1903(明治36)年
8月15日
熊本での社会主義講演会、解散させられる。
「万朝報」(16日付け)は、15日午後9時19分熊本発として、「今夕片山潜一行当地三年坂耶蘇教会堂にて社会主義講演会を開き会主旨を述ぶるに当り解散せられたり」と報じる。
「連日の電報欄に記せる如く、去月、四国、中国、九州、各地を遊説せる社会主義者片山潜一行は到処其演説を中止され、解散され、或は辻々に貼れる広告紙を警官の為めに剥取られ、或は其筋の内命なりとて、会場の貸与を拒絶され、或は末だ開会に至らざるに、警官の為めに、数百の聴衆を遂帰さるゝに至れり。読者は之を見て果して如何の感を為すや。憲法あり、参政権あり、新聞の発行停止は廃せられ、出版も亦多少の自由ある世の中に、独り演説のみ圧制せらる、何ぞ如此く甚だしきや。独り社会主義の演説のみ迫害せらるゝ、何ぞ如此く甚だしきや、真に奇怪千万の現象に非ずや。上に如此暴虐の政府あり、吾人は多数人民の権利の保持拡張の為めに、却つて益々社会主義唱道の必要を感ぜずんばあらず。・・・」(「万朝報」8月12日)
8月20日
私立日本法律学校、専門学校として認可。私立日本大学に改称。
25日 明治法律学校、明治大学と改称。
8月20日
愛知県、初の乗合自動車営業取締規則制定。
8月21日
幸徳秋水「二者一をとれ」(「万朝報」)。帝国主義か社会主義かの選択迫る。
この月、北海道に遊説。「小樽新聞」碧川企救男に小樽に迎えられる。
8月21日
日本鉄道、上野~青森間直行列車に寝台食堂車を連結。
8月21日
英エドワード7世、ウィーン訪問。
8月22日
東京電気鉄道(東京馬車鉄道が改称)、品川~新橋間の市街電車の運行開始。東京初の路面電車。京都には、明治28年から電車が走っているが、東京では明治13年以来の鉄道馬車が、新橋・上野をつなぐ重要な交通機関であった。
「新橋品川間の電車開通・・・昨日午前五時三十分愈々(いよいよ)電車運転を開始せり。東京に於ける電車の運転は之を以て嚆矢となすこと故、聊か其状況を記さんに、是より先き会社にては、従来雇用したる鉄道馬車の馭者中より運転手を選抜し浜松町なる新設会社構内に於いて運転上の練習をなさしめ既に百名の卒業者を出したるのみか、今日に至るまで、数回新橋品川間の試運転を実行したることとて、昨日は開業第一日なりにも拘らず、更に少しの故障もなく、午前五時先づ会社長及び担当技師を始め重なる会社員一同数台の電車に乗って新橋及び品川の両方面に向ひ、何れも其終局点に下車したる後始めて、普通乗客の乗車を許し、又会社にては芝口一丁目、芝赤門前即ち会社入口及び品川停車場外数筒所に大国旗を交叉して、祝意を表し、尚ほ大門前には『今日より電車鉄道の運転を開始致し候』と云へる掲示をなしたり。・・・」(「時事新報」8月23日)
8月22日
「福島民報」紙上で社会主義についての論争。20日間におよぶ。
8月22日
漱石、家の改修を計画
「鏡子が帰る前であろうか、八月二十二日、漱石は大家の斎藤喜助、すなわち仙台二高に赴任した斎藤阿具の父に、家の修繕について書きおくつた。その内容は、今日井戸替えの着手を差配に頼んだが、どちらがどう金を出すかがはっきりしないうちはできないといわれた、自分も応分の負担をするし、夏目と斎藤で不都合のないようにするからとにかくはじめてくれ、というものだった。それにつづけて、「実は井戸のみならず所々すこぶる破損いたしおるにつき左の箇所御修復くだされ候えは井戸換えの方に五円程出金いたすべく候」と書いている。
その直してもらいたいところとは、
一 流しのたたきの破損、湯殿の壁の破損
二 玄関のひさしの葺き替え
三 樋竹(といだけ)の腐食
四 台所のひさしのくされたる所
五 湯殿のガラス障子の破損
六 郁文館と小生後園との垣(人のむやみに出入りする所)
と、かなり細かい。そのころ東京では持家は少なく、借地借家がもっぱらであった。それも地主と大家がちがう場合も多かっだ。漱石の家と道をはさんで反対側は太田子爵の屋敷を中心に、西片町の阿部家ほどではなかったが太田家も借地経常に乗り出していた。借家の多い場合は専従の差配を置いたものだが、漱石邸の場合は家主の斎藤が仙台にいることから、今でいう不動産屋のような人に管理を頼んだのであろう。それが差配である。
手紙からいくつかのことがわかる。まず水道でなく井戸を用いていたこと。夏になると水に当たらないように、よりいい水の出る清潔な場所を求めて井戸を掘り変えることが行われた。」(森まゆみ『千駄木の漱石』)
8月23日
露ラムスドルフ外相、日露交渉地を東京に移す提議。
8月25日
私立明治法律学校、専門学校令による私立明治大学と改称、認可される。
8月25日
有島武郎(25)、横浜港から伊予丸で出航、森本厚吉と共にアメリカ留学に向かう。
9月8日シアトル着。ハーヴァフォールド大学大学院で3年間、経済・歴史を専攻。フランセス・クローウェルと知り合う。40年4月11日ヨーロッパを回って帰国。森本は、新渡戸稲造の母校ジョン・ホプキンス大学に入学。
弟の壬生馬(21、学習院中等科を経て外国語学校伊大利語科に在学)が、横浜へ行って荷物や貨幣の両替等の世話をし、また船中の読みものとして、島崎藤村の「若菜集」「一葉舟」を兄に贈る。壬生馬は熱心な島崎藤村の読者で、明治34年夏には小諸に出かけて藤村に逢っていた。
9月14日、シカゴで友人の森広と会い、彼が結婚する予定であった佐々城信子(有島が彼女の渡米の面倒をみてやった)のその後の消息を知る。
8月26日
小村寿太郎外相、駐韓国公使林権助に対し韓国皇帝にロシアとの竜岩浦(龍嚴浦)租借契約を拒絶するよう要請せよと訓令。
8月26日
シーボルト娘・女医楠本イネ(76)、没。
8月26日
フィリピン、官費米国留学制度成立。1912年までに200名以上が留学、各界の指導者に。
8月29日
私立和仏法律学校、専門学校令による私立法政大学と改称、認可される。
8月29日
ロシア皇帝ニコライ2世、穏健派蔵相ウィッテ解任。満州・朝鮮への武力進出を狙うベゾブラーゾフ派勝利。
30日、極東特別委員会設置指示。極東政策最高決定機関。
8月30日
斉藤紀一、東京青山に脳神経系の青山病院開業。
8月31日
英エドワード7世、ウィーン訪問。
8月下旬
伊藤・山県ら元老5人と桂・小村ら主要閣僚の出席した御前会議でロシアとの交渉方針を決め、その後の閣議で追認。
日本は韓国に対する独断的勢力圏をロシアに対し要求、ロシアには、鉄道経営に限定して満州における「特殊な利益」を承認するにすぎないもの。ロシアに対し非常に強硬。
つづく
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