じがないと思ひます。或ひは君は既に細君を持って居る人ではないですか。それでなければ近頃の露国小説などを無暗に読んだんでせう。(略)君の若さであんな事を書くのは、書物の上か、又生活の上で相応の源因を得たのでありませう。ホトトギスに出た伊藤左千夫の『野菊の墓』といふのを読んで御覧なさい。文章は君の気に入らんかも知れない。然しうつくしい愉快な感じがします、以上。(略)」(漱石から森田草平への手紙 明治39年正月元旦)
大杉栄とその時代年表(631) 1905(明治38)年12月1日~3日 「12月3日の夕方、ペテルブルク・ソヴィエトは軍隊に囲まれた。出入口はすべてふさがれた。執行委員会が会議を行なっていた2階桟敷から私は、1階ホールにあふれていた数百人の代議員に向かって叫んだ。 『抵抗はするな。だが武器は敵の手に渡すな!』。 彼らが手に持っていた武器は拳銃だった。そして、すでに四方を近衛連隊の歩兵、騎兵、砲兵で包囲されていた会議場の中で、労働者は武器を使えないようにしはじめた。・・・・・金属のぶつかりあう音、がちゃがちゃする響き、金属の破壊される時のきしんだ音は、プロレタリアートの歯ぎしりのように聞こえた。」(トロツキー『わが生涯』)
大杉栄とその時代年表(632) 1905(明治38)年12月 〈1905年12月モスクワ武装蜂起①;10月ストライキ、10月宣言まで〉 その日(18日)モスクワ・ストライキ委員会は19日のスト中止を決定。宣言で諸要求(憲法制定会議召集等)追究を継続する姿勢を示す。 宣言は大きな喜びであったが、それを信じたからではなく、それが名誉をもってストを終結する機会を与え、新たな力をもって更なる闘争をなすに必要な息つぎを与えた。 まず進行したのは労働団体の「合法化」と組織化で、宣言とともに全ロシア鉄道同盟は合法組織として全都市で公然たる活動を展開。、、、
大杉栄とその時代年表(633) 1905(明治38)年12月 〈1905年12月モスクワ武装蜂起②;11月22日モスクワ・ソヴィエト結成前後〉 モスクワ・ソヴィエトは地区ソヴィエトを従えた(モスクワ市17地区全てに結成されてはいない)。ペテルブルクでは全市ソヴィエトが強力で地区ソヴィエトは弱体であったが、モスクワはその逆で、なかでもプレスニャ=ハモフニキ地区ソヴィエトはモデル的活動をなしたとされている。
大杉栄とその時代年表(634) 1905(明治38)年12月1日~6日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起③;蜂起前夜〉 12月6日夜の第4回モスクワ・ソヴィエト会議 翌7日正午を期してのゼネスト突入決定 激「全ての労働者、兵士、そして市民へ」採択 署名者はモスクワ・ソヴィエト、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエルの各モスクワ組織
大杉栄とその時代年表(635) 1905(明治38)年12月7日~8日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起④;ゼネスト突入期(12月7~8日)①〉 2月7日 朝からモスクワ各地で自発的にスト突入。 工場は次々とスト入りし、工場労働者5万人が罷業。市電も朝から止まり、やがて全市が停電。電話は通じていたが、正午から電信・郵便は停止。ガスについては、厳寒の中、その停止を重大視した市当局がソヴィエト側とガス工場の稼動につき交渉に入る。
大杉栄とその時代年表(636) 1905(明治38)年12月8日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑤;ゼネスト突入期(12月7~8日)②〉 プロホロフ労働者(エスエル)・クラスノブの回想によれば、この日、近くの医師の所で、プレスニャとハモフニキの「協議会」(プレスニャ地区ソヴェト拡大会議と同じか?)があり、工場、鉄道、軍関係、郵便などから代表者が出席し、9日朝のスト開始を決める。
大杉栄とその時代年表(637) 1905(明治38)年12月9日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑥;本格的闘争期(12月9~11日)①〉 8日夜の劇場「水族館」大集会を軍隊が包囲し、大衆はかろうじて脱出したが、(略)鎮圧者としての軍隊兵士の出現は人々を慌てさせた。運動指導部はデモの集会への切り替え、兵士との衝突回避を改めて指示し、集会は労働者武装部隊に防衛されて行なわれるようになった。
大杉栄とその時代年表(639) 1905(明治38)年12月10日~11日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑧;本格的闘争期(12月9~11日)③〉 「ドゥバーソフの砲兵部隊は12月10日に系統的に市の砲撃を開始した。倦むことなく大砲と機関銃が活動し、街頭を射撃した。すでに、数人単位ではなく、数十人単位で犠牲者が出た。群衆は狼狽し、憤激して逃げまどった。そして現に起こっていることの現実性が信じられなかった。つまり、兵士たちは一人一人の革命家を狙うのではなく、モスクワという名のえたいのしれない敵、老人や子供の住んでいる家、そして街頭の無防備の群衆を狙って撃っているのだ。」(トロツキー『1905年』より)
大杉栄とその時代年表(641) 1905(明治38)年12月15日~19日 〈1905年12月モスクワ武装蜂起⑩;闘争後退期(12月12~16日)②から終焉へ〉 蜂起は19日のプロホロフ降伏とカザン線鎮圧で最終的に終結。 全期間における反乱側の犠牲者数については...死者174人、負傷885人の計1,059人 警察資料は革命家たちの損失を全期間を通じ1万~1万2,000人、軍・警察側は70人をこえないとする。トロツキーは住民の約1,000人が殺され、同数が負傷し、兵士の死傷は数百であったろうと推測している。
大杉栄とその時代年表(642) 1905(明治38)年12月4日~8日 戸水事件に関連して東大総長山川健次郎の依願免官が報じられる 帝大教授会総会は文相に抗議 法科大学教授190人連署で首相・文相に抗議書提出 新総長松井直吉、辞表提出 文相久保田譲、辞職 翌年1月、戸水の復職をもって事件終結 山川健次郎が総長復帰
大杉栄とその時代年表(643) 1905(明治38)年12月9日~25日 第1次桂内閣総辞職。政友会西園寺首班指名(1月7日内閣成立)。「桂園内閣時代の開幕」。 前年12月から桂首相と政友会原敬とが秘密会談4回。政友会はいかなる講和条件でも政府を支持、戦後は桂が辞職し後任に西園寺を推す密約成立。原敬は9月4日~10月3日の殆どを古河財閥傘下鉱山視察のため離京。帰京後は、党大会要求の地方党員をなだめつつ桂と気脈を通じ、12月の政権交代を迫る。
大杉栄とその時代年表(644) 1905(明治38)年12月26日~29日 「一昨二十六日、テキサスに居ると思った同志片山潜君が、突如として予の室に這入つて来られた時の驚きと歓びとは言語に尽せませんでした。併し三日の後には直に分れねばなりません。予来り君帰る、集散離合の定めなさよ。」(幸徳秋水の『光』への通信文)
大杉栄とその時代年表(645) 1905(明治38)年12月30日~31日 「「拝啓只今ホトゝギスを読みました。野菊の花は名品です。自然で、淡白で、可哀想で、美しくて、野趣があって結構です。あんな小説なら何百篇よんでもよろしい。三六頁の 民さんの御墓に参りに来ました と云ふ一句は甚だ佳と存じます。只次にある「只一言である云々」の説明はない方がよいと思ひます。」(漱石の伊藤左千夫宛て手紙)
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