2015年12月19日土曜日

「歌」 (中野重治 『中野重治詩集』) : お前は歌ふな お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな 風のさゝやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな

歌              中野重治

お前は歌ふな
お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな
風のさゝやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべての物憂げなものを撥(はじ)き去れ
すべての風情を擯斥(ひんせき)せよ
もつぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸先を突き上げて来るぎりぎりのところを歌へ
たゝかれることによつて弾ねかへる歌を
恥辱の底から勇気をくみ来る歌を
それらの歌々を
咽喉(のど)をふくらまして厳しい韻律に歌ひ上げよ
それらの歌々を
行く行く人々の胸廓にたゝきこめ


            詩集『中野重治詩集』(ナウカ社 昭和10年)所収

初め、作者24歳、東大独文科3年のとき、雑誌「驢馬」大正15年9月号に、「機関車」という総題のもとに発表された。
その後、昭和6年に『中野重治詩集』としてナップ出版部から刊行されることになっていたが、製本中に警察に押収され、陽の目を見なかった(この時、僅か1冊が押収からのがれた)。
昭和10年になって再刊行されたが、伏せ字が多く、24ページ削除を命じられている。昭和22年になってはじめて小山書店から完全版が刊行された。

尚、初出では13行目の「それらの歌々を」の次に「心臓をいぶし立て」の1行があり、14行目の「厳しい韻律に歌ひ上げよ」のところは改行されている。

福井県出身の中野は金沢の旧制第四高等学校に進むと、四高短歌会に所属し、同校の「北辰会雑誌」に作品を寄せるようになる。その頃、彼は斎藤茂吉に私淑している。

中野は四高で、二度落第している。
その間、詩や小説の習作もはじめ、大正12年秋に金沢に帰省中の室生犀星を訪ねて、以後その指導を受けるようになる。

大正13年、中野は東大に入学。
大正15年(昭和元年)4月、犀星のもとに出入りしていた、堀辰雄・窪川鶴次郎・西沢隆二・宮本喜久雄らと「驢馬」を創刊。昭和3年5月までに12冊刊行された。
「驢馬」の指導者は犀星で、芥川龍之介・萩原朔太郎を加えた3人が準同人、ほかに高村光太郎・佐藤春夫・福士幸次郎・千家元麿らが寄稿者となった。

東大に入学して、中野は<歌のわかれ>=<短歌的抒情からの訣別>をして、詩の世界に転身する。以後、50歳近くの20数年間に70余篇の作品を残すが、そのうち45篇がこの頃の「驢馬」ほかに掲載されたもの。

中野は、大正14年夏頃に東大の新人会に入会し、共同印刷のストライキの応援に派適されたり、久板栄二郎・鹿地亘や千田是也(早大独文科生)らとマルクス主義芸術研究会(マル芸)を創立したりしている。

こういった背景からわかるように、この詩の主題は、叙情と訣別し社会主義詩人たらんとすることの宣言もしくはそういう自分への叱咤激励といえる。

この詩に関して、戦後、「歌ふなでなく歌への道を通って、次元の高い歌ふなに到らんとする」べきで、むしろ「「赤まんま」から「女の髪の毛の匂ひ」までをむしろ歌ひ尽すことによって、歌ふなを実践すべきではなかったらうか。」との批判が出されている。(荒正人)

これに対する中野の反論は、
「彼らのあるものが、私の「歌」という作を、そこで私が女の髪の毛やとんぼの羽根をうたうことを不法に禁止したといって騒いでいるが、それは彼らが目くらであって、私がそこでそれらをかつて歌われなかった仕方で歌っているのを見ぬせいだということに彼ら自身気づかぬことを暴露している。」
というもの。(小山書店版『中野重治詩集』(昭和22年)「あとがき」)

私見だが、中野のこの詩や、例えば「北見の海岸」「しらなみ」、やや政治詩に近い「夜明け前のさよなら」「雨の降る品川駅」さえにも、乾いた政治主義は見えないし、高い叙情性が見えるが、かといって叙情に溺れるところもない、ぎりぎりの場所にあるように思える。



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